主日礼拝

回心

「回心」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; ヨブ記、第42章 1節-6節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第9章 1節-9節
・ 讃美歌 ; 3、134、430

 
回心
 本日の午後から明日にかけて、私たちの教会の、教会全体修養会が行われます。「伝道―証しの生活」という主題のもとに、学びと交わりの時を持つのです。百名を越える方々が参加して下さることを心から喜んでいます。
 この修養会の中で、本日の夜、三名の教会員の方の証しがなされます。そのテーマは「私はどのように伝道されたか」です。私たちが伝道をし、信仰を人々に伝えていくことについて学ぼうとする修養会において、逆に自分が伝道されて信仰を持つようになった時のことを振り返って見ることは意味があるのではないか、そう思ってこのようなテーマを提案しました。証しをして下さる方々だけでなく、それを聞く者たちも、また修養会に参加できない方々も含めて、既に教会員、クリスチャンである方々は、自分がどのようにして神様を、主イエス・キリストを信じる信仰者になったのか、そこで何が起ったのかということを、この機会に振り返ってみていただければと思います。私たちが信仰者になる、そこに起ることは人それぞれ様々です。例えば私などは信仰者の、牧師の家庭に生まれ育ちましたから、小さい時から教会に、通っていたと言うよりも家が教会だったわけで、そういう中で自然に信仰を育てられてきたと思います。ですから信仰者になるというのも、何か大きな決断をするとか、人生がそこで大きく変わる、というものではありませんでした。しかし中には、信仰者になることにおいて人生の大転換を経験した人もいるでしょう。教会とも聖書とも全く触れることのない生活をしてきた人が、何かのきっかけで教会と出会い、聖書の教えと出会い、それまで全く知らなかった新しい世界を知り、言わばカルチャーショックを受けた、そのようにして洗礼を受け、信仰者になった、という人も数多くいると思います。そのように人生の歩みが180度の大転換をすることを、回心と言います。「かいしん」という言葉には、「悔いる」という字を書く、「悔心」もあります。それは、自分のした悪いこと、罪を悔いて心を入れ替える、という意味ですが、今言っている「回心」は「回る」という字を使います。心の方向がぐるりと回転することです。そういう回心を体験して信仰者になった人、あるいはまさに今、そういうことを体験しつつある、という人もおられることでしょう。

サウロの回心
 本日ご一緒に読む聖書の個所、使徒言行録第9章の始めのところには、劇的な、まさに180度の回心の物語が語られています。サウロという人の回心です。この人は、1節にあるように、「主の弟子たち」つまり教会に連なる信仰者、クリスチャンたちを「脅迫し、殺そうと意気込んで」いた人でした。つまりキリスト教信仰に反対し、迫害していた人だったのです。そのサウロが主イエス・キリストと出会い、主イエスを信じる者になりました。このサウロこそ、後の大伝道者パウロです。使徒言行録の後半は、もっぱらこのパウロの伝道の様子を語っています。またパウロは、新約聖書に収められているいくつかの手紙を書きました。聖書の著者の一人にもなったのです。彼は「異邦人の使徒」と呼ばれており、主イエスの福音がユダヤ人のみに与えられたものではなく、信仰によってすべての人々がそれにあずかることができる、ということを明確にし、異邦人たちの教会を各地に築いていった、初代教会における最大の伝道者です。今私たちがこの日本でキリストの教会に連なることができているのはある意味でパウロのおかげと言ってもよいのです。迫害する人から、このような大伝道者へという大転換を彼はとげました。そのサウロの回心を語るみ言葉をご一緒に味わいたいと思います。

迫害者サウロ
 さてサウロは私たちがこれまでに読んできた所に既に登場していました。それは7章の58節です。ステファノが最初の殉教者となり、石で撃ち殺された、その場面に彼はいたのです。そこには、ステファノを石で撃ち殺した人々が、「自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」とあります。サウロ自身はステファノに石を投げてはいませんが、しかしそのことを支持し、その人々のために上着を預かっていたのです。このステファノの殉教をきっかけにして、教会に対する大迫害が起ったと8章1節にありますが、その冒頭にも、「サウロはステファノの殺害に賛成していた」とあります。ステファノは許せない、殺されるべきだ、と彼ははっきり思っていたのです。何故彼はそのように思っていたのでしょうか。彼が自分の生い立ちを振り返って語っているところが、使徒言行録22章3節以下にあります。そこにはこう語られています。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」。ここにあるように、彼はキリキヤ州のタルソスという町で生まれたユダヤ人です。その場所については、聖書の後ろの付録の地図の7「パウロの宣教旅行1」というのをご覧下さい。小アジア、今のトルコの南東、地中海の海岸線が北へ上り、西に曲がった先のあたりにあります。そこがサウロの出身地です。つまりサウロも、ユダヤ本国で生まれたのではない、外地生まれのユダヤ人だったのです。サウロも、と言ったのは、ステファノもそうだったし、またステファノを殺した人々もそうだったからです。ステファノの殉教とその後の迫害の背後には、外地生まれの、ギリシャ語を話すユダヤ人たちどうしの間での対立があった、ということを前に申しました。彼らの中には、ステファノのように主イエス・キリストを信じて教会に加わる人々もあったけれども、逆に、ユダヤ的伝統に固執して、より熱心に律法を守り、そこにユダヤ人としての自覚と誇りを見出そうとした人々もいたのです。サウロの両親もそういう人だったのでしょう。彼は、今読んだところによれば、エルサレムで育ち、ガマリエルという教師のもとで律法の厳しい教育を受けました。ガマリエルについては、5章34節に、ユダヤ人の最高法院の議員で、「民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエル」とあります。サウロはこのガマリエルの下で律法をみっちり学んだ、ファリサイ派の若きエリートだったのです。彼は律法を守ることにおいて、熱心に神に仕えていました。神様によって与えられ、先祖伝来大切に守ってきた律法をしっかりと守って、神に仕えて生きることによって、ユダヤ人は神様の民として歩むことができると確信していたのです。その律法への熱心さのゆえに、彼はステファノを殺すことに賛成し、キリスト教会を迫害し、撲滅しようとしていました。ステファノは、エルサレムの神殿と律法を冒涜しているとして捕えられました。そして彼は7章の長い演説において、イスラエルの民にモーセを通して律法が与えられる前の、アブラハムからの歴史を振り返り、イスラエルを神様の民たらしめているのは、律法を守ることではなく、神様の約束のみ言葉を信じる信仰であることを明らかにしました。またモーセが民に遺した最も大切なものは、律法ではなく、「神がわたしのような預言者をお立てになる時が来る」という預言だったのだと語りました。その預言が、主イエス・キリストにおいて実現したのです。神様が遣わして下さった救い主イエス・キリストを信じることこそが、モーセの遺志に従うことなのだとステファノは語ったのです。サウロにとってこれはとうてい受け入れられないことでした。これでは、ユダヤ人が先祖伝来大切にし、民族の誇りとしてきた律法が軽んじられ、意味のないものにされてしまう。律法を守り行なうことによって熱心に神に仕えていた彼にとっては、それはユダヤ人を神様の民でなくしてしまおうとする陰謀にしか見えないのです。それゆえに、彼は教会への迫害に加わり、積極的にそれを推進しました。8章3節には「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」とあります。本日の9章1節の「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」は、ここの続きなのです。

ダマスコへの道で
 サウロの教会への迫害はエルサレムのみに留まりませんでした。この迫害を機に各地に散っていったキリスト信者たちが、8章のフィリポのように伝道をし、各地にキリスト信者の群れが生まれていることを知ったサウロは、そうはさせじと迫害の手を伸ばしていったのです。そのために彼は、大祭司から、ダマスコの諸会堂あての手紙を得ました。それは2節にあるように、「この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行する」ことを許すものでした。大祭司からそういう御墨付きをもらったパウロは、まさに意気込んで、教会を壊滅させるために、それによって神様に仕えるためにダマスコへ向かったのです。そのようにしてダマスコに近づいたとき、本日の出来事が起ったのです。
 「ダマスコ途上の出来事」と呼ばれるこのサウロの回心の出来事において、いったい何が起ったのでしょうか。使徒言行録にはこの出来事が三度語られています。本日の第9章と、あと二回はパウロ自身が自分の回心を振り返って語っているところで、先程読んだ22章の続きのところと26章です。三度に亘って語られていることが、この出来事の重要さを示しているわけですが、細かい点では三つの話の間に違いがあります。例えばサウロに同行していた人々が、本日のところでは、サウロに語りかける声は聞いたがだれの姿も見えなかったとなっていますが、22章では、彼を照らした光は見たが声は聞かなかったとなっています。その他にもいろいろな違いがありますが、共通していることは、彼が天からの強い光に照らされて打ち倒されたこと。そして「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いたこと。彼が「主よ、あなたはどなたですか」と問うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えがあったこと。そしてダマスコの町に入ってそこでなすべきことが示されるのを待てと言われたこと。起き上がってみると目が見えなくなっていたことなどです。そしてその後ダマスコの町で、アナニアという信仰者との出会いによって彼の目からうろこのようなものが落ち、見えるようになり、洗礼を受け、教会を滅ぼすために来たはずのその町で、伝道を始めたのです。

心理的説明
 このサウロの回心の出来事に私たちは大変興味を引かれます。私たちのその興味は、サウロの心にどのような変化が起ったのか、ということに向けられることが多いように思います。イエスをキリストと信じる教えに敵対し、迫害していたサウロが、何故それを信じ、さらに宣べ伝えるまでになったのか、彼はそこで何を思い、どんな心境の変化を体験したのか、を知りたいと思うのです。それを知れば、自分自身の信仰に、あるいは信仰の決断のためによい導きが得られるのではないか、と期待するのです。そのような思いに応えて、たとえばこんな説明がなされることがあります。サウロは、律法を学び、それを守ることによって熱心に神に仕えていたが、しかし彼の心には今一つ本当の喜びや満足がなかった。そのような中で彼は、ステファノのあの最高法院での弁明を聞き、裁きを受けているのに堂々と臆することなく自らの信仰を語るその姿に感銘を受けた。勿論その語っていることを受け入れることはできなかったが、「その顔はさながら天使の顔のように見えた」と6章15節にあるその輝いた顔が印象に残った。またステファノの殉教の死の様子をも見ていて、石で撃ち殺されつつも「この罪を彼らに負わせないでください」と祈るその姿にショックを受けた。そのようなステファノの姿が彼の心に焼き付いて離れず、教会を迫害し、人々を捕えて獄に送ったりしながらも、次第に、果たして自分のしていることは正しいのだろうか、という疑問が大きくなっていった。ひょっとしたらステファノの方が、キリストを信じている人々の方が本当に神様を信じ仕えているのではないのだろうか、という思いが強くなっていった。そのように、自分の現にしていることと、心で感じていることのギャップが次第に大きくなっていって、ついにそれが、ダマスコの町を目前にした時に、堤防が決壊したようになり、彼は地に倒れ、目も見えないという身体的症状にまで現われ出たのだ…。たとえばこのようにサウロの心の動きを説明し、それによって彼の回心の出来事を理解しようとすることがありますけれども、どうでしょうか。それは正しい理解、説明と言えるでしょうか。
 使徒言行録を読んでいて、サウロの教会への迫害に、内心のためらいや疑問などは少しも感じられません。彼は1節にあったようにまさに「意気込んで」、口語訳聖書の言葉では「息をはずませて」いたのです。先程の22章の言葉で言えば、彼は神様に仕える熱心さによってこのことをしていたのです。律法は確かに神様からイスラエルの民に与えられたものです。それを大切にし、守ることで神様に仕えていると思っている彼の心に、疑問やためらいはありません。彼はまさに神様に仕える熱心さによって教会を迫害し、信者たちを捕え、獄に送っていたのです。つまり、サウロの回心を、彼自身の心の中に起ってきた疑問やためらいによって説明しようとすることは無理であり、ここで起ったことを正しく捉えることにはならないのです。彼の回心、人生の大転換は、内面的、心理的な、心境の変化や考え方の転換によって起ったことではないのです。

「なぜ、わたしを迫害するのか」
 それでは彼は何故回心したのでしょうか。ここで何が起ったのでしょうか。そのことを知るヒントになるのは、彼が聞いた声です。強い光に照らされて地に倒れた彼は、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。この語りかけにおいて最も衝撃的なことは何でしょうか。それは、「なぜ、わたしを迫害するのか」というところです。あなたはわたしを迫害している、わたしを苦しめ、妨害し、傷つけている、という声を彼は聞いたのです。「なぜ教会を迫害するのか」とか「なぜキリスト信者たちを迫害するのか」ではありません。ここでサウロは、彼が迫害しているキリスト信者、教会と自らを一体化させている「わたし」という方と出会ったのです。その方が彼の前に、彼の道を遮るように立ちはだかったのです。つまり、彼はここで、教会を迫害することは間違っている、という真理を示されたのではないのです。天からの強い光と共に語りかける「わたし」という方と出会ったのです。そして、自分がその方に敵対し、その方を迫害しているのだということを知らされたのです。

「あなたはどなたですか」
 それゆえに彼は、「主よ、あなたはどなたですか」と問いかけました。彼の問いは、「何故キリスト信者を迫害してはいけないのですか」、ではありません。「私は律法に従って歩んでいるのであって、それを軽んじる者たちを処罰することが何故いけないのですか」というような、生き方や主義主張における理屈を問うているのでもありません。「あなたはどなたですか」。自分の前に今、圧倒的な力を持った「わたし」として現れ、語りかけておられるその方に向かって彼は「あなた」と語りかけ、「あなたはどなたですか」、と問うているのです。その問いに主はお答えになります。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。「わたしはイエスである」。ベツレヘムの馬小屋で生まれ、ナザレの人として育ち、神の国の福音を宣べ伝え、その到来の印である力ある業を行ない、捕えられて十字架につけられ、殺された、そして復活して天に昇られた、そのイエス・キリストが、今彼の前に、神としての栄光と力を持った「わたし」として語りかけておられるのです。その主イエスとサウロとの間に、「あなたとわたし」という関係が生まれたのです。そのことによってサウロは、自分が教会を迫害していたのは、主イエスご自身を迫害していたのだ、ということを示されたのです。それは、自分のこれまでの歩み、生き方が間違っていたことに気づいた、というような呑気なことではありません。自分の間違い、罪を反省して、心を入れ替えて、これからは正しい生き方をしよう、などと言えるようなことでもありません。神様に敵対し、迫害していたのです。それは人間がもはや生き続けることのできない罪です。そのサウロがなお生き続けることができたのは、彼に語りかけた主イエスが、さらに、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」とおっしゃったからです。主イエスが、敵対し、迫害していた自分をなお生かし、なすべきことを与えようとしておられる、その憐れみと恵みとによってのみ、彼は起き上がって先へ進むことができたのです。しかし彼の目は見えなくなっていました。それは、彼のこれからの新しい歩みが、自分の目でなすべきことを判断し、行なっていくものではあり得ない、ということです。これまでの彼は、自分の目で見、自分で判断して人生を歩んできました。それによって、主イエスを迫害するという致命的な罪に陥ったのです。そのような歩みが主イエスとの出会いにおいて完全に否定され、打ち砕かれます。それゆえに彼は目の見えない、暗黒の世界に陥ったのです。そしてその目はこの後、主イエスによって開かれます。主イエスが彼に新しい、「なすべきこと」を示し与えて下さる、それと共に彼の目は再び開かれていくのです。

見えなくなる
 サウロの回心、人生の大転換はこのようにして起こりました。それは、彼の内面的心理的な変化や、それまでの歩みを反省して新しく生き始めた、というようなことではなかったのです。つまり「悔いる」という字で言い表されるような「悔心」ではなかったのです。もしそうなら、彼の目は見えなくなるのではなく、むしろよりよく見えるようになったはずです。しかし彼に起ったことは、主イエスとの出会いによって、何も見えなくなり、暗黒の世界に落とされたことだったのです。そのことを経て、主イエスによって再び目を開かれたときに、あの大伝道者パウロが生まれたのです。私たちは、信仰というものを、自分の目がよりよく見えるようになることのように思い、またそれを期待し求めているのではないでしょうか。しかしそれはまさにサウロがファリサイ派のエリートとして熱心に神に仕えていた時の姿なのです。よりよく見えるようになろうと熱心に努力することの中で彼は、主イエスご自身を迫害していったのです。信仰とは、そのような私たちが、「なぜわたしを迫害するのか」と、私たちの前に立ちはだかる主イエスと出会うことです。そして主イエスによって、自分が見ていること、思っていること、確信していること、依り頼んでいることの全てを打ち砕かれることです。主イエスとの出会いは、私たちを、自分の目では何も見えない者、自分の力ではもはや生きることができない者とするのです。そしてそこから主イエスが新しく生かして下さり、なすべきことを示し与えて下さるときに、私たちは本当に見るべきものを見ることができるようになります。本当に見るべきものとは、主イエスの十字架と復活によって神様が与えて下さっている罪の赦しの恵みです。それを見つめる目を与えられる時、私たちは、自分の正しさ、熱心さ、確信に依り頼み、それによって人を迫害し裁いていくような生き方から解放されるのです。

ヨブに起ったこと
 信仰とは、私たちの前に立ちはだかり、「なぜわたしを迫害するのか」と問われる主イエスとの出会いです。主イエスは私たちの罪を責めて滅ぼそうとしておられるのではありません。罪人であり、神様に敵対している私たちとの間に、「あなたとわたし」という関係を、交わりを築こうとしておられるのです。その交わりによって私たちは、自分の力で生きる歩みを打ち砕かれ、主イエスの恵みによって新しく立てられるのです。それが私たちの回心です。本日共に読まれた旧約最初の個所は、ヨブ記の42章ですが、ここはヨブが最終的に神様の前にひれ伏して悔い改める場面です。ヨブ記は、始めの方だけを読んでいると、ヨブがどんな苦しみの中でも神様に従い通したように思えますが、その後のところでは、彼は徹底的に神様に逆らい、敵対して論争を挑んでいます。自分はこのような苦しみを受ける謂れはない、自分は正しい、このような苦しみを与える神の方が間違っている、と激しく主張しているのです。そのようなヨブに対して神様は、お前の苦しみにはこんな意味や理由があるのだ、と説明はなさいません。彼の前に立ちはだかり、「お前はいったい何者か」と問われたのです。圧倒的な力を持った「わたし」として神様がヨブの前に立たれたことによって、ヨブは自らの傲慢を悔い改めて神様の前にひれ伏したのです。

私たちの回心
 私たちが信仰者となる時に、このようなことが起るのです。神様との、主イエスとの出会いのきっかけは人それぞれ様々です。それまでの生活からの大きな変化を体験する人もいれば、そうでない人もいます。しかしいずれにしても私たちは、私たちの前に立ちはだかる主イエス・キリストとの出会いによって打ち砕かれ、主イエスによって新たに生かされていくのです。そこに私たちの回心があります。劇的なサウロの回心と基本的には同じことが、実は私たち一人一人にも起っているし、これからも起っていくのです。

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