「力は主から来る」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; エレミヤ書、第1章 11節-19節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第9章 1節-6節
・ 讃美歌 ; 368、534
1 新しい年を迎えて最初の夕礼拝に与えられておりますのは、主イエスが十二人を呼び集め、遣わされるところです。十二人を遣わすにあたって、主イエスはここで、その心構えを教えてくださっています。出発にあたっての訓示のようなものをしてくださっています。この十二人が選ばれたのは、実はもうしばらく前、第6章12―16節のことでありました。主イエスは十二人を選ぶに先立って、祈るために山に行き、神に祈って世を明かされた、と伝えられています。実に、慎重に、深く父なる神のお考えになっておられることを、繰り返し繰り返し問いかけられながら、じっくりと、確信をもって選ばれたに違いありません。
けれども主は、選ばれたこの十二人を、いきなり働くために遣わされたのではなかったのです。この選んだ十二人を、ご自身のそばにおいて、まず長い旅を一緒に歩むことを求められたのです。この選びの箇所のすぐ後には、おびただしい数の群衆が、主イエスから出た力によって、その病気を癒していただいたことが記されています。さらにその後には神の国が今来ていることを告げる主の説教のお言葉が続いています。7章に参りますと、百人隊長の僕や、やもめの息子が癒されます。さらに8章でも、悪霊に取りつかれたゲラサ人が癒され、続いて会堂長ヤイロの娘や長い間出血を患っていた女性も癒されています。これらはすべて、他の誰でもない、主イエス・キリストが成してくださった癒しです。ここまで、神の国の福音を宣べ伝え、悪霊の追放や病人の癒しを行っておられるのは、ただ主イエスのみなのです。
そうすると、あんなに早く十二人を選び集めておかれながら、これまでの間、主は弟子たちがどうすることを期待しておられたのだろうか、という疑問が出てきます。このことを思い見る時に、一つの鍵となる文章に行き当たります。8章の1節です。そこにこうあります、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」。つまり主イエスはこの間、十二人と一緒に行動され、そこでご自身が語ること、行われる癒しの業を、十二人が目の当たりとするようにしてくださったのです。「私が語ることをよく聞きなさい」、「私が悪霊を追い出すのを、よく見ていなさい」、「私が病人を癒すのを、じっくり見ていてほしい」、そういう主イエスの呼びかけが、耳を澄ますと聞こえてくるようです。
2 ある人は、これはちょうど将来牧師になるために備えの時を過ごしている学生、神学生が、夏の間伝道の実習に遣わされるようなものだ、と言っています。そこで主イエスが神の国を宣べ伝え、病を癒されたのを、見た通りにやってみるのです。主に倣って、今度は自分たち自身が、その業を担うものとして遣わされていくのです。またある人は言いました、「これはちょうど演劇で本番用の衣装を身に着けて行う本げいこのようなものだ」、と。今まで先生について、台本の台詞を覚え、動き方の練習をしてきたものを、今度は実際に衣装も着て、本番として舞台に立ってみるのです。それと同じことがここで起こっているというわけです。
けれども、もし伝道の実習であり、本げいこであるとしても、やはり先生であり、主人である主イエスのなさるようには到底いかないのではないか。私たちはそう思います。なんといっても主はここで「わたしのした通りにやりなさい。私が今まで語ったこと、行ったことを見てきただろう。その通りにやりなさい」、と求めておられるのです。自分がそんなことを主から託されたなら、おそれおおくて足がすくんでしまうのではないか、そんな不安にも駆られる思いがします。主イエスは、私たちにそんな力も権威もないことは百もご承知です。それにも関わらず、いやそれだからこそと言うべきでしょうか、主はここで、「ちょっと大事な話があるから」とおっしゃって、あの十二人をご自分の下に呼び集められるのです。そこでなんと「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」のです。いわばご自分の専売特許であった力と権能を、十二人に分け与えてくださっているのです。私たちは自分がそんな力と権能を持っていたら、それを容易には人に分け与えず、自分だけの特別な力としてもったいぶるのではないか、と想像します。けれども主イエスはここで、惜しみなくご自分の力と権能を分け与えられ、「この力と権能を携えて、これから私の働きの続きをしてくれ」と、伝道の業を十二人にゆだねてくださるのです。そういう意味では、これは単なる実習でも、単なるおけいこやリハーサルのようなものではありません。まさに真剣勝負だし、しかも見よう見まねでやっているのではない、おおもとの力と権能を行使している、主人であり、先生である主イエスご自身の御業なのです。それを十二人が今行うのです。そういう意味では、この教会で毎年夏に受け入れている伝道実習の神学生が語る説教も、主の力と権能を託された者が語る御言葉として聞く姿勢が、私たちにも求められるのです。それは決して単なる練習や実習ではない。主の力と権能が行使されて語られる言葉なのです。
3 主イエスはここで、「あなたがたに言っておきたいことがある」、とおっしゃり、遣わされるに当たっての心構えを示されています。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」。実に厳しく、また激しい注文です。旅に必要な最低限の備えも認めてくださらないようです。十二人はきっと、主が伝道の旅に出るに当たり、心構えを示してくださるのだから、きっとどんな物を準備していったらよいかを教えてくださるはずだ、と意気盛んになって主のお話に耳を傾けたことでしょう。ところが、思いがけないことに語られたことは、「あれを持って行ってはいけない。これを持って行くのも邪魔になる」、そういう、いらない物のリストです。これは私には身につまされます。神学生の頃から学校に持ってくる荷物の多かった私は、いつも重いカバンで両手がふさがっていました。今でも久しぶりに友人と会うと、「相変わらず荷物が多いね」とからかわれたりします。仮に、主イエスのご命令が、「杖と袋、パンとお金、二枚の下着だけを持って行きなさい」というものであったとしても、今の私たちにはそれでも厳しすぎるご命令なのではないでしょうか。私たちだったら、他にも洗面用具や寝間着、薬や数日間分の携帯用の食料、防寒具だって必要だろうに、などと思ってしまいます。
それでも一方で、もし私たちが神の国を宣べ伝え、病人をいやす働きができるとしたなら、それを可能にしているのは、主イエスの力と権能以外の何ものでもない、ということもまた確かなのではないでしょうか。それを凌ぐようなもの、あるいはそれと並び立つようなものが、私たちの持参する荷物の中に決してあってはならないし、またあり得ないのです。主イエスは、出かけていった十二人がどこかの家に入ったなら、そこに留まって、そこを拠点として活動するように、と命じられます。おそらく遣わされた者が何人かずつのグループに分かれて行動した際に、あるグループが世話になっている家の方が、他のグループが今留まっている家よりもよい待遇を受けるといったことが起こったに違いありません。そうすると、あちらのグループが妬ましく思えたり、あっちの方の家に自分たちも移ろうか、と考えたりもし始める。そのようにして神の恵みのご支配が見えなくなり、自分たちが神の国を宣べ伝えることが許されているおおもとの理由を見失ってしまうことが起こった。それゆえに主はここで、「ただ神の国を求め」(ルカ12:31)るように、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚える」(フィリピ4:11)ように、そうすれば必要なものはすべて「加えて与えられる」(ルカ12:31)、と約束してくださっているのです。うろちょろせず、他の家に目移りせず、腰を落ち着けて伝道するのです。
先日、子供のための教会学校での説教の備えについて語られたある先生の講演を文章で読む機会がありました。そこでたとえば、説教者として自分が語る時、一度は講壇のようなものを取りのけて、子供たちに全身をさらして語る経験を持つと良い、と提案されています。そうでなくても、いつもそういう心構えは持っていなくてはならない、というのです。そこで主から遣わされた者は、抽象的な、自分とは無関係の言葉を語るのではない、自分の存在と一体となった言葉を語るのです。自分自身が悪霊に取りつかれ、病を患っていたのに、その自分を救い、今生き生きと生かしている神の恵みのご支配をそのまま言葉の中にたたき込んで語る、それほどまでに存在と言葉が一つにされている中から、神の御言葉が語り出される、そのことを深く思わされました。十二人が遣わされたのは、神の国を宣べ伝えるためです。神の国とは、神のご支配のことです。神が今、この主イエスにおいて生きて働いておられ、悪霊の力を制し、神のものとされた民を起こしてくださる。神の力と権能が貫き通った世界をもたらそうとしておられる。そのことを十二人は宣べ伝えるのです。それは決して抽象的な概念や自分とは関係のない底の浅い言葉ではありません。そうではなくそれは、十二人が既に生きてきたし、今もそれに生かされているところの現実です。十二人自身が、神のご支配に与かり、神のものとされて生きる喜び、幸いを今まで味わってきているのです。主イエスが彼らをご自分のもとにおいて、今まで旅路を共にしてきてくださっているのは、そのことを彼らに味わわせるためであったはずです。同じように、もし私たちが伝道することを可能にしているものがあるとすれば、それはとりもなおさず私たちが神のご支配に今生かされている、という事実です。主の十字架によって罪を赦され、主の復活の光の中で立たされて、神との交わりに日々生かされているという現実です。そして主がこのことを宣べ伝える力と権能を授けてくださっていることです。それ以外にあり得ないのです。
4 この十二人は、6章で選ばれた時には、「弟子たち」と呼ばれてはおりません。そうではなく、「使徒」と呼ばれている。使徒というのは、主イエスの十字架の後に、弟子たちが復活の主と出会い、さらに聖霊が降り、教会がその歩みを始めてから、彼らが呼ばれるようになった名称です。そこでルカはこのようにして、主イエスと歩みを共にされた十二人に、後の教会の姿を映し出している、と考えられています。この十二人は教会のことであり、私たち一人一人のことです。夏の伝道実習生だけに限らない。私たち一人一人が、主イエスから全ての権威を任されています。ちょうど国際会議にあたって、ある国の全権を委ねられた大使のようなものです。そこであのパウロと同じように、「神と和解させていただきなさい」という、神からのメッセージを携えて、この世の一人一人の傍らに遣わされていくのです。そこで主イエスの御業の続きをなすのです。病を癒す力そのものは私たちには与えられていませんが、そこでなお神がこの人を痛みと苦しみから解き放ってくださることを信じ、神が働かれることを信じて祈るのです。そこでたとえ病そのものは治らなくても、心は神に向かって立ち上がり、平安のうちに日々を過ごし、主のもとに召されていく。それはなおある意味で癒しの奇跡ではないでしょうか。そういう奇跡が起こることを教会に生きる者は知っているのです。間近に見て知っているのです。こうして私たちは主イエスが私たちを用いて御業を引き続いてなさろうとしておられる、その御心に自分を委ねて、用いていただくのです。
そこで主はなんと誰も私たちを迎え入れないなら、「その町を出ていくとき、彼らへの証しとして、足についた埃を払い落としなさい」とまでおっしゃいました。あなたがたを迎え受け入れないなら、それは私を迎え入れないのと同じなのだから、もはやそれ以上関わり続ける必要はない。あとは全能の父なる神のご判断におゆだねしなさい、というのです。これほどの権能を授かっているとはなんと畏れ多いことでしょうか。しかしまたなんと勇気を与えられることではないでしょうか。
私たちは伝道や証しということを考えると、どうもすぐお金が必要だ、巧みな言葉がないといけない、どんな質問にも応えられないといけない、まだ聖書も全部は読んだことないしなあ、そういったことを考えてすぐ怖じ気づいてしまいます。けれどもある伝道者はこう言っています、「(救いは)神の所管事項である。ただ神のみが、人間を救いうる。このことを忘れてはならない。銘記しなければならない。そうでないとわたしたちは、いつのまにか人間の智恵や練達という成績だけを求めるようになるだろう。もしくはその反対に、成績不良を理由に絶望し、あかしを断念するようになるだろう。『わたしは、そんな人さまに示すような立派な人間ではございません(!)』。なんという高慢。なんという見当ちがい。かりに人に語りうるような自己を持ち合わせることがあるとしても、証しをすべきはそういう己れのことではない。おのれに関わりあるとしても、当然関わりはあるであろうが、おのれの’上に起こった事柄でなければならない」(井上良彦『あかしの生活』、17頁)。私たちは自分の力や権威ではなく、ただこの神の力と権能、上からの権威を授かって遣わされるのです。そこで私たちを今生かしている恵みの現実を、そのままに分かち合うのです。
5 昨年の12月26日、インド洋周辺海域で巨大な津波が発生し、たくさんの方々が亡くなりました。今も多くの人々が大変な苦しみの中におかれています。この日は日曜日で、津波が押し寄せたのは日本時間で午前10時半の前後でした。まさにこの教会で主の日の礼拝が行われている時です。当日は私が説教をしていました。神が安息などどこにも見出せないかのようになっているこの世界でなお、まことの安息を取り戻すために働きをおやめにならないことの恵みを語りました。その最中にこうした世界規模の災いが起こっていたことをその日の夜に知って、私は大変厳しい思いにさせられました。神が世界を、私たちの人生をお見捨てにならないことを語っているその最中で、この津波が押し寄せていたことを、どう受けとめるべきか、戸惑いを覚えました。
けれどもなお私たちはここで思いに刻まなくてはなりません。「神は生きておられる、今も働いておられる」、と。教会が存在し、私たちキリスト者が存在していること、それがそのしるしです。神は御国を建設する拠点として教会を建てられ、神の民を掘り起こすために、先に呼び集められた私たちに主の力と権能を授け、遣わしてくださっているのです。あの預言者エレミヤを遣わした時のように、私たちを「堅固な町」、「鉄の柱」、「青銅の城壁」としてこの混沌の世界に向かって立たせ、語られるのです。「あなたは腰に帯を締め 立って、彼らに語れ。 わたしが命じることをすべて」、「わたしがあなたと共にいて、救い出す」と。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」。終わりの日に約束されているこの恵みのご支配の完成のために、今日も私たちは主の力と権能を携えて、ここから一週の旅路へと遣わされていくのです。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、あなたは生きておられます。今も働いておられます。この世界で起きること、私たちの人生に降りかかる出来事、それらの深みを見通すことは私どもにはできません。しかし教会がここに建っていること、主イエスがあの日、弟子たちを呼び集められたように、あなたが私たちを今日もここに呼び集めてくださっていること、私たちが主の力と権能とを授かって主の御業の続きを託されていること、そのことに、あなたが私たちを見捨てておられないことのしるしと慰めを見出します。私たちの力はあなたから来ます。
どうか御国を来らせてください。あなたのご支配を実現してください。
力と権能の源であられる、主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。