夕礼拝

わたしの名によって

「わたしの名によって」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編第32編1節―11節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第18章15―20節
・ 讃美歌 : 202、403

信仰の告白の上に
 本日はマタイによる福音書第18章15節から20節をご一緒にお読みしたいと思います。何度か申しておりますが、このマタイによる福音書第18章とは主イエス・キリストを信じる信仰者の群れである「教会」について触れています。マタイによる福音書の中で、「教会」という言葉が出てくるのは、第16章18節と本日の箇所の17節の二箇所だけです。まず、第16章を少し見てみたいと思います。13節以下に「ペトロ、信仰を言い表す」とあります。16節にペトロの主イエスに対する信仰の告白が記されています。「あなたは「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)とあります。そして主イエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(18節)と言われました。この主イエスのお言葉において教会の本質が示されています。「教会」とはこのようなペトロの信仰の告白の上に立て上げられていく群れということです。
 そして、第18章では、その「教会」がどのような群れであるのか、どのような共同体であるのかということが示されています。本日の箇所の最後21節にはこのように記されています。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」この主イエスのお言葉もまた、教会がどのような群れであるのかということを示しています。「教会」とは、二人または三人が、主イエス・キリストのみ名によって集まるところに成り立つものです。ペトロの信仰の告白の言葉を用いるならば、主イエスを生ける神の子、メシア、救い主として信じ、従っていく信仰において集まるところに、教会が成り立つのです。「教会」とはただ土地があり、教会堂があれば、それで主イエス・キリストの教会であるのか、と言いますと決してそうではありません。教会」を「教会」とするのは、そこに本当に主イエス・キリストがおられるのか、その信仰の上に存在しているのかということです。

教会の現実
 18章では、主イエスを生ける神の子、救い主として信じる信仰によって集まる者たちの群れである「教会」がどのような群れであるのかということが語られております。「教会」は何の問題もなく、理想的な群れとして存在しているでしょうか。決してそうではありません。18章の冒頭には、このような主イエスの弟子の問いかけが記されています。その問いは「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(1節)ということです。この「誰が」というのは、主イエスの弟子である自分たちの中で「誰が」ということです。主イエスを神の子、救い主と信じ従っている弟子たちの群れの中でも、「いったいだれが、一番偉いのか」という問いが生じているのです。問いだけではないでしょう。この問いをきっかけに、対立が生じていたのです。主イエスを神の子、救い主と信じ、告白し、従う群れは「教会」です。教会の中でも、自分が偉くなりたい、それも一番偉くなりたいという思いが生じ、対立が起きるのです。
 更に6節ではこのような主イエスのお言葉があります。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈められる方がましである。」という厳しい主イエスのお言葉があります。「わたしを信じる」とありますので、これもまた「教会」のあり方について語っております。教会における、共に主イエスを信じる仲間、兄弟姉妹の間での事柄です。その中の小さな一人をつまずかせてしまうことに対して主イエスは厳しく言われます。何らかの仕方でその人を傷つけ、その人が教会の仲間として、信仰者として歩めなくなってしまう原因をつくってしまう、そういうことが教会の中で起ることということを前提として、主イエスは語られます。主イエスはそのことを10節において「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と言い直されています。主イエスを信じる共同体、教会の中でも、その交わりの中でも、弱い、小さな一人が軽んじられてしまうということが起るのです。その現実を隠さず語ります。主イエスはそのようなことをしないようにと教えられます。ここまでは、自分が小さな一人をつまずかせたり、軽んじてしまわないように注意せよと主イエスが教えられるのです。

兄弟の忠告
 本日は15節節以下「兄弟の忠告」と小見出しにあります。主イエスは「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」ということを語られます。この兄弟とは共に主イエスを信じる教会の兄弟姉妹です。その中の誰かが、自分に対して罪を犯すこと、自分を傷つけ、苦しめ、いろいろな意味での損害を与えることがある、ということを前提にしています。そして自分がその被害者になることがある、ということが語られます。教会が何の問題もなく、理想的な共同体であるということを語っているのではありません。主イエス・キリストのみ名によって、信仰によって集まるこの群れにおいても、人をつまずかせたり、軽んじたりすることが起こります。また人が自分に罪を犯し、それによって傷つけられ、被害者になるということが起るのです。人間の罪のゆえに、様々な問題が生じ、対立が起こります。それでは人間の罪の現実において、私たちはどのように歩めば良いのでしょうか。特に、兄弟が自分に対して罪を犯した、その時に、その罪の被害、損害を被った自分が相手に対してどうするか、というところに最も端的に現われます。本日の箇所はそのようなことが示されています。

二人だけのところで
 主イエスは15節においてこう言われます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」自分に対して兄弟が罪を犯したならば、その人と自分と二人きりで忠告、つまり、注意をしなさい、と主イエスは言われるのです。あなたが私にしたこのことは罪だ、と指摘をし、反省を求める、悔い改めを求めるのです。相手と2人きりで直接に、率直に語り合うということです。そして続けて「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とあります。「言うことを聞き入れる」とは、忠告を受け入れるということです。罪を認め、それを悔い改める、そして「悪かった」と詫びることです。それは互いの間に理解と共感が生まれることです。悪意や敵意が乗り越えられて、よい関係が回復することです。それによって「兄弟を得る」ことが起ると主イエスは言われます。元々は、共に主イエスを信じる共同体として歩んでいる信仰の仲間、兄弟姉妹であったのです。けれども、人間の罪によってその関係が引き裂かれ、兄弟として歩めなくなってしまうのです。けれども、罪を認め、悔い改め、その問題が解決されて、再び兄弟となることができるのであれば、主イエスはそのことによって「兄弟を得たことになる。」と言われるのです。「兄弟を得ること」が二人きりで語り合う目的なのです。自分に罪を犯した兄弟と話しをするのは、怒りをぶつけて自分の気を晴らすためはありません。相手もまた、主イエスを信じる、神様を父とする、同じ兄弟という関係を得るための話し合いです。兄弟としてのよい交わりを回復するためなのです。

ほかに一人か二人を連れて行って
 主イエスは更に続けます。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。」(16節)二人だけの話し合いがうまくいかない場合もあります。悔い改めが起こらず、赦しが起こらず、相手を兄弟として得ることができない、よい関係を回復することができない場合があります。主イエスはこのような場合は「ほかに一人か二人の人に一緒に連れて行きなさい。すべてのことが二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」と言われます。二人または三人で相手の説得に当るというのです。このことは旧約聖書に語られている、裁判の公正を期すための掟です。人に有罪の判決を下すことは、一人の証言のみでしてはならない、と定められています。必ず、二人または三人の証言が一致しなければならない、そうなって初めて、そのことが事実であると認定できるのです。兄弟との間のトラブル、罪においても、当事者どうしの間で解決がつかない場合にはそれと同じことが必要になってきます。二人または三人が共にその人の罪を指摘することによって、それは被害者一人のみの主観的な思いではなく、客観性を持ったことだということが示され、より強力に悔い改めを求めていくことができるのです。ここでもまた、目的は「兄弟を得るため」ということです。しかし、なお、そのように二人または三人で説得に当っても、なお「聞き入れない」場合があります。悔い改めがなされず、兄弟の交わりを回復することができない、ということも起ります。主イエスは続けて「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」(17節)と言われます。ここで「教会」という言葉が出てきます。主イエスのお言葉は「教会に申し出なさい」という教えです。主イエスのお言葉を通して示されていることは、兄弟姉妹の間での罪の問題、それによってつまずきが起ったりする場合は、その問題は個人的な問題に留まるものではないということです。それは教会に申し出る「教会の問題」ということです。当事者同士の2人の間で、あるいは二人または三人の人々の努力によってそれが解決されていくのが望ましいことです。それでもどうしても解決されないことが起こります。なお罪が残り続け、それによる関係の破れが癒されず、兄弟としての交わりが失われたままであるということもあります。それは教会の問題なのです。教会は、主イエス・キリストのもとに共に集い、信仰によって結び合って共に生きる共同体の交わりです。この罪によって破壊されてしまうから、教会の問題なのです。もし教会が、兄弟姉妹の間に起る罪による問題を解決するための努力をせず、結局その二人が絶交状態になって終わり、ということになってしまうなら、教会自体が一人の小さな者を軽んじ、つまずかせていることになってしまいます。それは「小さな者の一人をつまずかせる」ことになります。それは主にある教会の交わりの在り方ではないのです。

戒規
 教会に申し出ても、行われることは二人または三人の場合と基本的に同じです。罪を犯している者を説得し、悔い改めを求めていくということです。兄弟の関係を回復することを求めていくということです。兄弟を得るための努力がなされていくのです。どうしても解決が出来ない場合、犯した罪が指摘されても悔い改めようとしないならば「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(17節)と主イエスは言われます。異邦人か徴税人とは当時のユダヤ人たちの社会において、神様に背く罪人として忌み嫌われていた人々です。ユダヤ人たちは一般的にそのような異邦人、徴税人とは一切関係を持たない、付き合いません。その人々と同様に見なすとは、その人をもう教会の仲間、兄弟姉妹として扱わないということです。教会の交わりからその人を追放することです。このことは後に「破門」とか「除名」という形で制度化されていきました。それらの制度の全体を、私たちの言い方では「戒規」と言っています。「戒規」とは戒告から始まり、陪餐停止、つまり聖餐にあずかってはいけないということです。それは最も重くは除名という戒規が教会の歴史の中で整えられていったのです。この「戒規」とは教会における懲罰規定ではありません。これは、教会がある人に悔い改めを求める、最終的な処置です。兄弟の間で犯された罪をうやむやのままに見過ごしてしまうのでなく、それがきちんと悔い改められて、それによってお互いが赦し合い、兄弟の関係が回復されるために、このような処置がなされるのです。罪を犯した人を罰するとか、被害者に代わって復讐するということではありません。「戒規」の目的もまた「兄弟を得るため」です。罪に陥った人が罪を悔い改めて、赦し合いが成り立ちます。そして、兄弟の関係が回復されるならば、その処置は解除されます。

教会における祈り
 「教会に申し出なさい」とありますが、ここで「教会」とは、信仰者の群れとしての教会の全体のことを指しています。誰か中心になって教会を指導している人や人々、牧師や長老会ということを意味しているのではなく、連なる全ての信仰者たちが「教会」ということです。その教会に、この兄弟の間の罪の問題が申し出なさい、と言うのです。これは教会に連なる全ての者たちが、この問題を自分のこととして受け止め、担うということです。教会の兄弟姉妹の間で起る様々な問題、罪による傷つけ合いは、たとえ自分が当事者でなくても、決して自分と関係のない他人事ではないのです。主イエスは18節以下で、私たちが本当になすべきことを言われます。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とあります。この主イエスのお言葉と同じ内容の言葉は、16章19節でも語られています。主イエスに対して、信仰の告白をしたペトロに対して言われた場面です。「わたしはあなたに天の国のかぎを授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」この言葉もまた、教会について語られております。「教会」はこの世における共同体ということでなく、「地上で解くこと」は「天上でも解かれる」と、永遠へとつながる共同体であり、教会の門は天国への門でもあるのです。地上で人を罪に定め、罪人として断罪するか、それとも人を罪から解く、つまり赦すのか、ということが天上で、つまり神様ご自身がその人の罪を赦さないか赦すかを決定づけるのだということです。神様は教会にそういう重大な使命、責任を委ねておられます。神様が教会、主イエスを信じる私たちに期待し、望んでおられることは、兄弟を得ること、兄弟を罪から解くことです。主イエスは更に続けて「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と言われます。神様は教会に対して、地上で兄弟の罪を赦すことができるように、と期待されます。教会が神様の望んでおられる期待に応えることができるように、ということを二人が心を1つに求めるなら、その願いは必ずかなえられる、と主イエスは言われます。心を1つに求めるとは、祈るということです。私たちが、教会の兄弟姉妹の中で起る罪によって起こる問題を見ます時に、私たちがなすべきこととは、「祈る」ことではないでしょうか。教会はそのような祈りがなされる共同体です。神様に御心を祈り求める。神様は私たちが祈り求めることを望んでおられるのです。  そして主イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とおっしゃいました。二人または三人が、主イエスのみ名によって集まり、そして自分に罪を犯した兄弟との間に、真実の悔い改めと赦しが実現して、お互いがお互いを兄弟として得ることができるようにと祈るのです。地上の教会で、共同体として、心を一つにして主なる神様に祈り求めることは、必ず聞き届けられます。そして、主イエスの名によって共同体に、主イエスはいて下さるのです。

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