夕礼拝

主よ、憐れんでください

「主よ、憐れんでください」 副牧師 川嶋章弘

詩編 第6編1~11節
ルカによる福音書 第18章35~43節

この箇所で語られていることを受けとめるとは
 本日の箇所では主イエスが目の見えない人を癒されたことが語られています。目が見えず物乞いをして生きていた人が、そこを通りかかった主イエスに「わたしを憐れんでください」と叫び続けると、主イエスは立ち止まり、彼に「何をしてほしいのか」と尋ねました。彼が「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えると、主イエスは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。すると目の見えない人は、たちまち見えるようになり神様をほめたたえながら主イエスに従ったのです。この礼拝に集っている私たちは目が見えないわけではないし、物乞いをして生活をしているわけでもないと思います。ですから私たちはこの目の見えない人に自分を重ね合わせるよりも、むしろ同情するのではないでしょうか。そして主イエスのように私たちも、それぞれができる範囲で困っている方に手を差し伸べることができたらと思うのです。確かに困難の中にある方に対して見て見ぬふりをするのではなく、関わろうとするのが大切なのは言うまでもありません。自分のことだけで精一杯で、苦しみの中にある方々と関わる余裕がない社会にあって、私たちキリスト者は、そのような方たちと積極的に関わりを持っていく使命がある、というのはその通りです。しかし私たちがこの箇所をそのように受けとめるとき、私たちはこの目の見えない人に自分自身を重ね合わせようとせず、この人の姿に自分自身の姿を見ようとしません。この人に同情し、手を差し伸べることは考えても、この人の姿こそ自分自身の姿だと、この人こそ自分だと思わないのです。それではこの箇所で語られていることを本当に受けとめたことにはならないと思います。そのことを心に留めて、この箇所を初めから読み進めたいと思います。

エリコに近づき
 冒頭35節に、「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた」とあります。聖書の後ろにある聖書地図6「新約時代のパレスチナ」を見ると、エリコはヨルダン川西岸の町で、死海から北に10キロメートルのところにあります。当時、ガリラヤからエルサレムへ向かう旅人は、このエリコを通ってエルサレムへと向かいましたが、主イエスと弟子たちも同じようにエリコを通ってエルサレムへ向かおうとしていたのです。エリコはエルサレムから直線距離で20キロメートルほどのところにありますから、彼らはエルサレムの近くまで来ていたことになります。35節では「イエスがエリコに近づかれたとき」と言われていて、本日の箇所に続く、19章1節では「イエスはエリコに入り、町を通っておられた」と言われ、11節では「エルサレムに近づいておられ」と言われ、そして28節以下では、エルサレムへ入られたことが語られています。エリコに近づき、エリコに入り、エルサレムに近づき、エルサレムに入る。エルサレムへ上る旅の終わりに段々と近づいていく大きな流れの始まりに、本日の箇所は位置するのです。主イエスにとって、エルサレムへ向かう歩みは十字架への歩みにほかなりません。この大きな流れは、主イエスの十字架の死が刻一刻と近づいていることを示しているのです。

道端に座り続けていた
 そのように主イエスがエルサレムへ向かって、十字架の死へ向かって、エリコの町に近づかれたとき、一人の目の見えない人が道端に座って物乞いをしていました。町の出入口は多くの人が行き来するため、多くの人から施しを受けるためには、その近くの道端で物乞いをするのが適していたのです。当時、目の見えない人が生きていくためには、ほかの人からの施しに頼るしかありませんでした。翻訳でははっきりしませんが、「道端に座って物乞いをしていた」の「座って物乞いをしていた」は、原文では、それがこの時だけのことではなく、ずっと続いていたことを言い表す言葉が使われています。この人は、いつからなのかは分かりませんが、かなりの間、来る日も来る日も、町の門の外の道端に座って施しを受けながら生きていたのです。それは彼にとって、苦しみと悲しみ、嘆きと憤りがずっと続いてきたということです。そして道端に座り続けていたとは、そこに縛られ続けていた、ということでもあります。そこでしか生きる糧を得ることができなかったからです。その意味で、この人は道端に座って物乞いをして生きることに縛られ続けていたのです。

これは、いったい何事ですか
 ところがこの日は、いつもと様子が違いました。いつものように人の往来が激しいことに変わりはありませんが、いつもに増して大勢の群衆が通って行くのを、この目の見えない人は耳で敏感に感じ取ったのです。そこでこの人は「これは、いったい何事ですか」と尋ねました。この「尋ねる」という言葉も、先ほどの「座って」と同じように、その行為が繰り返されていることを言い表している言葉です。群衆は道端に座って物乞いをしている人を気にかけようともしなかったのかもしれません。しかしこの人は、「これは、いったい何事ですか」、「これは、いったい何事ですか」と繰り返し尋ねたのです。あまりにうるさいので群衆はしぶしぶ答えたのかもしれません。いずれにしても彼らはこの人に「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせました。するとこの人は、どこに主イエスがいるのか見えない中で、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだのです。

主イエスの憐れみを求める人を妨げる
 39節には、「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた」とあります。「先に行く人々」が誰であるかは、はっきりしません。しかし十二人の弟子たちであったのではないでしょうか。彼らがこの人を「叱りつけて黙らせようとした」のは、主イエスがこの人に施しをしている暇はないと思ったからかもしれません。そんなことにかまってエルサレムへ向かう歩みを止めてはならない、エルサレムへの旅を遅らせてはならないと考えたからかもしれないのです。この箇所の直前で、主イエスがご自分の死と復活を予告されたとき、弟子たちは、主イエスの言われたことが「理解できなかった」と言われていました。本日の箇所でも弟子たちは、主イエスに助けを求める人を、憐れみを求める人を妨げようとしたのです。しかし私たちはこの弟子たちの姿を笑うことはできません。私たちもしばしば、主イエスに助けを求め、憐れみを求めて教会にやって来る方々を妨げてしまうことがあるからです。妨げたくて妨げているのではないかもしれません。弟子たちにも理由があったように、私たちにもそれなりに理由があります。忙しくて手が回らないとか、ほかの人の迷惑になるかもしれないとか、教会の安全に影響があるかもしれないとか。どれももっともな理由です。軽んじてはならない理由です。それでも私たちは、このときの弟子たちの姿を通して、自分たちがこれらのもっともな、軽んじてはならない理由で、主イエスに助けを求め、憐れみを求めて教会にやって来る方々を妨げているかもしれない、ということに気づかされるのです。

叫び続ける
 弟子たちの妨げにもかかわらず、それに抗うようにして、この人はますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。39節の「叫び続けた」も、この行為が繰り返されたことを言い表す言葉です。この人は、二回だけ「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだのではありません。繰り返し繰り返し叫び続けたのです。叱りつけられ、「黙れ」と言われても叫び続けたのです。目の見えないこの人が主イエスを見つけることはできません。主イエスの周りに大勢の群衆がいたならなおさらです。主イエスに自分を見つけてもらうためには、自分の叫び声に気づいてもらうしかなかったので、この人は繰り返し叫び続けたのです。

ダビデの子イエスよ
 この人は主イエスに「ダビデの子イエスよ」と呼びかけていますが、このことは特別な意味を持っています。ダビデは旧約聖書に登場する王で、ダビデ王の時代にイスラエル王国は最も繁栄しました。そのため王国が滅んだ後の時代になると、ユダヤ人にとってダビデは理想の王と見なされ、ダビデの子孫から自分たちを救う、「救い主」が誕生すると考えられるようになりました。ですから主イエスに「ダビデの子イエスよ」と呼びかけることは、この人が、イエスこそダビデの子、救い主であると信じていたということです。自分を救ってくださる方だと信じていたからこそ、「ダビデの子イエスよ」と叫び続け、主イエスに自分を見つけてもらおうとしたのです。この人の日々は確かに苦しみと悲しみ、嘆きと憤りに満ちたものであり、絶望に覆われたものであったに違いありません。しかしその中で彼は、人々が話している主イエスの噂を聞いたのではないでしょうか。この福音書の7章22節以下で主イエスは洗礼者ヨハネの弟子たちにこのように言っています。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。この人もこれらの主イエスのみ業について、主イエスが病を患っている人々を癒されたことについて聞いていたのです。いえ、単に病が癒されたことだけではありません。これらの人たちが、それまで縛られ続けていた生活から解放されたことを、苦しみと悲しみ、嘆きと憤り、絶望に支配されていた生活から解放されたことを聞いていたのです。病は、あるいは目の見えないことは、あえて言えば表面的なことです。それは、病や目の見えないことが大したことではないと言いたいわけでは決してありません。しかしその根本にあるものをこそ見つめなくてはならない、ということです。その根本にある、自分を支配し、縛り続けている力を見つめなくてはならないのです。この人は、主イエスが自分を縛り続け、支配している力から救ってくださると信じて、主イエスに「ダビデの子イエスよ」と呼びかけたのです。

主よ、憐れんでください
 だからこそこの人は主イエスに、「わたしを憐れんでください」と言いました。「わたしを憐れんでください」とは、「目の見えない私を気の毒に思ってください」とか、「同情してください」ということではありません。聖書で「憐れむ」とは、それ以上のことを意味しているのです。共に読まれた旧約聖書詩編6編2~4節でこのように言われています。「主よ、怒ってわたしを責めないでください 憤って懲らしめないでください。主よ、憐れんでください わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ わたしの魂は恐れおののいています」。詩人が「主よ、憐れんでください」と祈るとき、それは、「主よ、癒してください」と祈ることであり、「主よ、怒ってわたしを責めないでください 憤って懲らしめないでください」と祈ることでもあるのです。同じ詩編41編5節では、「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください」と言われています。「わたしを憐れんでください」という祈りの根本には、「罪を犯したわたしを癒してください、赦してください、救ってください」という祈りがあるのです。「憐れんでください」と祈ることが、「怒ってわたしを責めないでください 憤って懲らしめないでください」と祈ることでもあるのはそのためです。神様が私たちの罪に対して怒り、憤り、私たちを責め、懲らしめるのではなく、私たちの罪を赦し、私たちを癒し、救ってくださることを祈り求めているのです。もちろん私たちは罪を犯したから病になるのでは決してありません。この人も罪を犯したから目が見えないのではありません。しかしこの人が、町の門の外の道端に縛られ続け、苦しみと悲しみ、嘆きと憤り、絶望に支配されていた姿に、私たちは罪の力に支配されていた姿を見るのです。私たちは目が見えないわけではないかもしれません。物乞いをして生活をしているわけでもないでしょう。しかし私たちも様々な問題を抱えつつ生きています。私たちの日々は、喜びよりも苦しみや悲しみ、嘆きや憤りに覆われています。それら一つ一つの問題はときに解決し、ときに解決できません。しかし個々の問題については解決でき、その問題が引き起こしていた苦しや痛みは取り除かれたとしても、その根本にある問題は少しも解決されていないのです。私たちが抱えている様々な問題、苦しみや悲しみ、嘆きや憤りの根本にあるのは、隣人を傷つけ、自分自身をも傷つけてしまうことの根本にあるのは、私たちが罪の力に支配されている、ということです。エリコの町の門の外の道端に座り続け、縛られ続けていたこの目の見えない人の姿は、罪の力にとらわれ続けている私たちの姿にほかならないのです。本日の箇所から私たちは、この目の見えない人に同情し、手を差し伸べることを考えるのではありません。この人の姿こそ自分自身の姿だと、この人こそ自分自身だと受けとめなくてはならないのです。そして私たちも「主よ、わたしを憐れんでください」と、主イエスに向かって叫ぶのです。
 とはいえ私たちはなかなか心の底から「私を憐れんでください」、と言えないのではないでしょうか。「憐れんでください」と言うのは、恥ずかしいし、みっともないと思ってしまうのです。「イエス様、憐れんでください」、「神様、憐れんでください」と祈ろうとせずに、自分を取り繕ってしまうのです。しかしそれは、私たちが自分は本当に神様の憐れみを、主イエスの憐れみを必要としている、ということが分かっていないからです。別の言い方をすれば、自分の罪が分かっていないから、自分の力ではどうしようもない罪の力に自分がとらわれ、支配されていることが分かっていないからです。どこかで自分の力でなんとかできると思っているのです。だから心の底から「私を憐れんでください」と言えないのです。しかし目の見えないこの人は、自分の力ではどうにもできないことが分かっていました。自分の力では目が見えるようにならないというだけでなく、自分の力では自分を縛り続け、支配し続けている生活から解放されることはないと分かっていたのです。それができるのは、主イエスだけだと分かっていたから、心の底から主イエスに向かって、「私を憐れんでください」と叫んだのです。

立ち止まってくださる主イエス
 この人の叫びを聞いた主イエスは立ち止まりました。エルサレムへ、十字架へと向かう歩みを止めたのです。40節に「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた」とあります。主イエスは、ご自身に助けを求め、憐れみを求める人のために立ち止まってくださる方です。エルサレムへの道を、十字架への道を歩まれている、その歩みを止めてまで、ご自分に憐れみを求める人と向き合ってくださるのです。同時に主イエスは招かれる方でもあります。自分がこの人のところに行くのではなく、この人を自分の「そばに連れて来るように命じられた」のです。42節で主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われていますが、信仰とは、主イエスが自分を救ってくださる方だと信じ、たとえ妨げられたとしても、主イエスに向かって心から「私を憐れんでください」と叫び続け、そして主イエスの招きに応えて主イエスのもとに進み出ることなのです。

主イエスのまなざしのもとで生きるようになりたい
 この人が主イエスに近づくと、主イエスはお尋ねになりました。「何をしてほしいのか」。するとこの人は「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えました。そこで主イエスは、「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。43節には、「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った」とあります。主イエスの問いかけに、この人は「目が見えるようになりたい」と答えました。目が見えなかったのですから当然の答えのように思えます。しかしほかの答えがあり得なかったわけではありません。「生活に不自由がないようにもっと施しを増やしてください」とか、「物やお金を与えてください」とか、「一緒に生きる仲間を与えてください」とか、そのように答えても不思議ではなかったはずです。それにもかかわらずこの人は、「目が見えるようになりたい」と答えたのです。それは自分が縛られ続けていた生活の根本に、目が見えないことがあったからです。単に物理的に見えるか見えないかだけの問題ではありません。このとき主イエスに「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」と言われ、たちまち見えるようになったこの人は、何を最初に見たのでしょうか。彼が見えるようになって最初に見たのは何でしょうか。主イエスです。主イエスを最初に見たのです。主イエスが自分を見つめるまなざしを最初に受けとめたのです。「見えるようになりたい」というのは、主イエスのまなざしのもとで生きるようになりたい、ということです。罪の力に支配され、苦しみと悲しみ、嘆きと憤り、絶望に支配されて生きるのではなく、主イエスのまなざしのもとで、主イエスの憐れみ、赦し、救いのもとで生きるようになりたい、ということにほかならないのです。

主イエスの十字架の死によって
 実は、この「目が見えるようになりたい」は、英語訳などを見ると、「再び目が見えるようになりたい」と訳されています。つまりもともと目が見えていたけれど、なんらかの理由で目が見えなくなったので、再び目が見えるようになりたい、ということです。そして先ほど申し上げたように、「目が見えるようになる」ことが、「主イエスのまなざしを受けて生きるようになる」ことを見つめているならば、「再び目が見えるようになりたい」という訳は、さらに深い意味を持っていることになります。私たち人間は、かつて主イエスのまなざしを、あるいは神様のまなざしを受けて生きていました。しかし私たちは神様に背き、神様から離れ、神様からそっぽを向くことによって、神様のまなざしを受けて生きることができなくなったのです。その意味で、目が見えなくなったのです。神様のまなざしのもとで生きられなくなり、罪の力に支配された私たちは、隣人との関係に破れを抱え、自分自身との関係にも破れを抱え、日々苦しみ、悲しみ、嘆き、憤って生きているのです。そのような私たちが、再び神様のまなざしを受けて生きるようになるために、私たちは主イエスに向かって「私を憐れんでください」と叫び続けるのです。このお方だけが、私たちの罪を憐れんでくださり、私たちを罪から救ってくださるからです。主イエスは、私たちが再び主イエスのまなざし、神様のまなざしのもとで生きるようになるために、エルサレムに向かって、十字架の死に向かって歩んでくださいました。本日の箇所の出来事は、主イエスの十字架の死によって実現したことを指し示しています。主イエスの十字架の死によってこそ、私たちの目が本当に見えるようになり、神様のまなざしを受けて生きられるようになり、罪の力の支配から、苦しみや悲しみ、嘆きや憤りの支配から解放されて生きられるようになったのです。私たちは主イエスの十字架の死によって、すでに見える者、神様のまなざしを受けて生きる者、罪の力の支配から救われた者とされています。なお日々の歩みには苦しみや悲しみ、嘆きや憤りが溢れているとしても、それらは私たちを決定的に支配することはありません。この目の見えなかった人は目が見えるようになると、「神をほめたたえながら、イエスに従」いました。神様のまなざしを受けて生きる者とされた私たちも、様々な課題や重荷を背負いつつも、神様をほめたたえながら、主イエスに従って生きていくのです。その歩みの中でこそ、私たちは、私たちの周りで苦しんでいる方や悲しんでいる方と積極的に関わりを持って生きていくことができるのです。

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