主日礼拝

永遠の命を得る

「永遠の命を得る」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第49章 1節-6節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第13章 42節-52節
・ 讃美歌 ; 11、297、433
・ 奉唱  ; 31

 
神の恵み
 私たちは今、使徒言行録第13章において、パウロとバルナバが、いわゆる第一回伝道旅行において、ピシディア州のアンティオキアという町で神様のみ言葉を宣べ伝えた様子を読んでいます。先週の所には、このアンティオキアのユダヤ人の会堂で、安息日の礼拝においてパウロが語った説教が記されていました。この説教を聞いた人たちは、42節にあるように、「次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼」みました。彼らは、パウロの説教を喜んで聞いたのです。43節にある「集会」は、おそらく次の安息日に行われた集会のことだと思われます。パウロの最初の説教を聞いた人々が友人知人を連れて来て、さらに多くの人々がこの集会に集ったのでしょう。そして集まった人々は、集会が終ってからも、パウロたちについて来て、なおも話を聞きたがったのです。そのように集まって来た人々に二人は、「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」とあります。つまり人々はパウロの説教に、「神の恵み」を聞いたのです。その恵みとはどのようなものだったのでしょうか。

キリストによる義
 先週読んだパウロの説教をもう一度振り返ってみたいと思います。この説教でパウロは先ず、イスラエルの民の歴史を語り、それを貫いている神様の導きを語りました。そしてその導きがダビデ王において一つの大事な約束として与えられたことを語りました。それは、ダビデによって神様の思うところがすべて行われる、という約束でした。その約束は、ダビデ王自身においてではなく、その子孫として生まれた主イエス・キリストにおいて果たされた、というのがこの説教のポイントです。主イエス・キリストは、神様の、イスラエルの民への恵みのみ心をすべて行うためにこの世に来られたのです。しかしエルサレムの人々やその指導者たちは、主イエスを受け入れず、十字架につけて殺してしまいました。けれどもそのことも実は神様の導きのみ手の中に置かれており、それによって預言者たちが語っていた神様の約束が実現したのです。そして神様は主イエスを復活させて下さいました。復活した主イエスは、朽ち果てることのない者となって、今も恵みのみ業をなし続けておられるのです。その恵みとは、私たちの罪を赦し、義として下さるという恵みです。主イエス・キリストの十字架と復活によって自分の罪が贖われ、赦されたことを信じるならば、誰でも皆、義とされるのです。義とされるとは、神様の前に正しい者と見なされ、救われるということです。主イエスを信じるならば、それだけで、罪人であるままで、義とされ、救われる、そういう驚くべき恵みが実現しているとパウロは語ったのです。アンティオキアの会堂に集まっていた人々は、このような神の恵みを、これまで聞いたことがありませんでした。ユダヤ人たちは、神様が彼らに与えて下さった掟、律法を守れば、それによって恵みにあずかり、救われると教えられていました。もともとはユダヤ人でなくても、割礼という儀式を受けてユダヤ教に改宗し、律法を守っていけば救いにあずかれる、とも教えられていました。「神をあがめる改宗者」と43節にあるのは、異邦人でユダヤ教に改宗した人々のことです。しかしパウロの教えによれば、律法を守ることによってでもなく、また割礼を受けていなくても、イエス・キリストを信じるだけで義とされ、救われるのです。彼らは驚きをもってパウロらの語る神の恵みの言葉を聞き、その話をさらに聞きたいと思ったのです。
 44節に「次の安息日になると」とあるのは、43節の集会の次の安息日、つまりパウロらがこの町で伝道を始めてから第三の安息日のことでしょう。その日になると、「ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」とあります。「ほとんど町中の人」というのはいささか誇張でしょうが、しかしここには、ユダヤ人だけでなく、この町に住む異邦人たちも大勢パウロの話を聞きに集まって来たことが伺えます。パウロの語った神の恵みを告げるみ言葉は、ユダヤ人、ユダヤ教徒のみでなく、異邦人たちにも、大きな希望を与えたのです。パウロの語る福音は、ユダヤ人の会堂に集うユダヤ人や改宗者のみでなく、この町の多くの人々の関心を呼び起こしたのです。

ユダヤ人のねたみ
 ところが45節には「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」とあります。このユダヤ人たちは、43節でパウロについて来て話を聞こうとしたユダヤ人とは別の人々なのでしょうか。しかしここにはそういう区別を示す言葉は全くありません。また、次の46節でパウロが「あなたがた」と言っているのも、ユダヤ人一般に対してです。ですからこれは、同じユダヤ人たちが、最初は熱心にパウロの言葉を聞いていたが、突然手のひらを返したように口汚くののしるようになった、ということだと考えられるのです。何故そうなったのでしょうか。その原因は彼らの「ねたみ」だったのです。

福音は誇りを打ち砕く
 ユダヤ人たちのねたみは、一つには、パウロたちが、それまで彼らがとうてい出来なかったほど大勢の異邦人たちを集め、影響を与えている、ということへのやっかみもあったでしょう。しかしもっと大きなことは、パウロが語っていることの内容が、ユダヤ人たちにとって、自分たちこそ神の民であり、救いにあずかる者だ、という誇りを傷つけるものだった、ということなのではないでしょうか。パウロが語った主イエス・キリストの福音は、ユダヤ人たちの伝統であり拠り所、誇りであったモーセの律法によらずに、ただイエス・キリストへの信仰によって、神様の前に義とされ、救われる、ということでした。それはユダヤ人にとっては、それまで救いの外にいると思って見下していた異邦人との区別を取り払われ、自分たちの誇りの拠り所を否定されることだったのです。そのことが、パウロの話を数週間話を聞くうちに次第に明らかになってきたのです。そしてそれが明らかになるにつれて、多くの異邦人たちがパウロのもとに喜んで集うようになってきたのです。そこに彼らのねたみが生まれました。つまりこのねたみは、パウロの語る福音の内容に深く関わっているのです。パウロが宣べ伝えた神の恵みのみ言葉が、ユダヤ人たちの誇りを打ち砕いたのです。パウロが43節でユダヤ人たちに、「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」のはそのためです。主イエス・キリストによる罪の赦しという神様の恵みの下にしっかりと留まり続けることは、実はとても大変なことなのです。多くのユダヤ人たちはこの恵みの下に生き続けることができず、むしろこの恵みによって打ち砕かれ、否定される自分たちの誇り、異邦人と自分たちは違うのだという優越感の下に生き続けようとしたのです。そのために彼らは、最初は喜んで聞いていたはずのパウロの言葉を、口汚くののしってそれに反対するようになったのです。
 このユダヤ人たちの姿は、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みに自分の心を明け渡すことをせずに、自分の中にある自負や誇り、自分の力で救いを獲得しようとする思いに固執し続けている私たちの姿です。主イエスの福音は私たちが持っている自負や誇り、自分の力に依り頼もうとする思いと真っ向から対決し、それらを打ち砕くものです。それゆえに、それが宣べ伝えられるところには、抵抗が、反対し、口汚くののしる思いが必然的に生まれるのです。それはユダヤ人だけに起ることではありません。私たち一人一人の心の中で、これと同じことがいつも起っているのではないでしょうか。神様の恵みを受け、その下に生きるのか、それとも自分の誇りを守ってその下で生きるのか、私たちはそういう二者択一を迫られているのです。

ユダヤ人から異邦人へ
 このようなユダヤ人たちに対して、パウロとバルナバは、勇敢に、46節以下のことを語っていきました。この「勇敢に」という言葉は、4章31節にも出てきていました。そこを読んでみます。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。この「大胆に」というのが、46節の「勇敢に」と同じ言葉です。4章では、信仰者たちは聖霊に満たされたことによって、大胆に神の言葉を語り出しました。パウロらもそれと同じように、聖霊のお働きによって勇敢に神の言葉を語ったのです。それはまさに、人間の思いや意志によっては語り得ない、神様の深いみ心を告げる言葉でした。その言葉を読んでみます。46、47節、「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために』」。ここに語られていることを説明を加えながら語り直せばこういうことになります。神の言葉、それは言い換えれば主イエス・キリストのことです、それは先ずあなたがたユダヤ人に示された。主イエスはユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ人の間で活動し、エルサレムで十字架にかけられ、復活された。この主イエスによる罪の赦しの恵みに真っ先にあずかるべく招かれていたのはあなたがたユダヤ人だ。しかしあなたがたは、自分たちの誇りや自負への固執のゆえにそれを拒み、主イエスの福音に反対している。そのことによってあなたがたは自分自身を永遠の命、即ち神様の救いを得るに値しない者としてしまった。だから神の言葉はこれからは異邦人にもたらされる。異邦人たちが、あなたがたがあずかることのできないでいる救いにあずかっていくのだ。

主による方向転換
 パウロはここで、「わたしたちは異邦人の方に行く」と言っていますが、この方向転換は彼らが勝手に決断したことではありません。それは主なる神様のみ心によることです。そのことが47節の旧約聖書の引用によって示されています。パウロは、「主はわたしたちにこう命じておられるからです」と言って、「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために」という言葉を引用しています。これは本日共に読まれた旧約聖書の個所、イザヤ書49章6節の終わりのところです。このイザヤの言葉は、主なる神様が一人の僕を遣わして、イスラエルの民への救いのみ業を行なわせるのみでなく、彼を国々の人々のための光とし、主の救いを地の果てにまでもたらす者とする、ということを語っています。この言葉は本来、主イエス・キリストのことを預言した言葉だと言うべきでしょう。ルカによる福音書の2章32節には、主イエスが生まれて八日目に両親に連れられてエルサレムの神殿に上った時、シメオンという人が幼な子主イエスを抱いて、この方こそ神様が万民のために整えて下さった救い、異邦人を照らす啓示の光だと語ったとあります。その言葉のもとになっているのがこのイザヤ書の言葉です。異邦人の光、地の果てにまでも救いをもたらす者とは、主イエスのことなのです。パウロがここでその言葉を、自分たちに与えられた使命を語る言葉として引用しているのは、主イエスにおいて実現した、異邦人にも救いの光を輝かし、彼らをもその救いにあずからせて下さるという救いのみ心を告げ知らせる使命を自分たちは与えられている、ということでしょう。ユダヤ人から異邦人への方向転換は、彼らの勝手な決断ではなく、神様のみ心によることなのです。

異邦人の喜び
 この言葉を聞いて異邦人たちは大いに喜びました。48節には「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した」とあります。同じ主イエス・キリストによる罪の赦しの福音を聞きながら、ユダヤ人たちはひどくねたみ、口汚くののしったのに、異邦人たちは、喜びと賛美に満たされたのです。この違いはどこから来るのでしょうか。それは、自分の誇りや自負にあくまでも固執している者と、与えられた神様の恵みをそのまま受け入れ、その下で生きる者との違いです。主イエスの福音が語られる時、人はそのように二つに分けられるのです。それを受け入れ、喜びと賛美に生きる者と、自分の誇りに固執してそれを拒む者とです。先程も申しましたように、私たちはそのどちらの道を歩むのか、二者択一を迫られているのです。

選び・予定の教え
 けれども、ここでもう一つ大事なことを見つめなければなりません。それは、私たちがどちらの道を歩むかということは、単に私たちの選択、決断によることではない、ということです。48節の後半にはこうあります。「そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」。主イエスによる神様の恵みを受け入れ、信じてその救いにあずかることは、永遠の命を得ることです。そのことについては、最後に触れたいと思います。ここで先ず目を引くのは、永遠の命を得るように「定められている」という言葉です。その人は信仰に入った、と言われています。つまり人が信仰に入るのは、救いへと定められているからだ、というのです。誰が定めているのか、それは神様です。神様がある人を救いへと定めておられる、だからその人は信仰に入り、救いにあずかるのだ、とパウロは言っているのです。これは「選び」とか「予定」といわれる教えです。この教えは後に体系化されていくと、神様は永遠の昔から、ある人を救いへ、ある人を滅びへと定めておられるという、いわゆる「二重予定論」へと発展していきました。その元になる教えがここにあるのです。この選びや予定というのは、まことに不可解な、またつまづきに満ちた教えです。生まれる前から神様によって救いか滅びへと定められてしまっているなら、我々が何を努力しても無駄ではないか、それなら救いを求めることも、神様を信じて生きることも一切無意味になるではないか、と感じられてしまうのです。しかし私たちはよく注意してこの個所を読まなければなりません。ここには「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」とだけ語られています。そのように定められていない人は滅びた、とは言われていません。つまりここで見つめられているのは、信仰に入り、救いにあずかることはどのようにして起るのか、ということです。それは私たちが、自分の意志で信じるという決断をするからなのでしょうか。もしそうなら、私たちの救いは、私たちの「信じる決断」にかかっている、ということになります。自分が神様を、主イエスをいかに信じているか、ということによって、救いが左右されるのです。けれども、信じて洗礼を受け、教会に連なっている者たちが誰でも感じているのは、自分は確かにイエス様を信じるという決断をしたけれども、そのような決断ができたのは、神様の導きによることだ、ということではないでしょうか。私たちが信仰者になるのは、全く白紙のところから自分で真理を捜し求め、いろいろな思想や信仰を努力して学び、求め続けてその結果ついに主イエスによる救いという結論に達し、よしこれを信じようと決断した、ということではありません。私たちが教会の礼拝に参加するようになるのは、多くの場合ふとした偶然の出会いによることです。親や家族が信仰者だったとか、キリスト教の学校に入ったとか、友人に誘われたとか、それこそ通りがかってちょっと入ってみようと思ったとか、教会で行われた親族や知人のお葬式に参列したとか、要するに自分で求めたと言うよりもたまたまそういう機会が与えられた、ということが多いのです。それを世間では偶然と言いますが、信仰の目から見ればそれは神様の導きです。自分が何かを意志したり決断するより前に、神様がそのように導いて下さっていたのです。今この礼拝に集っている私たちは皆、そういう神様の導きを受けています。それがなければ、こんな所にはいなかった、信仰を得ることなどなかった、と誰もが思うのではないでしょうか。私なども、たまたま牧師の家庭に生まれ育ったから、こうして信仰者になり、牧師にまでなったけれども、もしそうでなかったならば、果たして教会になど来ただろうか、信仰者になっただろうか、はなはだ疑問だと思っています。私のような者はむしろ、自分の誇りや自負に固執して、神様の恵みや救いなどは軽蔑して、口汚くののしりながら生きていたのではないかと思うのです。まかり間違えば自分は信仰を否定し反対する道に進んでいたかもしれない、そういう思いを持たない信仰者はいないでしょう。私たちが主イエスを信じて救いにあずかることにおいて、私たちの決断の占める部分よりも、神様の導きによる部分の方が実ははるかに大きいのです。パウロの伝道によって信仰に入った異邦人たちの喜びはまさにそこから来ています。我々は神様の民とされているユダヤ人ではない、また、律法を守る生活をしていたわけでもない、神様の救いにあずかるための相応しさなど何もない者だ、そのような自分たちが、主イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しの恵みにあずかり、義とされ、永遠の命を受け継ぐ者とされた。そして逆に、もともと神様の民とされてきたユダヤ人たちが、律法を守り行うことにあんなに熱心な人々が、この救いを否定してののしり、永遠の命にあずかることができずにいる。このことはただひたすら、神様が特別な恵みによって自分たちを選び、救いへと定めて下さったからに他ならないではないか。彼らはその神様の選び、予定を喜び、感謝したのです。つまり選びや予定の教えは、どうせ神様によってあらかじめ決められているなら我々が何をしても仕方がない、というなげやりな姿勢やあきらめを生むものではなくて、神様が自分のような者をも救いへと定め、導いて下さったことを感謝し、喜び、主を賛美しつつ生きる、そういう信仰生活を生むものなのです。

永遠の命を得る
 神様は主イエス・キリストによって私たちに、永遠の命を与えようと、私たちを定め、導いて下さっています。主イエスの救いにあずかり、罪の赦しの恵みを与えられ、義とされることは、永遠の命を得ることです。46節にも、主イエスを拒んだユダヤ人たちが、それによって自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている、と語られています。しかし永遠の命を得ると言われても、私たちにはなかなかピンと来ません。永遠の命と不老不死は違うということは、パウロにしても、パウロの説教を聞いて信じた人々にしても、今も生きている人は一人もいないことから明らかです。人間の地上の命は決して永遠ではないのです。それでは永遠の命とは、肉体は死んでも魂が永遠に生き続けるということだろうか、あるいは何か別の形でこの世における命が続いていくということだろうか、そのようにいろいろ考えてみても分からないし、かえって、この苦しみ多い世界に永遠になんか生きていたくない、永遠の命などいらない、と思うこともあるでしょう。永遠の命は、私たちが今のこの命を無限に延長していくことによって分かるものではないのです。永遠の命を得る、ということを正しく見つめることができるところはただ一つです。それは主イエス・キリストです。神様が、主イエスを死者の中から復活させ、先週読んだ34節の言葉によれば、もはや朽ち果てることがないようになさった、そこにこそ、私たちが永遠の命を正しく見つめることができる場があるのです。主イエスの復活において、神様は、私たちの罪と、そして私たちの人生を最終的に支配しているように見える死の力とを、打ち破って下さいました。神様の恵みが、罪と死に勝利したのです。そこに永遠の命があります。永遠の命は、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活してもはや朽ち果てることのない新しい命、罪と死に打ち勝った命と体をもって今も生きてみ業をなしておられる主イエス・キリストに結びつけられ、主イエスと共に生きる者とされるところに与えられるのです。それゆえに、主イエスを信じ、その救いにあずかるなら、私たちは今この人生において、永遠の命を生き始めることができるのです。そしてその永遠の命を生きる者は、この人生において神様の恵みの下に生き続けることができるし、肉体の死においても、なお神様の恵みの下に生き続けることができるのです。そして世の終わりに、主イエスがもう一度来られ、神様のご支配が完成する時には、主イエスと同じ永遠の命を生きる者とされるのです。今主イエスと結び合って生きている者は、終わりの日にも主イエスと結び合って生きることができるのです。それがどのような命なのか、今私たちにははっきりとは分かりませんけれども、しかし主イエスと同じ命に生かされる希望を与えられているのです。この永遠の命は、ただ主イエス・キリストを信じ、その十字架と復活によって私たちの全ての罪が赦されたことを信じて受け入れることによって与えられます。神様は私たちを、その永遠の命を得るようにと定めて、この礼拝に招き導いて下さっているのです。私たちがたとえどのような罪や汚れの中にあっても、それによって永遠の命を得るに値しない者となることはありません。何故なら私たちは皆もともとそれに値しない者だからです。その私たちが、神様の恵みによる選びによって救いにあずかるのです。もしも私たちが永遠の命を得るに値しない者になってしまうとしたら、それは、あのユダヤ人たちと同じように、主イエスによって実現した神様の恵みのみ言葉を拒み否定することによってです。しかし彼らもまた、み言葉を信じて受け入れるならば、永遠の命にあずかることができるのです。私たちの前に置かれている二者択一もこれと同じです。主イエス・キリスト抜きに、自分の力で何とかしようとする、実はちっぽけなつまらない誇りや自負にこだわることをやめて、神様の選びの恵みを受け入れ、喜びと賛美に生きる者となりたいのです。

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