夕礼拝

ただ、お言葉を下さい

「ただ、お言葉を下さい」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; サムエル記下、第7章 18節-29節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第7章 1節-10節
・ 讃美歌 ; 56、453

 
1 教会に集い、礼拝をする生活を続けていると人は、自分の信仰の理解がいろいろと変わってくることに気づきます。最初に教会に足を踏み入れた時、初めて礼拝を体験した時に抱いていた教会や聖書の教えについてのイメージが、ずいぶん変わってくる、という経験をするのです。神様はきっとこういうお方なんだろう、とか教会の人たちはこんな人たちなんだろう、と思っていたら、ずいぶん違うようだということが、だんだんに分かってきます。信仰を持って歩む、礼拝に与かりつつ歩む、その歩みの中には、神様について、教会について、聖書の読み方について、いつも新しい出会いがあり、発見があり、理解が深まるということがあるのです。ちょうど噛めばかむほど味がにじみ出てくるスルメイカのように、礼拝に与かり続ける中で初めて知るに至るような信仰の味わい深さがあるのです。
このことは、決して教会員にだけ起こることではありません。道を尋ね求めて、礼拝に集っている人たち、集い続けている人たちの身の上に起こることでもあるのです。あるいは一人の人が教会に通いはじめ、信仰を与えられて洗礼を受けるに至るまでの間に起こることであるし、それ以後も起こり続けていることなのだ、と言った方が正確かもしれません。今日の聖書の箇所は、こうした変化を経験した一人の道を尋ね求めている人の物語について、私たちに語りかけています。

2 それは主イエスがあの、平地での説教を終えて、前に伝道をしたカファルナウムに再び入ってこられた時に起こった出来事です。このカファルナウムには百人隊長がいて、今大変な悩みととまどいの中で時を過ごしていたのです。彼が大事にしていた部下が病を得て、激しい苦しみの中で死にかかっていたのです。いったいどんな病気だったのか、もうどのくらい苦しんでいるのか、福音書は詳しくは語っておりません。ただかなり深刻な病であったことがうかがわれます。よりにもよって、この百人隊長が重んじていた、大事な部下が、この病に苦しむところとなってしまったのでした。
 百人隊長というのは、口語訳の聖書では「百卒長」と訳されていた役人のことで、ローマの軍隊や、この地方の領主であるヘロデ王の下に置かれていた部隊のリーダーです。初めのころは文字通り百人の兵卒の長であったため、この名がつけられたようです。その意味では、社会的にも身分のある立場であり、経済的にもそんなに不自由はなかったはずです。きっと今に至るまで、あちこちの医者に来てもらい、さまざまな薬を試してみて、あらゆる手立てを尽くして治療に当たってきたことでしょう。けれども、それらは一つも実を結ばず、いよいよ死が近づいてくる様子がひしひしと伝わってきていたのです。この部下はきっと忠実でよく働く僕だったのでしょう。「百人隊長に重んじられている部下」という部分を、口語訳は「百卒長の頼みにしていた僕」と訳しています。彼らは普段はおそらく、ガリラヤ地方に出入りするさまざまな商品の検査を行う税関のような仕事をしていたと考えられていますから、きっと委ねられた仕事を、正確に、誠実に担う人柄だったのでしょう。また後から分かるように、この百人隊長が自分の家にこの部下を引き取って看病していたことから考えると、この隊長と部下の間には深い信頼関係があり、互いに愛し敬いあうような関係があったのでしょう。そのような大切な部下を失おうとしている今、いったいどうしたらよいのかと、おろおろし、頭を抱えるこの隊長の悩みはどれほどつらく、苦しいものであったことでしょうか。

3 そんな時、この隊長の下に、主イエスが再びカファルナウムに来られたという知らせが入りました。おそらくこの隊長は、主イエスが以前、この土地で伝道された時のうわさを耳にしていたと思われます。主イエスが前にこの土地で伝道された時の様子は、4章の31節以下に記されています。そこで主イエスは汚れた悪霊に取りつかれた男から、悪霊を追い出し、高熱に苦しんでいたシモンのしゅうとめを癒し、また御許に集ってきた多くの病人たちを癒されたのでした。4章の37節には、「こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」とあります。そのうわさを、この百人隊長も聞きつけていたはずです。そこで彼はこの方に懸けるしかない、と思ったのです。
けれども、ここに大きな問題が立ちはだかりました。この百人隊長はユダヤ人以外の民、異邦人であったのです。主イエスはユダヤの人々へと遣わされているお方だ、そう人々は受けとめていました。異邦人がめったやたらと近づけるようなお方ではないのだろう、百人隊長はそう考えたでしょう。それに当時の律法によれば、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは禁じられていたのです。異邦人は汚れた民であり、その家に入ることは、清い神の民であるユダヤの人々が、その身に汚れを帯びてしまうことを意味したのです。もし自分が直接主イエスの下に行ってお願いしたら、主は「『自分はまず神の民に遣わされているのだ。異邦の民に先に行くことはしない』とおしゃって断られるかもしれない、それに周りにいるユダヤ人たちがそんなことを許しはしないだろう」、彼はそう考えたのではないでしょうか。
 そこで彼は、「ユダヤ人の長老たち」に主イエスへの執り成しを願い出たのでした。ユダヤ人とその律法に配慮して、当時の裁判やもめごとの仲裁を行っていた町の指導者である長老に、自分に代わって部下を癒しに来てくださるようお願いしたのです。彼らはこの隊長のことをよく知っていました。この異邦人の隊長がユダヤ人を愛して、彼らの信仰を尊重し、ユダヤ教の会堂を建ててくれていたからです。このようにして異邦人の中にも、ユダヤ人やその信仰を尊重し、また自らも限りなくその信仰に近づいていた「神を畏れる人たち」と呼ばれている人々がいました。おそらくこの百人隊長もその一人であったと思われます。異邦人でありながら、ユダヤ人が畏れあがめる神に自らも心をひかれ、会堂に普段から出入りしていたのです。彼がどんなに努力しても、ユダヤ教に入ることはできません。神は選ばれたユダヤの民だけに恵みをもってご自身を現してくださると考えられていたからです。けれども、この神を畏れ敬う百人隊長の生き方は、長老たちにもある程度の理解と好感を与えていたのでしょう。長老たちは熱心に願って、部下を助けに行ってくださるようにと、主イエスに願い出てくれたのでした。

4 ところが、ユダヤ人の長老に使いをお願いした後、病気で苦しむ部下の枕辺で主イエスを待ちながら、この百人隊長は深く思い巡らしたのでした。以前主イエスがこのカファルナウムに来られた時、人々が驚いたのは、あのお方のお言葉に「権威」があることだったのを思い起こしたのです。あの時、男を苦しめていた、汚れた悪霊に対して、主はみ言葉をもって立ち向かわれたのでした。「黙れ。この人から出て行け」、そう叱りつけられたのです。そうして男を無傷のままで救い出されたのです。その時、人々は互いに言い交わしました、「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」(4:36)。こうして辺り一帯に広まったうわさが、この百人隊長の耳にも届いていたのです。
 百人隊長は、初めはユダヤ人への配慮から、直接自分から家に来て部下を救ってくださるように願い出ることをしませんでした。けれども今、彼が畏れているのは、主イエスというお方と相見えること、その御前に自分が立たされること、その権威の前に自分が問いただされることでした。「悪霊を追い出し、病を癒す、しかも、権威ある御言葉においてそれをなされるこのお方は、きっと自分が畏れ敬っている、あの神様の下から遣わされたお方、生ける神ご自身に違いない」、彼はそのことに目を開かされたのです。彼の畏れは、今やユダヤ人の反発を招くことへの恐れ、律法を犯すことへの恐れをはるかに越えています。主イエスの眼差しのもとに曝された時に罪を明らかにされ、滅びるばかりの者でしかない自分、恐ろしい裁きの下に置かれるしかない自分、生ける神の御前で、誇るべきもの、主張できるもの、取り柄となるものを全く持ち合わせていない自分、その自分の姿をまざまざと示されたのです。「イエスは主なり」、「この人こそ、生ける神だ」、その驚くべき真理をさやかに示されたのです。
 このことに目を開かれた彼は、急いでそばにいた友人を二番目の使いとして送り、主イエスに申し送ったのです、「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(7節)。ただ「ひと言おっしゃってください、そうすればわたしの僕はいやされるでしょう。いやされることをわたしは信じます」と言ったのです。口語訳の表現で言えば、「ただ、お言葉を下さい」とお頼みしたのです。「これだけのお金をだすからいやしてやってくれ」と言ったのではありません。「直接手を置いて目の前でいやしの奇跡を見せてくれ」と言ったのでもありません。「自分のこれまでの手柄、業績をたくさん残してきたし、ユダヤ人のためにも会堂を建てて、いいことをしてきてやったのだから、その見返りとしてわたしの僕をいやしてやってくれ」と言ったのでもなかったのです。ただ権威ある御言葉にだけ信頼したのです。自分は神の前に持てるもの、誇れるものなどなんにもない。「ただ主がくださる御言葉、罪を赦し、悪霊を追い出し、病をいやす権威ある御言葉にお頼みするしかない、それだけにすべてを懸けるしかない、他に何にもいらない!」、彼には今、そのことが分かったのです。
 ちょうどあのダビデ王が神様の恵みに恩返しをして神の住むべき家を建てようと思い立った時、夢の中で神によってその思惑を挫かれ、その傲慢さを悟らされたダビデがこう祈ったとおりです。「主なる神よ、今この僕とその家について賜った御言葉をとこしえに守り、御言葉のとおりになさってください」(25節)、「主なる神よ、あなたが御言葉を賜れば、その祝福によって僕の家はとこしえに祝福されます」(29節)。

5 この百人隊長はローマ皇帝、あるいはヘロデ王の権威の下に置かれています。その権威の下に、部下に「行け」と言えば部下は言われた所へ行くし、「来い」と言えば来てくれるのです。また「これをしろ」と言えば、その通りにしてくれるのです。けれども今彼が信仰のうちに出会ったお方は、まことの権威であり、権威そのものです。誰かの権威を引っ張ってきて、その名の権威の下に人に言うことを聞かせるのではないのです。預言者たちは「主なる神はこう言われる」と言って、神の言葉を取り次ぎましたが、主イエスは「しかしわたしは言う」と言って、ご自身がすべてを最終的に決定する権威をお持ちであり、権威そのものであることを明らかにされたのです。このお方の前に、百人隊長は、ただ主の恵みの御言葉を受けるだけしかない存在としての自分を知るに至ったのでした。罪にまみれた自分が、恵みの御言葉により頼むしかない者であるということを深く知っている百人隊長の姿、この姿の中に、主は「信仰」を見出されたのです。信仰とは自分の主張や思い上がり、自分がこれまでより頼んできた業績や経験、才能をすべて捨て去り、ただ主の恵みの御言葉により頼むしかない自分の真実の姿を認め、受け入れることにほかならないのです。そしてそうしたら、スッと気持ちが楽になるのです。気張らずに生きていけるようになるのです。人間関係やこの世の悩みによって支配されてしまうことから解き放たれるのです。神の恵みの御言葉に満ち足りて歩むようになるのです。なぜなら、この権威ある恵みの御言葉は、神に言い逆らい、自分の誇りを声高に主張する者でしかなかった私たちのために、主が血を流され、苦しまれ、十字架においてその罪を償い、贖ってくださったことを教える御言葉だからです。それほどまでに神に愛され、大事にされ、肯定されているのが私たちなのです。主イエスは今、復活され、天に上られ、神の右に挙げられたことをもって、父なる神と同じ権威を帯びたお方、権威そのものであることを明らかにされました。この権威をもってこの世界の歩みを導かれ、終わりの時の救いの完成まで私たちを見捨てることなく、責任を持って担い、導いてくださるのです。

6 後に使徒言行録にはコルネリウスという百人隊長が出てきます。彼もまた使徒が宣べ伝えた権威ある御言葉によって家族とともに信仰を与えられるのです。その異邦人へと向かって開かれていく伝道の扉が、すでに今日の百人隊長と主イエスとの霊における出会いの中で開かれ始めていることに気づかされるのです。  一人の道を求める人が、信仰を与えられるまでには、この百人隊長が体験したような、主イエスとの出会いの深まりがあります。それは最初の時より二回目、三回目、一年、二年と経るにつれて、いろいろな試練や浮き沈みを通りながらも、深まり、確かにされていくものなのです。それは信仰者として歩み始めてからも同じことなのです。教会は、道を尋ね求める「神を畏れる人たち」と共に、神の御前に、本当に深く頭を垂れているでしょうか。もしどこかで選ばれた者としての傲慢や、自分たちはクリスチャンとして立派にやっている、といった思いが、表面上の謙遜さの奥に潜んでいるとしたら、「後の者が先になり、先の者が後になる」という主イエスのお言葉どおりのことになるでしょう。主に「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない、新しいイスラエルである教会よ、お前はいったいどうなってしまったんだ」と言われてしまうでしょう。もしいつのまにか、自分はなにがしかのものを持っているのだといった思いを持ち始めているとしたら、私たちはその思い上がりを主の権威ある御言葉によって砕いていただかなければなりません。  こうして教会に集う私たちは皆、いつも新しく権威ある御言葉によって自らを砕かれ、新しく主イエスと出会うのです。そしてますます深く主を知らされ、その恵みに満ち足りて歩むことのできる幸いを味わい知るのです。

祈り 父なる神様、私たちに、ただあなたの御言葉により頼む信仰をお与え下さい。いつもあなたの御前にあって思い上がりと傲慢さ、頑なさを打ち砕かれ、そこで前にも増してあなたの恵みに満ち足りて歩むことを新しく学ばせてください。「ただ、お言葉を下さい」、この祈りの言葉に、この礼拝と、そこから押し出されていく生活のすべてが、貫かれ、支配されていきますように。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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