主日礼拝

子を通して父を見る

「子を通して父を見る」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第9章 1節-6節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第5章 19節-30節
・ 讃美歌 ; 128、367、183
・ 奉唱  ; 148-1、572

 
1 今日の聖書朗読をお聞きになって、なんだかいろいろなことが言われていて話が複雑そうだな、そんな印象を持たれた方があったかもしれません。子がどうだ、父がどうだ、子と父がどうなっている、いろんなことが言われていました。けれども、これらの主イエスのお言葉が示しているのは、私たちの信仰の生命線に関わることです。すなわち主イエスは私たちにとってどういうお方なのか、がここで取り上げられているのです。
ベトザタの池で病人を癒したために、ユダヤ人の剥き出しの敵意に向かい合うこととなった主イエスがまず初めにおっしゃったことは、ご自分が独自の力の持ち主ではない、ということでした。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」、というのです。ユダヤ人に命を狙われ、論争を挑まれているのですから、さぞかし自分が力ある者であることを見せつけて、彼らに思い知らせることができたらいいのに、私たちであったらそう思うでしょう。けれども主イエスはここでご自分からは何をする力もないのだ、ということを明らかにしておられる。なんだか頼りない、不安にさせられるようなお言葉にも聞こえます。主イエスはご自分の力の強さを誇られたのではなくて、ご自分がいかに何事もなすことができないかを示されたのです。このことは、30節でも繰り返されており、そこでは「わたしは自分では何もできない」、と語られています。主イエスはここで、自分には独自の力はないのだ、ということを盛んに強調しておられるようです。ある人はここには「主イエスの無力」が語られている、といいます。ショッキングな言葉です。主イエスは何もできない、というのです。
けれどもここで主イエスの無力が語られていることは、決して意味のないことではありません。なぜならこのことはすぐあとの条件ときっちりと結び合っているからです。19節の後半はこう続きます、「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」。30節の場合にはこう続きます、「ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」。主イエスはご自分の独自の力を振るい、ご自分の力で立つことはなさいません。けれどもそれゆえにこそ、父の御心が深くこの御子なる主イエスに根を下ろし、あたかもここに父なる神が生きて働いておられるかのように、神の力が振るわれることになるのです。もし父なる神と子なる主イエスとを結ぶパイプのようなものがあるとすれば、そのパイプは御父である御神から御子なる主イエスへと向かって、すっきりと、何のつまりものもなく通っているということです。そこで父なる神の愛が、つっかえることなく、どっとこの主イエスへと向かって流れ込んでいるのです。父と子があまりにもしっかりと、深い交わりを築いているために、御子なる神である主イエスを見ると、父なる御神がどのようなお方か、実によく分かるのです。そのようにして、この主イエスにおいて、神はご自身を現してくださっているのです。
私たち人間の営みにおいては、親と子の関係はなかなか難しいものです。今日それはいよいよ一筋縄ではいかないものになっています。子どもは成長するに従って自分の中の思いを親に語らなくなりますし、親も子どもの心の中に簡単には入っていけないことを知ります。私には中学の時に、ほとんど家で言葉を発しないで過ごす時代がありましたので、親はどんなにか心配したことと思います。子どもは親に反発することもありますし、また自分の居場所を確保して、他の誰も入って来られない自分の世界を築こうとします。近頃のように携帯電話やインターネットが広く使われるようになると、子どもが誰と話をし、何を考えているのかも見当がつかない、といったことも起こってきます。
けれども、この父なる神と御子との間には、そうした行き違いや対立、お互いに理解できないということが少しもありません。御父は御子を愛して御自分のなさることをすべて御子にお示しになっておられるからです。まことの愛には隠し立てをすることがありません。御父の望まれること、よしとされることがそのまま御子なる神の望まれること、よしとされることとなるのです。御子である主イエスは、繰り返しおっしゃっておられます、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」(7:16)、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」(14:10)。御父と御子は切り離して考えることができないのです。

2 御子はご自身の力と権威によって立つのではなく、父なる神の力と権威を受けて遣わされ、私たちの前に立っておられます。このことを知らされる時、主イエスは決して無力なお方ではないことを私たちは知るのです。父なる神のなさる業、その力と権威が、このお方に委ねられているからです。ということは、この主イエスに私たちが相見えるということは、そこで私たちは全能の父なる神ご自身に出会っているということなのです。私たちはそこで畏れを抱かざるを得ません。主イエスの御名を呼ぶ時、私たちは同時に全能なる神の御名をそこで呼んでいることになるのです。この礼拝で、私たちが主イエスと出会っている今、私たちはまた、神ご自身と向かい合っているのです。私たちは御子なる主イエスを抜きにして、父なる神を敬うことはできません。父なる神はこの御子なる主イエスを通してその御業を行われるのです。この御子において父なる神は私たちに、また世界に向き合っておられるのです。それゆえに、「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになる」ことが、父なる神の御心なのです。逆に「子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない」ことになるのです。
 神とはどのようなお方か、それを知るために私たちは、まず主イエスと出会わなくてはなりません。主イエスと出会うということは、「見えない神」が見える姿をもって私たちと出会ってくださるということです(コロサイ1:15)。イスラエルの民は、神と直接相見えた者は生きていることができないと信じていました。エジプトを脱出したイスラエルの民に、主なる神が出会われた時、そのお姿は見えなかったのです。雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる中で、主は民に臨まれたのです。私たちがもしまともに主なる神と向き合うなら、そのご栄光の光のまぶしさに堪えきれず、汚れに満ちた私たちは燃え尽くされてしまうでしょう。けれども、御子なる主イエスが私たちのもとに来てくださったおかげで、私たちは滅びることなく、主なる神とまともに向かい合うことが許されているのです。そこで親しく御言葉を聞き、行われる御業をつぶさに見て、主イエスが私たちに何をお望みになっておられるかを知ることができます。それはまた、とりもなおさず、父なる神が私たちに何を望んでおられるのかを、主イエスが私たちに教えてくださっているということなのです。
私たちの祈りの言葉の中に、「主イエス・キリストの父なる神様」、という呼びかけの言葉があります。日本に来ておられるある宣教師の先生がお話の中で、こうした呼びかけはアメリカではしない。日本独自の呼びかけではないのか、と話されたことがあります。欧米では「天の父なる神よ」、と呼びかけることの方が多いのかもしれません。後で知り合いの牧師の方がお話くださったことによれば、日本のようにさまざまな宗教の神が入り乱れている中では、ただ「神よ」と呼びかけるだけでなく、「主イエス・キリストの父である神様」、と呼びかけるお方を明確にすることに意味があるのだ、とのことでした。なるほど、と思いました。私たちが信じるのは、ほかのどんな神でもなく、この御子イエス・キリストの御父であられる主なる神なのです。そしてこの主イエスと出会うことで、私たちはこの神に出会うのです。

3 主イエスを通して、私たちは父なる神の御心を知ることができます。ですから私たちは主イエスのおっしゃることに深く聞かなければなりません。主イエスはここで、「命」と「裁き」とが深く結び合っていることを示されます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(24節)。主イエスの語られる御言葉を聞き、それを受け入れるということは、この主イエスをこの世に遣わされた父なる神を信じるということです。そしてそのことはとりもなおさず、永遠の命を得ることなのであり、また裁きから遠ざけ守られることであるのです。
 年明けに教会員の方からいただいた年賀状の中に、「洗礼を受けてもう三十年になりますが、まだ分からないことがたくさんあります。『永遠』ということも分かりません。分かるようにお導きください」という言葉がありました。「永遠」とはどういうことか、まして「永遠の命」とはどういうことか、それは表現することの難しいものです。もう相当の間伝道の歩みを重ねてきたある伝道者も、「どうもこの永遠の命を分かるように説明することはなかなかできない」と、あるところで語っておられます。けれどもここで言われていることは、主イエスの御言葉を聞き、主イエスをお遣わしになった父なる神を信じることがすなわち、永遠の命を生きていることだというのです。主イエスの御言葉を信じ受け入れることを通して、私たちは、あの御父と御子との間に満ちている愛の交わりの中に招き入れられるのです。その命を今既に生き始めています。主の御言葉は永遠の命と結びついているのです。この礼拝で主イエスの御言葉を聞くとき、今私たちは死から命へと移っているのです。御言葉と共に新しい命が私たちの中に飛び込んできて、既に新しい脈を打ち始めているのです。
逆に言うなら、主イエスの御言葉を聞き入れることを拒むことは、差し出されている永遠の命を自分から拒むことになり、それがそのまま主の裁きとなるのです。この裁きは一方では将来のことです。これから先のことです。終わりの時が来ると、「善を行った者はいのちへと甦り、悪を行った者は裁きへと甦る」ために墓の中から呼び出され、出てくるといいます。ところが同時にこうも言われるのです、「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(25節)。終わりの時に主イエスはまことの裁き主として再び来られます。けれどもそれは遠い将来の話ではないのです。今どのように生きているのかが、終わりの日に命を受けるのか、裁きを受けるのかに、そのまま直結しているのです。私たちが今、主イエスにどのように向かい合うのか、それが命の道を歩むのか、裁きを受ける道へ突き進むのかを決定するのです。大事なのは今です。今、主イエスの御言葉にどのような姿勢を示すのかが、私たちの救いを左右するのです。「まだ先がある」、「そのうち自分の態度を決めることにしよう」、という考えもあるでしょう。主イエスとの出会い方は人様々ですし、それぞれの受けとめ方、御言葉を呑み込むペースも違うということもあります。しかしその場合でも、私たちはいつも主イエスにどのように向き合うのかを問われていることは忘れてはならないと思います。ここで主イエスは「今」を問題にしておられる。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である」、とおっしゃるのです。今の御言葉に対する態度いかんが、将来の救いにも関わってくるのです。その意味では御言葉を聞いた私たちすべてが、今主イエスに向かっての態度決定を迫られているのです。

4 このヨハネによる福音書は、紀元1世紀の後半、キリスト教会がユダヤ教の会堂と決別し、教会として自覚的な歩みを始めていく決断が行われた時代に書かれました。そのきっかけとなったのは、まさにこの「主イエスを自分にとってどのようなお方として信じるか」、という問いだったのです。ユダヤ人たちは、18節にあったように、主イエスが神をご自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたことを、神への許されざる冒?として受けとめました。ところが教会は、まことにこのお方が父なる神と等しいお方、このお方こそ、生ける神であると信じ、告白したのです。主イエスを生ける神キリストと告白する信仰者はユダヤ教の会堂から追放され、その集いはキリスト教会としての独自の歩みを開始することになりました。この時代、誰もが言わば踏絵のように、主イエスをどう受けとめるかを巡って、はっきりとした態度決定を迫られたのです。自分はユダヤ教につくのか、それともキリスト教会につくのか、はっきりとした決断を求められたのです。私たちの信仰の歩みも、そうした厳しさ、真剣さを持っている、そういう側面があることを改めて胸に刻みたいと思います。私たちも、いつも新しく神の御前で、主イエスを誰と告白するのか、決断を迫られているのです。
この教会では献金の際の祈りは、主の祈りをもって会衆全体が祈ります。けれども献金を集めて前に持ってくる会衆の代表が、献金の祈りを捧げる教会も多くあります。そのような場でしばしば聞くのは、「先週一週間も守られて感謝します、今週一週間もどうぞお守りください」、という祈りです。あるいは、「また来週も元気に礼拝に集まることができるように」、という祈りです。けれども主がここでおっしゃっておられるのは「大事なのは今、決断すべきは今なのだ」ということではないでしょうか。今礼拝において主イエスに出会っている、この御子において御父なる神に出会っている、そこで御言葉を聞く時、既に死から命へと移っている、その真剣さ、恵みの大きさを思う時、来週どうだとか、先週や今週がどうなのか、といったことを思い遣る、覚めたゆとりのようなものは、本当は出てこないのではないか、そんな風にも思わされるのです。そういう祈りをしていけないということはありませんが、今礼拝で受けている恵みの大きさ、真剣さに打たれ、今招き入れられている永遠の命に感謝する、そのことが真っ先に出てくるはずであることを忘れたくないのです。

5 預言者イザヤは戦争の影におびえ、暗闇の中で不安に過ごしている民に向かって、「ひとりのみどりご」、「ひとりの男の子」の誕生を語りました。その肩には万軍の主の権威が置かれ、このお方は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれると言いました。父なる神の権威を帯びたお方が、私たちと同じ肉を取って来られたのです。そして父なる神の御心に従って、神に反逆する私たちのために十字架におかかりになりました。父なる神はこの御子を死の中から甦らせ、天に高く挙げ、「あらゆる名にまさる名」をお与えになり、このお方が御自分と等しいお方であることを明らかにされました。こうして生ける神である主イエスが、暗闇の中でおびえる私たちに今日も御言葉をくださっています。そして「自分が語った言葉は真実のこと、確かなこと、自分の存在を賭けて保証することだ」と約束してくださっています。19節、24節、25節で繰り返されている「はっきり言っておく」という言葉にはそういう意味が込められています。もとの言葉では「アーメン、アーメン、あなた方に告げる」、そうおっしゃっています。私たちのアーメンに先立って、「主イエスのアーメン」があって、主イエスの御言葉は確かだ、この御言葉においてあなたがたは確かに父なる神と出会い、永遠の命に生き始めているのだ、とおっしゃっておられるのです。戦乱が続くこの世界、途方もない規模の災害に見舞われるこの世界において、私たちは暗闇の中にくず折れて、信仰も揺さぶられるかもしれません。けれども、その暗闇を味わい尽くし、すべてのみ干してしまうために、神ご自身が独り子としてこの世に降ってきてくださいました。そしてなお、この世界を見捨てない、私たちの人生を見捨てはしない、あなた方を御言葉によって私のものとして取り戻す、このことは確かだ、アーメンだ、私が保証する、そのために私は十字架へと赴くのだ、そう語りかけてくださいます。この「御子のアーメン」に支えられて、失いかけていた「アーメン」が、私たちの内にも取り戻されるのです。御子の祈りに支えられ、父なる神への道が打ち開かれるのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、御子イエス・キリストを通して、あなたがどのようなお方かを、あなたは私たちにお示しになっておられます。あなたの御心は私たちが死んだ者として暗闇の力に怯えつづけていることではなく、あなたのアーメンに支えられて、あなたの御言葉に支えられて、今、永遠の命に生き始めることであることを信じます。今がその時であることを心に刻ませてください。御子を公に言い表す者は、御父であるあなたにも結ばれています。どうか今、ここに示された恵みの約束に、背を向けることがありませんように。あなたのアーメンに支えられつつ、御子を生ける神と告白する信仰の節操を貫かせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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