主日礼拝

喜びにあふれて

「喜びにあふれて」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第56章 1節-8節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第8章 26節-40節
・ 讃美歌 ; 2、122、458

 
ガザとスーダン
 本日ご一緒に読む聖書の箇所は、使徒言行録第8章26節以下ですが、ここには、現在世界の大きな問題としてしばしばニュースに取り上げられる二つの地域のことが出てきます。一つは、26節で主の天使がフィリポに「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言っている、そこに出てくる「ガザ」です。いわゆるパレスチナ問題において「ガザ地区」というのがよく出てきます。イスラエルが占領している地域であり、パレスチナ人とイスラエルとの間でしばしば戦闘が繰り返されています。つい先日も、数十人が死亡したと報道されていました。泥沼のようになっているパレスチナ問題の一つの中心地です。もう一つは27節の「エチオピア」という地名です。註解書によると、このエチオピアは今日のエチオピアよりもむしろ、エジプトのすぐ南のスーダンであるとのことです。このスーダンでは今、反政府勢力と政府側との戦いによって数万人が虐殺され、百二十万人が難民となり、飢えと病に苦しんでいるという、最大の人道危機と言われる事態が起っています。イラク問題の陰に隠れてこの問題は見過ごしにされてきたきらいがあるのです。本日の聖書の箇所を読んでいくに際して、そこに出てくるこれらの地域に今起っていることをも覚え、思いを致していきたいのです。

フィリポの伝道
 さて今読んでいる第8章は、フィリポという人の伝道の様子を語っています。彼はステファノと共に教会の新たな奉仕者として選ばれ任命されましたが、ステファノが殉教の死を遂げた後起った迫害を契機に、サマリアの町で伝道をしていったのです。そのフィリポに、主の天使が語りかけ、彼を新たな伝道へと導いていきました。エルサレムからガザへと南へ下る寂しい道を行けというのです。そこで彼は一人のエチオピア人に出会いました。天使はフィリポをその人と出会わせるためにこの道に導いたのです。

エチオピア人の宦官
 このエチオピア人について27節は、「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していたエチオピア人の宦官」と言っています。この人は女王様の全財産の管理を任されるほどの高官、政府の最高の地位にいる人だったのです。彼はどうしてそんな高い地位を得ることができたのか。勿論彼が優れた人物だったということもあるでしょうが、最も大きいのは、彼が宦官だったということです。宦官とは、中国の歴史などにもよく出てきますが、去勢された男性で、女王や、王の周囲の女性たちに仕える働きをした人です。去勢され、男性としての機能を失っていることによって信頼されて王宮の大切な働きを委ねられたのです。つまり彼の高い地位や名誉は、男性としての機能を失うことと引き換えに得られたものでした。そういうエチオピア人の宦官が、27節の終わりから28節によると、「エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」のです。聖書がこの人について語っていることはこれだけですが、ここから私たちはいろいろと想像をたくましくしていくことができると思います。彼はエルサレムに礼拝に来たのです。エチオピア、今のスーダンからエルサレムへの旅は当時としては大変なことです。行って帰るのに何か月も、ひょっとしたら一年以上かかったかもしれません。彼はそんな大変な旅をしても、エルサレムの神殿に詣でて、礼拝をしようと思ったのです。彼の国には国の宗教があり、神殿が、礼拝の場所があったことでしょう。しかし彼はそれに飽き足らず、エルサレムへ行って、ユダヤ人たちの信じている主なる神様を礼拝したいと思ったのです。ここに、この人の、並外れて強い求道心、本当に信じ礼拝するに足るまことの神様を求め、真実な信仰を求めようとする思いがうかがえます。そのような思いをもって彼ははるばる旅をしてエルサレムに来たのですが、そこで体験したことは何だったのでしょうか。彼はユダヤ人ではない外国人、異邦人です。異邦人がエルサレムの神殿で礼拝をしようとする時、そこには厳しい隔ての壁がありました。当時のエルサレム神殿は、ヘロデ大王が大改築をほどこした壮麗なものでしたが、その周囲には、回廊をめぐらした広い庭があり、「異邦人の庭」と呼ばれていました。異邦人は、この庭までしか入ることができなかったのです。この庭からもう一つ中に入ったところに、ユダヤ人の女性がそこまでは入ることができる「婦人の庭」があり、さらにその内側にユダヤ人男子のみが入れるところがあります。神殿の本殿と言うか、聖所などはその中にあったのです。ですから異邦人である彼は、どんなに身分の高い金持ちで、またはるばる遠くから旅をしてきた者であっても、神殿の中心からは幾重にも隔てられた外側からしか礼拝をすることができなかったのです。
 しかしだからといって彼は、「こんなの差別だ、けしからん」と腹を立てたりはしませんでした。むしろそれを当然のこととして受け止めていたのです。主なる神様の民であるユダヤ人と、そうでない者との間に、ある区別があり、神様の民のみがあずかることができるものがあるのは当然です。そしてそこでもう一つ捉えておかなければいけないのは、ユダヤ人というのは、私たちが考えるような、いわゆる民族的集団ではなかったということです。主なる神様を信じ、礼拝し、仕える者となるならば、その具体的印としては割礼を受けるならば、民族的出身はどうであれ、ユダヤ人になることができるのです。ユダヤ人とは、民族と言うよりもそういう信仰共同体、神の民の集団なのです。その信仰を受け入れ、民に加わっている者と、そうでない者との間にある区別が設けられているのは当然のことなのです。

聖餐
 私たちは本日、月の第一主日の礼拝において、聖餐にあずかります。この聖餐は、洗礼を受け、教会員、クリスチャンになった人のみがあずかることができるものです。まだ洗礼を受けておられない方にはご遠慮いただいているのです。このことは、まだ洗礼を受けておられない方々にとっては、教会の外側に留められて、ここより中には入ってはだめ、と隔てられているような感じがすることでしょう。それは、このエチオピア人の宦官がエルサレム神殿で体験したのと同じことだと言うことができます。そして、聖餐にあずかることはできないけれども今この礼拝に共に集っておられる多くの方々と同じように、彼も、その隔ての外側で、真剣に神様を求め、救いを求め、心からの礼拝をささげたのです。

宦官であるがゆえに
 教会の聖餐は、洗礼を受ければ誰でもあずかることができるようになります。しかしこのエチオピア人の宦官は、どんなに真面目に、熱心にいわゆる求道をし、ユダヤ教に改宗して主なる神様の民に加えられたいと願っても、かなえられない事情がありました。それは、彼が宦官だった、ということです。旧約聖書申命記の23章2節にこういう掟があります。「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」。新共同訳は随分赤裸々な訳をしていますが、口語訳聖書ではここは「すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない」となっていました。去勢された男性、宦官である彼はこのゆえに、どんなに熱心に求めても、ユダヤ人、主なる神様の民に加えられることができないのです。彼は今のスーダンからエルサレムまではるばる礼拝をしに来るほどに、主なる神様を慕い、熱心に求めています。しかし律法に阻まれて、決して神様の民に加わることができないのです。だからといって彼は、そんなら求めても仕方がないからやめた、とほうり出すことができません。主なる神様こそまことの神であり、ここにこそ本当の救いがあるはずだ、という思いは日ましに強くなっていくのです。そこに、彼の深い悲しみ、嘆きがあったと思います。エルサレムにおいて彼は、このような強い憧れと深い悲しみを共に抱きながら礼拝を守ったことでしょう。そして、いよいよエルサレムを離れるに当って彼は、大枚の金を注ぎ込んであるものを買ったのです。それは、聖書です。私たちは今、聖書を、一冊の本として、そこらの本屋さんですぐに手に入れることができます。しかしこの当時の聖書は、全て手で書き写されたものであり、大きな巻物でした。聖書を自分のものとして持つなどということは、よほどの大金持ちでなければできない時代だったのです。彼はそういう買い物をして、聖書を持って帰国の途につきました。そして道々、馬車に揺られながらそれを読んでいたのです。このことから、先程申しましたように彼が、異邦人として、また宦官としての何重もの隔てを受けながらもなお主なる神様を真剣に求めていたということがわかるのです。

何故イザヤ書か
 彼は聖書のどの部分を買い求めたのでしょうか。というのは、今の旧約聖書全体が一つの巻物に収まるわけではなく、それぞれの書が別々の巻物だったのです。私たちはこの個所から、彼が少なくとも「イザヤ書」は手に入れたということを知ることができます。何故イザヤ書だったのか。それにはちゃんと理由があると思うのです。先程、イザヤ書第56章が共に朗読されました。この箇所のゆえに、彼はイザヤ書を買い求め、馬車の中でも熱心に読んでいたのではないでしょうか。その3節以下をもう一度読んでみます。「主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな。見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる。宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るならわたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。また、主のもとに集って来た異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るならわたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる。既に集められた者に、更に加えて集めよう、と」。おわかりのようにここには、異邦人も、また宦官も、主なる神様の民に連なることを許され、主なる神様の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許される、という恵みが預言されています。律法においては、主なる神様の民から排除され、連なってはならないと言われている異邦人や宦官が、神様の大いなる恵みによって救いにあずかることがここに約束されているのです。異邦人であり、宦官であるがゆえにユダヤ人になることができず、壁の外側からしか礼拝をすることができない彼にとって、この箇所は、自分にもなお望みがあるのではないか、と思わせてくれる所でした。この箇所があるからこそ、彼はなお希望を失わずに主なる神様を求め続けることができたのです。そして、この箇所に語られている救いは何によって実現するのか、異邦人であり宦官である自分が主なる神様の祈りの家の喜びの祝いに連なることはどうしたらできるのか、そのことを知ろうとして彼はイザヤ書を熱心に読んでいたのだと思うのです。

苦難の僕の歌
 フィリポが天使の導きによって、―それは聖霊の導きでもあったことが29節からわかりますが―、彼の馬車の傍らに立った時、彼が朗読していたのは、イザヤ書53章7、8節でした。ここには、屠殺場に引かれていき、黙って毛を刈られる羊のように、苦しめられ、裁きも行われずに殺されていく人のことが語られています。「主の僕の歌」あるいは「苦難の僕の歌」と言われているところです。ここに引用されているのは旧約聖書のギリシャ語訳の言葉ですので、私たちが今持っている訳とはかなり違いがあります。注目すべきなのは33節に「子孫」という言葉があることです。この苦難の僕は、命を断たれるがゆえに子孫のことを語りようもない、子孫を持つことができない人だ、と言われているのです。それは、宦官である彼の姿と重なります。去勢され、子供を得ることができない、子孫を得る望みが全く断たれている彼です。先程の56章にも、宦官に、「わたしは枯れ木にすぎない」と言うなとありましたが、自分は新しい芽を出すことができない枯れ木のような者だ、という苦しみが彼にもあったのでしょう。しかしこの53章の「苦難の僕の歌」の先の方、10節にはこうあります。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの 献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる」。このように、子孫を語ることもできずに殺されたはずのこの人が、子孫が末永く続くのを見る、と約束されているのです。これはどういうことだろうか、56章に、宦官にも、息子、娘を持つにまさる記念の名を与える、と言われているのと同じように、ここにも、子孫を得ることができないはずの者が末永く続く子孫を見るという、自分にとっての大きな希望が語られているのではないだろうか、しかしこの希望にあずかるにはどうすればよいのだろう、彼はそういう思いを抱いてこの53章を朗読し、理解しようと努力していたのではないかと思うのです。

聖書の説き明かし
 そのように希望と慰めを求めて聖書をひも解き、熱心に読んでいる彼に、フィリポは語りかけます。「読んでいることがお分かりになりますか」。宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言って、彼を馬車に乗せ、傍らに座らせました。こうして、フィリポによる聖書の説き明かしが始まります。この箇所でフィリポがしている伝道は、聖書のみ言葉の説き明かしであり、それのみです。宦官はこの「苦難の僕」についてフィリポに、「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」と質問しました。この、いわれのない苦しみを受けて殺され、そのことによって子孫が末永く続くのを見ると約束されている人は誰なのか、それが彼の疑問です。そしてそれは、今日の聖書研究においても、この苦難の僕の歌を理解する上で最も大切な問題とされていることです。フィリポはこの問いに答えました。「聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」とあります。つまり、この人、苦難の僕と呼ばれている人は、主イエス・キリストのことだ、と明確に答えたのです。「自らは何の罪もないのに、人々の罪を引き受け、捕えられ、裁きを受け、黙って死んでいったこの苦難の僕とは、神様の独り子イエス・キリストのことに他ならない。この人が私たちのために身代わりとなって懲らしめを受け、打ち砕かれ、殺されたことによって、罪人である私たちが赦され、神様の民として迎え入れられている。彼は子孫が末永く続くのを見ると言われているのは、彼を信じる信仰によって神の民が新しく立てられ、多くの人々がそこに招かれ、迎えられ、新しい神の民、新しいイスラエルが彼のもとに誕生する、ということだ。そこには、異邦人や宦官を排除する隔てはもはやない。56章に約束されている異邦人や宦官の救いは、この主イエス・キリストの十字架の死と、そして復活によって実現しているのだ。今やあなたも、この主イエスによる罪の赦し、贖いの恵みによって、神の祈りの家の喜びの祝いへと招かれており、イエス・キリストを信じる信仰を告白し、洗礼を受けることによってそれにあずかることができるのだ」。フィリポはこのように、イエスについての福音を告げ知らせたのです。

洗礼
 この聖書の説き明かしを聞いた宦官は、それまで彼が熱心に求めながら与えられなかった救いが、イエス・キリストにこそあることを示されました。彼が願いながらもどうしても乗り越えることができなかった隔ての壁が、主イエスによって乗り越えられ、彼を中へと引き入れて下さっていることを知ったのです。それを知ったら、もう居ても立ってもいられません。水のある所に来ると、彼はフィリポに願い出ます。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」。その後の37節は、有力な写本に欠けているので今は本文から外されて、272頁に置かれています。そこも合わせて読んでみましょう。「フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は、『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた」。この部分は、古代の教会で洗礼式が行われた時の誓約の言葉から来ているのだろうと思われます。彼はこのようにして主イエスを信じる信仰を与えられ、それを告白して洗礼を受け、キリストに連なる新しい神の民、教会に加えられたのです。

喜びにあふれて
 彼が洗礼を受けると、主の霊がフィリポを連れ去ったので、宦官はもはやフィリポの姿を見なかった、と39節にあります。彼に聖書を説き明かし、洗礼を授けたとたんに、フィリポは彼の前からいなくなったのです。しかし彼は「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。洗礼を受け、主イエス・キリストの父なる神様の民に連なる者とされた者は喜びにあふれてこの世の旅路を歩んでいきます。異邦人であるがゆえに、神の民とはなれない、いつまでも外側に立って遠くから礼拝をするしかない、あこがれつつも中には入れない者として一生を過ごすしかないと思っていた自分が、神の民となり、礼拝の群れの中に入ることができたのです。また宦官として、子供を持つことができない、子孫を見ることができない、たとえ財産を築いてもそれを遺す者はいない、そういう虚しさの中に、自分は枯れ木だと思っていたのが、主イエスの十字架の死と、それに打ち勝つ復活の恵みにあずかる者とされ、息子、娘を持つにまさる記念の名、決して消し去られることのない名を主の家、キリストの教会の中に刻まれ、主イエスに連なる兄弟姉妹という家族を、息子、娘たちを与えられたのです。その喜びは何物にも替え難い、また何物によっても奪い去られることのないものです。そしてそれは、たとえその喜びを自分に告げてくれた人が側にいなくなっても失われることのない喜びなのです。フィリポの姿が見えなくなっても、彼の喜びは失われません。み言葉を説き明かし伝える伝道者の姿は、このように消え去っていってよいのです。この宦官は、聖書を熱心に読んでいましたが、自分ではそれを理解し、福音を正しく聞き取ることができませんでした。手引きしてくれる人が必要だったのです。そこに、聖書を説き明かす者としての伝道者の存在する意味があります。しかし伝道者は、その役目が終れば消え去っていきます。大事なのは伝道者ではなく、主イエス・キリストなのです。伝道者の記憶とか、人間的影響などが消え去っていったところで、教会に連なる人々が、主イエスの福音の喜びにあふれて旅を続けていく、伝道者の働きの目的はそこにあるのです。

主イエスの招き
 このエチオピア人の宦官は、神様の民に加えられる前には、幾重にも隔てられた外側から、しかし真剣に主を求め、救いを求め、またそのみ言葉に希望を見出して礼拝を守っていました。それは今この礼拝に集っておられる求道中の方々、まだ洗礼を受けておられない、しかし信仰を求めて、神様との出会いを求めて、あるいは教会の教え、聖書の教えへの興味や関心を抱いて集って来られた方々の姿に重なるものです。この後行われる聖餐に、皆さんはまだあずかることができません。そこには隔てがあります。けれどもその隔ては、皆さんを教会から排除するための隔てではないのです。主イエス・キリストは、私たち全ての者のために、苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さいました。主イエスが受けて下さった苦しみと死とによって、その裂かれた肉と流された血によって、私たちの罪は赦され、神様の恵みの下に生きる神の民の一員へと私たちは招かれているのです。この招きは人間のどのような条件をも乗り越えるものです。どんな人であっても、どのような罪や汚れを持った、またどのような苦しみや絶望の内にある人でも、主イエスの苦しみと死とによる神様の招きは与えられているのです。聖書がそのことを私たちに告げています。あの宦官も、この福音、救いの知らせ、喜びの知らせを聞いて、それを信じ受け入れて、洗礼を受けたのです。洗礼は、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられている神様の招きが、この自分にも与えられている、ということを信じて、それを感謝して受け、神様の民とされて新しく歩み出す、ということを意味しています。その洗礼を受けることによって、あの隔ては乗り越えられ、皆さんは教会の内側に入り、主イエス・キリストの体である教会のえだとして歩む者となるのです。あの宦官の故国への帰りの旅は、洗礼を受けたことによって全く新しい、喜びにあふれるものとなりました。私たちの人生の旅も、洗礼を受けることによって新しくなります。神様の民の一人とされ、私たちのために肉を裂き血を流して下さった主イエスのおん体とおん血とにあずかる聖餐にあずかりつつ、主イエスとの交わりに生きる、そういう喜びの旅路へと、共に旅立とうではありませんか。

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