主日礼拝

祈る教会

「祈る教会」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第115編 1節-18節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第12章 1節-25節
・ 讃美歌 ; 22、132、392
・ 奉唱  ; 46

ヘロデによる迫害
 使徒言行録第12章は、使徒言行録の中でも、とりわけスリルとサスペンスに満ちた章です。ここには、ヘロデ王による教会への迫害の様子、使徒ペトロの投獄、そしてそのペトロが主の天使によって奇跡的に救い出されたこと、そして今度は、教会を迫害していたヘロデ王が、主の天使によって撃ち倒され、死んだことが語られています。初代の教会を襲った大きな危機と、神様の力強いみ手による守りが語られているのです。この12章の、まるで映画を見るような、スリル満点の物語を通して、神様のみ業がどのように前進していくのかを見つめていきたいと思います。
 1節に「ヘロデ王」とありますが、この人は、ヘロデ・アグリッパ・世といって、ローマ皇帝クラウディウスの後ろ楯によって紀元41年からユダヤの王となった人です。クリスマスの物語に出てくるあのヘロデ大王の孫で、主イエスが活動なさった時代にガリラヤの領主だったヘロデ・アンティパスの甥に当たります。新約聖書には「ヘロデ王」と呼ばれる人が三人出てきますが、それぞれ別の人ですので注意しなければなりません。ちなみに、使徒言行録の25、26章に、「アグリッパ王」が出てきますが、この人は本日のヘロデ・アグリッパ・世の息子です。彼らは皆、ヘロデ王家に連なる人々ですが、彼らがユダヤを支配することができたのは、ローマ帝国の後ろ楯によることです。そもそもこのヘロデ家の出身は、ユダヤの南のイドマヤ地方です。イドマヤという呼び方は旧約聖書に出て来るエドムから来ており、エドム人の子孫です。つまり彼らは純粋なユダヤ人ではないわけで、そういう一族が、ローマ帝国の力によって王となっているわけですから、ユダヤ人たちからは、ユダヤを治める正統な王家としては認められていませんでした。それゆえにヘロデ王家は代々、なんとかユダヤ人たちの支持を得ようと努力してきたのです。あのヘロデ大王が、エルサレム神殿を何十年もの歳月を費やして壮麗なものに改築したのも、そのためでした。本日の個所に出て来るヘロデ・アグリッパ・世も同じ課題を負っていたのです。彼がキリスト教会への迫害を始めたのはそのためでした。1~3節の、ヘロデによる迫害の事情がそのことを語っています。ステファノの殉教とそれをきっかけにして自然発生的に起った迫害において、新しく興ってきたキリスト教徒たちが、律法を守らず、神殿を冒涜している、という思いが、ファリサイ派を中心にユダヤ人たちの間に広まっていました。そのようなユダヤ人たちの様子を察知したヘロデは、王としての権力をもって教会の迫害を始め、2節にあるように、ヨハネの兄弟ヤコブを処刑したのです。このヤコブは、主イエスの十二人の弟子の一人、ゼベダイの子ヤコブとヨハネのヤコブです。このヤコブが、十二使徒の中での最初の殉教者となったのです。そして3節にあるように、このことはユダヤ人たちに喜ばれました。ユダヤ人たちはヘロデのこの行為を、ユダヤ教の伝統的教えを尊重する姿勢の現れとして歓迎したのです。このことによって意を強くしたヘロデは、さらにペトロにも手を伸ばし、彼を捕えて投獄しました。ペトロこそ、十二使徒の筆頭であり、教会の中心的指導者です。そのペトロを処刑することによって、さらにユダヤ人たちの支持を確固たるものにしようとしたのです。しかも彼はこのことを、宣伝効果満点の状況の中で実行しようとしていました。3節の終わりに、「それは、除酵祭の時期であった」とあります。除酵祭は4節の過越祭と同じです。ユダヤ人たちの最も大きな祭りであり、多くの人々がこの時期にエルサレムに巡礼に来るのです。その人々の前にペトロを引き出し、見せ物的な裁判を行い、そして処刑することによって、多くのユダヤ人たちに、ユダヤ教への自分の熱心さを示そうとしたのです。このことによってペトロの運命は定まりました。権力者が、民心操作のためのスケープゴートとして、ペトロを選んだのです。もはや有罪か無罪か、などという問題ではありません。ペトロは確実に殺されてしまう。それを避ける手立てはないのです。
 4節には、捕えられたペトロが厳重な監視の下に置かれていたことが語られています。四人一組の兵士四組が交替で監視に当たっていました。6節を見ますと、「ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた」とありますから、ペトロの右と左に一人ずつの兵士が、おそらくはペトロの手と自分の手を鎖でつないで寝ており、あとの二人が戸口で番兵として見張っていたのでしょう。そして10節を見ると、その獄を出ても、町に出るためには第一、第二の衛兵所を通り、さらに鉄の門を通らなければならなかったのです。要するに、脱獄は絶対に不可能ということです。このような絶体絶命の危機にペトロは陥ったのです。それは教会にとっても、それまで体験したことのなかった危機です。ユダヤ教の指導者たちや民衆がではなく、国家権力が、教会を押しつぶそうと立ち上がったのです。その権力の前で、教会はまさに風前の灯となっているのです。

主の天使による救い
 このような危機に直面した教会はどうしたのでしょうか。そのことが5節に語られています。「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」。この危機に際して教会がしたことはただ一つ、祈ることでした。それはむしろ、もはや祈ることしかできなかった、ということでしょう。圧倒的な国家権力の前で、人間の力ではもはやどうすることもできないのです。できることはもはや神様に祈ることだけなのです。
 6節以下には、ペトロがこの絶体絶命の危機の中から、神様の力によって解放され、救われたことが語られています。これは人間の力や可能性を全く越えた、神様のみ業です。いよいよ明日は人々の前に引き出されて処刑される、その前夜、主の天使がペトロのもとに立ったのです。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言いました。すると鎖が彼の手から外れ落ちたのです。両側に寝ているはずの番兵は全く気づきません。天使が、「帯を締め、履物を履きなさい」と言ったので、ペトロはそのとおりにします。さらに天使は「上着を着て、ついて来なさい」と言います。ペトロはその後について行きます。牢の戸はひとりでに開き、第一、第二の衛兵所を通り過ぎ、町に通じる鉄の門もひとりでに開き、町の中に出ました。ペトロはこれらすべてのことを、現実のこととは思えない、幻を見ているような、夢うつつの状態で体験したのです。天使が離れ去り、はっと我に返って見ると、彼は解放されていました。人間の力を全く越えた、神様のみ力による奇跡によって、ペトロは自由になったのです。
 我に返った彼はこう言いました。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」。今自分に起ったこの解放、救いは、人間の何らかの力や働きによるのではない。例えば誰かが軍隊の有力者に手を廻して彼を釈放するように働きかけたとか、そのようなことではなく、ただ主なる神様の恵みのみ力によってなされたことだ、それが本当のことなのだ、ということを彼ははっきりと知ったのです。彼はただちに、「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」に行きました。このマリアの家が、エルサレムにおいて主イエスを信じる人々がいつも集まる場所となっていたのです。主イエスが弟子たちと最後の晩餐をなさったのもこの家だったのではないか、と想像されています。12節の終わりには、「そこには、大勢の人が集まって祈っていた」とあります。つまり5節に語られていた、ペトロのための教会における熱心な祈りは、ここでなされていたのです。

教会の祈りの中で
 スリルとサスペンスに満ちたこの救いの出来事の描写ですが、使徒言行録はこれによって私たちに大切なことを語ろうとしています。それは、6~11節の主の天使によるペトロの解放の奇跡は、5節と12節の、教会の人々の祈りに挟まれて起っている、ということです。教会において熱心な祈りがささげられているその中で、この奇跡は行われたのです。教会の祈りの中で、人間の力を越えた、神様の救いのみ業が行われたのです。祈ることがいかに重要なことであり、その中でこそ神様の大いなる力が発揮されるのだ、ということを、このことは示し教えているのです。ただし、そこで勘違いをしないようにしなければなりません。ペトロの解放の奇跡は、教会の祈りの中で起こりましたが、それは祈りの力によって実現したことではないのです。この救いのみ業を実現したのはあくまでも神様の力です。人間の祈りの力ではありません。あるいは、熱心な祈りが神様を動かしてこのような救いの業をさせたのでもありません。祈りは、神様を、ある目的のために動かす手段ではないのです。神様は、人間の祈りによって動かされ、かり出されて、何かをさせられる方ではありません。神様の救いのみ業は、全く自由な、恵みのみ心によって、神様が必要と思われる時に、必要と思われる仕方でなされるのです。それを人間がコントロールすることはできません。ペトロは、教会の人々が熱心に祈ったから救い出されたのではないのです。神様がそのことを必要と思われたからそのことは起ったのです。そういう意味では、教会における祈りと、ペトロの解放の出来事の間には何の関係もない、とも言えます。原因や理由、という意味では、何の関係もないのです。しかしこの救いのみ業が、教会の人々の祈りの中で行われたということには、なお大きな意味があります。このことによって聖書が私たちに教え示そうとしていることが二つあると思うのです。第一は、私たちは祈りによって神様を動かして何かをしていただくのではないけれども、神様が自由な恵みのみ心によって行なって下さる救いのみ業に私たちがあずかることが、祈りにおいてこそ起る、ということです。つまり祈りは、神様を動かすためのものではなく、神様の自由な恵みにあずかるためのものなのです。祈ることが大切であるのは、その中でこそ、つまり神様の前に立ち、心を神様に向け、語りかけ、また神様のみ言葉を聞こうとする、その交わり、対話の中でこそ、私たちは神様の恵みのみ業を受け、それにあずかることができるからなのです。またここに教えられている第二のことは、神様は私たちの祈りによってかり出されて何かをなさる方ではないけれども、私たちが祈って救いを願い求めることを待っておられる、喜んでおられる、ということです。神様は私たちが祈って助けを、救いを願うことを喜ばれるし、それを待っておられるのです。自由な恵みによってその祈りに応えようとしておられるのです。私たちの言葉がどんなにつたなくても、自分の悩みや苦しみ、悲しみ、願い求めを神様に申し述べ、救いを願っていくこと、それはある意味ではまことにずうずうしいことですけれども、そのことを神様は喜び、待っておられるのです。そしてその祈りに応えて、私たちに本当に必要なものを与えて下さろうとしておられるのです。ペトロの解放の奇跡が、教会の祈りに挟まれて起ったと語られていることは、これらのことを私たちに教えていると思うのです。

共同の祈り
 さらにここで見つめておかなければならないのは、この教会における祈りが、共に集まって祈る、共同の祈りである、ということです。5節の、「教会では彼のための熱心な祈りが神にささげられていた」、ということには、教会に連なる一人一人がそれぞれのいわゆる密室の祈りにおいて熱心に祈っていた、ということも含まれているでしょうが、しかし中心になっているのは、12節に描かれている、「大勢の人が集まって祈っていた」ということです。つまり教会における共同の祈りの集会、祈祷会です。勿論一人一人の個人の祈りは基本ですが、共に集まって共同の祈りを祈ることの大きな意義を私たちは知る必要があります。教会の共同の祈りにおいてこそ私たちは、神様の救いのみ業にあずかりつつ歩むことができるのです。共同の祈りの中に身を置くことによってこそ、祈ることのすばらしさ、その喜び、そしてそれによって力つけられ、慰められ、支えられることを体験していくことができるのです。祈る教会とは、共同の祈りを大切にする教会です。このことのために、私たちはもっと努力し、また工夫をしていかなければならないでしょう。具体的には、現在行われている水曜日の午後6時半からの聖書研究祈祷会を覚えて出席する努力をする、ということも大切ですが、それのみでなく、教会における様々な集会において、共に祈り合う時を持ち、共に祈る機会をより多く設けることも大切なことだと思います。

祈りの中の不信仰
 さてこのような教会の祈りの中でペトロの救出の奇跡が行なわれたわけですが、ペトロが帰って来た時の教会の人々の様子はまことにこっけいです。そしてそのこっけいな姿の中に、私たち自身の中にもある深刻な問題が示されています。ペトロがマリアの家の戸をたたくと、ロデという女中が出て来て、ペトロの声だと分かると門を開けるのも忘れて集まっている人々に、ペトロが帰って来たと告げたのです。しかし教会の人々はそれを信じることができず、「あなたは気が変になっているのだ」と言いました。ロデがなお本当だと言い張ると、「それはペトロを守る天使だろう」とも言いました。それぞれの人に守護天使がついている、という感覚がそこには働いているわけですが、教会の人々のこの反応はまことにこっけいです。彼らは、ペトロのために熱心に祈っていたのです。「主よ、み心ならば、どうぞペトロをこの死の危機から救い出して下さい、教会の大切な指導者、主イエスの証人であるペトロを私たちに帰して下さい」と祈っていたのでしょう。その祈りが、さまに聞き届けられ、実現したのです。祈り願ったことがその通りに現実となったのです。ところが彼らはその現実を信じることができない。「そんなことがあるはずはない」という思いが彼らの言葉にはありありと見て取れます。ということは、彼らは、熱心に祈り願いつつ、その祈りが本当に聞き届けられるとは思っていなかった、ということです。このこっけいな姿の中に、私たちの中にも深く根を張っている不信仰が示されています。祈り願いながらも、いくら神様でもこんなことができるわけはない、とどこかで思っているのです。私たちが、なかなか祈ることができない、祈りに身が入らないというのも、このことが原因でしょう。祈ったって現実がどうなるものでもない、祈るよりも自分で何とかしなければ、という思いが私たちの中にあるために、本当に真剣に祈ることができないのです。私たちの中には、祈りを妨げるこのような不信仰があります。祈ることは、このような不信仰と戦うことです。祈りは、自然に生まれてくるものではありません。私たちは、自分の中の不信仰にあらがって、祈りを戦い取っていかなければならないのです。

神の赦しの中で
 けれどもこのことと共にここで見つめておきたいのは、このような不信仰を露呈してしまった教会の祈りの中で、主が救いのみ業を行って下さったということです。神様は、私たちの祈りが、不信仰の全くない、完全な祈り、完璧に信じて祈る、そういう祈りとなることによって初めて救いのみ業を行って下さるのではないのです。「いくら神様でもこんなことはできないだろう」という不信仰を暴露してしまうような、欠けだらけの私たちの祈りを、しかし神様は喜んで下さり、その祈りを待っていて下さり、その中で、恵みのみ業を行ない、私たちをそれにあずからせて下さるのです。だから、私たちは祈ることができるのです。祈りを妨げる自分の不信仰と戦っていくことができるのです。つまり私たちは祈りにおいても、神様の赦しの恵みの中に置かれているのです。祈ることにおいても不信仰を露呈してしまうような私たちを、神様が、主イエス・キリストの十字架の死によって赦して下さり、恵みの内に置いて下さっているのです。その恵みに支えられて、私たちは祈ることができる者とされるのです。

祈ることができる恵み
 絶体絶命の危機の中で、教会の人々はもはや祈ることしかできなかったのだと先程申しました。しかしそれは同時に、彼らが、主イエスの恵みの中で、なお祈ることができた、ということでもあるのです。祈りは、私たちの置かれた状況がまさに絶望であり、何の希望も見出せないようになっても、なおそこで、主イエス・キリストの父なる神様のご支配とその自由な恵みによる救いを見つめることができる目を持つことです。生まれつきの私たちはこの目を持っていません。私たちがもともと持っている目は、地上のこと、この世の、人間どうしの関係しか見えないのです。しかし祈りによって、私たちは新しい目を、神様の恵みのご支配を見つめ、それを求めていく目を与えられます。そこには、それまで見えなかった新しい道が示され、慰めが、希望が、力が与えられていくのです。祈ることができることはすばらしいことです。私たちは、祈らなければならないのではなくて、祈ることができるという大きな恵みを与えられているのです。

祈る者と祈らない者
 さて20節以下には、あのヘロデ・アグリッパ・世の最期のエピソードが語られています。彼はユダヤの王となった3年後の紀元44年に突然の死を遂げました。栄光の絶頂において、蛆に食い荒らされて息絶えたのです。どうしてそのようなことが起ったのか。それは、ティルスとシドンの住民たちが、彼の怒りを解き、ご機嫌を取るためにやって来て、彼の演説に対して「神の声だ。人間の声ではない」と叫んだ、そういう歯の浮くようなお追従を拒まずに受けたからです。これは単なるお追従では済まない、人間を神とするという、神様に対する重大な冒涜です。そのようなことが語られたなら、神様にこそ栄光を帰し、自分は神ではないことを言い表さなければならないはずなのです。本日共に読まれた旧約聖書の個所、詩編115編の1節に、「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように。あなたの慈しみとまことによって」とあります。彼も本来このように言うべきだったのです。ところが彼はそれをしなかったために、主の天使に撃ち倒されたのです。この出来事と、あのペトロ救出の出来事とはどうつながるのでしょうか。注目すべきは、ペトロを救い出したのも、ヘロデを打ち倒したのも、どちらも主の天使であることです。つまりこれらはどちらも神様のみ業なのです。ペトロの解放は、教会の人々が、絶望的な状況の中で、なお、それらすべてをみ手の内に置き、支配しておられる主イエス・キリストの父なる神様を見つめ、祈っていた中で行われました。詩編115編で言えば、9~11節に、「主に依り頼め。主は助け、主は盾」と繰り返されていますが、彼らはこの主に依り頼んで祈ったのです。他方ヘロデは、自分やこの世界を支配なさる生けるまことの神様を見つめていません。彼が見ているのは、人間どうしのこと、人間の間での支配と被支配の力関係のみです。つまり彼の心には、祈りという、神様を見つめる目はないのです。主の天使によるこの救いと審きのみ業は、不信仰をかかえつつも祈っている者たちに与えられる救いのみ業と、祈ることなく、神様のご支配を思わず、人間の力のみがこの世を牛耳っているように思っている者に対する裁きのみ業なのです。私たちは、祈ることを赦され、教えられています。この世の現実がどんなに絶望的であっても、主イエス・キリストの父なる神様を見上げ、その恵みのご支配を信じて祈り求めることを赦されているのです。そこにこそ、本当の勝利への道があります。人間の力、支配は、それがどんなに強固な、永遠に続くものであるように見えても、神様のご支配の前に撃ち倒され、蛆に食い荒らされて滅びるのです。

祈る教会へ
 24節には、これらの出来事を受けて、「神の言葉はますます栄え、広がって行った」とあります。教会が、祈ることができる恵みを深く覚え、祈りの中で神様の救いを体験し、それにあずかっていくことによって、神様のみ言葉はますます栄え、広まっていきます。伝道が進展し、教会が成長していくのです。教会の成長とは、祈る教会となっていくことです。私たち一人一人の祈りも、共同の祈りも共に深められていくことです。祈りの成長こそが信仰の成長です。私たちを、祈る教会へと成長させて下さろうと、恵みをもって導いていて下さる主のもとで、不信仰と戦い、祈りを勝ち取っていきたいのです。そこにこそ、信仰による喜び、慰め、励ましが深まっていきます。そしてこの世のどのような力によっても滅ぼされない確固たる歩みが、そこに与えられていくのです。

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