「主イエスに問われて」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 詩編、第115篇 1節-18節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第9章 18節-20節
・ 讃美歌 ; 294、448
1 主イエスと弟子たちに、静けさが訪れました。元々、主イエスと弟子たちはベトサイダという町に退いて、自分たちだけで静かに過ごそうとしていたのでした。ところが群衆が後を追ってきたために、彼らを教え癒す中で、静かに過ごすどころではなくなってしまっていたのです。今やっと静かに過ごす時がやってきました。人里離れた寂しい所で主イエスは祈りの時を過ごされたのでした。そこに弟子たちも共にいました。主イエスの密かな祈りの場にも、弟子たちは共にいることを許されたのです。いわば主イエスの私的な時間、プライベートな時と場にも、一緒にいることを許されていたわけです。このことを思い見ますと、やはりこの弟子たちは特別な位置づけを与えられているといってよいでしょう。主イエスはたくさんの群衆のために心を砕かれましたが、また同時に弟子たちだけと共に過ごす時間も大切にされたのです。十二人を集め、特別な権威と力を授けて遣わされました。そして彼らの報告をつぶさに聞かれた後は、この十二人を伴って、彼らだけと親しき交わりを結ぶ、憩いのひとときを過ごすことを望まれたのです。
2 今日はどんなお話が伺えるのか、と内心わくわくするような気持ちで弟子たちは主イエスの後についていったことでしょう。ところがそこで主はまず祈りを捧げられた。弟子たちと語らう前に、まず父なる神とお語り合いになった。そこで深く父なる神の御心に聴き、父なる神が何を求めておいでになるのか、その御心を尋ね求めたのです。ルカによる福音書においては特に、主イエスの祈りは重大な意味を持っています。6章の12節で、主イエスが十二人をお選びになる時にも、主は祈られました。しかもただちょっとの間祈られたのではない。祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされたのです。徹夜の祈りを捧げてこの十二人をお選びになったのです。また今日の箇所のすぐ後、9章の28節にも主がペトロ、ヨハネ、およびヤコブをお連れになって、祈るために山に登られたことが記されています。そしてその直後に主イエスのお姿が栄光に包まれて輝く出来事が起こるのです。そういうわけで、何か大きな出来事が起こる前、重大な決断をする前、主イエスは寂しい所に退き、多くは山に登って、そこで独り祈りを捧げる時を持っておられるのです。ここでもそうでした。主イエスは独り父なる神に向かって祈られ、これからご自分の身に何が起ころうとしているのかを深く知り、それを御父の御旨として歩んでいくことについて、思いを巡らせておられたのです。ですから祈り終わって弟子たちの下へとやって来た主イエスは、弟子たちからの話しかけを待たずに、ご自分から弟子たちに語りかけられたのです。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」。
弟子たちは今までに群衆たちの中にいて耳にしたことのある主イエスのさまざまな受け止め方を矢継ぎ早に、思いつくままに並べてみました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」。ここに挙げられている人たちは皆、旧約聖書の預言者の伝統に連なっている人々です。イスラエルの民に神の御心を教え示し、その御業を成し遂げる者として将来やって来られる、そういうお方として待ち望まれていた人たちです。ですから洗礼者ヨハネが現れた時も、民衆は「メシアを待ち望んでいて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」(3:15)のです。預言者エリヤも、終わりの時に再び来られると信じられていました。マラキ書にはこのことについて預言されています。「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。 わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように」(マラキ3:23-24)。さらにまた、申命記の中には、主なる神が預言者をお立てになる約束が語られています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」(18:15)。そういう意味では、群衆がこの方はこういう方だ、いやきっとああいうお方だ、とさまざまに言っていることはあながち全くの見当違いだとも言えないのです。それはある面で当たっているところがある。けれども同時にこれらの答はどれも主イエスの真実のお姿をピタリと言い当ててはいないのです。群衆の答えはどれも部分的で、ほんのちょっとかすったものにしかならない。結局はいろんな人がいろんなことを言っているね、ということで終わってしまうのです。その答えははっきりと一つにはならないのです。
3 ところが、弟子たちが並べるいろんな答えを静かにお聞きになった上で、主イエスはなお問われるのです、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いかけは、元の言葉でも「あなたがた」という言葉が強調して書かれています。他の誰でもない、あなたがたはわたしを何者だというのか、主はそう問われておられるのです。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています」、「『エリヤだ』と言う人もいます」、「『昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」、こんな風に、ああ言う人もいる、こういう人もいる、とざまざまに論じ立てることはある意味でとてもたやすいことなのです。自分とは関係のないところで、評論家風に論じることができるからです。自分と関わりのないところでは、人はいろいろなことを言葉巧みに論じることができるのです。自分自身と論じている内容との間には距離があります。何か遠くから見て、眺めまわしながら、あれこれと言葉を付け足している、といった感じになります。それは簡単なことなのです。
けれども主イエスはそのように論じ立てる弟子たちの心の中の深みにある事柄を問題にされる、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ここで問われるのは、自分自身が立っているところです。他の誰でもなく、自分自身がどう受けとめ、どう信じているか、ということです。そこでは人は評論家であってはならない。自分と事柄との間に距離があってはならないのです。この私が主イエスをどう信じるか、それが主イエスのもっともご関心のあることなのです。
4 そこで弟子たちを代表してペトロが答えます、「神からのメシアです」。元の言葉に即して訳すならこうなります、「神のキリストです」。実際、口語訳の聖書はこのように訳しています。キリストはメシア、救い主だ、とここに言い表されていることになります。メシアというのは、「油注がれた者」という意味です。旧約聖書の時代に、王や祭司、預言者が神によって立てられる時、その頭には香油が注がれ、この方は神がイスラエルの民のために立てられた方だ、ということが示されました。その伝統に連なって、神に選ばれ、立てられた者としてあなたは来られたのです、とペトロは告白したのです。しかもただ古の預言者たちと同じような一人の預言者としてこの世に来られたのではありません。この方は神のもとから直接に来られた、神の独り子なのです。神に属し、神から遣わされた者なのです。
このことは、私たち人間の思いの中から直接に導き出されてくることではありません。実際、群衆たちが口にしたような、主イエスについてのさまざまなうわさは、どれも真実の主イエスを言い当ててはおらず、このうわさを耳にしたガリラヤの領主ヘロデは、ただ戸惑うしかなかったのです。「いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」、と半ば怯え、不安を抱くよりほかなかったのです。「いったい何者だろう」と人間が問い、人間が自分の枠組みの中でこのお方をとらえようとする限り、このお方の真実のお姿は見えてまいりません。そのような姿勢であり続ける限り、主イエスご自身のみ声は聞こえてまいりません。後にヘロデが主イエスと裁判の席で出会った時、ヘロデがさまざまに尋問したにも関わらず、主イエスが何もお答えにならなかったのは、このことを示しているのです(23:9)。
ところが弟子たちは今、自分たちが問うのではなく、主イエスご自身から問われているのです、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、と。
5 その時、人間の心の中には思い浮かびもしなかった答えが促され、出てまいります、「神からのメシアです」!これはいつも主のおそばにいることを許され、主の恵みのご支配の中に置かれていたからこそ、弟子たちの口から出た告白です。けれども、おそらくこの時ペトロは、自分がどんなに大変なことを言い表しているのか、十分には分かっていなかったでしょう。信仰の歩みの中では、自分が言い表していることの大きさ、ものすごさが分からないままで実は大変なことを告白している、ということがままあります。今婦人会の火曜グループでは使徒信条の学びをしておりますが、そこで「イエス・キリスト」と私たちが言い表していることの重大さを改めて味わっております。「イエス・キリスト」というのは、苗字と名前をつなぎ合わせた言葉ではありません。「イエス」は当時多くの人々にもつけられていた一般的な名前です。けれども、このナザレ地方に生きたイエスという名の独りのお方が、しかし「キリスト」、救い主、油注がれたお方だ、神からのメシアだ、という信仰を言い表しているのが「イエス・キリスト」という呼び方なのです。この呼びかけそのものが、一つの、もっとも短い信仰告白なのです。そういう意味ではそれを口に上らせる時には畏れと感謝、喜びをもって言い表さなければならない。神の御名を呼ばわるのと同じ重みがあることをわきまえていなければならないのでしょう。
昔、イスラエルの民は、主のみ名をみだりに唱えてはならないことを肝に銘じ、滅多やたらと主の名を口に上らせることをしませんでした。主の御名は四つの文字で表現されていましたが、あまりにも長い間、主の御名を口にしなかったために、この文字をどう発音するのか、イスラエルの民は忘れてしまった、という話があります。それほどの大事でいとおしくて尊いお名前として主の御名を呼んだのです。私たちは今、わりあい気軽にイエス・キリストの御名を呼ぶようになってしまっているかもしれません。一方で主がそのように呼ばわることをわたしたちに向かってよしとしてくださり、主のみ名をもって神に祈り呼ばわることが許されている恵みがあります。けれどもだからこそ、自分たちが呼ばわり、口に出している事柄の大きさ、素晴らしさをいつも思い返し、味わう者でありたいのです。
あの畏れ多く、慕わしい神が今、このキリストにおいてご自身を現し、私どもに出会ってくださっているのです。このキリストにおいて生ける神が働いておられる、神の御旨がこのお方において行われているのです。
6 けれども残念ながら、私たちはすべてを見通してこのことを告白しているのではありません。ペトロを代表とする弟子たちの告白も、なお誤解の中にあったのです。「神からのメシアです」、これと全く同じ言葉が、後にどのように用いられたでしょうか。この福音書の23章34節の後半には、主イエスが人間たちによって十字架につけられる場面が描き出されます。「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい』」。「神からのメシアです」、と言いながら、結局自分のメシアについての理解やイメージを押しつけて、自分の思い通りにならないメシアを軽蔑し、馬鹿にすることを繰り返しながら、平然としている。「もし神からのメシアなら、自分を救ってみろ」、そう叫んでいるのです。そういうあわれな姿を、私たちはいつも神の前にさらしているのではないでしょうか。私は今日の箇所を読むと、なぜか夜に主イエスがお一人で祈っておられる姿を想像します。ここで弟子たちは誰も一緒に祈っていないのです。これは逮捕され十字架にかけられる直前、主イエスがあのオリーブ山で祈られた時の光景ととてもよく似ていないでしょうか。だからあの時と同じ夜の光景がここでも浮かんでくるのです。この場面がすでに弟子たちの無理解を先取りしています。まさに、「物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことを信じられない者たち」(24:26)なのです。主イエスの正体を突き止めようと、私たちが主の十字架の周りを囲んでいる時、自分たちの救い主をけなし、傷つけ、十字架につけて平然としている私たち罪人の姿が明らかになります。主イエスの正体を人間が突き止めようとする時、かえって私ども人間の罪深い現実の姿が明らかになるのです。
マルティン・ルーサー・キングという牧師は、アメリカで黒人解放運動を指導し、霊的で力強い言葉を語りつつ、社会的不正義と向き合った人物ですが、暗殺される直前の夜、有名な説教をしました。「私たちの目の前にはなお越えていかねばならない丘があります。私はおそらく皆さんと一緒にこの丘を越えて向こうに行くことはできないでしょう。けれども私は、皆さんがやがて見ることになるであろう、乳と蜜の流れる土地を、既に丘の上から見渡したのです。だから今は安心して神様に身を任せているのです」。あのネボ山という小高い丘から、イスラエルの民が与えられようとしている豊かな土地をはるかに望みつつ、死を迎えていったモーセに自分をなぞらえ、死を予感する中でこの説教は語られました。主イエスもまた、あのオリーブ山の彼方に何が待っているのかを既に見通しておられます。ゴルゴダの丘、そこに立つ十字架を見据えておられる。弟子たちにはあの山の向こうに何があるのかが分かりません。それゆえにその信仰告白も、自分で何を言っているのか分からないようなものになってしまっています。けれども主イエスはそんな弟子たち、理解のない私どもを見捨てることなく、そばにおき続け、私どもの信仰がなくならないようにと祈ってくださるのです。「私の十字架の死が、罪で心の目が閉ざされているあなたたちのためのものであることを知ってほしい。そして立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、山の向こう側からの声を聞かせてくださるのです。
7 自分が今しがた告白したことの意味さえも分からないでいる、このあわれな私ども、主をイエス・キリストと呼びかけることのできている恵みをすぐに忘れてしまっている私ども、しかしそんな私たどもでしかないのを重々お分かりになりながらも、主は弟子たち、私どもをみ側に置いていてくださるのです。あの夜、主イエスは一緒に祈れない弟子たちを、しかしみ側に置かれながら、父なる神に何を祈っておられたのでしょうか。私はこう思うのです。たしかに主イエスは父なる神が十字架に赴くようにご計画をしておられる、その御心を尋ね求めていたでしょう。けれどもそれと切っても切れない形で、この理解の浅い弟子たちのためにも、執り成し、祈っておられたのだと思うのです。
主の十字架の御苦しみを思うこの時、私どもにはあの夜の主イエスの祈りが聞こえてきます、「父よ、彼らは今は自分たちが何を言っているか分かりません。けれども彼らが『神からのメシアです』と言い表すことで、どれだけ大きな恵みの中におかれているか、彼らがオリーブ山の向こう側、ゴルゴダの丘の十字架、さらにはエマオに至る復活の道を歩む時、本当の意味でこの恵みを深く味わい知ることができますように」。私どもの信仰告白を確かなものとするのは、私どもの確信などではなく、このキリストの執り成しの祈りと十字架、そして死に対する勝利である、復活以外にはないのです。そこに私たちの信仰告白をいまことのものとする確かさがあります。この主イエスの祈りを、私どもの祈りとしつつ、私どもはまた詩編の詩人と声を合わせるのです、「わたしたちではなく、主よ わたしたちではなく あなたの御名こそ、栄え輝きますように あなたの慈しみによって」と!
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、自分がどんなに途方もなく豊かな恵みを信じ告白して歩んでいるのか、自分で分かっていないような、物わかりの悪い私どもであります。さっきあなたに向かって「神からのメシアです」と叫んだかと思えば、次の瞬間には「お前が神からのメシアなら、自分を救ってみるがいい」と罵り叫ぶような許されざる罪を繰り返しているような私どもであります。
それにも関わらず、あなたは私どもをみ側に置いてくださり、祈れない私どものために執り成しの祈りを捧げ、こんな私どもを救うために父なる神が備えたもうた十字架への道を歩み続けてくださいます。どうか十字架と復活の光の中で、私どもが言い表している信仰告白のとてつもない恵み深さを味わい知る者とならせてください。あなたが、私どもの信仰告白を確かなものとしてくださり、あなたが、放っておけば、ばらばらになりかねない、私どもの告白を一つのものとしてくださることに、私どもの唯一の希望と慰めを見出させてください。
神からのメシアなる、主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。