夕礼拝

悔い改めない町を叱る

「悔い改めない町を叱る」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第14章12―17節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第11章20―24節
・ 讃美歌 : 443、223

叱り始める主イエス
 聖書に記されている主イエスの御言葉に私たちは励まされ、慰められることが多くあります。本日はご一緒にマタイによる福音書第11章20節から24節をお読みしたいと思います。本日の箇所は、小見出しにもありますように、主イエスが「悔い改めない町を叱る」という出来事が描かれています。そのことが20節で記されています。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。」とあります。主イエスが叱り始められたのです。私たちは驚きます。主イエスが叱られたのです。主イエスにおける厳しさはもう一度、私たちに信仰とは何であるのか、救いとは何であるかを根本的に考えさせます。本日の箇所では主イエスが、悔い改めない町をお叱りになりました。主イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、その町々をお叱りになりました。ここで「奇跡」とあります言葉は前の口語訳聖書では「力あるわざ」となっていました。主イエスの力あるわざが数多く行われたのに、悔い改めなかった町々が叱られているのです。「悔い改めなかったので」とあります。悔い改めない、ということは自らの罪を認めて神様に赦しを願おうとしないことであります。更にそのことは根本的には、神様と本当に向き合おうとしないで、人間とこの世界の事柄だけを見るということです。

主イエスの力ある業とは
 主イエスの力あるわざとはどのようなことでしょうか。主イエスは病気を癒されたり、悪霊を追い出したり、死んでしまった人を生き返らせたりしたする奇跡を行なわれました。しかし、それだけではありません。本日のマタイによる福音書は第11章ですが、ここでは主イエスの活動に対して人々からの反応がどのようなものであったのかということが語られています。その前の10章では主イエスが弟子たちを伝道のために派遣することが語られています。その前の8、9章ではそして次の8章と9章には、癒しを中心とする様々な奇跡のことが語られていました。マタイによる福音書では、5章~7章に、「山上の説教」という形で、主イエスの教えがまとめられていました。主イエスの教えが語られ、癒しの業がなされました。主イエスの力あるわざとは5~7章の教えと、8、9章の奇跡の両方です。主イエスの教えと力あるわざが、ここに出て来るコラジンとかベトサイダ、そしてカファルナウムというガリラヤの町々で語られ、行われました。その町々の人々は、その主イエスのみ言葉とみわざをちゃんと受け止めなかったのです。彼らは、主イエスの奇跡に驚き、大勢の人が主イエスの周りに来たことでしょう。けれどもそれは、「悔い改め」ではありませんでした。神様の方にしっかりと向きを変え、自分の罪を認め、神様に赦しを乞うという反応にはなっておりませんでした。主イエスのすばらしい奇跡を幾つも見たのに悔い改めなかったのです。

嘆き悲しんで
 主イエスは「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と言われました。
この後には神様の裁きの日に彼らが受けるであろう罰のことが語られています。それはあの悪徳の町ソドムや、異邦人の町ティルスやシドンへの罰よりも重いものになると言われているのです。この「不幸だ」と訳されている言葉は、感嘆詞と呼ばれるもので、訳すならば「ああ」とか「おお」という言葉なのです。嘆きと悲しみを表す感嘆詞です。ですからここで主イエスは「ああコラジン、ああベトサイダ」と言われたのです。主イエスが、これらの町々のことを心から嘆き悲しんでおられる、その気持ちの現れです。主イエスの数多くの力あるわざが行われ、示されたのに、悔い改めようとしない人々のことを、主イエスは心から嘆き悲しんでおられるのです。

カファルナウムこそ
 23節では、カファルナウムのことが語られています。この町は、主イエスがガリラヤ伝道の根拠地としていた町です。弟子のペトロの家がそこにあり、主イエスはそこを定宿としてガリラヤのあちこちに出かけられたのです。つまりカファルナウムの人々は、主イエスとの接触が最も多かったのです。8、9章に語られている奇跡の多くも、カファルナウムでなされています。主イエスのみ言葉とみわざによって悔い改めるとしたら、このカファルナウムの人々こそ真っ先に悔い改めるべきなのです。しかし、カファルナウムは悔い改めようとしません。主イエスはそのことを嘆き、「お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」と言われました。

自分を神として
 この言葉は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるイザヤ書第14章12節以下から来ています。「ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた。もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登っていと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた。墓穴の底に」。ここに語られている「お前」、天にまで昇り、いと高き者のようになろうとしたが、陰府に、墓穴の底に落とされた「お前」とは、バビロンの王のことを言っています。イスラエルを滅ぼして捕囚の憂き目に遭わせているバビロン、主なる神にも打ち勝ち、もはや何者も自分に逆らうことはできないと驕り高ぶっているバビロンの王、しかしそのような栄華は一時のもので、主なる神のみ心によって命は取り去られ、死んで墓に葬られていく、その国も滅びていくのだということが語られているのです。このバビロンの王の運命が、カファルナウムに当てはめられています。主イエスのみ言葉とみわざを目のあたりにしながら悔い改めようとしないことは、バビロンの王と同じことをしていることになるというのです。バビロンの王は、「わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」と言ったのです。つまり、自分が神になろうとしたのです。神の前に跪き、従う者ではなく、自分が支配者、主人となろうとしたのです。悔い改めないとはそういうことなのだと主イエスは言っておられます。悔い改めようとしない、それは、自分の罪を本当に認めることはなかなか困難だ、神様の前に、赦してくださいと跪く謙遜な思いを持つことは難しい、そうしなければならないことはわかっているのだが、なかなかできない、ということではないのです。悔い改めようとしない私たちの心にあるもの、それは、自分が主人、王であろうとする思いです。神様に従うのではなくて、自分が神の座に座ろうとしているのです。それが、人間の罪です。神の下で生きるのではなく、自分が神になって、主人になって生きようとすることが人間の罪の根本であることがそこに示されています。悔い改めようとしないというのも、その罪によることなのです。だから、人間は弱いものだからなかなか悔い改められないのではないのです。そうする気がないのです。自分の主人は自分ではなく神様だということを受け入れる気がないのです。私たちはそのことをごまかしてしまっているのではないでしょうか。悔い改めたいと思ってはいるのだが、自分の弱さによってそれができない、とか、自分だけ悔い改めても、世の中全体が変わらない限り問題は解決しない、とかいろいろと理由をこじつけて、悔い改めないことを正当化しようとしています。悔い改める気がないということであり、神様の前に跪くのはいやだということなのです。

主の厳しいお言葉
 主イエスはそのような人間たちの、私たちの姿を心から嘆き悲しんでおられます。そして、そのように悔い改めようとしない者たちには、神様の裁きにおいて厳しい罰が与えられるのだということを語っておられるのです。説教は、聖書に語られている福音、神様の救いの知らせ、その喜びの知らせを語るものです。しかしこの箇所には、悔い改めない者たちへの厳しい罰が予告されているのです。いったいここからどのような福音が、救いの知らせが聞き得るのだろうかと途方に暮れるのです。ここでの主イエスのお言葉は、私たちにとって、やさしい恵みの言葉と言うよりも、厳しい威嚇の言葉です。悔い改めなければ、厳しい罰を受けることになるぞと主イエスは私たちに警告を与えておられるのです。この警告を私たちはしっかりと聞かなければならないでしょう。悔い改めないことは、神様の前に跪くことを拒むこと、神様を神様として敬い従うことを拒絶することです。それは神の裁き受けるべきこととなります。
 主イエスは、「ああコラジン、ああベトサイダ」と深い嘆き悲しみの声をあげられました。そこで、まだとりあげていなかった二つのみ言葉に注目していきたいと思うのです。それは21節の後半の「お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない」というみ言葉と、23節の後半の「お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない」というみ言葉です。これは、コラジンやベトサイダをティルスやシドンと、カファルナウムをソドムと比較することによって、それらの町々の罪の深さをきわ立たせている言葉です。ティルスやシドンは先ほども申しましたように異邦人の町です。旧約聖書においてしばしばおごり高ぶりの代表として言及される町です。ソドムは勿論創世記19章で罪のために神に滅ぼされた悪徳の町です。主イエスは、「お前たちのところで行われた奇跡」つまり主イエスの力あるみ言葉とみわざが、もしそれらの町で行われたなら、彼らは悔い改め、救いにあずかったに違いないと言われます。それほどに、お前たちの反抗の罪は重いということです。ティルスやシドンはイスラエルの町ではなく、異邦人の町です。それは主なる神様への信仰とは無縁な町です。つまり主なる神様のもとへと悔い改めることから最も遠いはずの町です。ソドムも、最悪の悪徳の町、腐敗、堕落の象徴として今も語り継がれる町です。主イエスは、そのような町の人々が、わたしの力ある言葉とわざを見聞きしたならば、悔い改めるのだと言われたのです。その悔い改めを引き起こすのは、主イエスの力あるみ言葉とみ業なのです。主イエスのみ言葉とみ業とは、それだけの力をもったものなのだ、とうてい悔い改めることなどあり得ないような者たちをも、悔い改めさせ、神様の前に跪かせ、罪を認めて赦してくださいと願わせるような力をそれは持っているのだ、ということが語られているのです。あなたがたが今見聞きしている主イエスのみ言葉とみ業とは、そのように人々を悔い改めさせ、新しくする力を持っている。だから、あなたがただって悔い改めることができる、悔い改めて欲しい、主イエスはそう語りかけておられるのです。

十字架によって
 主イエスの御言葉と御業、それは山上の説教と8、9章に語られていることのみではありません。この福音書全体がその力ある観言葉と御業を私たちに証しています。その全体を通して示されていることは、主イエス・キリストが、ただ教えを語り、奇跡を行われただけではなくて、私たちの全ての罪を背負って、ご自分は何の罪もないのに、十字架の死刑の苦しみを受けて下さったということです。神様を神としない私たちの罪の結果であるであります。神の裁きとその罰を、神様の独り子である主イエスが代って引き受けて下さいました。悔い改めない者たちが受けるであろうとされている厳しい罰、それを主イエスは私たちの代わりに受けて、私たちをそこから解放して下さったのです。また、憎しみが憎しみを、主イエスは教えられたことを、主イエス自らが実行されました。私たちの罪がもたらした痛みを自分だけで耐えられました。それが、主イエス・キリストの力ある御言葉とみわざです。そして父なる神様はその主イエスを、十字架の死から復活させて下さいました。主イエスは今も生きて、聖霊の働きによって私たちと共にあり、私たちを守り導いていて下さるのです。この主イエスによる神様の力ある恵みのみわざによって、私たちは悔い改めることができる。主イエスは、私たちが悔い改めてみ前に跪き、罪を認めて、赦しを願い、主イエスの弟子となることを待っておられます。主イエスに聞き従って生きる者となることを、待っておられるのです。期待して下さっているのです。

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