夕礼拝

全員が無事

「全員が無事」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第67編1-8節
・ 新約聖書:使徒言行録 第27章21-44節
・ 讃美歌:205、519

<圧倒的少数派のキリスト者>
 大勢の中に、圧倒的少数のキリスト者がいます。
 それは今日の箇所で言えば、キリストを知らない300名近くの人々と共に船に乗っているパウロと、その数人の仲間たちです。
 今のわたしたちで言えば、日本のキリスト者が、まさにそうであると言えます。

 日本において、キリストを信じている人は、人口の割合で言うとわずか1.5%しかいないと言われています。確かに、教会に通っている人が、日本社会の中で圧倒的少数派だということは、皆さん自身が肌でよくご存知のことと思います。職場でも、学校でも、地域でも、何かの集まりでも、日曜日に教会へ行っている、と言う人はごく僅かか、もしくは自分だけ、ということがあるでしょう。

 ですから、今日の聖書箇所で、キリストの伝道者であるパウロが、大勢のキリストを知らない者たちの中に置かれていることの意味や役割について、教会に来ているわたしたちは自分のこととして、聞いていくことが出来るのではないかと思うのです。
 そして、難破した船に乗ったパウロと、共にいた人々が、最後には「全員が無事に上陸した」とあるのは、決して運が良かったというようなことではありません。そこでは、「神の御言葉は必ず実現する」という恵みと、約束の確かさが示されているのです。

<神のご計画>
 さて、これまでの状況を振り返ってみますと、パウロはローマに向かって船旅をしている途中です。27章はその船旅の様子が語られています。しかしそれは、決して楽しい旅行ではありませんでした。
 パウロはユダヤ人に裁判を起こされたのですが、ローマ市民権を持つパウロはローマ皇帝に上訴しました。ですから、ローマ皇帝の前に出頭するために、カイサリアからローマまで、囚人として船で護送されているところなのです。
 その船には、パウロの仲間が数名と、他の囚人たち、そしてこの船のオーナーや船員たちと、囚人たちを送り届ける責任を負っている百人隊長、兵士たちがおり、37節によれば、276人が乗っていました。
 そして、海が荒れる冬が近づいており、船旅自体がとても危険な季節になろうとしていました。

 パウロは、航海はもう危険な時期になっているから、今いる「良い港」で停泊して冬を越そう、と忠告しました。しかし、百人隊長はじめ他の人々は、それを聞かずに、もう少し先の港まで行こうと言って、船出してしまったのです。
 ところが、船を進めていくうちに、大きな暴風に巻き込まれてしまいました。前回お読みした20節では、「幾日も太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた」とあります。船に一緒に乗っている多くの者は、生きる望みを失い、絶望していたのです。

 しかしパウロは、その中でただ一人、希望を失わず、彼らの中に立って「元気を出しなさい」と励ましました。その根拠は、神がパウロに語りかけ、約束を与えて下さったからです。
 パウロは天使を通して、神からの言葉を聞きました。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せて下さったのだ。」という言葉です。
 この命の危機にも関わらず、神は天使を通して、「あなたは皇帝の前に出頭するのだ」、つまり「あなたは必ずローマへ行くことになるのだ」と、約束して下さいました。

 かつて、23:11で、パウロがまだエルサレムにいた時、主イエスはパウロに「ローマでもわたしのことを力強く証ししなければならない」と命じられました。パウロはこのご命令を果たすために、ローマへ向かっているのです。
 今の状況は、目に見える現実の成り行きにおいては、パウロが裁判を起こされたけれど、ローマ市民として皇帝に上訴したために、ローマへ出頭するため囚人として移送されている、という状況です。
 しかし神のご計画から見れば、パウロはキリストの福音を宣べ伝えるために、ローマに向かっているのです。この目的が実現するために、すべてのことは神によって導かれています。

 さらに、パウロにはもう一つの約束が与えられました。「神は、一緒に航海している者を、あなたに任せてくださったのだ」と言われたのです。
 ここは口語訳という訳では、「たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜っている」と訳されていました。
 「賜っている」と言う言葉は、「恵み」というギリシャ語から出来ています。神は、パウロに、同じ船に乗っているすべての者を、パウロが受ける恵みとして、プレゼントなさった、というのです。

<パウロに賜物として与えられた人々>
 このような神の約束によって、パウロは全員の救いを確信しました。そして、「元気を出しなさい」と励ましたのです。目の前の絶望的な現実に目を奪われるのではなく、御言葉によって示されている、すべてを支配し、ご計画を導かれる神の現実を、パウロは顔を上げて、信仰の目で、しっかりと見たのです。

 しかし27節を見ると、その励ましからすでに十四日間が経過していることが分かります。
 パウロが指し示した希望は、すぐには実現しませんでした。パウロが「神が約束して下さったのだから、必ず助かる」と言ってから、一日経ち、二日経ち、一週間経ち…それは人々を更に落ち込ませるには、十分な時間だったかも知れません。
 後の33節を見ると、パウロが「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました」と言っています。やはり、人々は、パウロが神への信頼と救いの確信を指し示しても、広大な海を漂流している、先が見えない目の前の現実に捕らわれ、不安と恐れから抜け出せずにいたのです。

≪逃げ出す船員≫
 ところが十四日経ち、新たな展開がありました。陸地に近づいていることが分かったのです。それは希望であると同時に、暗礁に乗り上げて海の藻屑と消える危険でもありました。 
 そこで船員たちは、夜に自分たちだけ小舟に乗って、船から逃げようとしたのです。パウロが「船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はいない」と言ったことを、彼らは信じられませんでした。パウロという奴が、神によってみんな助かると言っているけれど、とにかく、何としても自分の命だけは助かりたい。他の人のことは知らない。他の人からは、恨まれようが、何をしようが、どうでもいい。どうせ自分だけ船で逃げてしまえば、関係も終わる。そういう自分中心の思いによる行動です。
 神の御心を知らないこと、また、神の思いを知りつつも逆らうとは、このように自分の思いを中心にして行動していくこととなり、神との関係を破ることから始まって、隣人関係の破れをも引き起こしていきます。

 しかし神は、「船に乗るすべての者」をパウロにお与えになりました。パウロはその神の御心を固く信じていました。それで、百人隊長と兵士たちに「船員たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言って、兵士たちは綱を断ち切って小舟を船員たちの脱走を留めたのです。

≪生き延びるための食事≫
 そうして夜が明けました。待ちわびた夜明けでしたけれども、船員たちの脱走未遂は、船全体の空気をとても悪くしたでしょう。そんな中で、パウロは一同に食事をするように勧めました。
「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」
 力強く励まし、パウロは一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた、とあります。
 その姿が、他の人々を元気づけました。パウロは厳しい現実、人々の様々な思いが渦巻く中で、神に信頼し、希望を持って、今をしっかり生きることを、彼自身の姿で見せたのでした。
 そしてこのことは、実際に食べて体力を付けなければ、何か状況が変わった時に動けないといけませんし、すべての者が生き延びるための備えとして、現実的に、とても大切なことでした。

 一緒に船に乗っている人々からすれば、「神がそう言ったから助かるんだ」と、根拠のないような希望を信じ、能天気にご飯を食べるなんて、パウロはこの絶望的な状況を受け止めていないんじゃないかと思った人もいたかも知れません。
 しかし、実はこの人々の中で、神の希望を持つパウロだけが、今の状況を客観的に見つめ、具体的に生きるために必要なことをしっかりと判断し、人々を導くことが出来たのです。
 実際に、パウロが神に感謝をして食事をする姿は、人々を励まし、元気づけ、皆が食事をし始めました。困難の中でも、神が示して下さる希望を信じ、また感謝して生きていること。その姿が他の人々を励まします。元気づけます。それは、憐れみ深い、恵みの神を知っている、わたしたち信仰者の役割です。
 わたしたちが神の御心を知らされながら、下を向いて、悲嘆に暮れ、つぶやきながら歩んでいるなら、誰もわたしたちを通して元気づくことはありません。
 しかし、神がわたしを生かしていることを信じ、苦難の中でも、すべての人が絶望するようなところにおいても、神の力に信頼をして、神を礼拝し、神を仰いで生きているなら、わたしたちは絶望に閉ざされたような中でも、どこを向いて歩めば良いか、どこに希望があるのか、その見つめるべき方向を周りの人々に示すことが出来るのです。

≪難破≫
 さて、人々が食事をして、十分に食べてから、穀物を捨てて船を軽くし、人々は助かるのを待ちました。しかし、ここで最後の大きな困難がやってきます。舟が浅瀬にぶつかって壊れ始めたのです。
 兵士は囚人たちが泳いで逃げないように、殺してしまおうとしました。囚人を逃がしてしまったら、自分が責任を問われて殺されるからです。ここでも、ただただ自分のことを優先する思いが現れています。
 この船旅の危機は、外的な気象条件や海の困難だけではなく、まさに人々の自己中心的な思いから生じる危機こそが、何度もあったのです。

 しかし、ここで百人隊長がパウロを助けたいと思った、とあります。兵士を束ねる百人隊長こそ、もし囚人を逃がしたならば真っ先に処刑される立場です。
 しかし、彼はパウロを助けたいと思ったがために、兵士たちにこの計画を中止させました。このことによって、他の囚人たちも命拾いし、結果的に全員が救われることになったのです。
 そうして、すべての者が何とか海を泳ぎきって、陸へとたどり着きました。「全員が無事に」上陸したのです。
 神の約束によってパウロが人々に「船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はいない」と言ったことが、このように現実のものとなりました。神の御言葉が実現したのです。

<神を信じ、神に従うということ>
 ところで、神が「パウロはローマへ行く。船の誰一人命を失わない」と約束して下さり、それは必ず実現するというのなら、人は何もしなくても、助かったのでしょうか。神が働いて下さるのを、じっと黙って待っていればよかったのでしょうか。

 これまでのパウロの働きを振り返ってみますと、パウロは人々の様子を観察し、船員の脱走を留め、人々の体力を気遣って食べさせ、船を軽くするし、さまざまな配慮と出来る限りの働きをしてきました。神の約束があるから、神の助けを信じているから、どうやったって、何もしなくたって助かるだろう、という風には考えません。神の御心に望みをおいて、すべてを神にお任せする、というのは、神がしてくれるから、自分は何もしないということではないのです。

 神の約束を信じ、神にすべて委ねるというのは、神のために、自分自身をすべて献げる、ということです。
 キリストを信じる者とは、古い罪の自分がキリストの十字架と共に死に、復活のキリストの命にあずかって、新しく神の子として生きるものとされた者です。わたしたちは自分の力で何をしたって、神に赦されること、自分の罪を帳消しにするようなことは決してできません。ただ、キリストが十字架でわたしたちの罪を負って死んで下さるしかなかったのです。 
 キリストの命によって、わたしが神に罪の奴隷から買い戻されたのだ、わたしの命を神のものとされたのだ、ということを知ったなら、神の御手の中にある者として、その恵みに応えようとする、感謝の歩みが始まっていくのです。
 それは、すでに神のものとされている自分自身を、神の御心のために、約束のために、まるごと神に用いていただく、ということです。
 力がなくても、足りなくても、上手く出来なくても構いません。自分自身を精一杯献げることで、神がわたしを喜んで、神の御手によって、最善の仕方でご計画のために用いて下さると信じるのです。
 キリストが命を捨てて与えて下さった救いに対して、怠惰になるなどということが出来るでしょうか。まことに神の恵みに生かされているなら、わたしたちは喜んで神に自分を献げ、出来る限りのことをしようとするものとなることが出来るのではないでしょうか。

 わたしたちは今の時代、暴風が吹きすさぶような世界で、先の見えない中を生きていますが、しかしそこで本当の目的、主イエスが再び来られる日、神の国の完成を待っています。それは必ず来ます。しかし、それをぼんやり待っていてよいのではありません。神は御自分のご計画にわたしたちを用いようとされます。わたしたちは、神に存分にそのご計画のために用いられることを喜び、神に、与えられた隣人に、精一杯仕えていきたいのです。
 そのような信仰者の生き方が、この船でのパウロの働きから示されているのではないでしょうか。

<あなたに任せてくださった>
 このように、神の恵みに生かされて、全身全霊で神に従うパウロです。そして神は、そのパウロの存在の故に、パウロへの祝福を同じ船のすべての人々に与えようとされます。パウロを、祝福の源とされるのです。
 これは、キリスト者の周りにいる人が、すべて自動的に救われるということではありません。救いは一人一人が、キリストと出会い、神のもとに立ち帰り、神の恵みを受け入れること、信じることによって与えられます。
 でもここで、神はパウロと同じ船に乗った人々を選び、御自分の恵みに招いておられるのです。その招きの御業に、先に救いに与ったパウロが用いられ、立てられているのです。
 キリスト者は、救いの恵み、復活の希望にあって、周囲の人々に、暗闇の中でも、確かに輝く希望はここにありますと、人々に指し示し、そのように生き、神を知らない人々のために祈り、執り成す役割が与えられています。 
 自分が置かれている場所で、もし自分しかキリスト者がいないなら、そこにいる人々のために、神に祈り、礼拝し、キリストを指し示すことが出来るのは、自分だけしかいないということです。そこにいる人々を、神から任されているのです。

 また24節で「神は、一緒に航海している者を、あなたに任せてくださったのだ」と言われたのは、口語訳で、「たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜っている」と訳されているとお話ししました。
 この船旅では、パウロが福音を知らない人々のために立てられている、とも言えますが、天使はパウロに、周囲の人々が賜物としてあなたに与えられている、と言います。キリスト者に与えられている、共に生きる人々は、神からの贈りもの、恵みだと言われているのです。
 パウロの場合、そこには逃げ出そうとした船員もいれば、囚人であるパウロを殺そうとした兵士たちもいました。しかし、そのような人々さえも含めた関係を通して、神はパウロの祝福をすべての者に与えようとされるし、またパウロ自身、神から賜った人々によって、神の御業を目撃し、神の約束の実現を見せられて、恵みと祝福をさらに豊かに与えられる、と約束されているのです。

<神の御言葉の力>
 このように、祝福のために立てられているわたしたちですが、困ったことに、時には、キリスト者であるわたしたちが、神のご計画を妨げようとしてしまうことがあります。船員や兵士が、自分のことを考えて、自分を優先して、他の人を蔑ろにしたり、犠牲にしようとしたように、弱いわたしたちは神の約束を示され、恵みに与っていながらも、なお自分の思いに従おうとしてしまうことがあるのです。

 ですからわたしたちは、神の御言葉によって、いつも導かれ、励まされ、強められなければなりません。赦されながらも、いつも罪に傾こうとしてしまうわたしたちは、御言葉によって、新しくされ続けなければならないのです。
 パウロが嵐の船の中でも神を礼拝し続け、希望の確信を得たように、礼拝し、祈り続ける中で、聖霊なる神がそのことを教え、導き、確かな信仰を養い育てて下さいます。

 また、この教会という信仰者の群れである共同体において、わたしたちは互いにも執り成し合うことが出来ます。祈りによって支え合い、誰かのために神に執り成し、また自分自身も執り成しの祈りに覚えられながら、わたしたちは共に恵みを受け、共に前に進んでいくことが出来るのです。

 キリストによって成し遂げられた救いのみ業、神の力、神の愛は、どのような世の現実よりも、苦難よりも、悲しみよりも、死よりも、圧倒的に強いものです。わたしたちはその恵みに生かされ、慰められ、励まされつつ、神の力を覚え知り、ますます神に頼る者へと変えられていくのです。
 神は従う者を、祝福の真ん中に立たせて下さり、まだキリストを知らない人々の中に立たせて下さり、神のご計画を神と共に見つめ、神と共に歩む者として下さいます。
 神は、大勢の中で圧倒的少数の、たった一人のキリスト者の礼拝と、祈りと、希望によって、すべての者を招き、導き、救ってくださろうとしています。わたしたちも、この日本で、横浜で、職場で、学校で、家庭で、地域で、神が賜物として与えて下さった人々と共に祝福を受けるようにと召されています。
 わたしたちはそこで、神を礼拝し、祈り、執り成し、自分を献げて、神の恵みをわたしたちの生活や、存在全体で、指し示していきたいのです。
 主イエスは「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。…地の果てに至るまでわたしの証人となる」と言われました。神の言葉は、必ず実現します。

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