「愛せないあなたのために」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; ホセア書、第6章 1節-6節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第3章 1節-6節
・ 讃美歌 ; 314、291
序 ある安息日に、主イエスは会堂に入って人々に教えておられました。そこにいた一人の男との関わりから、今日の恵みの出来事は始まっています。この箇所のすぐ前、6章の1節から5節までにも、やはりある安息日の出来事が記されていました。主イエスの弟子たちが麦畑を通っていく間に、麦の穂を摘んで食べ始めたので、ファリサイ派のある人々から咎められたという出来事です。主はこの時、弟子たちに代わってお答えになり、「人の子は安息日の主である」ことを宣言されたのでした。この物語に続いて起こったのが、今日の会堂での出来事です。
今度も主イエスと対決したのは律法学者やファリサイ派の人々でした。この前は安息日に麦の穂を摘んだ弟子たちの行いが律法違反だと言って、咎め、責めたてました。今度は安息日に主イエスが一人の男に癒しを行われるかどうかが注目されています。安息日に人を癒すという行いが律法違反に当たると彼らは考えていたのです。もし主が癒しを行われれば、すぐにでも裁判所に訴え出ようと企んでいたのです。この前は主イエスの弟子たちの行いが問題にされました。今度は弟子以外の人に関わることです。もしここで癒しが行われ、この男もまた主に従う群れに加わっていったら、それを目の当たりにした周囲の人々にも大きな影響を与えかねません。人々の心は律法学者たちからは離れ、主イエスに向かうことになるでしょう。主イエスの弟子たちに留まらず他の多くの人々の間でも、律法違反の行いがなされていくようになるでしょう。ファリサイ派の権威は失われてしまうでしょう。それは彼らにとって大きな脅威だったに違いありません。何とかして今のうちに困った人物を消し去っておきたい、そういう激しい妬みと憎しみが今燃え盛り始めているのです。
1 主イエスがこの日入られた会堂には、一人の手の萎えた男がいました。福音書は具体的に、「その右手が萎えていた」(6節)と伝えています。萎えた手が右手だったことまで伝えているのはルカだけです。この時代に右と左のどちらがを利き腕としている人が多かったかは分かりません。けれども、右手が不自由なことは、生活にも多くの不自由さをもたらします。食事をするのも、顔を洗うのも、左手だけでしなければなりません。農作物や大きな甕を運ぶこともできなかったでしょう。右手が使えなかったことを敢えて具体的に語ることで、ルカはこの男がこれまでの人生で味わってきた悩みと苦しみを伝えようとしているように思われるのです。この男が生まれつき右手が不自由だったのか、それとも人生の途中で病のため右手を不自由にしてしまったのか、それは分かりません。しかしもし、人生の途中から右手を不自由にしていたら、おそらく生まれつき手が不自由だった場合以上の落胆と悲しみが、彼の心の中に渦巻いていたかもしれません。生き生きと力強く仕事をしていた時の自分はもう戻ってこない。自分の手で仕事をなし、自分の力で得た収入で生活を営んでいた時の自信と充実感はもはやない。今はただ、毎日この会堂にやって来て、物乞いをして生きていくしかないのです。
手が「萎えていた」と訳されている言葉は、もともと「命を失った」、「縮みこんだ」、「水分を失って渇いた」という意味を持っています。ちょうど日照りや旱魃が続くと植物が水気を失って枯れ、命を失ってしまうように、この男の魂もみずみずしさを失ってかたくなになり、その人生はもはや意味を見出せないものとなっていたのです。どんなに安息日が巡ってきても、どんなに律法学者やファリサイ派の人々が出入りしても、この男はついぞ癒されることがなかったのです。彼らの言葉には、この男を救う力がなかったのです。この男の渇き切った魂にうるおいを与え、新しい命と力で満たすことができなかったのです。私が以前バングラデシュに行った時、宿舎のそばの道に、いつも座っている物乞いのお年寄りがいました。彼は毎日決まった場所にやって来て、そこに座り込み、物乞いをして日長一日を過ごすのです。通りを歩く人々は誰も見向きもしません。彼の表情はいつもうつろで、焦点の定まらない目で人々の往来を見遣っているだけなのです。この会堂にいた男も、そんな状態になっていたと思うのです。
しかし今この男は、大いなる注目のうちに置かれていました。今日はファリサイ派の人々も律法学者たちも、この男に注目していました。そのわけは、この男が癒されることを願ったからでもなく、この男と関わりを持とうとしたからでもありません。主イエスを訴える口実を作るためであったのです。その意味では、彼らはこの男に本当に注目していたとはいえないかもしれません。彼らは主がこの男に何をするかに注目していたのです。安息日にしてはならない癒しのわざを行って、律法違反の現行犯で裁判にもちこもうと狙っていたわけです。そして主を訴え、自分たちの前から消し去ろうとしていたのです。
彼らはこの企みを隠し、心の中で訴える機会を狙っていました。マタイの同じ箇所では律法学者たちが口に出して、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」、と尋ねています。しかしルカの描く律法学者はもっと悪辣です。企みを心の中に隠して、主イエスが安息日に癒しを行うかどうか、黙って様子をうかがっているのです。主イエスは彼らの企みを見抜いておられました。主の前にあっては、言葉と行いに現れることにとどまらず、その思いの中なることもみんな明らかにされるのです。この企みを知った主イエスはしかし、その挑戦を敢えてお引き受けになったのでした。あの企みを見抜いた時、その手に乗らず、癒しを行わないで、彼らの思惑を挫く方法もあったはずです。無用な混乱を避ける道もあったはずです。けれども、それは主のお望みになられることではありませんでした。彼らの思惑は予想外の形で挫かれる必要があったのです。そこで起こる混乱は無用な混乱ではなく、必要とされている混乱であったのです。この挑戦と混乱を引き受けることによって、主はファリサイ派の人々の思いを独り言の世界から主との対話の世界に引き出してくださったのです。ファリサイ派の人々はもはや自分を隠したまま、主イエスの様子をうかがうことができなくなったのです。主と出会わずにはいられなくなったのです。
2 主は男におっしゃいます、「立って、真ん中に出なさい」(8節)。彼はこの時、初めて言葉をかけられたのではないでしょうか。この会堂で、毎日座っていても、誰も見向きもしてくれなかった。言葉をかけてくれる人はいなかった。今初めて、自分に言葉をかけ、出会いの場へと招き入れてくれるお方を目の当たりにしたのです。男の体の中に、不思議な力が湧いてきました。身を起こす力、立ち上がる力が与えられたのです。そうせざるを得なくさせるような力が生まれてきたのです。主イエスとの出会いが、この男にも与えられたのです。主と出会う場所として、ルカはこの「真ん中」という言葉にこだわりを持っています。それは主イエスと出会う場所なのです。それは「真ん中」でなければならない。あのザアカイが最初はいちじく桑の木の上から主を見下ろしていた、あのような状態のままでは、主と出会うことはできません。あの長い間出血に悩まされていた女性が、群衆にまぎれたままで、主の衣のふさに触れようとした、あの状態のままでは、本当に主との出会いは起こりません。主はご自分の前に、真ん中に立って、ご自分に出会うようにと私たちを招いてくださっているのです。
私は時々、主イエスが世の終わりに再び来られた時、自分は「イエス様!」と叫んですぐにそのまん前に、その足もとに走って行ってひざまづくことができるだろうか、と考えることがあります。群衆の中にまぎれて、あの律法学者のように主が何をなさるか様子をうかがってしまうのではないか、と恐れることがあります。そこですぐさま自分を全部明け渡して、主のご支配にすべてを委ねることが本当にできるだろうか、と想像することがあります。まだ私はやらなければならないことがある、まだ私の人生にはやり残していることがある、いろいろな理屈をこねて、主イエスの前に、真ん中に出ることを拒みやしないか、と恐れるのです。ロシアの文豪ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』という長編の小説を書きましたが、その中で再び来られた主イエスを拒む正教の大審問官を描き出しています。そこで大審問官は言うのです、「お前は注意や警戒にことを欠かなかったが、お前はその注意を聞かないで、人間を幸福になし得る唯一の方法を斥けたではないか。しかし幸いにも、お前がこの世を去る時に、自分の事業を我々に引き渡していった。お前は自分の口から誓言して、人間を結んだり解いたりする権利を我々に授けてくれた。だからもちろんいまとなって、その権利を我々から奪うわけにゆかない。どうしてお前は我々の邪魔に来たのだ?」
私たちもどこかで自分の人生の主人は自分自身だと思っているのではないでしょうか。あの大審問官が、主イエスの後15世紀以上かけて築いてきた民衆を都合よく支配する仕組みをわが手柄として誇り、いざキリストが再び来られても自分たちの邪魔をするな、と言って主を抹殺しようとしたようにです。今、あの律法学者たちも、自分たちの権威と支配を奪われて、人々が主に従っていき、律法違反がはびこり、自分たちの権威が地に堕ちることに堪えられないのです。自分が安息日の主人でいたいのです。私たちも、自分が主人でいたいのです。日曜日でさえも主人でいたいのです。自分で人生を設計して、自分が思うとおりに生きたいのです。それを邪魔する存在は許せないのです。
けれどもそのような私たちに主は語りかけられます、「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。そして手の萎えた男に力強くお命じになるのです、「手を伸ばしなさい」(10節)と。そこで男が言われたようにすると、手は元どおりになったのでした。失われていたみずみずしい命が彼の中で生き生きと鼓動を打ち始めたのです。安息日の本当の意味が、この男の体を通して現れ出たのです。
結 安息日とは、人間が本当の安息に与かるために主なる神が備えてくださった日です。主なる神が天地をお造りになり、七日目に休まれたことがその根拠です。また申命記の伝えるところによれば、主なる神がイスラエル人をエジプトにおける奴隷状態から救い出し、解放してくださった救いの出来事が安息日の根拠です。主なる神の創造と救いを覚え、ほめたたえ、喜ぶ日が安息の日であり、そのために仕えるのが律法の定めなのです。主はこの律法のすべてを要約しておっしゃいました、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」(15:27)。もし神を愛していると言いながら、その神ご自身が私たちの下に来られることを拒み、隣人が癒されることを喜ぶことができないなら、それは悪を行うことであり、命を滅ぼすことだ、と主イエスはおっしゃったのです。自分たちの思惑通りに主が癒しを行われたにも関わらず、律法学者たちは主を訴えることができませんでした。まことの安息日の主の前に、その権威は崩れ去ったのです。彼らがすぐにイエスを何とかしようと話し合ったのも無理はありません。福音書の第6章で、早くも主の暗殺計画が持ち上がっているのです。
私たちが主を愛していると口で言いながら、自分を人生の中心に据え、隣人を妬み蔑みながら歩んでいるなら、私たちの心はあの男の手よりはるかに頑なになり、固まってしまっているのです。人生の主人である自分の権威を奪う主を認めることができず、主の暗殺計画を話し合ってしまう、それが私たちの偽らざる姿なのです。あの大審問官のように、またこの律法学者たちのように、一番熱心に神を拝んでいると思っている真っ只中で、実は神から最も遠く隔たってしまうのが私たちの姿です。そうさせている力が聖書の語る「罪」です。ただ主が私たちを呼び出し、招き入れ、出会いの中に入れてくださらなければ、私たちは主と出会うことができないのです。ただ主が、私たちに安息を与えてくださらなければ、私たちは本当の意味でやすらい、憩うことができないのです。主はあの時、律法学者一同を見回されたように、今私たちもその眼差しの中に入れてくださっています。神を愛することも、隣人を愛することも、決して本当の意味ではなすことができない私たち、再び来られた主を、遠巻きにして見遣ることしかできない私たち、そんな私たちを呼び出して、本当に出会ってくださるために、十字架にかかって死に、復活の命を与えてくださったのが主イエス・キリストです。この主が招いてくださる時、私たちは人生のまことの主を知るのです。そしてその主の御心を知らされるのです、「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく、 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない」。主の御苦しみを思うこの時、私たちはあの手の萎えた男に呼びかけられた主の声を、共に聴くことができるのです。「立って、真ん中に出なさい」。
祈り 父なる神様、どうか御子イエス・キリストによって、あなたのまことの安息に与からせてください。善を行い、命を救う聖霊の力に与からせてください。隣人を憎み軽蔑し、自分を人生の主人に留まらせようとする私たちをどうか憐れんでください。悪を行い、命を滅ぼすことに急ぐこの世界を憐れんでください。どうかあなたの招きの声をさやかに聞かせてください。あなたの呼び出しに導かれて、真ん中に立つことを得させてください。この礼拝の只中で、あなたに出会わせてください。私たちがこう祈るのは、あなたがわたしたちの与かることのできる、まことの安息の主であることを知らされているからです。どうか主を知る喜びでわたしたちの魂とこの世界をいっぱいにしてください。
安息日の主なる、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。