夕礼拝

神の大使として

「神の大使として」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; エゼキエル書、第28章 20節-26節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第10章 1節-16節
・ 讃美歌 ; 152、519

 
1 「わたしに従いなさい」、そうおっしゃって、ご自分の背中を見つめて歩んでくるよう招いておられた主イエスは、今度は後ろから見つめる形で、72人を神の国の働きのために送り出しておられます。この72人が二人ずつ、すなわち36の組になって主のまなざしをその背中にうけつつ、あちらこちらに散らされていくのです。
実は、今日の箇所と非常によく似た箇所が第9章1節から6節にも記されておりました。それは、主イエスがお選びになった12人の使徒たちをお遣わしになる場面であります。「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。『旅には何ももって行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい』十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」。今日の第10章の冒頭に出てくる「ほかに七十二人を任命し」、とあるのは、あの時遣わされた十二人の使徒とは別の72人を新たに任命した、ということです。そしてそこでもやはり、主は遣わされる者たちに同じような心構えについて語っておられるのです。マタイ福音書もマルコ福音書も、そしてこのルカ福音書も、12人の派遣については共通して語っています。けれどもそれとは別に、72人の任命と派遣があったことを記しているのは、ルカだけなのです。なぜルカは12人の派遣だけでなく、この72人の派遣をも書き記したのでしょうか。
主が任命された人の数、72という数字が何を表しているのかを巡っては、さまざまな解釈がなされておりますけれども、一つ大切な理解だと思われるのは、この72という数字は、旧約聖書において考えられていた地上に存在する諸民族の数を表している、というものです。創世記の10章には地上にあるすべての生き物を襲った大きな洪水が退いた後、この洪水から守られて生き残ったノアに与えられた子孫が、どこにどのように増え広がったかが記されております。そこに列挙されている諸民族の数を数えると70あるというのです。さらに旧約聖書を新約聖書が書かれている言葉である、ギリシア語に翻訳したものの場合には、72の数の国が並べられているというのです。ルカの記している遣わされた者の数が72なのか、70なのかを巡っては、いろいろな可能性があり、実ははっきりと確定されてはおりません。どちらの可能性もあるわけです。そこでこの地上に増え広がった世界の民の数が70,ないし72であったということに、主イエスが72人を遣わされたこととの結びつきを見ることも許されると思うのです。つまりこの72人の派遣は主イエスによる世界伝道を映し出しているのです。主が行くおつもりであったのは、この世界に散っているすべての民族、国々、人々なのです。この地上のすべてに、神の国が近づいたことを告げ知らせる、それが主の御心なのです。12人の使徒たちはイスラエルの12部族を代表しており、その意味では主イエスによって集められる「新しいイスラエル」、神の民の中核となる者たちであります。けれども、この主の弟子はこの12人だけだ、というのではないのです。ちょうどイスラエルの民が、諸民族が祝福を受けるための基礎、中心として選ばれたのと同じように、12人もまた多くの人々が神によって選ばれ、救いに与り、主イエスの働き人として遣わされていくための中核となる群れです。そしてこの12人の群れに加えられていくことを通じて、多くの人々が使徒という同じ名前ではなくても、内容的には使徒の務めを託されて世界中に遣わされていく、ということが起こっていくのです。10章の2節に「二人ずつ先に遣わされた」とありますが、この「遣わされた」という言葉は、「使徒」という言葉と共通の言葉なのです。そこで、使徒の務めを、あの12人の使徒以外の者たちも託されて、主イエスから送り出されていくのです。そうだとすれば、主イエスから遣わされていくのは、限られた12人の使徒たちだけの特権ではないことが分かります。この日本に散らされている私たちにも大いに関わりのあることなのです。世界に遣わされていった72人の中に、今ここに生きる私たちの姿もあるのです。私たちも主イエスからの任命を受けて、日々生活している場所に遣わされているのです。先ほど読まれた旧約聖書のエゼキエル書28章25節以下にはこう語られていました、「主なる神はこう言われる。わたしがイスラエルの家を、彼らの散らされた諸国の民の中から集めるとき、彼らによって、わたしは自分の聖なることを諸国民の前に示す。彼らは、わたしがわたしの僕ヤコブに与えた土地に住む。彼らはそこに安らかに住み、家を建て、ぶどう園を植え、安らかに住みつく。彼らを侮辱する周囲のすべての人々に、わたしが裁きを行うからである。そのとき彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知るようになる」。私たちも諸国の民の中から集められた新しいイスラエルの一員なのです。

2 主はしかし、このことは、「狼の群れに小羊を送り込むような」もの、危険な冒険をすることだ、とおっしゃいます。羊は視力が弱く、見える範囲も狭い動物です。道に迷いやすく、敵から身を守るような武器もなにも持っていません。万が一、荒れ野に一匹でさまよい出たりしようものなら、獰猛な獣の餌食となってしまうでしょう。そういう弱さ、敵に立ちはだかれたなら、なされるがまま、好きにされてしまうに違いない、そういうもろさを抱えた存在、それが今ここで遣わされていく者たち、つまりは私たちの現実の姿なのだ、というのです。私たちを送り出す主イエスご自身がこんなことをおっしゃっておられるのを聞くと、私たちは不安になってします。「そんな心許ない、危険なところに私たちを送り込むというのはいったい、どういうことなんですか。主は本当に私たちを愛し、守ろうとしておられるのですか!」そういう抗議をしたくなる思いもいたします。  
こんなことを言われたからには、遣わされていく者たちの中には恐れが生まれるはずです。不安が引き起こされるはずです。こういうことが言われるのなら、敵から身を守り、託された務めを十分に果たす為に、周到な準備をしなければならないだろう、私たちはそう思います。持っていかなければならないものがいろいろと並べ立てられることだろう、そう思います。自分の身を守るためにさまざまな装備をして、荷物を整えて準備しておかねば、と思うに違いないのです。ところが驚くべきことに、主イエスがお語りになる心得の中には、これを持っていくように、と命じられるものは平和の挨拶以外に何一つありません。それどころか、これを持って行くな、あれも持って行ってはいけない、という、持っていくべきでない物ばかりが、列挙されているのです。「財布も袋も履物も持って行くな」。お金も、食べ物を携え運ぶ為の袋も、険しい道を歩く足を守る為の履物も必要ない、というのです。「狼がうごめいているこの暗闇の世界に、小羊である働き手たちをわたしは丸裸で放り込む」、主はこうおっしゃっておられるのも同然であります。

3 ここから、私たちの予想に全く反して、送り込まれた小羊たちの、世界に対する断固とした姿勢が、主イエスによって語られていくのです。びくびくおびえながら狼の中に入っていくのではなく、心の背筋をピンと伸ばして堂々と歩んでいくのです。例えば主は、遣わされていく旅の途中で誰にも挨拶をするな、とおっしゃいます。これはまた無愛想な話です。キリスト者というと、親切で愛想がよく、品のよい人だ、そういうイメージが世の中ではよく持たれます。私たちも、キリスト者が隣人に対してそんなつれない態度を取っていいのだろうか、とすぐに思ってしまう。けれども、ここで問題とされていることは、人間の社会の営みではないのです。社交上の礼儀やマナーのことが語られているのではありません。そうではなくて、今彼らが町に出かけていく目的は、その町の病人をいやし、「神の国はあなたがたに近づいた」と言い広めることです。神の国とは神のご支配のことです。神様のご支配がやってきており、それがあまりにもすぐそばまで来ているために、もうその影響がはっきりと出始めている、それが神の国が近づいた、ということの意味です。神のご支配の到来を言い広める、その目的のために、彼らは道を急がなくてはなりません。当時の習慣によれば、当時この地方の人々が道端で挨拶をする場合、長い時間をかけ、四方山話、世間話に花を咲かせながら言葉を交わすことが多かったと言われます。主はここで、「そういうことをしている暇はないのだ、狼の中に送り込まれたからといってびくびくするな、おべっかを使って世界に媚びを売るようなことはしなくてよろしい。あなたはなすべき務めをなしなさい。               
あなたがたは遣わされていることの意味と目的が何であるのかをわきまえなくてはならない、道端で時間を無駄に使っているわけにはいかないのだ、あなたがたのなすべき本当の挨拶があるのだ」、そうお語りになりたいのではないでしょうか。
その本当の挨拶こそは、家に入って告げるべき、平和の挨拶です。この平和とは、平穏無事でありますように、と願う社交上の挨拶とは全く違うものです。それは主イエスから力と権能を授けられた者が自分の上に担っている「キリストの平和」です。私たちの中には神に逆らう思い、神から遣わされることを拒み、自分にとって居心地のいい世界、自分の思い通りになる場所に狭く閉じこもり、その中で我が物顔に振る舞い、王様を気取っていたい思いがあります。そんな私たちにとっては、人間の支配ではなく、神のご支配が近づく、などということは都合の悪いことなのです。受け入れたくないことなのです。その私たちの中にある傲慢さが、心の中に大きな壁を造り、やってきている神のご支配を受け入れることを邪魔しているのです。そのような私たちが本来受けなければならない裁きは、滅びです。ソドムやティルス、シドンといった町々は、この神の裁きと怒りに触れた町々なのです。そういう意味では、私たちもまた、こうした町々と同じ運命を辿りゆくべきはずの存在でした。けれども主イエスは、ご自身が、この私たちが受けるべき神の怒りを代わって受けてくださり、十字架の上で私たちの受けるべき罰を代わって受けてくださったのです。神の王国に逆らい、自分の小さな王国にしがみついている私たちの傲慢さを、主は十字架の上で打ち砕いてくださったのです。神と私たちとの隔ての中垣となっていた私たちの王国の壁を打ち砕いてくださったのです。そして罪を赦され、心の内に神のご支配が確立された私たちを、今度は今も小さなそれぞれの王国にこだわっている人々の下へと遣わしてくださるのです。この「キリストの平和」は、それ自体で力を持つものであり、私たちが付け足したり、割引きしたりできるものではありません。私たちはただ、それを携えていき、家の入り口で、挨拶として、そのままそれを差し出すのです。それを受け入れるのか、拒むのか、答えを求めるのです。それを受け入れる平和の子があるなら、それは受け入れられるし、もし受け入れられなければ、それは私たちのもとに戻ってくるだけなのです。

4 そういう意味で、私たちは皆、罪を赦す主イエスの権威を託されている神の大使です。神から遣わされた全権大使なのです。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」(16節)、主はこれほどのことをおっしゃってくださいました。主イエスのまなざしを背に受けて、私たちは主イエスの大使としてこの世に遣わされていくのです。主のみ心を身に帯びて出かけていきます。私たちを相手が受け入れるか否かが、主イエス、さらには神を受け入れるかどうかに等しい、それほどの権威を授けられて、私たちは出ていくのです。それは狼の中に、裸一貫で送り込まれるような恐いことかもしれません。けれどもそこで私たちがただ一つ、携えていくことのできるものがあります。「キリストの十字架がもたらした平和」です。この「平和」を携えていき、それを投げかけるのです。相手がそれを受け入れようが拒もうが、とにかくこの平和を告げ知らせるのです。自分を受け入れてくれる家が提供してくれるもので養いを受け、他にもっと待遇のいい家はないかといって目移りするのでなく、与えられた場で神から与えられる恵みに満ち足りて歩むのです。しかしもし相手が神の大使を受け入れないのなら、これでもか、これでもか、としつこく力づくでねじふせるようなことはしない。きっぱり、足についた埃さえも払い落として、その町とは縁を切るのです。ただ、その場合でも確かなことを告げておくのです。「しかし神の国が近づいたことを知れ」、と。実に堂々とした態度ではないでしょうか。この神の大使たちは、もともと狼の中に放り込まれた小羊たちのはずであります。けれどもここには、そのようなひ弱さ、頼りなさ、びくびくしたところ、そういったものが全く感じられません。神の全権を委任された大使として、狼が迫り来る中で、しかし堂々と歩んでいるのです。

5 私たちは改めて問いたくなります。狼の中に放り込まれた小羊であるはずの私たちがこのような堂々とした強さと、どんな装備もいらない自由に生きることができるのはいったいどうしてなのか、と。この私たちの問いに、主イエスはお答えになるのです、「わたしが神の小羊として、あなたがたの歩むべき狼のうごめく闇の世界を既に歩みきっているからだ」、と。主が罪も汚れもない神の小羊として十字架におかかりになり、甦ってくださって、荒れ狂う狼の力に打ち勝ってくださいました。なお残された力を振り絞って、狼がのたうちまわっているかのように見えるこの世界ですが、しかしそこでも、私たちは神の国が近づいていることを知るのです。
神の大使としてこのキリストの平和を告げ知らせる72人の姿は、私たちの姿、教会の姿に重なり合います。教会は今、主イエスが再び来られるのを待ちわびつつ、神の大使としてこの世に向かって叫ぶのです、「神の国はあなたがたに近づいた」、と。そして実際、神のご支配が影響を及ぼしている教会においては癒しが起こります。たとえ病そのものが癒されなくとも、その心がまっすぐと神に向かって立つ、ということが起こります。礼拝に連なりたい、という思いに支えられて驚くほどの力が湧いてきます。そのことが支えになって、齢を重ねても毎日が張り合いのある日々となります。教会の集会にお誘いします。そこで断られたっていいではないか、拒まれたりしてもかまわないではないか、それでも神の国は近づいているのですから。キリストはもうすぐ来られるのですから。
私の学年が神学校を卒業する時、先生方が卒業生に贈ってくださった言葉の中に、次のようなものがありました。「悪評を浴びる時にも、好評を博する時にも、ただキリストの僕として」!自分の持っているものに全く頼らず、ただキリストのまなざしを受けて遣わされていることにのみ信頼して歩む時、この世の評価によって左右されない、本当の平和が、私たちの心を治めてくれるのです。使徒パウロが語ったように、「人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようでいて、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有してい」る、そういう不思議であるけれどもしかし確かな平安に満ちた歩みが、与えられていくのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、主によって遣わされて、私たちは毎日を歩んでおります。そのことは、小羊を狼の中に送り込むようなものだ、と主はおっしゃいました。あなたなしで投げ込まれるのであれば、私どもはこの闇の世の狼によって食いちぎられてしまうか弱く、はかない存在であります。しかしあなたが私たちの背後におられます。また先だって歩んでくださっておられます。前に、後ろについていてくださって、私たちの歩みを、不思議な平安の中において導いてくださいます。どうか自分の中にある王国や自分の誇りから私たちを解き放ってください。あなたの御国を待ち望み、あなたの大使としてこの世に遣わされていることをこそ、自らの誇りとすることができますように。悪評を浴びる時にも、好評を博する時にも、ただキリストの僕として生きる幸いを味わわせてください。
収穫の主なるイエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

関連記事

TOP