夕礼拝

選ばれた人たちへ

「選ばれた人たちへ」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第90編1-17節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第1章1節
・ 讃美歌 : 432、359

選ばれた者たちへ
本日より、夕礼拝において共にペトロの手紙第1を通して神の御言葉を聞きたいと思います。本日の箇所はその手紙の冒頭の書き出しの部分です。
手紙の最初には差出人と宛て先が記されております。差出人はイエス・キリストの使徒ペトロから、ある地域の各地へ離散して仮住まいしている選ばれた人たちへ、とあります。ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアという、これらの地域にある選ばれた人たちへ手紙を書いたのです。 キリスト者、信仰者とは神によって選び出された者であると言えるのではないでしょうか。イエス・キリストを救い主として信じている即ちキリスト者、信仰者と言うのは、聖書の語る御言葉の上に、その存在と生活とを成立させております。私たちは自分の自由で、自分の意志で教会に来た、と思うかもしれません。または、自分の中に何か問題があって、教会に来たら何か解決の糸口があるのではないか、あるいは、学校のレポートなどで来る必要があったなどと、自分の側に教会へ来る必要があったから、教会へ来たと言えるかもしれません。信仰を求めるようになったとしても、それは自分が信仰を求めるようになったものと思っているかもしれません。そのように自分の側に、人間の側に主体性があるのではないでしょうか。
しかし主イエス・キリストとの出会いによって救われるというのは、自分に何かその意志があって救われるのではないのです。それは神様の一方的な選びによるものであります。神さまがこの人を救おう、信じる者となさろうとする、特別の選びをもって、救いへの道へと招いて下さるのです。周囲を見回すと、自分よりも立派な人、教会に相応しいと思われる人がいくらでもいるのに、自分がキリスト者、信仰者として招かれている。この事実は、多くの人の中から神様が特別の意志でもって選び出して下さったということです。
私たちが何かを進めるときに、まず計画を立てます。神様が何かをなさるときも、初めから変わるのことのない、動くことのない、神様自身の意志でご自分が定めた計画でなさるのです。神様の計画の実行は初めから、特別にお定めになった御心によるものなのです。私たちが、信仰者としてキリスト者として、イエス・キリストを信じる者とされる、それは神様の意志でもって、そのような者としてお選びになるという事です。人間の側が、自分が希望したことではなく、全てを神様が定めて下さる、神様の選びの中で、私たちは生きているのです。これが聖書に基づく信仰です。
ある人がこのようなことを言っております。神が選んで下さると言うことによって、人間は初めて、本当の人間(人格)になるということです。神様の選び、そこには神の愛が示されております。神様の選びによって、この世での命を与えられ、この世に生を受け歩んでいる。
先ほど、詩編90編をお読みしました、モーセの祈りの歌です。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神。」この詩人は、人の世が生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。」とあります。永遠なる神様が、私たちの支配者であるということです。私たちはこの世に生を受け、それぞれの理由で、今この時礼拝に与っております。そこには、様々な事情ありますが、この時を神様が私たちに与えて下さったということです。
このペトロからの手紙を受けた人々は、神から選ばれたことを深く信じている人々であります。神さまによって選ばれた人々、その意味では、私たちを含めたすべてのキリスト者に与えられた手紙であります。

使徒ペトロから
この手紙の著者は、差出人はイエス・キリストの使徒ペトロになっております。使徒ペトロによって書かれた、神のまことの恵みを証しを記した手紙です。「使徒」とは、イエス・キリストをはっきりと目で見た人、イエス・キリストの言葉をじかに聞いた人です。そのような意味で「使徒」と言うのは限られた人たちです。ペトロは自分のことを「イエス・キリストの使徒」と呼んでいます。イエス・キリストの使徒となるまでの、ペトロは普通の生活をしておりました。イエス・キリストとの出会いはペトロにとってその人生を大きく変える存在となったのです。イエス・キリストと出会うまでは、ガリラヤ湖のほとりで、漁師として生活しておりました。そして、ある日突然、主イエスに「私について来なさい。人間をとる漁師にしょう。」と声をかけられ、その招きに応えて、自分の仕事、生活を捨てて主イエスに従ったのです。主イエスを信じる者となり、従ったのです。この人のことなら信じられると従ったのでしょう。
主イエスを信じるということは、自分の全生活を持って信じることです。信じた人の生活が、価値観が根本的に変わると言うことでしょう。ペトロは主イエス・キリストを信じ、従うということが、どのようなことであるのかを、私たちに示しております。
ペトロは、主イエスを救い主として言い表すことについての第1番目の人になったのです。主イエスは弟子たちとフィリポ・カイサリア地方に行った際に、主イエスは弟子達にお尋ねになったのです。主イエスはご自分のことについて、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と弟子達に問われました。弟子たちは、主イエスのことを世間の人の評判であった「洗礼者ヨハネである、エリヤだ、またはエレミヤ」であるといいました。けれども、ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるのです。口語訳聖書では、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とペトロは答えたのです。それは、ここでペトロが告白した信仰は、このイエスこそ、神が与えた、救い主である、と言うことです。主イエスは、自分がこれから苦しみにあい、十字架において死ななければならないという、受難の予告を弟子たちにしました。けれどもペトロはイエスに対して「そのようなことは言ってはいけない」といさめるのです。このようなペトロの姿も人間の罪の姿です。主イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかるということが分からない、その道を妨げようとする人間の姿です。ペトロに対して、主イエスが「サタンよ、引き下がれ、」と言われたということは、これがどんなに重要であったかを意味します。
ペトロが、キリストの十字架の予告に「そのようなことを言ってはいけない」としたのには、主イエスが苦しみを受けるということがとても考えられなかったのでしょう。
主イエス・キリストによって声をかけられ、主イエスを信じる者とされたペトロも主イエスが十字架にかかり殺されるということについては、信じきることができなかったと言えます。そのペトロが書いた手紙が本日の箇所であります。ペトロは最後まで主イエスを信じきることができなかった、従いきれなかったのですが、復活の主イエスとの出会いによって、使徒とされるのです。主イエス・キリストから直接、招き、召しを受け、その働きを認められる使徒となったのです。主イエスから、「私の羊を飼いなさい」と言われたのです。私の、主イエスのものであった人々を、あなたに委ねると、私の子ども達をあなたに委ねとしたのです。漁師の出身であり、弱さのゆえに主を裏切る行為を繰り返しつつも、その都度立ち直ったペトロは「使徒」とされたのです。ペトロは神様から、使徒として選ばれた者であると言えます。

ペトロの弱さ
ペトロはこの手紙に自分自身の経験も重ね、励ましの手紙を送るのです。その地域はポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地の教会、小アジアの教会で、これらの教会に離散している、仮住まいの選ばれた人たちへ、手紙を書くのです。
この「離散して仮住まいをしている」と言うのは、以前の口語訳聖書では、「離散し寄留している人たち」とあります。「離散している」というのは、「ディアスポラ」というのです。元々はユダヤの人々が自分の国であるユダヤの国を離れて、様々な理由がありますが、他の国へ行って生活をしている、その状態を呼んだものが、「ディアスポラ」の意味です。各地に散って生きているユダヤ人たちの姿を表す言葉です。「仮住まいをしている」「寄留している」というのは、自分の本来の住処ではない場所に住むことです。ペトロは、「自分の本来の居場所ではない住処に住んでいる、選ばれた人たちへ」へと宛て先を記しております。

仮住まいをしている、選ばれた人たちへ
ペトロはこの地域にある教会にいる者たち、キリスト者を「選ばれた人たち」と呼んでおります。エレクトスという語で、もとは多くの民族から選び分けられて、神の祝福にあずかる者とされた民族、すなわち、神の選民、選らばれた民としてのユダヤ人を指しておりました。ペトロはこの選びを、キリスト者たちを指す言葉として用いたのです。キリスト者は神様の恵みによって、神様のご意志によって、神様に選ばれ、主イエス・キリストとの出会いを与えられたのです。キリスト者、すなわち救われた者へペトロは手紙を出しているのです。「選ぶ」という言葉は、「引き抜く」という意味があります。信仰を持つということは、グイッと引き抜かれる、根源から引き抜かれることであります。
小アジアの各地において「仮住まい」をしている者たちに対してペトロは、選ばれた人たちへと宛名を付しております。「仮住まい」というのは自分の本来の居場所ではない住処にいるということです。仮の住まい、本当の住まいではない場所に住んでいるということです。それは、この小アジアの各地の教会にいる人々が現在の生活を仮の住まいとしている、この世での生活は仮の住まいであり、寄留者であるということです。それは、自分たちの本来の住まい、本来の居場所というものを知っているからであります。教会に連なる者たちは、永遠なる神を信じているのです。私たちは創造者によって創造された地上に生きている、限りある地上での時間を過ごしているのです。けれども、単に生きているのではなく、そこには本日の箇所の次の2節にあるように「父である神があらかじめ立てられた計画に基づいて」いるのです。あらかじめ立てられた計画、神様の永遠なる意志であります。永遠の初めから、私たちを知っておられた神の選びによって信仰を与えられた、神の選びによるものであり、人間の側にはその原因はなく、神様の御心にあるということです。この世の限りのあるもの、目に見えるものを信じているのではありません。ここで注意したいのは、それは信仰者はこの世の生活をないがしろにしても良いというわけではありません。人間が人間として、本当に人間として生きるために従うべき方は、永遠なる神様であるということです。この世を仮住まいとしている私たちの本籍は天にあるのです。この世は、罪深い人間の集まる場所です。この世で生きていくと言うことは、限りのある人間が限りのある生を生きている限りのある場所です。

選ばれて
主イエス・キリストを信じ、この世を歩むと言うのは自分の立つべき場所、本来の住処を知っています。神によって選ばれた者であるということは、自分の立つべき場所、本来の住処が主イエス・キリストであると知っているからです。信仰者とは、神様の一方的恵みによる選びによって、信仰の与えられたのです。私たちは、その選びに感謝して、応答するのです。この群れに多くの仲間が集えるように、神さまの大きな業に小さなお手伝いをするのです。弱さのゆえに、主イエスを裏切ったペトロが、復活のキリストとの出会いによって変えられた一人です。ペトロは自分が本当に信じる方が誰なのか、自分を使徒とされた方がどのような方であるのかを本当に知り、信じたのです。そのお方は永遠の住まい、本当の住処、安心して身を横たえることのできる場所は主イエス・キリストであると信じたのです。その事実こそ、神様から与えられた選びの現われです。私たちが先立って選ばれたのは、後に続くものたちのためであります。それは、教会が自ら受けたイエス・キリストにある選びとまだ選ばれていない人々に証をする証人として奉仕を自由に喜んですることのみが与えられているのです。

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