「天から降って来たパン」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 出エジプト、第16章 1節-36節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第6章 41節-59節
・ 讃美歌 ; 56、578、453
・ 聖歌隊 ; 42-1、71
1 教会に生きる私たちにとって、食卓の交わりというのは欠かせないものではないでしょうか。教会に生きる者とされて、私が強く感じさせられていること、それは食卓の交わりの多さ、その豊かさであります。それはなにも食事の内容が豊かで、品数が多く、おいしいものがたくさん並んでいる、ということではありません。たとえパンひとつとスープ一杯であっても、そこに豊かな交わりが生まれることを、私たちは知っているのではないでしょうか。私たちに与えられている交わりは、私たちを本当に生かしているお方、今日生きるのに必要なものをお与えくださるのみならず、ご自身そのものを私たちにお与えくださり、「わたしの命に生きよ」と語りかけられる、このお方を知っている者同士の交わりです。もともと食事という営みの中には、交わりの要素があります。共に食事をする者同士の生き生きとした心の通い合いがあります。やりとりがあります。動物が命をつなぐために単に餌を食べるのとは違う何かがそこにはあるのです。私たちの食卓はさらに、ただ集まった人同士の交わりに尽きるものではありません。人と人との交わりを本当に支え、守り、養っていてくださるお方との交わりが、深いところにあることを、私たちは知っているのです。
2 「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(53節)。とても激しい言葉、私たちの中に食い込んでくるような御言葉です。主イエスは、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」(55節)だとおっしゃいました。主イエスの肉、主イエスの血を飲まなければ、私たちは本当の意味で生きていることにはならない。このお方を食し、このお方を飲むとき、本当の命が、ドクン、ドクンと私たちの中に脈を打ち始めるのです。 およそ食べるという営みは、私たち人間にとって欠かすことのできない、かけがえのないものであります。そのことは、私たちが日に三度も食事をしていることを考えても分かることです。人の一生の中で、食事に費やされる時間は大変なものではないでしょうか。その食事を簡単にしたり、省略したりすることは、ある程度であればできるかもしれない。けれども、いつまでもいい加減な食事を続けていれば、それは健康に影響をもたらすのです。病気をしたり、体力がもたなくなってきたりするのです。毎食、簡単な栄養補給食品ですませているわけにはいきません。本当に健康に生きるために、健やかに毎日を歩むために、バランスのとれたよい食事をするということは大事なことです。 もう一つ、食事について思わされることは、食べるものと、食べる私たちとの関係の深さ、その親密さです。食べたり飲んだりするということは、その食べ物を自分の一部として取り込むということです。食べ物、飲み物は私たちの中に入り、栄養となり、私たちの一部となります。私たちの肉となり、私たちの血となっていくのです。だからこそ、何を食べるのか、ということが重大な問題となるのです。牛肉の扱いの問題や、すべての食品に産地表示をすべきかどうか、といったことが議論されているのも、私たちが何を口に入れるかということが、私たちが健康に生きることができるか、健やかな肉と血が形づくられていくかどうかという事柄と直結しているからです。 これだけ食の問題にこだわる私たちですが、それだけでは私たちの本当の命は形づくられない、私たちにとって毎日の食事が欠かせないのと同じように、欠くことのできない霊の糧がある、そう主はおっしゃる。「まことの食べ物」である主イエスの肉を食べ、「まことの飲み物」である主イエスの血を飲むことが、本当の命に生かされるために欠かすことのできない営みなのです。
3 このことは私たちが頭で考え、論理を積み重ねていったその先で行き着き、理解できるようになる事柄ではありません。信仰とは、頭で考え、理解して到達することではありません。主イエスを自分の外にあるものとして眺め回して、自分はこのお方との関係をどこらへんに定めて、どう折り合いをつけていこうかと考えている、といった姿は、信仰の世界にはありません。そうではないのです。御言葉を自分の外にあるものとして観察しているのではなく、その御言葉が外から、ぐいぐいと私たちの中に入ってきて、私たちの中に住んでくださっている、私たちを生かし、内側から駆り立てる、そういうものとして今日も私たちを養い、生かしてくださっているのです。その養い生かしてくださる主イエスの命に、自らを委ねることこそが、信仰なのです。 ユダヤ人たちはこうして入ってこようとしてくださる主イエスの命を受け入れることができませんでした。なぜなら彼らは、主イエスをその幼い頃からよく知っていたからです。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」(42節)。小さい頃からよく知っている、いやヨセフの家に生まれた時からよく知っている、あの男の子なのに、なぜ今さら天から降って来たなどというわけの分からないことを言うのか、彼らのつぶやきです。このつまずきは52節でも繰り返されます。「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」とお語りになる主に向かって、彼らは言うのです。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」。主イエスの人間としてのお姿のみを見るならば、私たちもまた、このお方を救い主として受け入れることはできないでしょう。 私は帰省して郷里の山形に行くと、よく出身教会である荘内教会で説教奉仕の機会を与えられます。先週の主日もそうでした。大学時代に通った教会でも、卒業後何度か説教をする機会を与えられてきました。それはある意味では恐ろしいこと、緊張を引き起こすものであります。幼い頃からの自分を皆さんよくご存知だからです。毛布の端をしゃぶりながら礼拝堂を歩き回っていたことも、わがままを言ってしかられたことも、自分の中に閉じこもってほとんど何もしゃべらなかった時代も、よく知っているのです。こういうことがありますから、神学生の中にも、出身教会での説教奉仕を頼まれると、丁重に断りたがる人がいました。もし肉の人、うつろいゆくこの世に縛られている人として説教者を受け止めるなら、きっとそんな思いにもさせられるでしょう。肉の人としてのかつての説教者の姿だけを見れば、つまずきを引き起こすのです。それにもかかわらず、今も私が郷里の教会でも、大学時代の教会でも説教奉仕の機会が与えられているのは、その肉の人である説教者を立てて、霊の働きのために用いておられる神の御業が、その上に行われていることを信じるからこそではないでしょうか。説教者を聖霊の働きによっていつも内側から新しくつくりかえ、その存在を通して「天から降って来たパン」としてのご自身をお与えくださる、主イエスの御業への信頼があるからではないでしょうか。この父なる神の御業、主イエスの御業への信頼を失ってしまえば、説教者も立つことができません。会衆にとっても、若い説教者や夏期伝道実習生が語ることを受け入れることも難しくなるのです。肉の姿だけを見るというのはそういうことです。若い伝道者が御言葉を語ることも、夏期伝道実習生が説教壇に立つことも、立てられている者を通して、神が命のパンである主イエスを、御言葉として私たちにお与えくださる、このことへの信仰があるからこそ成り立つことなのです。
4 主イエスを肉においてしか見ることができないで、つぶやきあうユダヤ人に対して主はおっしゃいました、「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(44節)。主イエスを肉においてしか見ることができない、それゆえに「天から降って来たパンである」とおっしゃる主イエスの御言葉が理解できないのは、この父なる神が私たちを引き寄せてくださるその御力に、身を委ねることができないからではないでしょうか。父なる神に引っ張られ、主イエスのもとに連れて行かれ、そこで主の肉の中に、霊の命が脈打っているのを目の当たりにすることを拒んでいるからです。引き寄せようとされる父なる神の力に身を委ねることを潔しとしないからです。私たちはそれよりも、このお方との関係の持ち方を自分自身が決定したいのです。主イエスとどれくらいの距離を置いておつきあいするのかを自分で決めたいのです。主イエスが本当に神の子なのかどうか、遠くから眺めていて、自分にもが合点が行くかどうか観察していたいのです。いつのまにか父なる神に捉えられて、引っ張られ、引き寄せられていったなら、もう抜け出せない、なにか不自由な世界に捉えられてしまうような気がして恐いのです。 特に日本社会は、いわゆる「神様」との関係の持ち方を人間の側で決めることのできる社会ではないでしょうか。本当にお出ましを願いたいような場面、病気の時や試練の襲う時、また結婚や葬式の時には私たちはまるで「神様」を呼び出すかのようにして僧侶や神主を呼んできたり、神社仏閣を訪たりする。けれどもそれ以外の時の関係の持ち方は結構適当ではないでしょうか。また亡くなった人について、どれだけの功績を残したか、どれだけ立派な働きをしたかどうかを生きている人間が判定をして、神にするかどうかを決めている。「神様」とのかかわり方をこちら側で決めさせていただくのが、人間にとっては一番都合がいいということなのです。 しかし私たちの父なる神は、そのような関係の持ち方をお許しになりません。神との適当な距離を私たちのほうで設けるなどということは拒まれるのです。そうではない。どういう関係を結ばれるのか、どうやって主イエスと私たちを結ばせるのか、それは父なる神がお決めになることです。神が関係を定める主人です。このお方が私たちを引っ張っていってくださり、主イエスのもとに連れて行ってくださいます。この引っ張っていってくださる父なる神に、私たちが心を明け渡すかどうか、自分が自分の主人であることをやめて、父なる神を主人として自分の中に迎え入れるかどうかが、すべての分かれ目となるのです。私たちはよく、神との出会いを求める歩みをする時、その人のペース、その人その人の神への近づき方を尊重しなくてはいけない、そう思います。それはそれで正しいわけですが、しかし、本当に神との出会いを与えられる時には、いつしかそのペースは、神のペースに切り替わっているはずです。自分の求めるペースから、神が私たちを引っ張ってくださるペースにお任せをするようになる。自分が関係の持ち方を決めようとしていたところから、神が関係を結ぼうとされる力に逆にリードをしていただくように変えられていく。神に主導権を明け渡す、そういうことが本当に神と出会う時には起こっているのです。
5 そうやって父なる神に引き寄せていただいた先で、私たちは父なる神がお与えくださるこの上ない生き生きとした命の交わりの中に生きるようになります。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(53節)。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(57節)。こんなに近しい、親密な、生き生きとした関係があるでしょうか。冒頭にも述べましたように、食する、食べるという営みは、人間にとって欠かすことのできないものであり、私たちの体内に入る食物は栄養となって私たちの体を形づくり、私たちを生かすのです。 先ほど読まれた旧約聖書の出エジプト記第16章においては、イスラエルの民が荒れ野でマナによって養われた出来事が語られていました。エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を、主が救い、導き出してくださったにも関わらず、その先の荒れ野で、彼らは主に向かって不平を述べ立て始めたのです。8節の後半で、モーセはこう言っています、「一体、我々は何者なのか。あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」。これは今、主イエスの御言葉の前でつぶやき始め、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と激しく議論し始めている、ユダヤ人たちの姿と同じではないでしょうか。あの出エジプトの時代以来、神の民は、自分たちを救い出し、引き寄せ、関係を結ぼうとされる神の御腕を振り払い続けてきたのです。それよりも、自分で神との関係を定め、不愉快なことがあれば神に不平を述べ立て、自分を自分の主人として歩んできたのではないでしょうか。この神の民の反逆の歴史、神に自分を明け渡さずに自分が主導権を握り続けようとする思いが、いまだに私たちにも受け継がれているのではないでしょうか。 この現実をよくご存知だからこそ、父なる神はあのマナの時よりも勝る、新しい「天から降って来たパン」を与えてくださったのです。それこそが、ご自身の独り子、神の子、主イエス・キリストです。今や天からのパンは、あのマナのように、急場しのぎのための、とりあえず命をつなぐための食物ではありません。そうではなく、私たちが食することによって、私たちの中に入り込み、私たちと一つになり、私たちを内側から新しく造りかえてくださる命の糧、「天から降って来た命のパン」なのです。いわば神ご自身が独り子においてご自身をお与えくださり、神が私たちの内に住んでくださるのです。だからこそ、使徒パウロはこう語ることができました、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2:20)。もはや神が天からパンを与えて民を養うのではない、神はそれでは不十分な関わり方であることを痛感されて、ご自身の独り子をさえお与えになった、そして「わたしを食べよ、わたしを飲みなさい」とお語りになる。主イエスは命のパンの与え手ではなく、まさにご自身が命のパンそのものとなられたのです。これ以上の親密な関わり方、激しい愛の注ぎ方があるでしょうか。 私は休暇中に妻の出産に立ち会う機会を与えられましたが、へその緒をつけたまま、びっくりしたような顔をして引っ張り出された赤ん坊の姿を、激しく揺さぶられる思いをもって目の当たりにいたしました。赤ちゃんは母親のお腹の中で、胎盤を通して栄養を与えられ、また老廃物を母親に引き受けてもらいながら成長していく、といわれます。そういう命の通い合い、行ったり来たりがあるわけです。私たちが主イエスの内におり、また主イエスが私たちの内におられるということは、主が私たちをそのような命の通い合いの中に生かしてくださっているということではないでしょうか。この交わりの中で、主イエスは私たちの自分を主人にし続けようとする頑なな思い、神に逆らう思いをご自身の上に引き受けてくださったのです。それによって神の義が、私たちに与えられたのです。父なる神と御子なるキリストとの間にある、命の通い合い、それと同じ交わりの中に、私たちも生きるようになるためです。だからこそ、主はおっしゃったのです、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)、と。 6 今私たちが御言葉において天から与えられている命のパン、また聖餐において与っている主イエスの御からだと御血潮は、かつてイスラエルの民が急場をしのぐために与えられた非常食のようなものとは異なります。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(51節)。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54節)。主イエス・キリストの肉と血を御言葉において、聖餐において、食し味わうということは、この世の旅路の支えになるというだけの話ではありません。死をも越えて、その向こうにまで広がる永遠の命を、今私たちが生き始めているということなのです。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(47節)。「このパンを食べる者は永遠に生きる」(58節)。 今、主イエスの御前で、私たちがどのような態度決定をするのか、それが終わりの日に私たちが復活するかどうかに直結しているのです。終わりの日はどこか遠いところにあるのではありません。そうではなく、今の私たちのありようと深く関わっています。今私たちが、引き寄せてくださる父なる神の御腕に身を委ね、主イエスのもとに連れて行っていただいているか、主イエスにおいて日々、出会ってくださる神に心を開いているか、その御言葉に養われ、キリストの御からだと御血潮に養われているか、そのことが終わりの日の私たちのありようを決めるのです。私たちは聖餐に養われつつ、終わりの日に主イエスとともに御国の食卓に着く希望を新たにします。教会はこうして、聖餐と御国の食卓という二つの食事の間を歩みながら、語りかけられ、お応えする、神との命の交わりの中に今日も生かされているのです。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、あなたから終日手をさしのべていただいているのに、引き寄せてくださるあなたの力に身を委ねることをせず、長く招きを拒み続けて参りました。終わりに日をどこか遠くにあるものとして、いつも問題を先延ばしにして参りました。今、あなたとの関係の持ち方を自分が決めるのでなく、食するという最も近しい関係の中で私たちと関係を結んでくださるあなたに、人生の主導権をあけ渡すことができますように。あなたが私たちの中に住んでくださり、霊の糧をもって養ってください。あなたの恵みの御業を受け入れ、終わりの日への希望を新たにしつつ、あなたとの命の通い合いのうちに、今日も私たちを生かしてください。 命のパンなる御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。