夕礼拝

神の言葉の聞き方

「神の言葉の聞き方」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第6章 1節-13節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第8章 4節-18節
・ 讃美歌 ; 430、53

 
1 この日、大勢の群衆が集まったのは、主イエスの話を聞くためです。神の言葉、御言葉を聞くためです。主イエスがたとえをもってお話になったのは、この群衆に向かってだったのです。この人たちは皆、とにもかくにも御言葉を聞くために集まったのです。主イエスの言葉など聞きたくない、聞く気もないと言って耳も傾けない人たちではなかったのです。主イエスのたとえ話の中に出てくる人たちはみんな、とにもかくにも御言葉を聞こうと思って集まった人々です。この人々にしかし主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」(8節)とおっしゃる。今さら改めてそんなことをおっしゃる必要はないのではないか。この人たちはみんな主イエスの御言葉を聞こうとして集まっているのだから、当然みんな聞く耳を持っているはずではないか。私たちはそう思います。けれども主イエスはここでわざわざ「聞く耳のある者は聞きなさい」、そうおっしゃる。つまりここで主イエスは、本当の意味で聞くことを求めておられるのです。御言葉に真実に聞くということを求めておられるのです。見た目にはみんな同じように御言葉を聞くために集まっているかのように見えても、皆が本当の意味で御言葉に聞いているとは限らない。だから、「気をつけよ、聞き方が大切である」(18節;塚本虎二訳)、と注意を促しておられるのです。

2 その御言葉の聞き方を巡って、主イエスは四つの場合を挙げられました。このたとえ話そのものは誰にでも分かるものです。種を蒔く人が種まきに出て行き、いろいろな土地に種を蒔いた。ある種は道端に落ちたが、人に踏みつけられ、ついには空の鳥の餌食となってしまった。別の種は石が多い土地に落ち、根づくことができないうちに水気を失い、枯れ果ててしまった。またある種は茨の中に落ちたため、茨が覆いかぶさり、せっかく出た芽が成長せずに終わってしまった。しかし良い土地に落ちた種は生え出て百倍もの実を結んだ、というのです。なるほど、あり得る話だ、しかしそれが一体どうしたというのだ、私たちはそう思うかもしれません。けれども、よく考えてみるとこの話は不思議です。私たちの心に、ある疑問を引き起こします。それはこの種を蒔く人は、なぜこんなに無駄なことをやっているんだろう、という疑問です。なぜ道端なんかに種を蒔いてしまうのでしょうか。なぜ石地なんかに種を蒔いたりするのでしょうか。なぜ種が芽を出しそうもない茨の中に種まきをするのでしょうか。なぜ初めから良い土地にまっしぐらに出かけていって、そこに種を蒔かないのでしょうか。なぜこんなに効率の悪い種蒔きをするのでしょうか。なぜこんなに無駄を出してしまうのでしょうか。この種蒔く人の蒔き方は、蒔くというよりも蒔き散らすという感じです。バラ蒔いているという感じです。あたりかまわず、そこら中に蒔き散らしながら歩き回っているのです。それが主イエスの語る種蒔き人の姿です。効率の悪い、要領を得ない種蒔き人です。
 この疑問は、当時のパレスチナにおける農業の営み方を振り返ると少し解けてきます。この当時、種は手で一面にバラ蒔きをし、蒔いた後で鋤を入れて種に土をかぶせたのです。つまりまだ耕されていない土地に、手当たり次第に種を蒔いておいて、後からその土地を耕し、種に土をかぶせたのです。ということは、種を蒔く時点では、その土地がどういう土地なのかまだ分からない。今蒔いた種をどうやって受け入れ、これを育み、実を結んでいってくれるか、それはまだ見通せないのです。その結果はいろいろかもしれない。種を蒔いた後、まだ鋤で土をかぶせないうちに種は鳥に食べられてしまうかもしれない。鋤を入れてみたら石にかちあたり、そこは石地の土地であったことが後から分かるかもしれない。鋤を入れようとした時にはすでに茨がのびて覆っていて、もはや手の施しようもなくなっているかもしれない。そういう不作、収穫が得られない体験をするかもしれない。それにもかかわらず、種を蒔くのです。大きな実りがもたらされるかもしれない、という期待をもって種をまき散らすのです。蒔き続けるのです。

3 ここには教会の伝道の姿が重なり合っています。何百枚ものチラシを配って人々を礼拝にお招きしようと思っても、結果は一人来るか来ないか、ということも珍しくないのです。私が神学生の時代に通った教会では、特別伝道礼拝の時期に、新聞の折込広告と一緒に礼拝への案内をも入れてもらっていましたが、当日の礼拝に新しい人は誰も来ない、ということも珍しくありませんでした。またやはり神学生の時代、私は夏の伝道実習で遣わされた教会では、教会学校の礼拝に誰も子供が来ない経験をしました。そこで教会学校の教師に向かって説教を語った覚えがあります。他の神学生の中には、遣わされた教会の主日礼拝に一人も出席しなかったため、誰もいない壁に向かって説教をした人もいた、と聞いたことがあります。
けれども主イエスがここで語る種を蒔く人には、こうした状況に置かれた者が味わうに違いない不満や焦り、苛立ちというものが全く感じられません。ある人はここには「伝道楽観主義」とでも言うべきものがある、と言いました。私たちは、そんな効率の悪い、無駄が多く出るような種蒔きはやめて、確実に実を実らせる見込みのある土地だけに蒔こうよ、そうこの種蒔き人に助言しようとするかもしれません。その時、この種蒔き人はおそらくこう言うでしょう、「蒔いてみなけりゃ分からないじゃないか!蒔かれた土地が、その種をどう受けとめ、どう育んでいくか、注意深く見守ってみようじゃないか。もし神様の御心であるならば、たとえどんな反対勢力、抵抗勢力があっても、最後は豊かな実りがもたらされるはずだ。たとえ御言葉に対する頑なさや拒否、挫折やつまずきが一方ではあっても、神の国は実現するのだ。すべての無駄やつまずきをも補って余りあるほどの百倍の実りがもたらされるのだ。そのことに信頼して、御言葉の種の成長を見守ろうじゃないか」!
 この言葉は主イエスご自身の言葉ではないでしょうか。主イエスご自身がどんなに伝道しても収穫がない、不作を経験されたのです。人々の頑なさと拒否、挫折とつまずきに向き合われたのです。神の国の秘密を知っていたはずの弟子たちからさえも裏切られたのです。なかなか実を結ばない、伝道の困難を味わわれたのです。にもかかわらず、神の御旨が実現することへの信頼を決して失わなかったのです。喜んで伝道されたのです。望みを失わずに伝道されたのです。そのことを思い見るとき、私たちが伝道が進まないと言って愚痴をぶちまけたり、不満ばかり言っているのは、主イエスに対して失礼なことになりはしないでしょうか。主イエスは「聞く耳のある者」は聞いてくれる、という私たちへの信頼を決して失われなかったのです。

4 主イエスがどれだけ私たちを信頼してくださっているかは、9節から15節において、主イエス自らがこのたとえの説き明かしをしてくださっていることから分かります。主イエスは「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている」とおっしゃり、弟子たちが特別な存在であることを認めておられます。けれどもルカによってその説き証しがここに書き留められているということは、主イエスが今、私たちをも神の国の秘密を知り得る者の中に数えてくださっているということです。神の国の秘密を知ることが許されている弟子たちの群れに数え入れてくださっている、ということです。それほどまでに信頼して、主は私たちの心に御言葉の種を蒔いていてくださるのです。
 しかもこの説き明かしの興味深いところは、種は「神の言葉」だと言いながら、その種は「・・・の人たちである」と言われているところです。種は「神の言葉」でありながら、同時にその種が蒔かれたところの「人」でもあると言っているのです。言い換えるなら、御言葉という種は私たちの心の奥底にまでもぐりこんでいき、まるで御言葉と私たちとが区別できないほどまでに一体となってくださるということではないでしょうか。御言葉はそこまで深く私たちの中にめりこみ、沈み込み、私たちと一つになってくださるのです。さらに言い換えるなら、主イエスはそれほど奥深くにまで御言葉を送り込んでくださり、私たちがその御言葉をどう受けとめるか、どう聞くか、信頼と期待をもって委ねてくださっているということです。ご自身を私たちに委ねてくださっている、ということです。逆に言うなら、それほどまでの、とてつもない責任を私たちに与えておられるということです。これは私たちにある畏れを引き起こすものですが、主イエスは「聞けばいいってものじゃないぞ」とおっしゃっているのです。  せっかく御言葉を聞いても、悪魔のもたらす不信仰や疑い、迷いの力が襲ってきて御言葉が押しつぶされ、奪われてしまうことが起こるのです。深い根を張ることがないために、試練を受けた時、それ以上御言葉が留まることなく、上滑りしていってしまう、ということがあり得るのです。思い煩いや富、快楽の方が御言葉の恵みよりもはるかに大きくて、重大なことのように見えてしまうことがあるのです。「忙しい」という漢字が、「心」を表すりっしんべんと、「失う」ことを意味する字から成り立っているように、日常の営みの勢いに圧倒されて、神の言葉を聞く心を失ってしまうことが起こるのです。心ここにあらずという状態で礼拝に出ている、ということが起こり得るのです。信仰者の歩みの中には、こういう悪魔からの攻撃、誘惑や試練、思い煩いによる心の支配、ありとあらゆる問題が押し寄せてきます。けれども、蒔かれた御言葉が目指していることは、この御言葉がその人の中で深く根を張り、芽を出し、たくさんの水分を吸収しながら成長し、豊かな実りをもたらすことなのです。そのためには時間が必要なのです。このたとえ話には時間の経過、その中での変化と結果が見つめられています。時間の推移があるのです。この時間の移り変わり、その中で襲い来るさまざまな試みにも耐え忍んで、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守る歩みが求められるのです。この暗闇の世界で、毎日の労苦の中で、しかし御言葉がついには勝利することを信じて、持ちこたえ、忍耐する必要があるのです。 先日の朝の求道者会が終わった後で、出席していたある方が私に言いました。「難解でした。どうも難しいです。でもまた続けてきます。だんだん分かってくると思います」。私は一方で自分の言葉の不十分さ、説き明かしの至らなさを思いましたけれども、同時にこの方が決してあきらめず、「また来ます」とおっしゃってくださったことをうれしく思いました。この方も、ご自分に蒔かれた御言葉への責任を知っているのではないでしょうか。忍耐をもって自らのうちに御言葉の根が張り、芽が吹き出るのを待っておられるのです。
 この教会の週報には毎週、次週の主日礼拝、夕礼拝の聖書箇所、讃美歌が予告されています。もしこのことに何かの意味があるとすれば、それは事前に聖書箇所を読み、思い巡らしつつ一週間を過ごすためではないでしょうか。事前に讃美歌を練習し、音の揺れやリズムの取り方に心が奪われて、力の限りに捧げる賛美が妨げられないようにするためではないでしょうか。そのようにして私たちの中に御言葉が奥深くにまで入り込み、根を張ることを祈り求めつつ、来るべき礼拝に備えるためではないでしょうか。ささやかであるかもしれない、こうしたちょっとした姿勢の中に、実は自分の中に蒔かれた御言葉に対するその人の責任意識が表れ出るのではないでしょうか。

5 私はこの説教の中で、いくつか不信仰のように見えるかもしれない表現をしました。主イエスが御言葉において私たちに、「ご自身を委ねてくださっている」という表現です。それから、「御言葉の種を私たちが育む」という表現です。私たちこそが主イエスに自らを委ねるのではないか、御言葉こそが私たちを育むのではないか、一方ではそう言うことができるでしょう。けれどもここでは、主イエスはご自身を御言葉において私たちに委ね、私たちがこの御言葉に責任をもって、これを大事に守り育て、実を結ぶことを願い、またそうしてくれることを期待しておられるのではないでしょうか。主の十字架と復活があるゆえに、そうできるはずだ、と信頼してくださっているのではないでしょうか。
 やがて隠れているものはあらわになり、秘められたものが公にされ、それぞれが最終的にはどんな土地だったのかが明るみに出される時が来ます。それが終わりの日、最後の審判の日です。だからこそ、今日というこの日があるうちに、「どう聞くべきかに注意」する必要があるのです。たとえ信仰の歩みにおいて、時に「道端の人」、「石地の人」、「茨の人」になってしまう時があっても、最後はよい土地として百倍の実りを結ぶ者とされるように、御言葉を内に宿し続けるのです。忍耐して持ちこたえるのです。それを可能にしてくださる神の忍耐、神の信頼を信じつづけるのです。主イエスが私たちの罪のために十字架上で苦しみを耐え忍ばれた、その忍耐に思いを重ね合わせるのです。主が死の中から甦られ、永遠の命という豊かな実りをもたらしてくださっている、そこに私たちが実を結ぶ希望を繋ぎ続けるのです。こうして主イエスがご自分の肉を裂き、血を注いで蒔いてくださった御言葉の種に、私たちは応え続けていくのです。こうして御言葉のともし火を隠すことなく、燭台の上に掲げ続けるのです。この与えられている恵みを魂に刻みつつ、今主イエスの御体と御血潮に与かりたいと願うのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、私たちがそれに価しない者にもかかわらず、あなたは私たちの心という土地を信頼してくださり、今日も御言葉の種を蒔き、その成長を委ねてくださいます。どうか与えられたこの御言葉の種を大切に守り育て、この御言葉の種が自らの力によって私たちの中で根を張り、芽生え育ち、その枝を張って豊かな実りをもたらしますように。それを妨げるような力に、私たちの心が負けてしまうことがありませんように。あなたの忍耐、あなたの信頼の中に生きる者とならせてください。主イエスが命がけで私たちに蒔いてくださった御言葉の種に感謝します。今主の御体と御血潮に与かることを通して、この恵みへの感謝を深く、また新たなものにしてください。
 御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
祈り 御子なるキリストよ、あなたを『主よ、主よ』呼びながら、あなたの御言葉を行うことのできない私たちを憐れんでください。どうかすべてが決定づけられてしまっている私たちの生み出す悪しき実りから、私たちを救い出してください。聖霊によって新たに造りかえられ、神の子、光の子として、イエス・キリストという土台を「堅く据えられた礎」とする人生を歩ませてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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