夕礼拝

墓に納められる主

「墓に納められる主」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編 第88編2-8節
・ 新約聖書: マルコによる福音書  第15章42-47節
・ 讃美歌 : 12、297

 
主イエスの埋葬
 主イエス・キリストは、十字架につけられた後、墓に葬られました。私たちは、礼拝において告白される使徒信条において、主イエス・キリストについて、「十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人の内より甦り」と告白しています。キリスト者の信仰にとって、主イエスが墓に葬られたということは、大きな意味があります。この主イエスの埋葬はどのようにして起こったのでしょうか。その様子が、15章の42~43節に記されています。「既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」とあります。この時、ユダヤの律法によれば、一刻も早く、主イエスを埋葬しなくてはいけない状況にありました。申命記第21章22節には次のようにあります。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」。木にかけるとは十字架で殺されることを意味しています。十字架において死刑に処せられた人は、その日の内に葬らないとならないと定められていたのです。この時、既に、日が沈もうとしていました。更に、主イエスが十字架につけられたのは、金曜日です。土曜の夜から律法が定める安息日が始まります。安息日には働くことが出来ませんから、そのような意味でも遺体を埋葬することが出来なくなってしまいます。つまり、この時、律法に従おうとするならば、少しでも早く、主イエスを埋葬しないといけない状況なのです。しかし、当時、ローマにおいて十字架によって死刑にされた犯罪人は、そのまま、しばらくは曝し者にされたようです。当分は、十字架の上に磔にしたままにして置くのです。十字架刑は長い時間をかけて苦しめながら殺すための刑罰です。犯罪人が完全に死に、絶対に息を吹き返すことがない段階まで置いておくのでしょう。そのように考えると、ヨセフが主イエスを引き取りたいと願い出たのは少し早すぎたのかもしれません。44節でピラトが、「イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた」ことが記されていることからも分かります。しかし、そのようなことを承知の上で、ヨセフは、願い出たのです。

アリマタヤ出身のヨセフ
 主イエスの遺体を引き受けた、アリマタヤのヨセフが、どのような人であったのか、詳しく知ることは出来ません。もちろん、主イエスの弟子ではありません。議員とあるように、主イエスを死刑に定めた最高法院のメンバーです。主イエスに親しみを持ちながらも、自らの地位や、立場上、そのことをはっきりとは示していなかった人であると言って良いでしょう。すぐに、主イエスを埋葬しなくてはならないと判断したのです。注意をしたいことは、この人は、ただ、律法の掟に従うために、主イエスの遺体を引き受けたのではないということです。身分の高い人で、良識もあり、律法も良く守って生活していた人の中に、主イエスに対する親しみを持つ人がいて、その人が機転を利かせて行動を起こしたというのではありません。ただ形式的に律法に従っている良識ある人であったとしたら、このヨセフほどの行動は出来ないでしょう。「勇気を出して」とありますが、身分の高い議員とは言え、ローマの総督に願い出るのは簡単なことではありません。犯罪人の仲間に見られかねません。更に、同じユダヤの議員たちからすれば、自分たちが死刑を決めた主イエスを引き取った人ということになります。議会の中での自分の地位も危うくなることだってあり得たでしょう。そのような危険を承知の上で、主イエスを引き受けたのです。更に、46節には、「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。」とあります。マタイによる福音書を見てみますと、このヨセフがイエスを「自分の新しい墓に納め」たことが記されています。「アリマタヤ」と言う地方から、エルサレムにやって来て、議員になり、高い地位にまで上り詰めた。そこで、自分の死んだ後の備えとして、新しく墓を造ったのです。その自分の墓に主イエスの遺体を納めたのです。自分が入るべき場所に主イエスを納める。しかも、それは律法によれば、「呪われて」いるものなのです。そのような呪われた遺体を自分の墓に納めるということは、形式的に律法に従うというだけでは出来ることではないでしょう。この人が、主イエスの遺体を引き受けたのは、43節にある「この人も神の国を待ち望んでいたのである。」ということにつきるでしょう。この人は心から神様の救いの御支配を待ち望んでいた人なのです。そして、主イエスが、その神の国の到来を告げる救い主であることを心の中に受け入れていた。十字架の死においても、その思いは変わることはありませんでした。十字架の死を目撃したことによって一層その思いは強められたかもしれません。そのために、十字架の後、真っ先に主イエスを引き取ったのです。弟子たちもすべて主イエスの下を去ってしまっている中、一人の神の国を待ち望む議員によって、主イエスは埋葬されたのです。そこにも神様の救いのご計画の偉大さが表されていると言って良いでしょう。

「死にて葬られ」
 キリスト者にとって、主イエスの十字架と復活が、信仰の中心であることは言うまでもありません。しかし、十字架の後、すぐに復活があるのではありません。十字架上で息を引き取った主イエスは、十字架の上で神々しく復活を遂げたのではありませんでした。十字架から直接復活に結びついたのではなく、十字架の次に墓の中に納められたのです。ハイデルベルク信仰問答の問い41は、このことについて、「なぜ主は葬られたのですか」と問います。そして、その問いに対して「まことに死んでしまった、ということを、証するためです」と答えています。主イエスは死んだ。本当に死なれたのです。もちろん、主イエスが息を引き取ったのは、十字架の上です。しかし、その後、墓に入れられることによって、主イエスの死が紛れもない事実であることがはっきりとしたのです。
 墓というのは、私たち人間が最後に入れられる場所です。墓に納めることによって、葬りは終わりますから、それは、完全な死を意味していると言って良いでしょう。私たちの感覚からすると、死の判断は医者の診断によって行われ、遺体は墓に納められる前に火葬に付されますから、墓に納めることが、その人の完全な死であるという意識は薄いかもしれません。しかし、横穴式の墓穴に遺体を安置し重い石で蓋をするという形で埋葬をしていた主イエスの時代、墓に納めることによって、その人の肉体が世から消え去り、完全に死ぬという感覚は強かったと言って良いでしょう。主イエスが墓に納められたということによって、主イエスは、仮死状態から蘇生したのではなく、完全な死の中に身を置かれたということになるのです。そこに、私たちにとっての大きな救いの恵があると言って良いでしょう。

私たちと同じように
 何よりも恵なのは、主イエスが墓に納められたということにおいて、私たちは、イエスは、完全に、私たちと同じ者となって下さったのであり、私たちの受ける苦しみを知って下さっているということです。主イエスは神の子でありながら、私たちと等しく肉を取り、人間と同じく肉体をもってこの地上を歩まれました。受肉ということにおいて、神が私たちと等しい者となって下さった恵が示されます。確かに主イエスは、私たちと同じ人として世を歩まれたということは恵です。しかし、考えて見ますと、その歩みは、私たちの地上の歩みとは、あまりにもかけ離れています。その生誕において主イエスは処女マリアから生まれます。又、地上を歩まれた時も、神の子として、力強く福音を語り、奇跡的な御業を行いながら歩まれたのです。更には、その死の場面においても、十字架という苦難を身におい、その苦しみに耐えながら死んで行くことによって神の救いの御業を成し遂げられたのです。これらの姿は、どれも、私たちの地上での歩みとは異なると言わざるを得ないでしょう。そこから生まれるのは、主イエスは、肉を取られたけれども、神の子であり、私たちとは根本的に異なるお方だと言うことです。確かに、主イエスは私たちとは違います。しかし、そのような主イエスが、その十字架の後に墓に納められたのです。そのことにおいて、主イエスは、確かに、私たちと同じ者となり、私たちの経験することを経験されたということがはっきりとしているのです。

墓の前での悲しみ
 私たちは、墓に葬られるということにおいて死と向かい合います。それは、紛れもなく苦しみの時です。先ほども申し上げたように、現代の私たちにとって、埋葬において死に向かい合うという感覚はないかもしれません。葬儀に参列して、やはり人間の死をはっきりと認識するのは、火葬場で遺体が灰になるのを見た時ではないでしょうか。時がいつであるかは様々ですが、いずれにしても、私たちは、私たちに対する死の力が支配する、死が私たちを飲み込む苦しみの時を経験するのです。本日読まれた箇所の最後、7節には、この人間の苦しみが描かれていると言って良いでしょう。「マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」とります。この二人の女は41節によれば、「イエスがガリラヤにおられた時、イエスに従って来て世話をしていた」人であり、主イエスの御受難の一切を目撃した女達でした。その二人のマリアが、主イエスの葬りを終えた後、大きな石で塞がれた墓の入り口を、そこに主イエスの遺体が横たわる墓の入り口をじっと見つめ、立ち去れないままに、立ちつくしている。二人のマリアの言い知れぬ悲しみと絶望の深さが語り込められていると言って良いでしょう。死の現実の前で絶望し、どうすることも出来ずに立ちつくしているのです。墓は私たち人間が地上に生きていたことの証となるものです。墓を見ることによって、その人が確かに世に存在したということが分かると言っても良いでしょう。逆に、もし墓が見つからなければ、その人がこの地上を歩んだということははっきりしなくなると言っても良いでしょう。しかし、一方で、墓は、その人の死をはっきりと証するものなのです。それ故、そこは、悲しみの場所となるのです。墓において、私たちは、墓の前で、自らの死を思わずにはいられません。それは、本日の読まれました詩編の詩人が歌う苦しみでもあるでしょう。4節~6節には次のようにあります。「わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。穴に下る者のうちに数えられ/力を失った者とされ/汚れた者とみなされ/死人のうちに放たれて/墓に横たわる者となりました。あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています」。墓での悲しみ、それは切り離される、愛する者たちからも、神からも切り離されると思わずにはいられないという所にあるのです。

主イエスの苦しみ
 主イエスが埋葬された、主イエスが真に死なれたという事実は、この苦しみの中に身を置いて下さったことをはっきりと示しています。主イエスは地上で、神の子として、神さまの御業を行われました。その中心である十字架は、私たちの罪に対する裁きを変わって身に負い、神からの裁きをご自身の身にお受けになるという出来事です。先週朗読された箇所34節には、主イエスが十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつ息を引き取られたことが記されています。主イエスの十字架の苦しみは、ただ残虐な刑罰によって肉体的な苦痛を味わったというのではなく、神の子が神に見捨てられ、呪われた者となるということにこそ、本当の苦しみがあったのです。主イエスは、神の子として、父なる神との愛の関係から切り離されるという形において、罪の裁きとしての真の死を味わったと言っても良いでしょう。私たちが受けるべき裁きとしての死は主イエスが変わって受けて下さっているために、私たちはその苦しみを味わう必要はないのです。そのような意味で十字架の死こそ、私たちの慰めです。更に、続けて、主イエスは墓に納められました。主イエスも墓に納められたが故に、私たちが体験する死をすべて体験して下さり、私たちが葬られた後、赴く所にも主イエスが身を置いて下さっていることが示されます。そこは、主イエスがおられない場所ではない。その闇の力を破り主イエスが復活されたということにおいて、確かにそこにも光りが差し込んでいるのです。マルコによる福音書は、主イエスの埋葬を語った後、続く16章で、主イエスの復活について語りますが、そこにおいて、ただ、墓の石が転がしてあり、中が空だったということが記されているのです。つまり、墓の中に身を置かれた主イエスですが復活され、その墓は空の墓となったのです。その事実において、私たちは、真の救いを確信するのではないでしょうか。十字架の死において示された救いが、主イエスの埋葬と、墓からの復活によってよりはっきりと、私たちに救いの出来事として明らかにされたのです。私たちは誰しも、墓に葬られます。しかし、主イエスの救いに与る者は、そこが最終的な居場所ではないことを知らされているのです。墓という、絶望の極み、私たちを最終的に支配する死の力の象徴は、主イエスが、そこに身を置き、そこから復活されたということにおいて、救いの恵が溢れる場所となったのです。

神の救いを讃えつつ
 神の国、神様の救いの御支配が、真に実現したのは、主イエスの復活によって、罪と死の力が滅ぼされることにおいてです。しかし、そのためには、主が墓に納められるということがなくてはなりませんでした。私たちと同じように、完全に、地上からお姿を消し、墓の中に赴かれたのです。ある牧者が説教において、この箇所について、次のように語っています。「大きい石が主の御からだとわたしたちをへだてました。しかし、もっと積極的に見るならば、この石の重みが、キリストとわたしたちを密着させ、この石の封印がキリストの恵みをわたしたちのうちに封印するのであります」。キリストが墓に葬られることによって、本来、私たちを支配する死の力、闇の中に、キリストが封印された。しかし、そのことによって、本当の恵が、私たちに封印されたと言うのです。この方の真の死とそこからの復活によって、私たちに命が与えられるからです。主の死は復活すべき方の死でした。つまり、その死は、命への導き手の死です。父なる神がこの主を墓からよみがえらせておられるからこそ、私たちは、この主の葬が、まさしく私たちに対する恵をはっきりと示すことであり、神の国、神の支配の出来事として受け入れることができるのではないでしょうか。「この人も神の国を待ち望んでいた」という望みは空しく過ぎ去ることはありませんでした。このヨセフは、主イエスの復活の時、主イエスを納めた自分の墓が空になっていることを見て、誰よりも喜んだのではないでしょうか。自分の終の棲家として用意した場所に主イエスを納めた。その結果、そこが空になっていたのです。もはや、死は自分自身を支配しないということをはっきりと示されたのです。そこで、確かに、神さまの救いの御支配の到来を讃美し始めたことでしょう。私たちも主イエスの十字架の遺体を自らの内に納めたヨセフのように、十字架の主イエスを自らの者として受け入れたいと思います。その時に、主イエスの救いの恵が、私たちにも確かに及んでおり、救いの希望に満たされ

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