夕礼拝

本当の喜び

「本当の喜び」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 申命記、第 8章 11節-20節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第10章 17節-20節
・ 讃美歌 ; 135、323

 
1 主イエスから遣わされて働いてきた72人が、最初の働きを終えて戻ってくる場面から、今日の物語は始まります。帰ってきた72人の顔には、喜びの表情が満ちていました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(17節)。72人は何の心配もせずに出かけていったわけではなかったと思います。いや、むしろ主イエスのもとから離れて、遣わされていくことに戸惑いや恐れがあったに違いありません。なにしろ主イエスはこうおっしゃったのです、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(4節)。躊躇するようなところを、主イエスにポンと背中を押して頂いて送り出されていった感じがいたします。けれども、遣わされていった先でただ頼りとなり、よりどころとなったのもまた、主イエスご自身が遣わすに当たってくださった御言葉であったのです。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」(16節)。あなたがたをわたしの権威を担う神の大使として派遣する、この御言葉によって力を授かって72人は働いたのです。そうしたら自分たちも驚くほどの働きができたのです。自分でも想像していなかった驚くべき業が行えたのです。伝道に必要なものはすべて与えられて、何一つ不自由することはなかったし、そこで主が命じられていたように、病人をいやし、神の国が近づいたことを力強く宣べ伝えることができたのです。さらには、悪霊に取りつかれていた人から、これを追い出すことさえもできた、というのです。
 悪霊を従わせ、追い出すという業は、神のご支配を現す目に見えるしるしです。これまでも主イエスはこの悪霊払いを数多く行ってこられました。4章の31節以下では、男に取りついた汚れた悪霊を、権威と力に満ちた御言葉をもって追い出しておられます。また8章26節以下でも悪霊に取りつかれたゲラサの人を救っておられます。さらに9章37節以下では、弟子たちには太刀打ちできなかった悪霊を、子供から追い出しておられます。悪霊に有無をいわさず引き下がらせ、その支配の下に動きを封じ込めてしまう、力強い業を、今主イエスは72人に託し、その働きをゆだねられたのです。
 ただ私たちが忘れてはならないのは、72人がこの悪霊払いを行った時にいつも用いたのは主イエスの「お名前」であったことです。聖書において「名前」は重大な意味を持っています。「名前」は単にものを指し示す記号のようなものではなく、その名前を帯びているお方そのもの、本体そのものを表しているのです。キリスト者とは、この主イエスのお名前を身に帯びた者と言ってもよいと思います。伝道者パウロはこのことを「わたしはイエスの焼き印を身に受けている」(ガラテヤ6:17)とまで表現しました。ちょうど羊がその所有者を明確にするために焼き印を押されるように、私たちも主に養われる羊の群れとして、消されることのない主イエスの御名を焼き付けられているのです。72人は遣わされていく時には不安があったかもしれません。けれども主のお名前によって悪霊を従わせることができた時、自分たちは主から離れたところで孤軍奮闘しているわけではないのだ、とはっきり悟ったはずです。そうではない、目には見えないけれども、自分たちと共に主イエスがここにいてくださる、伴ってくださっている。主イエスの御名を呼ばわる時、主ご自身がここにいてくださる。主イエスのお名前を呼ばわる時、その御名をただ一つの武器として悪霊に立ち向かう時、彼らは知ったのです。戦われるのは自分たちではなく、主イエスなのだ、主が自分たちと共にいてくださり、力を奮っていてくださるのだ、そのことを知ったのであります。

2 しかしここにはまた、ある誘惑が伴ってくることも確かです。主のお名前を使えば、悪霊でさえ、思い通りになる、その意味ではもはや恐いものなしだ、何も恐れるに足りない、すべては自分の思い通りになるのだ、72人がそんな思いになったとしても不思議はないでしょう。実際、主イエスご自身がおっしゃったのです。「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」(19節)。これは実に小気味よい、してやったりといった思いにさせられるような光景です。今までよくも自分たちを苦しめてくれたな、もう好き勝手にはさせないぞ、サタンが私たちに害を加えることはもはやあり得ないのだ、そういう勝利宣言が聞こえてくる思いがいたします。けれども主イエスはそこで但し書きを付け加えられる、「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」(20節)。主イエスはここで、サタンが稲妻のように天から落ちて、大変な敗北に追いやられるのを目の当たりにする時、あなたがたの喜びはどこに向けられているのかを問うておられるような気がいたします。私たちが喜んでいる時、その喜びの眼差しはどこに向けられているのか、そのことが主から問われているのではないでしょうか。自分自身の場合どうかを考えてみれば分かることですが、もし私たちが主イエスから遣わされていった先で、自分たちに逆らってきた力が、膝をかがめて、面白いように自分たちに従うようになるのを目の当たりにするなら、さぞかし満足な思いに浸るに違いないでしょう。どんなもんだい、といった思いが浮かんでくるでしょう。さらには、何かに捕らわれていた人が解き放たれ、喜んで生きるようになる、苦しんでいた人々が癒されて、新しく生き始める、そういう姿を目にすると、「ああ、いいことをしてあげられたな」、そんな思いでもってニコニコとご満悦気分に浸る。そんな時、あなたの眼差しはどこに向けられているか、と問われるなら、それは自分自身ですと応えざるを得ないのではないでしょうか。もし弟子たちの関心が、ほかの人たちのために何かをしてあげることができるかどうかということにもっぱら注がれているとしたなら、そこで主イエスが見失われていることになりはしないでしょうか。悪霊が服従するような権威を授けてくださったのは主イエスであって、弟子たちが自分たちの権威で悪霊たちを屈服させたのではありません。そのことが忘れられ、弟子たちの眼差しが自分たちの力や自分たちの業に向けられる時、「悪霊があなたがたに服従するからといって喜んではならない」という主イエスの御言葉が響き渡るのです。主の御言葉は、この私たちの自分自身への関心を吹き飛ばして、私たちの眼差しを新しく神へと向けなおさせる力を持っているのです。主は私たちが目をどこに注ぐべきかをはっきりと示しておられます、「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(20節)。働いている自分を見つめるのではなく、天においてあなたのことを見つめ、心にかけてくださり、覚えてくださっている父なる神にこそ、目を向けるのです。「下」ではなく「上」に眼差しを向けるのです。この当時、天において、救われてとこしえの命に与かるべき者の名前を書き記した書物がある、ということが広く信じられていました。ですから、ここで主イエスは、「悪い霊どもがあなた達に服従したことを喜ばず、自分の名が天の命の書に書き込まれていることを喜ばなくてはならない」(塚本虎二訳)と語っておられるのです。

3 先ほど読まれました旧約聖書の申命記、第8章11節以下には、イスラエルの民が荒れ野をさまよった末に、よい実りをもたらす豊かな土地へと、ついに到着した時、心に何を刻んでおかなくてはならないかが語られていました。「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が増え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」。さらに17節以下、「あなたは『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力を与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである」。
 悪霊が自分たちに従うようになればなるほど、そこで私たちは、あのイスラエルの民のように、そういう権威を授けてくださった主イエスをこそ、そこで思い起こし、またサタンを天から突き落とされた主なる神をこそ仰ぐのです。そこで自分自身では何の力も持っていない、むしろサタンに取り囲まれたらひとたまりもない、まさに狼の中に送り込まれた小羊のような者でしかない自分をも顧みてくださり、御心に留めてくださっている主を崇めるのです。ルカは、遣わされた72人が、出かけていった先でどんな風に働き、どんな風に振舞ったかを語ることに関心はありません。この10章の1節から16節は主イエスが72人を選び、遣わされる時のお言葉ですが、その直後にはもう72人が帰ってくる場面が語られているのであり、この間、彼らがどのように活躍したのかは全く描かれていないのです。なぜならそれがこの物語の中心ではないからです。中心は、か弱い小羊のような者に、神の全権を託し、ご自身の力ある御名をその身に帯びさせ、遣わしてくださる主イエスの恵みの御言葉なのです。

4 この主イエスからの語りかけを聞くとき、もしかしたら私たちは自分たちの現実の状況との間に落差、ギャップを感じるかも知れません。自分たちはここで語られているほど敵のあらゆる力に打ち勝つような力強い歩みをしているだろうか。むしろ日々さまざまな誘惑に苛まれているのではないか。主イエスはサタンが稲妻のように天から落ちるのをご覧になったとおっしゃるが、今のこの国の社会も世界全体の状況も、私たちの身の周りも、理解しがたい事件が相次ぎ、分けの分からない力に振り回され、サタンに悩まされているのが実際の所ではないのか。教会の中でだって悪霊が私たちの前に服従する有り様を目の当たりにした覚えはないぞ、そんな風に感じられるかもしれません
けれども同時に私たちは知っているのです。この教会において一人の人が、主イエスの御名によって語られる御言葉に打たれて、崩れかけていた生活を建て直され、新たに立ち上がる出来事が起こるということを。この教会において親しい者の死に直面し、打ちひしがれて希望を失いかけていた者が、この世の何物も与えられない深い慰めを受けて、癒されていく姿があるということを。この教会において、天にその名前が覚えられていることに、誰も奪えない平安を見出し、重い病の中にあっても心安んじて日々を歩み、召されていく方があることを。私たちは誰も、やがてあの72人のように力にあふれて働くことはできなくなります。病があり、老いがあります。思いがけない出来事によって思うに任せない体になることもあるかもしれません。あの72人とて同じことです。いつまでも彼らが元気で出かけていって働き続けたわけではありません。彼らも老いていき、死を迎えたのです。
元気に働いているうちは、自分の働きの実りが分かりやすいですから、その手応えを感じることで喜びが得られるかもしれません。けれどももし、主に遣わされていってどれだけ手応えのある働きができるか、ということが私たちの喜びの根拠となってしまうならば、それは大変恐ろしいことです。なぜならやがて齢を重ね、あるいは思いがけないことで、体の自由がきかなくなったり、心が苦しくなって主から遣わされているサタンとの戦いの前線から離脱し、しばしの休息を必要とするようになったりしたら、そこでその人の喜びの根拠は失われるからです。主イエスはそんな時、あなたがたの本当の喜びの根拠はそこにあるのではない、とおっしゃるのです。そうではない、むしろ「あなたがたの名が天に書き記されていること」こそが、あなたがたが本当に喜ぶべきことなのだ、そうおっしゃってくださるのです。すべてのものが取り去られてもなお失われることのない喜びがここにあるのです。そうだとするなら、私たちはたとえ主イエスのために、具体的に手足を動かして働くことができなくなっても、そんなことで決して失われたりはしない本当の喜びに、どこまでも徹して生きることができるはずです。神が私たちの名を天の命の書物に刻み込んで覚えてくださっているということは、私たちの側がどんな状態になってしまっても決して失われることのない神の恵みだからです。この恵みに真実に生かされるなら、実は私たちは死の床にあってもなお、主の恵みを証しすることができるのです。サタンが命を奪うことはできても、根本的には決して私たちに害を与えることはできないことを知るのです。伏せっている状態であっても、痛みに悩まされる中でも、そこで主が託された「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」を行使することができるのです。

5 サタンが天から稲妻のように落ちるのを見ていた主イエスは、このような悪の敗北と、主の御名の勝利のために、父なる神がご自分を用いようとしておられることを深く受け止められたに違いありません。その歩みが十字架を背負ってゴルゴタの丘へと向かう歩みとなっていったのです。主イエスが十字架につかれたのは、もはや私たちがどんなに懸命に働いても神の御前にお返しすることなど決してできないはかりしれない負い目、罪を、私たちに代わって担ってくださるためでした。私たちが主イエスの御名を信じ、このお方に寄りすがるならば、誰でも与ることのできる本当の喜びをもたらすためであったのです。
 私たち一人一人がどんな働きをしたのか、どれくらい働いたのかが、救いに関わる究極の問題なのではありません。大事なことは、主の十字架と死からの甦り、そして主が神の右の座へと高く挙げらられたことを通して、サタンは天から墜落し、主イエスの御名が高く掲げられているということです。そしてこの御名により頼む者はどれだけ働いたかということに関係なく救われる、ということです。この御名により頼むところに、どんなことがあっても失われない私たちの喜びの礎があるのです。高く挙げられた主イエスの御名が、私たち一人一人の具体的な名前を抱き止めて、天に持って行かれ、救われる者の命の書に、その名を既に刻みつけてくださっています。何があっても助け出し、救いの完成に至るまで責任を持つ、とおっしゃってくださる主の約束の中に捕らえてくださっているのです。この本当の喜びを知らされた時に湧き上がるのが、使徒パウロも口ずさんだキリスト賛歌なのです。私たちもパウロと共にこの賛歌を歌い、祈りを合わせたいと願うのです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2:6-11)。

祈り 主イエス・キリストの父なる御神、あなたのお名前よりも、自分の名前にこだわり、あなたの恵みの御業よりも、自分の手になる働きがどれだけ実りをもたらしているかにこだわる、せせこましく、みみっちい私どもであることを、御前に恥ずかしく思います。私たちの小さな名前よりも、あなたの御名ははるかに大きいのです。私たちがあなたのためにどれだけ働いたかどうかに関わりなく、あなたの御名は大きいのです。そのあなたの御名が、しかし私ども一人一人の名を抱き止め、来るべき御国を嗣ぐべき者として、命の書にその名を書き記し、御心に留めてくださっている幸いを思います。ここにこそ、私どもの本当の慰めがあり、また本当の喜びがあることを心に刻ませてください。私共がどんなことになっても、決して失われない喜びの礎が、主イエスの御名によって確かにされていることをいつも思い起こすことができますように。すべてを通して父なる神の御名が崇められますように。
あらゆる名にまさる名である、主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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