説教「あの方は復活なさった」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 詩編第30編1-13節
新約聖書 ルカによる福音書第23章56b-第24章12節
主イエスの復活を信じられない人たち
先週、私たちはイースターを迎えました。イースター礼拝で私たちは、十字架で死なれた主イエス・キリストが三日目に復活されたことを覚えて、喜び祝ったのです。その私たちに、この夕べ、ルカによる福音書が記す主イエスのご復活の箇所が与えられています。私たちはこれまで受難節を歩みながら、この夕礼拝ではルカ福音書が語る主イエスの十字架の場面を一つひとつ読み進めてきました。そして本日、イースターの翌週に、主イエスの復活の場面を読もうとしています。改めてルカ福音書が語るイースターの出来事に目を向けていきたいのです。そこで私たちは主イエスの復活をなかなか信じられない人たちに出会います。科学が発展した現代だから、主イエスの復活を信じることができないのではありません。2000年前も、主イエスが復活されたそのときも、簡単に信じられたわけではありませんでした。昔も今も、主イエスの復活は人々を躓かせるものなのです。私たちも先週イースターを迎えましたが、それだけで主イエスの復活を信じる信仰が確かなものとされたわけではないでしょう。イースター礼拝から遣わされたこの一週間の歩みを振り返っても、私たちは主イエスの復活を信じる信仰に堅く立ち、復活されて今も生きて働かれる主イエスに信頼して歩むよりも、むしろ主イエスを見失っていたのではないでしょうか。ルカ福音書が語る主イエスの復活を信じられない人たちの姿は、私たちの姿でもあると思うのです。
主イエスと一緒にガリラヤから来た女性たち
1節に「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」とあります。これだけ読むと文章の主語が示されていないので、誰が香料を持って墓に行ったのか分かりませんが、少し前の23章55節に「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」とあり、これが1節の主語になります。この女性たちは、10節によれば、「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」です。彼女たちについては、すでに8章1節以下で語られていました。主イエスがまだガリラヤの町や村を巡って福音を告げ知らせていたとき、十二人の弟子だけでなく、この女性たちも主イエスに同行していたのです。8章3節の後半には、「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」とあります。主イエスがガリラヤで伝道されていたときから、彼女たちは自分の持ち物を献げて、主イエスに仕え、奉仕していたのです。その後、主イエスがガリラヤからエルサレムに向かわれると、彼女たちも、十二人の弟子と一緒に主イエスに従いました。そして彼女たちは、主イエスの十字架の死にも立ち会います。23章49節には「ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」とあります。彼女たちは遠く離れて立ち、主イエスの十字架の死を見ていたのです。主イエスが死なれた後も、彼女たちはそこに留まりました。するとアリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を引き取り、その遺体を墓に納めました。55、56節ではこのように言われています。「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」。女性たちは、主イエスが十字架で死なれたのを見ただけでなく、ヨセフの手で主イエスの遺体が墓に葬られたことも見届けたのです。
安息日に
十字架の死と葬りを目撃することを通して、彼女たちは主イエスが確かに死なれ、もう生きていないことを思い知らされました。その深い悲しみと喪失感を抱えつつ、彼女たちは家に帰り、香料と香油を準備したのです。本日の聖書箇所は56節の後半からとしましたが、そこには「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ」とあります。律法には安息日にはいかなる仕事もしてはならない、と定められていました。ユダヤ教では土曜日が安息日ですから、女性たちは金曜日に主イエスの死と葬りを見届け、安息日の土曜日に、律法の定めに従って働きを休みました。しかし働きは休めたとしても、彼女たちの心はまったく休まらなかったでしょう。主イエスの死を思うと、色々な感情が襲ってきたと思います。悲しみや嘆きはますます深まり、喪失感と共に無力感も覚えたのではないでしょうか。主イエスが死んで、葬られてしまった以上、彼女たちに出来ることは何もなかったからです。ガリラヤにいた時から主イエスに奉仕してきたけれど、もう出来ることは何もない、と思わないわけにはいかなかったのです。安息日でなければ、忙しく働くことで気持ちが紛れたかもしれません。しかし気を紛らわすこともできず、安息日の土曜日に、彼女たちは繰り返し主イエスの死を思い、悲しみと嘆きを深め、喪失感と無力感を抱え、あきらめに支配されて過ごしたのです。
日曜日を喜んで迎えられない
先週、私たちはどのような思いの中でイースターを迎えたでしょうか。いえ、なにもイースターだけ、教会はキリストの復活を祝っているのではありません。キリストが甦られた日曜日に、毎週私たちが礼拝を行っているのは、キリストの復活を記念するためです。ですから毎週日曜日は「ミニ・イースター」と言えます。その毎週の日曜日を、私たちはどのような思いで迎えているでしょうか。もちろん一人ひとり違うと思います。しかし私たちは、キリストの復活を喜び祝おうという思いを持って、日曜日を迎えることがなかなかできないのではないでしょうか。むしろ日々の生活における悩みや疲労を抱え、様々な感情に翻弄されながら、時には暗澹たる思いで、時には身体を引きずるようにして、礼拝に来るのです。そのように日曜日を迎えるのは、キリスト者としてふさわしくない、と言ったほうがよいのでしょうか。必ずしもそうとは言えない、と私は思います。なぜなら最初のイースターに、あの女性たちは、まさに悲嘆に暮れて、喪失感と無力感を抱え、暗澹たる思いで日曜日の朝を迎えたに違いないからです。最初のイースターの朝を、喜んで迎えた者などいなかった。イースターの出来事は、その朝を喜んで迎えられた人たちのためではなく、むしろ悲しみ、あきらめ、絶望して迎えるしかなかった人たちのために起こったのです。そうであれば私たちも日曜日を喜んで迎えることができなくてもよい。元気に教会に来ることができなくてもよい。様々な感情に翻弄され、悩みや疲労を抱え、あきらめに支配され、希望が持てない中で日曜日を迎えてもよいのです。
最後の奉仕
さてこの女性たちは、週の初めの日、つまり日曜日を迎え、その明け方早くに、準備していた香料と香油を持って、主イエスのご遺体が納められた墓に向かいました。主イエスが死んで葬られた以上、彼女たちに出来ることは何もなかった、とお話ししました。しかし実は、一つだけありました。それは、主イエスの遺体に香油を塗り、香料を添えて、もう一度、墓に納めることです。アリマタヤのヨセフは、安息日が始まろうとしていたので、主イエスの遺体を丁寧に埋葬することができませんでした。それを見ていた彼女たちは、安息日が終わったら、主イエスの遺体を埋葬し直そうと思っていたのです。それは、彼女たちにとって主イエスのためにできる最後の奉仕でした。主イエスのためというより、彼女たち自身のためであったと言ったほうがよいかもしれません。最後の奉仕を通して、主イエスを葬ることを通して、主イエスの死をしっかり受け入れ、主イエスとお別れをすることで、豊かな慰めを与えられるはずだったのです。
途方に暮れる
ところが墓を塞いでいた石がわきに転がしてあるのを、彼女たちは見つけます。墓の中に入ってみると、そこに主イエスの遺体が見当たりませんでした。彼女たちは、主イエスの遺体が盗まれた、と思ったかもしれません。しかしどこを捜したら良いのか皆目見当がつきませんでした。誰が、なぜ、どこへ主イエスの遺体を持ち去ったのか分からなくて、「途方に暮れて」しまったのです。それだけではありません。主イエスの遺体が取り去られたことは、彼女たちにとって、主イエスのためにできる最後の奉仕が奪われてしまった、ということでもあります。彼女たちは最後の奉仕を通して、慰めを与えられ、新しく歩み始めようと願っていたはずです。それなのにその機会が失われてしまった。そのことにも「途方に暮れて」しまったのです。彼女たちは空の墓を見て、これからどうしたら良いのか分からず、ただ途方に暮れるしかなかったのです。
空の墓を見ても
少し前になりますが主イエスが墓に葬られた箇所の説教で、主イエスが墓に葬れたことは、主イエスが本当に死なれたことを見つめている、とお話ししました。ですからその墓が空であったことは、主イエスが死から甦られたことを見つめているのです。しかしこの女性たちの姿が示しているのは、墓が空であることを見たからと言って、主イエスの復活を信じられるわけではない、ということです。私たちはこのことを不思議に思います。先ほどお話ししたように彼女たちはガリラヤから主イエスに従って来ました。その歩みの中で、主イエスは十二人の弟子だけでなく彼女たちにも、ご自分が十字架で死なれ、三日目に復活することになっている、と繰り返し伝えてきました。それなのに彼女たちは墓が空であることを見たとき、主イエスが復活されたとは思いもしなかったのです。なぜ彼女たちは空の墓を見て、主イエスの復活を思い浮かべることすらしなかったのでしょうか。どうしたら彼女たちは主イエスの復活を信じられるのでしょうか。
なぜ、死者の中に捜すのか
女性たちが途方に暮れていると、「輝く衣を着た二人の人」が、つまり主の使いが現れました。途方に暮れるしかない彼女たちの現実のただ中に、神様が主の使いを遣わして介入してくださったのです。恐れて地に顔を伏せる女性たちに、主の使いは言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」とは、「あなたがたは間違ったところを捜している、見当違いのところを捜している」ということです。主イエスの死と葬りを目撃した彼女たちにとって、死は圧倒的な力を持っていました。死の力に支配されていたから、彼女たちは主イエスの遺体にばかり心を向けていたのです。主イエスの遺体を埋葬し直そうとしたのも、その遺体が墓の中に見当たらずに途方に暮れたのも、彼女たちが主イエスを死者の中に捜していたからにほかならないのです。
しかし主イエスは死者の中にはおられません。「ここにはおられない」とは、墓の中におられない、ということだけを意味するのではありません。死の力の支配の下にはいない、ということです。主イエスは十字架で死なれ、墓に葬られ、死の力の支配の下に置かれました。しかし神様は死の力を滅ぼして、主イエスを復活させてくださいました。もはや主イエスは死の力の支配の下にいるのではなく、復活されて新しい命、永遠の命を生きておられるのです。「生きておられる方」とは、私たちと同じように地上の生涯を生きている方という意味ではありません。そうであれば主イエスは復活されて、しばらく地上を生きられたけれど、何十年後かには死なれた、ということになります。しかしそうではありません。「生きておられる方」とは、地上の生涯において必ず終わりを迎える命を生きているということではなく、永遠の命を生きておられる、ということなのです。彼女たちが捜すべきところは墓穴ではありません。死者の中ではありません。彼女たちが捜すべきなのは主イエスの遺体ではなく、復活されて永遠の命を生きておられる主イエスなのです。
主イエスの言葉
「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と告げられて、女性たちは主イエスの復活を信じられたのでしょうか。主イエスの遺体に目を向けるのではなく、また自分の悲しみ、喪失感や無力感に心を奪われるのでもなく、復活されて永遠の命を生きておられる主イエスに心を向けられたのでしょうか。そうではなかったと思います。彼女たちは信じられたわけではなかったのです。だからこそ主の使いは続けてこのように言いました。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。主イエスはガリラヤにいたとき、この女性たちにもこのように言われていました。9章22節です。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。主の使いは、この主イエスの言葉を思い出しなさい、と言ったのです。主イエスの言葉は「人の子は必ず」で始まり、「なっている」で終わっています。主の使いも同じように言っています。この「必ず…なっている」というのは、神のご意志、神のご計画を示しています。主イエスの言葉を思い出しなさいとは、「主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活する」という神のご意志、神のご計画をも思い出しなさい、ということなのです。
思い出す
主の使いに「思い出しなさい」と言われて、「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」と、8節で語られています。この「思い出す」という言葉は、ルカ福音書のキーワードと言ってよいと思います。イースターの出来事において、主イエスの復活の場面で、この「思い出す」という言葉を使っているのはルカ福音書だけだからです。「思い出す」というのは、日本語では、忘れていたことを思い出すというニュアンスが強いと思います。しかしここで「思い出す」とは、単に忘れていた主イエスの言葉を、「イエス様もそんなことを言っていたな」と思い出すことでも、懐かしむことでもありません。そうではなく、かつて主イエスが語った言葉を、今の自分たちに語りかけられている言葉として想い起こすということです。別の言い方をすれば、今、自分が体験していることの本当の意味を、かつて主イエスが語った言葉によって分かる、ということなのです。彼女たちが目の当たりにしたのは、空の墓でした。しかし彼女たちは主イエスの言葉を想い起こすことによって、その空の墓の本当の意味に気づかされました。空の墓が主イエスの復活を証言している、と気づかされたのです。主イエスの言葉を想い起こすことによって、彼女たちは自分が体験していることの本当の意味に気づかされ、死の圧倒的な力から解放され、復活されて永遠の命を生きておられる主イエスへと心を向けることができたのです。自分の悲しみ、喪失感や無力感から解放されて、主イエスの復活に目を向けることができたのです。それは彼女たちが自分の力で主イエスの言葉を想い起こしたというより、主イエスの言葉が彼女たちに働きかけた、ということです。彼女たちは自分の力で主イエスの復活に目を向けられたのではありません。主イエスの遺体が取り去られて途方に暮れていたけれど、自分で気持ちを整理して主イエスの復活を信じた、ということではないのです。そうではなく主イエスの言葉によって、主イエスの復活を信じる者へと変えられました。主イエスの言葉を聞くことによって、しかもそれを自分に語りかけられている言葉として聞くことによって、主イエスの復活を信じる者へと変えられ、主イエスの復活の喜びに満たされたのです。
礼拝で主イエスの言葉を聞くことによって
私たちも同じです。確かに私たちはこの女性たちと異なり、地上を歩まれた主イエスと共にいたわけでもなければ、主イエスの言葉を直接聞いたわけでもありません。しかし私たちは毎週の礼拝で主イエスの言葉を聞いています。私たちもこの主イエスの言葉を聞くことによって、主イエスの復活を信じる信仰を起こされていくのです。ただイースターを迎えただけで、主イエスの復活を信じることができるわけではありません。あるいは墓が空であったと知ることによって、つまり知識によって信じることができるわけでもありません。礼拝で主イエスの言葉を聞くことによって、復活を信じる信仰が与えられるのです。それは、ただ主イエスの言葉を聞けば良いということではありません。毎週の礼拝で、主イエスの十字架と復活による救いが告げ知らされていますが、それを聞いても右から左に通り抜けてしまうこともあります。自分に語りかけられていることとして聞けていないからです。ただ聞くだけではなくて、自分に語りかけられていることとして、自分に関わることとして聞き、ほかならぬ自分のために主イエスが十字架で死んで、復活されたと知らされることによって、復活を信じる信仰が起こされていくのです。主イエスの言葉を「思い出す」とは、私たちが自分に関わることとして、主イエスの言葉を、その十字架と復活を想い起こすことにほかならないのです。
今も生きて働かれる主イエスに信頼して
私たちは日々の生活における悩みや疲労を抱えて、また様々な感情に翻弄されながら日曜日を迎えます。前日まで、復活して今も生きて働かれる主イエスに信頼するよりも、主イエスを見失って歩んできた中で、日曜日の朝を迎えることもあります。しかしそのような私たちが、礼拝において主イエスの言葉を聞くことによって、私たちのために十字架で死なれ、復活して、今も永遠の命を生きておられる主イエスを信じる信仰を新たにされ、その主イエスに信頼して歩むよう導かれるのです。共に読まれた詩編30編6節の後半には、「泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」とあります。「泣きながら夜を過ごす」私たちに、礼拝で与えられる主イエスの言葉によって、「喜びの歌」が与えられます。様々な感情に翻弄され、悩みや疲労を抱え、あきらめに支配され、希望を持てない中で日曜日を迎えたとしても、私たちは主イエスの言葉を想い起こすことによって、自分のために主イエスが十字架で死んで、復活されたことを想い起こすことによって、「喜びの歌」を与えられ、救いの喜びに満たされ、癒しと力と励ましを与えられ、希望を与えられるのです。復活され今も生きて働かれ、私たちと共にいてくださる主イエスに信頼し、委ねて生きるところに、悩みや苦しみにとらわれて生きることからの解放が、あるいは様々な感情に翻弄されて生きることからの解放が与えられていきます。それは、必ずしも悩みや苦しみそのものが無くなることではありません。しかし私たちは悩みや苦しみに支配されて途方に暮れるのではなく、その悩みや苦しみを今も生きて働かれる主イエスに委ねて生きることができるのです。主イエスが私たちの悩みや苦しみを共に担ってくださると信じて生きることができるのです。
あの方は復活なさった
主イエスの言葉を思い出した女性たちは、墓から帰ると、「十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」とあります。10節の後半にも「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話した」とあります。この「話した」は、一回だけ話したということではありません。彼女たちは使徒たちに、「あの方は復活なさった」と繰り返し話し続けた、証しし続けたのです。もしかしたら、マグダラのマリアとヨハナとヤコブの母マリアが、入れ替わり立ち替わり使徒たちに「あの方は復活なさった」と伝えたのかもしれません。彼女たちは主イエスの言葉を想い起こすことによって、主イエスの復活を信じる者へと変えられ、そして主イエスの復活を証しする者とされました。私たちも礼拝で主イエスの言葉を聞き、想い起こすことによって、主イエスの復活を信じる信仰を新たにされ、強められ、そしてその主イエスの復活を証しする者として遣わされていきます。遣わされた先で、私たちは今も生きて働かれる主イエスを証ししていくのです。すぐに信じてもらえるわけではないでしょう。使徒たちも女性の話を聞いて「たわ言のように」思ったのです。しかし私たちはそれでも主イエスを証しし続けます。「あの方は復活なさった」と繰り返し証ししていきます。言葉によって、あるいは言葉によらずに証ししていくのです。泣きながら過ごすしかなかった私たちが、主イエスの十字架と復活によって救われ、その救いの喜びに満たされ生かされているからです。悩みや苦しみに、様々な感情にとらわれて生きることから解放され、復活して今も生きておられる主イエスに信頼し、委ねて生きているからです。私たちはこの救いの喜びを、「あの方は復活なさった」と証しせずにはいられないのです。