夕礼拝

神の言葉に結ばれて

「神の言葉に結ばれて」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 詩編、第133篇 1節-3節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第8章 16節-21節
・ 讃美歌 ; 400、472

 
1 種蒔きのたとえを話されていた主イエスのところへ,その母マリヤと主イエスの兄弟たちがやってきました。これより前,主イエスの家族が出てきた場面は,かなり前にさかのぼりますが(2章),主が12歳の時,エルサレムの神殿に一人残っていたあの話の時です。それ以来ここまで,主イエスの家族はルカの証言の中には登場してきていないのです。この間に,主イエスは洗礼を受け,公のご生涯を歩みだされました。悪魔の試みに打ち勝ち,ガリラヤで伝道を始め,多くの人々を癒したのです。12人を選び,彼らを使徒と名づけて,共に歩みだしました。そのまわりにはいつも多くの弟子たちや群衆たちが集まってきて,その御言葉を聞いていたのです。こうした出来事が起こっている間,主イエスの家族たちはいったいどんな思いで過ごしていたのでしょうか。いったい自分の息子,自分の兄弟は何を始めたのか,と驚き戸惑っていたでしょうか。困った人間が我々の家族から出た,大変なことになった,と毎日やきもきしていたでしょうか。神の掟を破るようなことを平気でやるから,自分たち家族もとばっちりを受けそうだ,と不安に思っていたのでしょうか。どうもそうは思えないのです。
 12歳の主イエスが両親の心配をよそに神殿に残り,神についての話を聞き,質問している。必死で探し回って主を見つけた両親が,「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」,ととがめるようにして言うと,主はおっしゃる,「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを,知らなかったのですか」。人間の親であれば当然するであろう反応が,主イエスの前にはどうも通じないようなのです。何か普通の子供,ふつうの人間にはない,特別なことが,この人の身の上には起こっている,それが何なのかは分からないけれども,とにかく家族があれこれちょっかいを出すべきことではないようだ,そういったことを家族は感じ取っていただろうと思うのです。それがルカがマリアについてたびたび記している言葉です,「母はこれらのことをすべて心に納めていた」。主がお生まれになった時,この乳飲み子を拝みに来た羊飼いたちが天使たちのお告げがあったことを語った時も,「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて,思い巡らしていた」(2:19)のです。主イエスのことを兄弟たちが心配したり,その行っていることを気味悪がったりする時,母マリアは今は静かに見守るように兄弟たちを諭し導いていたのではないでしょうか。主イエスとその家族たちとの間には,つかず離れずの関係があったのではないでしょうか。家族であるには違いないけれども,この人は家族以上の関係を,この地上にもたらそうとして来ておられる。それが何なのかは今ははっきり分からないけれども,とにかく主イエスがなしていることを今は邪魔せずに静かに見守らなければならない。それが,この家族たちの中にできていた暗黙の了解だったように感じられるのです。

2 そのような関係にあった主イエスの家族たちが,何か用事があったのでしょうか,主イエスのもとにやってきました。けれども群衆が主イエスのまわりを囲んでいるのを見て,しばらく様子を見守っていたのでしょう。この家族たちは,主イエスがお話しているのを邪魔するつもりはなかったのです。ひととおり話が終わるのを待っていたのでしょう。けれども話が終わるのを待てなかったのは,群衆の方でした。主イエスを取り巻く人々の群れの中で,一番外側にいた人が,主イエスの家族たちが来ていることに気づいたのです。そこで伝言を送りながら,この人の群れの一番真ん中におられる主イエスのもとに「ご家族がいらっしゃっていますよ。何か用事があるんじゃないですか。行ってあげた方がいいんじゃないですか」,そう言ってよこしたのです。この人々は主の家族を見て思ったのでしょう,「あっ,イエス様のご家族だ,お通ししないと!こんなにたくさんの人がひしめいているんじゃ,お通しできないかな?とりあえずイエス様にこのことをお知らせしないと」。人々にとって,この家族は特別な存在でした。主イエスという特別なお方の母親であり,兄弟であるということは,この特別な方と血を同じくしているということです。血縁関係があるということです。それはどんなことをしても群衆たちには乗り越えることのできない隔ての壁です。どんなによい業を行っても,どんなに主イエスのおそばで仕えても,このお方の家族には決してなれない。それほどの親しい関係には決してなれない。この主イエスがマリアを母としてお生まれになり,誰彼の兄弟であるということは、お生まれになった時点で決定してしまっているわけです。それはもう変更がきかない。動かすことのできないことです。人々はこの家族たちを見て、自分たちとは違う、身分的に違う人たちがいらっしゃっている。主イエスのお話を聞きたい、という自分たちの思いに先立って、この家族たちの用事を優先しなければいけない、と考えたのです。

3 ところが、その知らせを聞いた主イエスは、おっしゃるのです。「あなたがたは何でそんな遠慮をするのか、なぜそんなに私の家族を畏れて気を遣うのか。あなたがたこそ、私の母、わたしの兄弟ではないか。安心して、神の言葉を聞きなさい」。主イエスはこれまで種を蒔くたとえを通して御言葉をどのように聞くのか、ということについて語っておられたのです。ただ聞けばいいのではない、どう聞くかが大事だとお語りになっていたのです。その話が終わるか終わらないかのうちに、人々には血縁関係、血のつながりの方が大事に見えてしまったのです。神の言葉を聞くことよりも、お出ましになった主イエスの家族が用を済ませることのほうが大事なことのように思えたのです。御言葉を聞いている最中から、この世の営み、血のつながりの方が大事に見えてきてしまうのです。もちろん、人々が「家族がおいでになっています」、と主に知らせたこと自体が悪いことだったのではありません。そうではなくて、主はここで、人間の血のつながり、人間の血縁関係に基づく結びつきよりも、はるかに親しく、深く、味わい深く、美しい結びつきがここに生まれていることに目を向けてほしい、とおっしゃっているのではないでしょうか。ここにこの世のどんな血のつながり、どんな人間的親しさも及びもつかない、麗しく親しい結びつきが生まれているではないか、肉の家族よりもつながりの深い霊の家族がいるではないか、私の言葉を聞いて、その言葉を行うように招かれているあなたがたこそ、その霊の家族ではないか、そういう語りかけが聞こえてくる思いがいたします。
 先週の月曜日から今日までの一週間、この教会のすぐ近くにあるギャラリーで、「片桐光太郎記念展&横浜指路教会有志展」が行われました。一年前に主のもとに召された教会員の片桐光太郎さんが生前に描いた絵画を初めとする作品と、指路教会の有志の方々が出品された作品とを合わせて展示した記念展です。個展を一度開きたいという願いを持ちながら、生前にはこれを実現できなかったことを受けとめたご家族と、教会の有志とが、思いを合わせて準備を進めたのでした。私はこの記念展の開会の日に開会礼拝に奉仕し、そこにお集まりになった多くの方々と喜びと感謝を共にしました。そして私自身も含めて、そこに集まった方々の表情が、とても幸せそうで、喜びにあふれていることに印象を深くいたしました。もう一度皆さんの作品をじっくり見たいと思って木曜日にもお訪ねしましたが、毎日のようにたくさんの方々が受付を初めとする当番に入ってくださり、この記念展を喜んで支えてくださっている様子が感じられました。そこには記念展がついに実現したということにとどまらず、このことを通して、今まで知らなかった教会員一人一人と知り合ったり、この方はこんなこともされていたのか、という発見をして驚いたりしたことへの喜びと感謝が溢れていました。開会礼拝の当日は「ヨハネの手紙一」第4章の御言葉から語ったのですが、もしこれに旧約聖書の箇所を加えて掲げるとしたら、これを選びたいとその時思いましたのが、先ほど読まれた詩編第133編の御言葉です。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。この詩編に歌をつけた讃美歌はこのように歌っています、「見よ、主の家族が共に集まる。なんと大きなみ恵みよ。なんと大きな喜びよ」(讃美歌161番)。この記念展に集まったのは、まさにこの「主の家族」なのではないでしょうか。血のつながり、乗り越え難い血縁関係をも超えている結びつきです。そこに神が結んでくださる絆、神の絆があるのです。主イエスの愛によって結ばれる絆があるのです。それによって私たちがすべて神の家族とされる、深い結びつきがあるのです。
 主イエスはそのことを願いながら、一人一人の魂に、心の中に、御言葉の種を蒔かれました。心をこめて種を蒔き、ご自分の母、ご自分の兄弟を喜んで、たくさんつくってくださったのです。この神の言葉に結ばれて、私たちは神の家族、主の家族となることができるのです。ある意味では主イエスの肉における母や兄弟にも勝る親しき家族関係に入ることができるのです。ここに起こっている出来事について、教会の最初の時代に生き、大きな働きをした伝道者パウロはこう言いました、「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(エフェソ2:18-22)。ここに生まれている交わりは血による絆を越える、御言葉に結ばれて生まれる絆です。あえて血について語るとすれば、それは主の血潮が注がれて生まれた交わりです。キリストの血潮を囲む聖餐を共にする交わりです。主の十字架の下に生まれる交わりです。十字架によって隔ての中垣を取り除かれ、誰でもキリストを救い主と信じ、その御言葉を聞いて行う者には与えられる、主の家族としての交わりです。
神の家族とされるということは、主イエスの体につながる一員となるということです。キリストのからだにつながる肢の一つになるということです。いつもキリストがすぐそばにいてくださることを知ります。そこにある喜びや悲しみ、嘆きや憂いも共にする交わりがあります。父なる神が私たちを、息子、娘同然のように励ましたり、戒めたり、慰めたりしてくださいます。そこに生まれる愛の交わりの実りを喜び、あの記念展のような実りを生む交わりを、慈しみの眼差しをもって見つめていてくださる神が、臨んでくださっています。そしてそこに生きる一人一人を大事な家族として父なる神が守ってくださいます。私の出身は山形の鶴岡です。冬はたくさんの雪が降り積もります。寒い雪の夜、帰り道に私の手を握り締めながら一緒に帰ってくれた父親の手が分厚くて、雪の中でも温かかったのをよく覚えています。そのような分厚くて温かい手のひらの中に、神が私たちを包み、守ってくださっている交わり、その交わりの中に私たちも生かされているのです。

4 「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちである」、この言葉を少し重荷のように感じられる方もあるかもしれません。神の言葉を聞くだけでなく、聞いて行わないと主の家族となる資格をもらえないのだろうか。私たちはそんな思いにさせられるかもしれません。もしここで問いかけられていることを表現しなおすならば、御言葉を聞いて、その御言葉に真実に生きることだ、と言ってもいいと思います。確かに、聞くだけではいけない、聞いて行う者になりなさい、そう主はおっしゃっておられます。けれどもそれは、あなたがたの中ですでに働き出している御言葉の力に、あなたがた自身を委ねなさい、その働きをこの世の思い煩いや富や快楽、誘惑や試練へのおそれによって邪魔し、押さえつけてしまうことのないようにしなさい、ということです。あなたがたが人間の努力で御言葉を実行できる者になりなさい、とおっしゃっているのではない。与えられている御言葉のご支配が既にあるのだから、その事実に即して、その恵みに真実に生きなさい、とおっしゃっておられるのです。先年亡くなられたキリスト者で経済学者の隅谷三喜男先生の表現を借りれば、日曜日だけの信者でなく毎日をキリスト者として歩むということです。遣わされている場において、キリストの恵みに支配されている者として生きるということです。  それがともし火を隠さず燭台の上において輝かすことになります。せっかく御言葉を聞いたのに、それを隠してしまうのではなく、その御言葉に支配され、裏打ちされた人生を歩むのです。そのように歩ませてくださる御言葉の力を信じて、歩むのです。その生き方、言葉と業一つ一つに、神の言葉のご支配がこだましている、現れ出ている、あふれ出ている、それを見る人はそこに「ともし火」がともっているのを見るような、そのような歩みが与えられていくのです。またそのことを信じて、御言葉に自分自身が開け渡されることを願いつつ、忍耐して聞き続けるのです。 5 そうした歩みを共にするのが神の家族であるこの教会にほかなりません。この教会が語る神の言葉が、私たちに血のつながりをも越える神の家族の交わりをもたらすのです。この家族の中に生きる私たちはまた、この世で与えられている家族の限界や家族があるゆえの悩みや苦しみも乗り越えていく力を与えます。子供の与えられない夫婦も教会で神の子供と共に生きます。早くに親をなくした人も、今はわけあって親から離れて暮らしている人も、和解が難しい親子関係、親戚関係に苦しんでいる人も、神の家族の中で主の名による親がたくさん与えられていることを知ります。夫婦の間で、親と子供との間で、健やかな関係が築けない時、神の言葉に新しく結び直されて、もう一度愛に生き始めることができます。主の種蒔きは、そのような神の言葉の恵みに生きる民が起こされるためであったし、教会が今なしていることも、この主イエスの種蒔きの延長線上にあるのです。 「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」、主イエスに家族の訪問を知らせたつもりの人々は、逆にそれまで知らなかったこと、自分たちこそ神の家族として招かれている者であるという幸いを、主イエスによって知らされたのでした。同じ幸いに私たちも招かれている者であることを、私たちも礼拝のたびに、神の言葉に結ばれるたびに、新しく示されているのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、どうかあなたが私たちの中に蒔いてくださっ御言葉の種が育ち、実を結んでいくのを、私たちが思い煩いやこの世の誘惑によって邪魔してしまうことがありませんように。あなたの御言葉を大事に魂に刻み込み、その御言葉が根を下ろして生え育っていくのを忍耐して待ち望ませてください。そこに生まれる人間の絆をはるかに越えた、主の血潮で築かれた神の言葉の絆、神の家族に生きる喜びと幸いに私たちを生かしてくださいますように。あなたの御言葉に真実に生きる者とならせてください。そして神の言葉に結ばれて歩む恵みと平安が、混乱と憎しみの渦巻く世界に、家族の崩壊に苦しむこの国の社会に、また寒さと不安の最中で、新たに立ち上がる絆を必要としている地震の被災地にある方々の上に、私たちの毎日の歩みの上に、豊かに注がれますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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