夕礼拝

神の子の死

「神の子の死」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編 第22編1-22節
・ 新約聖書: マルコによる福音書  第15章33-41節
・ 讃美歌 : 51、300

 
主イエスの死
 キリスト者にとって信仰の中心は、主イエス・キリストの十字架です。主イエス・キリストが十字架につけられ死んだという出来事は、信仰をもたない人々から見れば、自らをユダヤ人の王と称したナザレの大工の息子イエスが、人々の恨みを買い、弟子に売り渡されて死刑に処せられたということに過ぎないでしょう。しかし、信仰者にとって、主イエスの十字架は、神の独り子である主イエス、つまり、神と等しい方が、神から離れて歩んでいる私たち人間の罪をご自身の身に負い、私たちの身代わりとなって死んでくださったということになるのです。この信仰において決定的なことは、主イエスは神と等しい方であるということです。十字架は、偉大な宗教的な指導者が残虐な刑罰によって死んだということではなく、神の独り子が、苦しみを受け、死なれたということなのです。キリスト者にとって、主イエスは、神を指し示し、素晴らしい教えを語ったキリスト教の開祖ではありません。神の子、すなわち神ご自身であり、人間の罪を担った救い主なのです。十字架が私たちの救いであるという信仰は、主イエスこそ、神の子であるという信仰に生きることに他ならないのです。もし、主イエスが神の子ではなく、偉大な宗教的指導者であったのならば、十字架は救いではなく悲しむべき事件ということになるでしょう。神の子が、私たちのために十字架で死んだということに聖書が語る救いの本質、福音の本質があるのです。キリスト教と同じように、旧約聖書を大切にする一神教にイスラム教があります。イスラム教の人々にとっては、主イエスは預言者の一人でしかありません。又、現在、聖書を用いた新興宗教や、様々なカルトがあります。それらの多くは、主イエスを偉大な人物と認めているかもしれませんが、決して、神であるとは言いません。つまり、主イエス・キリストが神の子であるという信仰が、キリスト教信仰と、その他の宗教の信仰との分かれ目であると言っても良いでしょう。

十字架によって与えられる信仰
 主イエスが神の子であるという信仰の中心は、私たちにとって躓きでもあります。一人の人間、真の人として世を歩まれた主イエスが、神の子であるということは簡単に受け入れられることではないでしょう。私たちと同じように肉体を持ち、2000年前に地上を歩んだ一人の人間が、神であるということは、常識的に考えれば信じられるようなことではありません。狂信的だと思う人もいるでしょう。それでは、そのような躓きを越えて、主イエスこそ真に神の子であるとの信仰はどのようにして与えられるのでしょうか。信仰は人間の業ではなく、聖霊の御業であると言ってしまえばそれまでですが、聖霊の働きの中で、どのようなことが起こる時に、主イエス・キリストを信じる信仰が与えられるのでしょうか。
 聖書には、主イエスのお語りになった説教が記されています。又、行った奇跡や癒しの業も記されています。しかし、そのような主イエスの素晴らしい教えや驚くべき癒しに接することだけで、主イエスが神だという信仰は生まれません。確かに、主イエスのお語りになった言葉の中には、含蓄に富んだ、座右の銘にしたいような言葉が幾つもあります。又、驚くような癒しの御業があります。しかし、聖書の記述によれば、地上を歩んだ主イエスのお姿に接する中で、人々が抱いたのは殺意だったのです。主イエスは、ご自身が神の子であることを示すために、教えを語り御業を行って来ました。しかし、どれだけ偉大な教えや御業を見ても、そこで、主イエスが神の子だという信仰につながって行ったのではないのです。主イエスが神であるという信仰は、他でもなく、主イエスの十字架の出来事が示される中で、つまり、神の子が死んだという出来事の中で示されるのです。私たちは、主イエスの十字架抜きにして、すなわち、その語った言葉や、行った癒しの業に接するだけで、イエスが神の子であると信じるのではありません。そのような意味で、十字架は、信仰の中心であると共に、信仰の出発点でもあるのです。

主イエスの苦しみ
 私たちを罪から救い、私たちに主イエスこそ神の子であるとの信仰を生む主イエスの十字架、神の子の死とは、どのようなものなのでしょうか。主イエスが十字架で死んだということは、主イエスが苦しみを受けたということに他なりません。十字架は、主イエスのこの世での御受難の集大成でもあるからです。つまり、十字架とはどのようなものかを知るためには、主イエスのお受けになった苦しみとはどのようなものなのかを知ることでもあるのです。主イエスが十字架で受けた苦しみとは、ローマによって行われた十字架刑という残虐な刑罰によって肉体的に苦しめられたということではありません。もし、そのような肉体的な苦しみだけを見つめるならば、主イエスの死は、私たちの救いと言いうるようなものではなかったでしょう。聖書は、主イエスが、二人の犯罪人と一緒に十字架につけられたことを語ります。残虐な刑罰から来る肉体的苦痛ということだけを見つめるならば、この二人の犯罪人も、主イエスと同じ苦しみを一緒に受けたことになります。
 しかし、主イエスが十字架で受けた御苦しみはもっと深い所にあります。それは、33節に記されている、主イエスが十字架につけられた時の様子を見ることによって分かります。そこで、主イエスは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とお叫びになったのです。『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味であるとあります。主イエスは、十字架に至る苦しみの中で、それ程多くのことを語ってはいません。むしろ、沈黙し、ご自身を殺そうとする人々に身を委ねて、神様の御心の実現のために歩んで来られたのです。ここでの叫びは、御受難の中で最も、長い言葉であると言っても良いかもしれません。この叫びには、主イエスの十字架の苦しみが明確に表されているのです。それは父なる神様によって、見捨てられ呪われた者となるという苦しみなのです。
 高倉徳太郎という神学者が「荘厳なる神秘」と題する説教で、主イエスの苦しみの深みを、次のように説いています。「神の御顔がまったく包まれ、この瞬間、イエスは暗黒のどん底にすてられたもうたということである。どこにこの瞬間ほど荘厳な悲劇があろうか。・・・・・・神との交わりにおいて神の毛一筋の隙間もなかったイエス、その主が今や暗黒につきやられたとの深刻なる思いを経験したもうのである。イエスにとってはこれが最大の十字架であった」。主イエスの苦しみとは、父なる神によって見捨てられるということであり、それまで結ばれていた神様と主イエスとの間の完全な愛の交わりから切り離されることなのです。そこにこそ真の闇、真の苦しみであると言って良いでしょう。十字架の時、全地が暗くなったとありますが、それは、この十字架の時に、真の闇がこの地上を支配したということを表しています。主イエスの苦しみは、この十字架の叫びに集約されていると言っても良いでしょう。

私たちの苦しみの中での叫び
 この主イエスの十字架の叫びを聞くとき、この叫びは、実にしばしば、私たちが叫ぶ叫びでもあるということを思わされます。主イエスの十字架の叫びは、本日お読みした旧約聖書、詩編第22編の詩人の叫びです。1節には、次のようにあります。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いて下さらないのか」。この言葉は、苦しみの中に置かれた詩人、つまり人間が、神に向かって発しているものです。主イエスは、この詩編の言葉をもってご自身の苦しみを表現なさったのです。私たちは、この世で様々な苦しみを経験します。人間関係の様々なトラブルに遭遇します。自然災害に見舞われます。又病を患い、日々肉体の衰えを経験します。死の現実を通して愛する者との別れを経験します。そのような苦しみの直中にある時に、私たちは、「神も仏もあるものか」との嘆き、つぶやくことがある。どうして、私はこのような苦しみに遭わなければならないのか。神は私を見捨てられたのではないかと思うのです。
 私たちが、この言葉を叫ぶ時、それは、確かに、神に対する必死な求めです。しかし、注意しなくてはならないことは、私たち人間が、この叫びを叫ぶ時、心のどこかで、神を裁いているということです。神は、自分の求めに応じてしかるべき方だ。神がいるのに、こんな理不尽な苦しみがあってはならないという思いがあるのです。自分が直面している苦しみからの解放を願い、あるいは御利益を求めて人間が神に叫ぶ時、人々は確かに神を求めているかもしれません。しかし、神に向かって叫ぶ、人間の宗教的な営みの中に、人間の罪が潜んでいると言っても良いでしょう。どこかで、神さまは、「このような方であるべきだ」という思いに支配されているからです。そして、そのような思いこそ、人間の罪の本質と関わって来ることなのです。

人間の罪
 この人間の罪の本質は、まさに、主イエスの十字架の場面で、その十字架を囲む人々の姿に明確に現されていると言って良いでしょう。十字架の周りにいた人々の中には、主イエスの叫び声を聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」という者がいました。「エロイ、エロイ」という言葉は、「エリ、エリ」とも発音される言葉ですが、それを旧約聖書に登場する預言者、エリヤを呼ぶ叫び声として聞いたのです。偉大な預言者を呼び出すことによって、自分自身の救いを求めているのだと思ったのです。更には、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言う者がいたとあります。ここには、死に瀕した主イエスを最後まで、神を試す道具とする人々の姿が表されています。奇跡の生還劇のようなことが起こるかどうかを確かめて、主イエスが神の子であるかどうかを判断しようとしているのです。つまり、人々は神を求めながら、力強い御業が起こることを微かに期待しつつ、自分が納得出来るような形で、神が表されることを求めているのです。そのような神を求める人間の思いの背後に、神を試す人間の罪があるのです。そこで、人間が、神様の主人になって、神様を支配しようとしているのです。私たち、人間の罪の本質は、真の命の源である神さまとの関係が壊れているということにあります。神様との関係がねじれている、もっと言ってしまえば、神様との関係が転倒してしまっていると言っても良いでしょう。私たちの主であられる神さまを本当に主とあがめるのではなく、自分自身が神様の主人になり、神様は、このような方であるべきだと、神様の姿をイメージする。そのような中で、自分が造った偶像に仕えようとするのです。そのようにして、真の神様を主と崇め、礼拝することから離れていってしまうのです。偶像を造ってしまう私たちの罪によって、真の神様との主従関係が転倒してしまっている。そのことの結果が、人間が主イエスを裁いた十字架の出来事なのです。

神が神と戦う
 十字架上における、「神はなぜ私を見捨てたのか」と言う、主イエスの叫びは、不満を漏らし、神を裁く言葉ではありません。そのような意味で、私たちの叫びとは決定的に異なるのです。私たちが神様から見捨てられたと叫ぶことと、神の子である主イエスが、「なぜわたしをお見捨てになられたのですか」と叫ぶことには根本的な違いがあります。主イエスは、ご自身、神であり、何の罪も犯していないのにもかかわらず、神に見捨てられたのです。そして、十字架において神の子が人間の裁きに合うということを通して、根本的には罪人を裁く、神の裁きをお受けになったのです。つまり、神が神によって裁かれたのです。この十字架の苦しみを、宗教改革者M・ルターは、「神が神と戦ったと」と表現しました。神様は、罪人の罪を見過ごすことはない義なる方です。そのような意味で、罪人をしっかりと裁くお方なのです。しかし、同時に、神さまは、その愛故に、人間を救おうとされる方です。人間を裁く神と人間を救う神が葛藤されているのです。このお一人の神が、ご自身の中での葛藤の結果が、主イエス・キリストの十字架の苦しみなのです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びには、この神の葛藤の中での苦しみが訴えられていると言って良いでしょう。そして、それこそが、罪に対する裁きを確かに実行しつつ、人間の救いを成し遂げてくださった神様の救いのご計画なのです。主イエスの十字架には、神様の裁きと救いが同時に表されていると言って良いでしょう。だからこそ、そこに人間の救いが成就しているのです。

神様との関係の回復
 人々は、主イエスが十字架からおろされるのではないかという好奇心から十字架を見つめていました。しかし、そのようなことは起こりません。結局、主イエスは、「大声を出して息を引き取られた」のです。主なる神は、ご自身の一人子を、自ら主人となって神を試そうとする人間の裁きにご自身を委ねてくださるという形で、主イエスに罪に対する裁きをお下しになったのです。この十字架によってのみ、自分を主として歩む私たち人間と真の主である神様との関係が回復します。38節には、主イエスの十字架の後に起こった出来事が記されています。「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに避けた」とあります。この垂れ幕は、神殿の至聖所と聖所を隔てていた幕です。至聖所というのは、年に一回大祭司だけが犠牲の血をもって入る場所です。つまり、それは、聖なる神さまと人間が隔てられていることを表すものなのです。しかし、主イエスの十字架によって、人間の罪によって隔てられていた、神と人との関係が、取り去られたことを象徴的に表しているのです。神様との関係が保たれているということにおいて、どんな苦しみ、困難も、私たちを神さまから引き離すことはありません。私たちの根本的な苦しみは、主イエス・キリストの十字架によって取り除かれているのです。それ故に、どのような苦しみも、私たちを絶望に至らせるものではありません。苦しみの中にあって、尚、神を見つめることが出来るのです。

「本当に、この人は神の子だった」
 主イエスが苦しまれることによって、神と人間の間の隔たりを取り去ってくださった。そのことを示される時に、真にこの人は神の子であるとの告白が生まれます。聖書は、その告白を39節に記していまこの告白は、ローマの百人隊長によってなされました。百人隊長というのはユダヤ人ではありません。これまで、主イエスの御業に触れたことも、御言葉を聞いたこともありませんでした。そのような意味で、信仰からは最も遠い者であったと言っても良いでしょう。主イエスの裁判の後、官邸で、ローマ兵たちは、主イエスに暴行を加え、侮辱しました。その時、「部隊の全員を呼び集めた」とあります。この百人隊長も、主イエスを侮辱した人々の中にいたと考えることも出来るでしょう。彼にとって、主イエスは、自らが侮辱し、暴行を加え、十字架に付けた人でしかありません。つまり、主イエスに何ら、積極的な行動をすることもなかった人なのです。ただ、主イエスが十字架の苦しみを経験する一部始終を最も傍にいて、見つめていました。その中で、自らの手によって加えた苦しみによって、神が真の救いを成し遂げてくださっていることを悟ったのです。それ故、「本当に、この人は神の子だった」という信仰の中心とも言うべきことを告白したのです。自分が神の立場に立って、神の子主イエスを裁かずにはいられない者であること、そのような罪を赦すために、神が敢えて、人間の罪の中で救いの御業を成し遂げてくださったこと、神ご自身が神によって裁かれることによって、神の義を貫きつつ人間に対する愛を示してくださったことを示されたのです。

十字架を示されつつ
 私たちは、日々、この世の苦しみの中で、右往左往します。神に見捨てられたと叫びながら歩むことがあるでしょう。しかし、そこで、ただ、主イエスの十字架を示される中で、神との関係が保たれていることを示されます。そのような恵を示される中で、神を試し、自分の願いを実現する神を求め続ける歩みを止めて、根本的な苦しみを担ってくださっている主イエスを見つめながら、真にこの方こそ、神の子であるという信仰に生きる者とされるのです。私自身の罪のために十字架によって神様との間の隔てが取り払われているという恵の中で、初めて、主イエスが神の子であるとの告白をなすのです。本日、共に聖餐に与ります。この聖餐においても、主イエスが、私たちのために、十字架で肉を裂かれ、血を流されたことを示され、その出来事の中で、主に立ち返り「本当に、この人は神の子だった」との告白から始まる信仰に生きる者でありたいと思います。

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