夕礼拝

もう泣かなくともよい

「もう泣かなくともよい」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第31編10-17節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第7章11-17節
・ 讃美歌:305、483

ナインの町の門にて  
 本日の聖書箇所の冒頭には「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた」とあります。「それから間もなく」とは7章1節から10節で語られていた百人隊長の僕が癒された出来事から「間もなく」ということです。この出来事は1節を見ると分かるようにカファルナウムという町で起こりました。カファルナウムとナインの位置関係は、聖書の後ろにある付録の聖書地図6「新約時代のパレスチナ」を見ると分かります。カファルナウムはガリラヤ湖畔の町で、そこから四十キロほど南にナインがあります。地図ではタボル山のすぐ下です。ですからイエスはカファルナウムからナインまで四十キロほどの旅をしたことになります。その旅がイエスの一人旅ではなかったことが「弟子たちや大勢の群衆も一緒であった」と11節の後半で語られていることから分かります。イエスと一緒にいたのがどれくらいの人数だったのか正確には分かりませんが、なかなかにぎやかな一団だったのではないでしょうか。イエスと彼に従う群れがナインに近づいてきたのです。  
 12節の冒頭に「イエスが町の門に近づかれると」とあります。当時の町は壁で囲まれていたようです。ですから町に入るときも、町から出るときも門を通りました。イエスはナインの町に入るためにその門の近くまで来ていたのです。すると、その門から町の外へと出てきた人たちがいました。12節にはこのようにあります。「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。」当時、遺体は町の外に葬られました。ですから、やもめの一人息子が死んで、その遺体を町の外へと運んでいたのです。おそらく母親、その息子を納めた棺、そして町の人たちと列をなしていたと思います。イエスが町の門に近づいたとき、ちょうどその葬列と鉢合わせしたのです。

やもめの母親の絶望  
 この母親は一人息子に先立たれました。子どもが親の死を看取るのも悲しく寂しいことですが、親が子どもの死を看取るのは計り知ることが出来ない苦しみと悲しみを伴います。14節でイエスは「若者よ」と呼びかけていますから、亡くなった息子は若かったことが分かります。母親は若い息子に期待し、その将来を思い描いていたでしょう。それだけでなく、息子と共に生きていく自分の将来も思い描いていたに違いありません。しかし人生はこれからという若さで息子の命とその将来は断たれてしまったのです。13節で主イエスはこの母親に「もう泣かなくともよい」と言われていますから、彼女は泣いていたに違いありません。彼女は泣きながら息子の遺体を葬るために町の外へと出てきたのです。しかもこの母親はやもめであったと語られています。やもめとは、夫を亡くした女性のことです。聖書の時代においてやもめが生きていくのはとても困難なことでした。妻は夫によって経済的に養われていたからです。だからこそそのような社会的に弱い立場にあるやもめを苦しめてはならない、その権利を守りなさいと旧約聖書で言われているのです。おそらくこの母親も夫に先立たれた後、貧しい生活を強いられてきたに違いありません。しかしそのような貧しい生活の中にあっても彼女には一つの希望がありました。先立たれた夫と自分の間に神さまが授けてくださった息子です。この若い息子への母親の期待は、先ほど申したこととは少し異なる面もあります。それは、やもめの母親にとって、この若い息子は経済的に自分を養ってくれる唯一の存在でもあったということです。私たちの生きる社会においては、夫に先立たれた後に妻が働くことも珍しくありませんし、そもそも共働きの夫婦が多くなってきています。そのような社会においては、親が若い息子を養うことはあっても、その逆はあまりありません。しかし聖書の時代では、やもめが働く道は閉ざされていましたから、一人息子が死んでしまったらやもめを養ってくれる人は誰もいなくなってしまうのです。息子の死を、愛する者の死としてただ純粋に悲しむのではなく、その死によってこれから自分の生きる術がないことを思うのは不純なのでしょうか。私はそんなことはないと思います。愛する者を失うことと自分の生きる術を失うことは、天秤にかけられるようなことではないからです。この母親は、息子の死によって、愛する者を失うという精神的な喪失と、これから生きていくための支えを失うという経済的な喪失を味わい、そのことによって精神的にも経済的にも生きる希望が断たれてしまったのです。このやもめの深い喪失と絶望に町の多くの人が同情したに違いありません。「町の人が大勢そばに付き添っていた」と語られています。泣いている母親のそばに町の人が大勢付き添っていたのです。聖書は、この人たちが母親になにを語りかけたか記していません。おそらくなにも語りかけなかったのではないでしょうか。慰めの言葉を語りかけたいと思っても語りかける言葉が見つからなかったからです。なによりこの人たちは、一人息子を生き返らせて彼女に返すことなどできないのです。この世には多くの苦しみや悲しみがあります。私たちはそのことに少しでも手を差し伸べたいと思います。実際、微力ながらも手を差し伸べられることもあるのです。けれども死に対して私たちはまったく無力です。どれほど医療が発達しても、死に対して、差し伸べる手も語りかける慰めの言葉も私たちは持っていないのです。

死と死が突きつける絶望  
 本日の箇所では、やもめの母親とその一人息子の死という特別な状況だけが見つめられているのではありません。そうではなく、この特別な状況が象徴している死とその死が突きつける絶望こそが見つめられているのです。それは、私たちが普段、目を背けようとしていることです。この青年の遺体は町の外へと運ばれようとしていました。町の外に遺体を埋葬する場所があったからです。生きている人たちは町の中で生活し、死んだ人は町の外、共同体の外へと運ばれていくのです。町の周縁で、人々の生活の周縁で埋葬が行われます。死は人生の隅っこに追いやられているのです。私たちが生きる社会は、聖書の時代よりもっと死が見えにくくなっています。それは、家庭ではなく病院や施設で死を迎えることが多くなったことによるところがあるでしょう。もちろんそれが悪いということではありませんが、しかしそのことによって死が隠されてしまう傾向にあるのも確かです。私たちの日々の生活の中に死があるのではなく、私たちの日常の外に死があるように感じられてしまうのです。本当は、私たちの日常のただ中に、人生のただ中に死はあるのです。しかし私たちは、死を自分の人生の隅っこに追いやって、死が突きつける絶望から目を逸しているのです。泣いている母親、担がれて運ばれる棺、そして付き添う人たち。付き添う人たちは確かにこの母親の悲しみや絶望に同情し、あるいは彼女を心配し、なんとか慰めたいと思っていたでしょう。しかし同時に葬列に連なりながら、誰もが自分の死を思い浮かべていたのではないでしょうか。この青年の若すぎる死は悲劇であり、一人息子を失った母親の悲しみも計り知れないものです。しかしその周囲にいた人たちも、自分がいつ死ぬか分からない存在であり、いつかは必ず死ぬ存在であることを思わずにはいられなかったに違いありません。長く生きられたとしても必ずしも良いことばかりではありません。その人生は、詩編の詩人が注ぎ出す嘆きに語られているようなものであるかもしれないのです。本日共にお読みした旧約聖書詩編第31編10節から14節ではこのように語られていました。「主よ、憐れんでください わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも 苦悩のゆえに衰えていきます。命は嘆きのうちに 年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ 骨は衰えていきます。わたしの敵は皆、わたしを嘲り 隣人も、激しく嘲ります。親しい人々はわたしを見て恐れを抱き 外で会えば避けて通ります。人の心はわたしを死者のように葬り去り 壊れた器と見なします。ひそかな声が周囲に聞こえ 脅かすものが取り囲んでいます。人々がわたしに対して陰謀をめぐらし 命を奪おうとたくらんでいます。」そしてこのような人生の先に死があります。誰一人避けることができない死があるのです。どれだけ人生の隅っこに追いやっても、死を免れることはできません。ここに死によって突きつけられる絶望があります。それは、どうせ死ぬのなら生きることになんの意味があるのだろうかという絶望です。生きることには意味がないという諦めがあります。そしてその諦めを覆い隠すための言い訳が世の中には溢れています。自分が納得する人生を送れればそれで良いとか、名声や名誉を得ることによって名を残せれば良いとか、あるいは子どもや孫に託すものがあれば良いとか、そのようなことです。けれどもどんなにもっともらしい言い訳であったとしても、死が突きつける絶望を取り除くことは決して出来ません。若くして死んだ青年、その死によって精神的にも経済的にも支えを失い生きる希望を失った母親、そしてこの葬列に連なることによって、将来必ず迎える死に向かって生きていかなくてはならないという絶望を突きつけられた人たち。ここには三重の死が見つめられているのです。すでに死んだ者。生きる希望を断たれた者。いずれ死ななくてはならない人生を生きなくてはならない者。だれもが死に捕らわれているのです。

もう泣かなくともよい  
 主イエスは、「この母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われ」ました。母親が主イエスに助けを願ったとは語られていません。彼女から主イエスに訴え願ったから、主イエスがお応えになったのではないのです。主イエスは、一人息子を失い絶望の中で泣いている母親を見ました。「主はこの母親を見て」とありますが、これはなんとなく「見た」ということではありません。「見つめた」ということです。この出来事は母親からの訴えや願いによって起こったのではなく、主イエスがこの母親を「見つめた」ことによって起こったのです。そして主イエスはこの母親を見つめて憐れに思いました。この「憐れに思う」という言葉は、元々「はらわた」、「内蔵」を意味する言葉であり、主イエスが彼女を憐れに思ったとは、彼女の絶望に「はらわたを引き裂く」ほどの憐れみを持たれたということです。それは、母親が熱心に願ったからでも、あるいは母親が信仰を持っていたからでもなく、ただ一方的に主イエスがこの母親を見つめてくださり、憐れに思ってくださったからです。私たちの憐れみは、相手の身になって考えたとしても、自分を捨て去ることも明け渡すこともできない限られたものに過ぎません。しかし主イエスの憐れみはそのようなものではないのです。ルカ福音書において、この「憐れに思う」という言葉は、この箇所を除いて二回しか使われていません。一つは、追いはぎに襲われ半殺しにされた被害者をサマリア人が「憐れに思い」介抱したときに使われ、もう一つは、放蕩息子がすべてを失って帰って来たとき、父親が「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」ときに使われています。このことから分かるようにこの言葉が示す憐れみは限りのないもの、法外なものであり、まさに主イエスの憐れみは、そのような憐れみであり、相手のために自分を引き渡す憐れみなのです。そして主イエスは泣いている母親に「もう泣かなくともよい」と言われました。「もう泣かなくともよい」とは、元々の文章の意味するところを分かりやすく訳すならば、「泣き続けてはならない」となります。主イエスは母親に「泣いてはならない」と言ったのではありません。一人息子を失い、生きる希望を失った母親は泣かずにはいられないのです。主イエスは、この母親の悲しみや絶望を否定されたのではありません。むしろ受けとめてくださったのです。私たちも涙を流さずに生きていくことなどできません。たとえ流す涙さえ枯れ果ててしまっていたとしても、私たちは心の奥底では誰にも気づかれずに涙を流しているのです。それが私たちの現実です。涙を流すことのない笑顔がこぼれるばかりの世界など虚構に過ぎません。しかし私たちは虚構の世界に生きることなく、安心して現実を生き、涙を流すことができます。たとえ誰にも気づかれない涙であったとしても、主イエスはその絶望の涙を受けとめてくださり、憐れんでくださり、「泣き続けてはならない」と言われるのです。絶望のために今までは泣いていたとしても、これからは「もう泣かなくともよい」と言われるのです。それは、今まで十分泣いたのだから、そろそろ泣き止みなさいということではありません。あるいは人は泣くことによって悲しみを落ち着かせていくものだから、もう泣くときは過ぎ去ったなどということでもないのです。そのようなことで死の力に打ちのめされた絶望は取り除かれることはないからです。  
 そこで主イエスは葬列に近づき「棺に手を触れられ」ます。律法によれば死体に触れれば汚れるとされていました。しかし主イエスはその律法を越えて棺に手を触れられたのです。それは主イエスが律法をないがしろにしたからではありません。そうではなく律法を踏み越えてまで一人息子の死とその母親の絶望に近づこうとされる主イエスの真剣さによるのです。「はらわたを引き裂くような」憐れみによって、主イエスは律法を越えて棺に手を触れたのです。主イエスが棺に手を触れると、その棺を担いでいる人たちは立ち止まりました。町の門から外へ出て、埋葬の場へと向かっていた葬列はその歩みを止めたのです。棺に手を触れたイエスは「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」のです。イエスのお言葉によってこの若者は、新しい命を与えられ死人のうちから甦らされたのです。そしてイエスは、その息子を母親にお返しになりました。「お返しになった」を直訳すれば「与えた」です。イエスは、新しい命を与えられた息子を母親に与えたのです。

神の訪れ  
 この出来事を見て、「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った」と16節にあります。「大預言者が我々の間に現れた」とは、エリヤのような大預言者が現れたということです。なぜなら旧約聖書列王記上第17章10節から24節で語られている、エリヤがサレプタのやもめの息子を生き返らせた出来事と、ルカ福音書が本日の箇所で語っている出来事はよく似ているからです。エリヤはサレプタの「町の入り口」まで来ると「やもめ」に出会います。このやもめの家でエリヤは共に生活しますが、やがてやもめの「息子」が死にます。エリヤはその息子を生き返らせて「母親に渡し」たのです。すると母親は、「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と告白しました。ですから、イエスがやもめの一人息子を生き返らせ、母親にお返しになったのを見た人々は、エリヤを思い浮かべたに違いありません。そしてエリヤこそイスラエルの民が待ち続けていた預言者にほかならないのです。旧約聖書の最後マラキ書第3章23節に「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とあります。エリヤの出現を彷彿とさせる主イエスのみ業によって、この「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」という預言が成就したと人々は信じたのです。そしてエリヤのような「大預言者」の出現を通して、「神は私たちを心にかけてくださった」と人々は言いました。「心にかけてくださった」と訳されている言葉は「訪れた」という言葉です。人々は「神が私たちを訪れてくださった」と言ったのです。この言葉は、ルカ福音書で三回使われていて、すでにクリスマス物語の洗礼者ヨハネの父ザカリアの預言の中で二回使われていたのです。1章68節では「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し」と語られ、78節では「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」と語られています。人々は、やもめの一人息子が生き返る出来事を見て、まさにザカリアが預言した通りに神が自分たちを訪れてくださったと、神さまの訪れを告げたのです。

甦りの意味  
 けれどもこの出来事が、エリヤがサレプタでやもめの息子を生き返らせた出来事と似ていて、エリヤに似た大預言者が現れたと思えたとしても、だからといって、それだけで人々が神の訪れを自分たち一人ひとりのこととして受けとめたわけではないでしょう。やもめの一人息子の甦りは、彼自身にとって、また彼の母親にとって、そして付き添っていた人たちにとってどのような意味を持っているのでしょうか。もし彼の甦りが、一度死んで生き返っても死ぬ前と同じように生きているだけならば、彼はこの甦りによって死と死が突きつける絶望に打ち勝つことは出来ません。生き返っても前と同じように生きるなら、その人生は詩人が嘆くように「命は嘆きのうちに 年月は呻きのうちに尽きていき」、「罪のゆえに力はうせ 骨は衰えてい」くほかないのです。このように嘆きと呻きに満ちた人生を歩むぐらいなら、生き返らないほうが良かった、死んでいたほうがましだったとすら思うでしょう。そしてその歩みの先に二度目の死を迎えるのです。一度目に味わった死の恐怖をもう一度味わわなくてはならないのです。こんなことなら生き返りたくなかった。あのとき死んでいれば良かったと思っても不思議ではありません。このことは母親にとっても大して変わりはありません。もちろん一人息子が生き返って母親は喜んだに違いありません。けれども彼が生き返っても死ぬ前と同じように生きているだけなら、母親も息子が死ぬ前と同じように生きているだけであり、彼女にとっても、死と死が突きつける絶望は消えることはないのです。また一人息子が死ぬかもしれないと脅え、そのことによってもう一度同じ絶望の涙を自分は流さなくてはならないのだろうかと恐れるのです。あるいは息子より先に自分が死ぬことになったとしても、それで自分の死に対する恐れが小さくなることはないし、愛する者の死という自分が味わったのと同じ絶望を息子も味わうのかと思うと、息子が生き返ったという喜びは不安に変わっていくのです。葬列に付き添っていた人たちにとっても、やもめの一人息子の甦りが、生き返っても死ぬ前と同じように生きているだけならば、なんの意味もないのです。一人の若者が死んでいたのに生き返ったという驚きは残るかもしれません。しかし彼ら一人ひとりが必ず迎えなければならない死と、その死に向かっていく歩みが突きつける絶望になんら変わりはないからです。そして私たち一人ひとりにとっても、まったく同じなのです。そのようなやもめの一人息子の甦りは、私たちとはなんの関係もない出来事になってしまうのです。

死の力に立ち塞がって  
 けれども、主イエスによってやもめの一人息子が生き返った出来事は、生き返っても死ぬ前と同じように生きているのではありません。この出来事は、主イエス・キリストの復活の先取りにほかならないからです。それは、主イエスの十字架によって死が滅ぼされ、その復活によって与えられる新しい命に生きることの先取りです。一人息子は、生き返ったけど死ぬ前と同じように生きたのではないのです。そんな復活ならいりません。そうではなく、彼の死は滅ぼされ、彼は新しい命を与えられ、その命によって起き上がり語り始めたのです。彼は死ぬ前とはまったく異なる命を生き始めたのです。確かに彼は地上の歩みにおいて必ずもう一度死を迎えます。けれどもその死は、一度目の死とはもはや決定的に異なるのです。その死の先に復活と永遠の命の約束が与えられているからです。母親がイエスから与えられた甦った息子は、死ぬ前と同じように生きている息子ではなく、新しい命を与えられた息子です。そのことによって彼女も死と死が突きつける絶望に打ち勝つ新しい命を与えられたのです。付き添っていた人々がこの出来事に神の訪れを見たのは、まさにこの出来事において、死の力に捕らわれている人々を、絶望し泣き続けるしかない人々を、神が憐れんでくださり、介入してくださり、主イエスの十字架によって決定的に死が滅ぼされることを指し示してくださったからです。だから彼らは、いずれ死ななくてはならない人生に絶望するのではなく、死を越えて与えられる復活と永遠の命の約束によって希望を与えられ神を賛美したのです。そのような一人ひとりを通して、この主イエスのみ業は、「ユダヤの全土と周りの地方一体に広まった」に違いありません。  
 主イエスが「近づいて棺に触れると、担いでいる人たちは立ち止まった」と語られていました。その葬列は立ち止まったのです。主イエスは葬列に立ち塞がったと言っても良いかもしれません。前進してくる死の力に主イエスは立ち塞がり、それに打ち勝ったのです。この出来事においては一人の息子の死が滅ぼされただけです。しかしそれは、主イエス・キリストの十字架によって死の力が滅ぼされることを先取りしています。私たちは、もはやどうせ死ぬのだから生きていても意味がないとか、色々な言い訳によって生きる意味を取り繕う必要はありません。先ほどの詩人は嘆きの後15節以下で「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し 『あなたこそわたしの神』と申します。わたしにふさわしいときに、御手をもって 追い迫る者、敵の手から助け出してください。あなたの僕に御顔の光を注ぎ 慈しみ深く、わたしをお救いください」と告白しています。詩人の祈りは、嘆きから主への信頼の告白へと変わっていきました。そこでは詩人の生きる意味が変えられているのです。このことが決定的に起こったのが主イエス・キリストの十字架と復活においてにほかなりません。主イエス・キリストが新しい命を与えてくださることによって、死の意味が変わるだけでなく、生きる意味も変わるのです。私たちはなお人生の歩みの中で、涙を流します。悲しみ、絶望することがあるでしょう。しかしそのような私たちに「もう泣かなくともよい」というお言葉が繰り返し語られるのです。「泣き続けてはならない」というお言葉が私たちの人生に響き渡っているのです。神さまは私たち一人ひとりのところに訪れてくださり、死の力に捕らわれていた私たちを救い出してくださいました。私たちは、もはや死と死が突きつける絶望に押しつぶされることなく、神さまの訪れを賛美しつつ、地上の死の先にある復活と永遠の命の約束を与えられ、まことの希望を抱いて歩んでいくことができるのです。そして私たちは、恐れや絶望の中ではなく、まことの平安の内にこの地上での死を迎えることができるのです。

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