主日礼拝

受けるよりは与える方が幸いである

「受けるよりは与える方が幸いである」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第119編105節 
・ 新約聖書: 使徒言行録 第20章32-35節
・ 讃美歌:6、484、512

131歳の指路教会
 今日は、私たちのこの横浜指路教会の誕生日を記念する礼拝を、大人も子供も、一緒に守っています。指路教会は、この九月に131周年、131歳のお誕生日を迎えるのです。131歳と言うと、ずいぶんな年だなあと思います。このあいだ、世界で一番お年よりだった人が115歳で亡くなった、というニュースをやっていました。指路教会はその人が生まれるより16年前に誕生したわけです。日本では、一番古い教会の一つです。でもそうやって人間の寿命と比べてみると、とても古い、お年よりであるように感じられますけれども、イエス様を信じる人たちの群れである教会は、およそ二千年前からあったのです。教会そのものはもうかれこれ二千歳です。教会は、指路教会が生まれる1800年以上前からあったのです。指路教会も、日本では一番古いうちの一つだけれども、世界の教会全体から見れば、まだ生まれたばかり、と言ってもよいのです。 1800年の教会の歩み  イエス様の教会が生まれてから、私たちの住んでいる日本に教会ができるまでに、1800年もかかったのはなぜでしょう。それは簡単に言ってしまえば、イエス様がこの地上を歩まれた場所であるユダヤ、あるいは十字架にかけられて死なれ、復活されたエルサレムから、私たちのこの日本までは、ものすごく遠いからです。今ならば、たとえ地球の裏側でも、飛行機で一日ぐらいで行けてしまいますし、アメリカで起ったハリケーンの被害の様子を同じ時刻に日本のテレビでも見ることもできます。でも昔はそんなものは何もありません。どこかへ行くには歩いてか、せいぜい馬に乗ってだったし、ニュースが伝わるのも、人から人へでした。教会も、そうやって広がっていったのです。ある町に、イエス様を信じる人々の群れである教会ができると、その人々が出かけていって次の町の人々にイエス様のことを伝える。そしてその町にもイエス様の教会が生まれる。そういうふうにして、町から町へ、国から国へと、イエス様のことが伝えられていって、だんだんにだんだんに、教会は世界中に広がっていったのです。そういうふうにしてこの日本の国にもイエス様のことが伝えられて、教会が生まれるまでに、1800年以上かかったのです。

み言葉の力にゆだねられて
 1800年以上かかって、人から人へと伝えられてきたことは何だったのでしょうか。それは、神様のみ言葉です。神様のみ言葉が、人から人へ、教会から教会へ、国から国へと伝えられていって、世界に教会が広がっていったのです。今日の新約聖書の箇所の最初のところ、使徒言行録第20章の32節に、「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」とあります。「神とその恵みの言葉」、これが、教会が伝えてきたものです。そしてその後には「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」とあります。神様のみ言葉は、私たちを造り上げる。それは私たちの心の中に神様を信じる信仰を造り上げるということでもあるし、私たちをイエス様のからだである教会の枝として造り上げるということでもあります。ですから、教会がみ言葉を伝えてきたと同時に、そのみ言葉が教会を造り上げてきたのです。神様のみ言葉にはそういう力があります。み言葉は、私たちがそれを実行することによって何かを成し遂げるためのものではありません。私たちがみ言葉を生かすのでもありません。み言葉が私たちを生かし、造り上げるのです。このみ言葉の力によって、私たちは、「聖なる者とされたすべての人々と共に」、つまり共に教会に加えられている仲間たちといっしょに、神様の恵みを受け継ぐ者とされるのです。このみ言葉が人から人へ、国から国へと1800年以上かかって日本にまで伝えられてきて、指路教会が誕生しました。それから131年、この教会の私たちの先輩たちも、み言葉の力によって神様の恵みを受け継ぐ者とされてきたのです。そして今日、私たちはこの礼拝で、神様のみ言葉を聞いています。この礼拝で今度は私たちが、私たちに恵みを受け継がせる力がある神様とその恵みの言葉とにゆだねられているのです。

受けるよりは与える方が幸いである
 さて今日の箇所には、教会が伝え、受け継いできたイエス様のみ言葉の一つとして、「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉が出てきます。もっと簡単に言い直せば、「人から何かをもらうよりも、人に何かをあげることの方が幸いですよ、喜ばしいことですよ」ということです。このイエス様のお言葉を聞いて私たちはどう思うでしょうか。「わたしは、人にあげるよりももらうことの方が好きだな、もらうことの方がうれしくて幸いだと思う」と、多分小学生ぐらいまでの皆さんは考えるのではないでしょうか。でも、だんだん大人になってくると、その考えは変わっていきます。勿論人間いくつになっても、人から何かをもらうことは嬉しいことです。でも、それ以上に、人に何かをあげることの喜びや幸いを感じるようになるのです。そして、もらうよりはあげる者になりたい、と思うようになるのです。だから、ここにいる大人の人たちの多くは、「受けるよりは与える方が幸いである」というイエス様のみ言葉は本当にその通りだ、私もそう思う、と答えるだろうと思うのです。

優越感と負い目
 でも、それじゃあ、そのように思う大人たちが、このイエス様のみ言葉を本当に分かっているのか、イエス様のおっしゃっていることを正しく受け止めて「その通りだ」と言っているのかというと、どうもそうではないように思います。私たちが、「受けるよりは与える方が幸いである」というみ言葉を「自分もそう思う」と言う時に、そこで私たちが考えていることは、「受けるよりも与えることの方が気持ちが良い」ということなのではないでしょうか。大人になって誰もが感じることは、人から何かをもらったり、親切にしてもらうことは、嬉しい反面、それによって自分がその人に対して負い目や引け目を感じるようにもなる、ということです。その人に対して、返さなければならない借りができたように感じてしまう。だから、何かをもらったり、親切を受けたら、そのままでは済まないのであって、何かでお返しをしなければならない、と思うのです。感謝の気持ちを現す、と言えば聞こえはいいですが、実際は、借りを返して負い目をなくす、受けるだけでは自分の気持ちが落ち着かないから、お返しをしてすっきりする、ということである場合が多いのではないでしょうか。つまり私たちは、人から「受ける」ことが基本的にはあまり好きでないのです。「受ける」ことによって、人よりも弱い立場に、下に置かれてしまうように感じるのです。逆に言えば、「与える」ことによって、人よりも優位な立場に立つことができる。貸しを作ることができる、それは大変気持ちのよいことです。だから私たちは、基本的に、受けるよりは与えることの方が好きなのです。それは私たちが親切だからでも何でもない、その方が優越感にひたれて、気持ちが良いからです。ですから教会でも、献身的に人のために尽くしてきた、多くのものを人に与えてきた人が、自分がいろいろな意味で弱り、衰え、今度は人から助けられ、支えられなければならない、そういう受ける立場になった時に、自分の弱った姿を人に見られたくない、昔はきちんといろいろなことが出来ていたのが、今は出来なくなってしまった、そういう所を知られたくない、という思いから、支えや助けを受けたくない、望まない、ということが起こります。人に親切を与えることはいいけれども、自分が人から親切を受けることは好まない、という気持ちが、私たちの中にはけっこうあるのです。

み言葉を宣べ伝える
 けれどもイエス様が「受けるよりは与える方が幸いである」というみ言葉によって言っておられるのは、そのようなこととは全く違います。このみ言葉は、「どちらの方が私たちにとって気持ちが良いか」という話ではないのです。このみ言葉を伝えたのはパウロです。パウロは、誰からの支えや助けも受けずに、自分で働いて生活費を稼ぎながら、神様のみ言葉を宣べ伝えていたのです。「与える」という言葉がここで意味しているのはそのことです。神様の力あるみ言葉を伝えていく、それによって人々が、神様の恵みを受け継ぐ者となり、イエス様の教会が造り上げられていく、そのために仕えることが、「与える」ことなのであって、それは、人からいろいろなものをもらったり、助けてもらうよりもずっと幸いなことだ、と彼は言っているのです。それは決して、人よりも優位に立てて気持ちが良い、などということではありません。そもそもパウロがこの「与える」ことの幸いを知ることができたのは、自分自身が、イエス様から大きな恵みを受けたことによってです。もともとこのパウロは、イエス様を信じる人たちを捕まえて牢に入れたりして、迫害していた人でした。イエス様の、教会の敵だったのです。そのパウロが、今はイエス様を信じる者になり、み言葉を宣べ伝える者になっている、それは、ただ神様の、イエス様の恵みによることでした。神様に逆らい、教会を滅ぼそうとしていた自分の限りなく大きな罪をイエス様が引き受けて、そのために十字架にかかって死んで下さった、それによって神様が自分を赦して下さり、新しくして下さり、イエス様に仕える者、み言葉を宣べ伝える者として下さった、その大きな恵みを、パウロはみ言葉によって知らされたのです。み言葉によって恵みを受け継ぐ者とされたのです。その恵みによってパウロは、み言葉を人に伝え、与えることの幸いを知ることができたのです。パウロが「与える」ことの幸いに生きることができているのは、実は神様から恵みを「受ける」ことの幸いを知ったからです。自分は神様のみ言葉によって造り上げられ、恵みを受け継ぐ者とされている、み言葉によって罪を赦していただく恵みを示され、新しくされて、喜んで生きることができる者とされている、だから、本当に喜んで、み言葉を人に与え、伝えることができるのです。  受けるよりも与えることの幸い、喜びを知った多くの人々が、1800年以上に亘ってみ言葉を与え、伝えてきてくれたために、この日本にも教会が生まれたのです。指路教会を生み出したのはそのような人々でした。この教会の生みの親と言っていいヘボンさんは、イエス様のみ言葉をまだ知らない世界の人々に伝えたいと願って、お医者さんになり、まだ教会の教えを伝えることが禁止されていた江戸時代の日本にやって来て、人々の病気を治療しながら、聖書を日本語に訳したりして、み言葉を伝えてくれたのです。この教会の最初の牧師さんになったルーミスさんという宣教師も、イエス様を信じる人がまだほんの少ししかいないこの日本にやって来て、み言葉を伝え、最後は日本で亡くなって、お墓が山手の外人墓地にあります。この人たちはみんな、「受けるよりは与える方が幸いである」というイエス様のみ言葉を受け止めて、その幸いに生きた人々だったのです。それらの多くの人々が、み言葉を伝えてくれたおかげで、この教会は生まれました。そしてそれからは、この教会に集い、神様のみ言葉によって恵みを受け継ぐ者となった人々が、今度はみ言葉を与え、伝えていったのです。この教会の先輩たちもまた、「受けるよりは与える方が幸いである」という幸いに生きてきたのです。それが、この教会の131年の歩みです。

暗闇の世にみ言葉の光を
 この礼拝で今度は私たちが、神様の恵みのみ言葉にゆだねられているのだ、と先ほど言いました。それは、今度は私たちが、み言葉によって造り上げられ、「受けるよりは与える方が幸いである」という幸いに生きていく番だということです。それは、人に何かを与えたり親切にすることで気持ち良くなるためではありません。今日一緒に読まれた旧約聖書の箇所、詩編119編105節には、「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」とあります。神様のみ言葉こそ、私たちの歩みを照らし、導いてくれる光なのです。この光がなければ、私たちは、神様に背き逆らう罪の暗闇の中で、道を見失ってしまいます。何を頼りに、どちらの方向へ進んでいったらよいのか、分からないのです。今日、9月11日は、4年前にアメリカで起った同時多発テロの記念の日でもあります。あの時六千人を超える人々の命が奪われました。そしてその後、アメリカは、「テロとの戦い」を宣言して、アフガニスタンを攻撃してタリバン政権を崩壊させ、次にイラクを攻めてフセイン政権を倒しました。日本も、復興支援のために自衛隊をイラクに派遣しています。しかしイラクでは今も毎日のようにテロが続いて、今日は何人の人が死んだ、というニュースが流れない日はないくらいです。アメリカの兵士も、イラクの市民たちも、また日本人の旅行者も、無惨に殺されています。憎しみが憎しみを生み、殺し合いが新たな殺し合いを生む、今私たちが生きているのはそういう世界です。まさに、人間の罪の暗闇が支配し、どこに光があるのか、この暗闇を抜け出す道はどこにあるのか、わからないでいるのです。私たちは、神様のみ言葉こそがこの暗闇を照らす光であり、私たちに歩むべき正しい道を示してくれる灯であることを知っています。神様の独り子であるイエス様が、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで、私たちを赦して下さった、その恵みのみ言葉の光に照らされ、み言葉の灯に導かれていくところにこそ、憎み合い、殺し合っていく対立から抜け出し、「受けるよりは与える方が幸いである」という本当の幸いに生きる道があるのです。先ず私たちが、この幸いに生き始めたいのです。神様とその恵みのみ言葉に自分自身をゆだね、このみ言葉に造り上げられて、恵みを受け継ぐ者となりましょう。そして、そのみ言葉を、身近な人々に伝えていくために祈り、行動していきましょう。指路教会の131年の歴史は、その上にあぐらをかくべきものではなくて、私たちがその歴史を担い、前進させていってこそ意味があるのです。

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