「誘惑に遭わせないでください」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 詩編、第103編 1節-22節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第11章 1節-4節
・ 讃美歌 ; 149、440
1 私たちに与えられている主の祈りの一つ一つを、五回にわたって、じっくりと味わってまいりました。今日はその最後にあたる祈りです。「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」。礼拝の中で祈られる時には、こう祈られます、「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」。こうしてじっくりと一つ一つの祈りを味わってきて、最後にこの祈りと新しく出会いますと、思わぬ発見、今まで充分に受け止めてきていなかったことがあるのに気づかされます。この主の祈りの最後は、「助けを求める叫び」なのではないでしょうか。これは落ち着き払って、文章を読むような祈りではない。もしこの祈りを言葉に書き出すのなら、最後にビックリマーク(!)(イクスクラメーション・マーク)をつけたくなるような、そういう祈りではないでしょうか。「誘惑に遭わせないでください」!この祈りは悲鳴であり、助けを求める叫びなのです。ヒタヒタと近づいてくる誘惑の声、試みの力をリアルに感じつつ、その声、その力に今にも捕らえられ、暗闇に引き込まれていくような危険をまざまざと感じつつ、そのただ中で、神に向かってあげられる叫び声なのです。 主の祈りは叫びで終わる、悲鳴をもって閉じられる。いや、ここから私たちの祈りの生活は始まっていくのです。
2 「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」。私たちはこう思うかもしれません。「主よ、本当に私たちはこんな祈りを祈っていいのですか。なんだか情けなくはありませんか。逃げているようではありませんか。『信仰の戦いを力強く戦い抜けますように』とか、『私たちを誘惑に打ち勝たせてください』とか、そういう勇ましい祈りこそ、あなたが望んでいらっしゃる祈りではないのですか」。しかし主はそうはおっしゃらなかった。ここでは讃美歌で歌われているような「来たれ、来たれ、苦しみ。憂き悩みもいとわじ」とか、「わが命も、わが宝も、とらばとりね」とか、そういう勇ましい声は少なくともすぐには、聞こえてまいりません。そうではない。そんな滅多なこと言うもんじゃない。そんなことは言えないはずの、もろくて弱い存在があなたがたなのだ。そのことを認め受け入れなさい、信仰の強がりを言うんじゃない。そういう主の語りかけが聞こえてくるような祈りなのです。 私たちはこの祈りによって、自分が「誘惑にさらされている存在」、いつ誘惑に屈して、底なしのサタンの沼に引きずり込まれていくか分からない、そういう弱い存在であることを認めているのです。危なっかしい、もろい存在であることを神の前に認めているのです。それはある意味で、かっこうわるいことです。人間的に見れば情けないことです。同じ人間の間では、そんなふうに祈っている姿は見せたくないな、と思ってしまうようなものかもしれない。仕事上の競争相手などに見られたら、まるで弱みを握られてしまったかのように思われることかもしれない。現に多く聞かれる、私たち信仰者に対する軽蔑の声は、そこをついてくるものです。信仰を持つなんて、弱い人間のすることだ。自分の力を信じ、自分で自分の人生を切り開いていく力のない、軟弱者のすることだろう。神を信じるなどというのは軟弱者の慰みのようなものだ、堂々と、力強く生活を築いていく力のない者が隠れ蓑にしている逃げ道のようなものではないか。そんなものにいつまでも頼ってもらっていては困る。もっとしっかりしてもらわないといけない。職場の上司からそんなふうに言われそうな思いもしてまいります。 私は大学時代、宗教アンケートなるものの統計を取るアルバイトをしていました。キリスト教学校でしたから、毎年学生の宗教意識調査のアンケートを行っていたのです。そこで目にして、今でも印象深く覚えているのは、ある学生がコメント欄に書いてきたこういう言葉です。「信じるなどというのは主体性のない、弱い人間のすることだ。神に頼る者たちよ、目を覚ませ」! 私たちはそういう攻撃を受けると「いや、そんなことはない」とがんばりたくなります。「信仰はそんなやわなものじゃない。神様のもとから、私たちは力強く世に打って出るんだ。本当の力は神様から与えられるんだ。信仰を持っている者こそ、本当に強いんだ」、と。それはそれで正しい。全くその通りであります。けれども、その前にこのように言ってもよいのではないでしょうか。「そうです。あなたのおっしゃるとおりです。私たちは弱い存在なのです。神様に助けていただかなければ、支えていただかなければ、ひとときとして誘惑の力に、試練という苦しみに、耐えることができないのです」、と。「それが私たちの現実の姿なのです」と。「ついでに言えば、あなたは認めたくはないかもしれないが、そうおっしゃっているあなたの現実の姿でもあるのです」、と。「そういう意味では、あなたこそ目を覚まして欲しいのです」、と。 私たちは信仰生活の中でさえ、自分の弱さを認めたくないところがあります。面と向かって自分の問題を指摘されると、必死になって自分を弁護したくなってしまう。声を荒げて反論したくなってしまう。ともすると、神との関係の中でも、自分の耳に心地よい御言葉しか受け入れなくなってしまう。そういう頑なさの中に閉じこもってしまいがちなこと、そのこと自体も、私たちの持っている弱さではないでしょうか。この祈りはそういう弱い者である自分自身を認め、まるごと神におゆだねする心を与えてくれます。誘惑に苛まれ、試みに遭う時、叫んでよいのです。助けを求めてよいのです。いや、神に叫び、助けを求めるべきなのです。
3 詩編の詩人は、そういう人間の弱さを知っていました。それゆえに、先ほど読まれた詩編103編の14節から16節ではこう歌ったのです。「主はわたしたちを どのように造るべきか知っておられた。 わたしたちが塵にすぎないことを 御心に留めておられる。 人の生涯は草のよう。 野の花のように咲く。 風がその上に吹けば、消えうせ 生えていた所を知る者もなくなる」。人の生涯は草のようであり、野の花のようなものだ、というのです。熱い風、寒い風が吹き渡り、季節が一巡りすればあとかたもなく消えてしまうようなはかない草花のようなもの。あの宗教アンケートの学生が書き殴ったような、自分の主体性で力強く立ち、人生を切り開いていくなどとは、恥ずかしくてとても言えないような有り様が、私たちの現実だと歌っているのです。 このことをさらに説き明かして、ハイデルベルク信仰問答は「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」、というこの祈りについてこう語っています。「わたしたちは自分自身あまりに弱く、ほんの一時立っていることさえできません。その上わたしたちの恐ろしい敵である悪魔やこの世、また自分自身の肉が、絶え間なく攻撃をしかけてまいります」。私たちはいつもこういう現実にさらされているのです。強がりを言っている場合ではないのです。科学技術のめざましい発達を遂げた現代にあって、悪魔などというのは迷信じみた、中世の民間信仰に出てくるようなものだ、ぐらいに考えられているかもしれません。けれども、私たちは誰でも知っているのではないでしょうか。過ちを犯してしまう時、聞くに堪えない罵りの言葉を相手に浴びせかけてしまう時、そこにはもはや自分自身を制御しきれない、そういう自分がいる。もうどうにもできない。何かの力に引っ張られて、どこまでも深みにはまっていってしまう、そういう力が語りかける声、自分をひっぱっていく腕を、感じているのではないでしょうか。後で振り返ってみたら、どうしてあんな取り返しのつかないことをしでかしてしまったんだろう。どうしてあんな思ってもみないひどい言葉を口にしてしまったんだろう。どんなに悔やんでも悔やみきれない、そういう思いに打ちのめされるのであります。日本語でも、「魔が差す」という表現が使われます。汚職を繰り返し、賄賂を受け取る政治家、私たちは困ったことだと思うけれども、突き詰めていったところでは人ごとのようにしてただ攻撃していればすむ話でしょうか。しばらく前に起こった考古学者の大発見のねつ造事件。この偉大なる学者があたりをつけて掘るところからは、どこからでも貴重な土器が出土すると言われ、「神の手」とまで賞賛された人が、実は毎回、事前にその場所に既に出土している土器を埋め込んでいたことが発覚しました。名誉心をくすぐられ、まさに「魔が差した」と後に本人自らそう語ったこの人を、私たちはただ笑ってすませることができるのでしょうか。 誘惑というのは、あるいはその背後にいる悪魔は、大変賢い者であることを、私たちは心していなくてはなりません。「いらっしゃい、今からあなたに悪いことを教えてあげよう。罪なことを見せてあげよう」。悪魔はこんなふうに私たちを誘惑することはありません。そうではない。こんなふうに私たちに語りかけるのです。「いらっしゃい。面白いことを教えてあげよう。とても楽しいこと、すごいスリルを与えること、すばらしいものを与えてくれることを教えてあげよう。あなたにもできるんですよ」。誘惑に陥る人は、自分がやってはいけないことをしている、という自覚を持っている人ばかりではありません。崇高な理想を掲げ、正しいことのために働いている人だって、恐ろしい誘惑に陥るのです。いやその方が話はもっとやっかいです。正しいこと、望ましいことを実現するために、努力を重ね、労苦を注いでいく只中でこそ、私たちは人を裁く誘惑に陥り、人を許せない気持ちに駆られ、力づくでも自分の主張に人々を従わせようとしたくなるのです。自分を正当化したくなるのです。自分はチャンとしている、それなのにお前はどうだ、そう言って人の失敗や破れにつけこむ。人の弱さや失敗を心の中で笑い、それよりは自分の方がましだと思って喜んでいる。また自分はいいことをしているんだ、なぜ協力できないと言って周囲を非難し始める。よいことをしていると思う只中においてこそ、私たちは誘惑のとりこになります。汚職をした政治家も、最初は新しい国づくりの理想に燃えていたのです。捏造を行った考古学者も、始めは真理探究の熱意が満ちた新進気鋭の研究者であったはずです。そういう人間の崇高な営み、気高い理想の中にだって、いやそこにこそもっとも巧妙に、サタンの誘惑は忍び込んでくるのです。神の栄光を現すためと語っていながら、そこで実際に主人となり、周囲の人を従わせているのはほかならぬ自分自身であったりするのです。 もう一つの誘惑の形があります。それは自分の弱さのみに心を奪われてしまう誘惑です。自分の弱さが気になり、駄目だ駄目だ、と自分を責める。神の恵みの大きさに比べれば、ちっぽけなものに過ぎない自分の弱さにどこまでもこだわり、自分の弱さの方が、神の恵みよりもずっと大きく、重大な問題のように思えてきてしょうがない。こうして神の恵みを見失い、自分のいじけた心の中に閉じこもってしまう。これもまた、大いなる誘惑と言わねばなりません。 こうしてみると、誘惑というのはいずれにしましても、この私たちの罪を赦し、大きな恵みの中に置いてくださっている、その神を見失うこと、そこから目をそらさせる力だ、と言うことができるでしょう。そういう誘惑、神とその大いなる恵みを見失い、あるいは人を裁き、あるいは自分の弱さに閉じこもり、いつまでも神を見上げようとしない誘惑にとらえられることしばしばなのが、私たちの現実だということを、誰よりも主イエスご自身がよくご存知だったのです。
4 だからこそ、主イエスはこう祈ることを教えてくださったのです。「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」、と。すべての主の祈りに通じるように、この祈りもまた、主イエスが口ずから教えてくださったことが重大です。主イエスは、ご自分は何の痛みも苦しみも知らずに、高みから私たちにこうしたらいいのじゃないか、と単に助言しているようなお方ではありません。その全く逆であります。ご自身の全存在をかけてこの祈りが真実に受け止められるように、いってみれば、この祈りを私たちにとって、本当に祈りがいのある祈りとするために、ご自身がすべての誘惑、試み、試練と苦しみを味わい尽くされたのです。私たちに先立ち、この私たちの弱さ、もろさ、情けなさ、はかなさを引き受け、担い尽くしてくださいました。私たちが戦おうとしても、ひとたまりもなくやっつけられ、サタンの支配下へとらっしさられてしまうに違いない霊の戦いを、主イエスが代わって戦い、その戦いに打ち勝ってくださったのです。 この福音書の第4章が語る、悪魔の誘惑においてもそうでありました。石をパンに変えて見せ、人々のお腹を満たしてやれば、群衆は喜んでついてきたかもしれない。国々の一切の権力と繁栄を手にすれば、誰の目にも明らかに、主イエスこそがまことの王であると、示すことができたかもしれない。みんなの見ている前で、神殿の屋根から飛び降りて見せたなら、皆が喜んで従ってきたかもしれない。そういう形で、神の栄光を表すことができるかもしれない。神様のためになるかもしれない。そんな誘惑と主イエスは戦われたのです。そしてこの世的に見るなら、王とはとてもいえないようなみすぼらしい姿で町から町を訪ね回り、誘惑に苛まれ、弱さや破れに打ちひしがれている一人一人に語りかけ、罪の赦しの御言葉を与え、いやしを与え、新しく立ち上がる力をお与えになったのです。そういう形でしか表すことのできない父なる神のご栄光を表されたのです。今、その主がお尋ねになった一人一人の中に、私たちも数え入れられているのです。 また第22章では、主が十字架におかかりになる直前に、オリーブ山で祈られた姿が語られております。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(42節)。できることなら、十字架にかかる道を歩まなくてもすむような道が、父の御心であってほしい。そういう誘惑と主は戦われたのです。私たちの代表である弟子たちが、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と命じられたにもかかわらず、眠りこけてしまっているその最中にです。汗が血の滴るように地面に落ちるほどの祈りの戦いを、私たちに代わって戦ってくださったのです。 主イエスはこうした誘惑についに打ち勝たれ、父なる神の御心とご自身の思いとをぴったりと重ね合わせ、十字架の道を歩みきられました。死の中から甦られた主は、すべての誘惑と試みに打ち勝たれ、私たちがこれからはもはや、悪魔に捕らえられてしまうことのないように、神の恵みのご支配の下へと私たちをしっかりとつなぎとめてくださっているのです。 それゆえに私たちは、自分自身の力で誘惑と戦うことはもういたしません。自分で立ち向かったら勝ち目のない誘惑の賢さ、恐ろしさ、ずる賢さを知っているからであります。いや何よりもこの戦いを私たちに代わって 戦い、しかも打ち勝ってくださっているお方がおられることを知っているからであります。このお方により頼み、このお方が今、私たちのそばにおり、共に並んで、歩んでくださることを知っているからです。このお方が、いつ誘惑に負けて悪魔の軍門に降るかしれない私たちを、「そうはさせるものか」と守り、支え、御手をもってつなぎ止めてくださっているからです。だからこそ、この主イエス・キリストに結ばれているゆえにこそ、初めて私たちもまた、なお戦うべき自分の誘惑と戦うことができるのです。弱い自分を見つめるのでなく、すでにこの戦いに打ち勝ち、勝利を約束していてくださっているお方のみを見つめつつ、戦うことができるのです。ハイデルベルク信仰問答問い127の後半はそれゆえにこう語るのです、「ですから、どうかあなたの聖霊の力によって、わたしたちを保ち、強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全な勝利を収められるようにしてください」と。
5 福音書には記されておりませんが、礼拝で祈られる主の祈りには、最後の最後にこう祈られます。「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり、アーメン」。これは讃美の言葉です。先に主の祈りは「助けを求める叫び」で終わる、そのことの意味を深く受け止めたいと申しました。しかしこの叫びが、本当に神に聞かれている、その確かさに支えられていることを知るとき、そこに喜びがあふれ、感謝がいや増し、讃美が生まれるのです。逆に言えば、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という祈りは、御子イエス・キリストゆえに神に確かに聞き届けられており、だからこそ私たちは安心して叫ぶことができるのです。助けを求めることができるのです。その叫びはむなしい叫びではないからです。報いのない求めではないからです。そしてその確かさは、私たちが心の中で感じているよりもはるかに確実な、神の側の確かさに支えられているからです。讃美を捧げ、すべての栄光を神に帰するこの祈りは、もとの祈りにはなかったけれども、教会の歩みの中で後に加えられるようになった、と考えられております。それはしかしなんとふさわしいことではないでしょうか。私たちの側の揺れ動きやすく誘惑に苛まれる心の確かさなど、高が知れているのです。そうではなく、神の確かさ、神の真実こそが確実なのであって、それは私たちが心の中で感じることをはるかに越えて、御心を示し、御業を行ってくださる確かさなのです。この確かさにより頼み、この確かさに支えられて、私たちもまた与えられた戦いを戦うことができるのです。勝利者であられる主イエスが担い、勝利を約束してくださっている戦いだからです!
6 祈り 主イエス・キリストの父なる神様、誘惑に弱く、かたときもこれに耐えて踏みとどまる力を持ち得ない自らの悲しい有り様を思います。しかし私共が、この自らの弱さにのみ思いを捕らわれ、あなたの恵みの大きさを見失うことがありませんように。あなたに叫びをあげ、あなたを呼び、あなたに悲鳴をあげることが許されている恵みを思わせてください。その叫びは決してむなしく聞かれることなく、私共の思いをはるかに越えてあなたに聞き届けられる、そのことに信頼して今日も祈ることのできる幸いを味わわせてください。なによりも主ご自身が先立ち担い、あらゆる誘惑と戦い、これに打ち勝ってくださいました。今その御子の伴いに支えられつつ、私たちに与えられている戦いを戦う力をも、あなたが備え、与えてくださいますように。あなたが戦っていてくださることに唯一の希望を見出させてください。 勝利者、主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。