主日礼拝

聖霊が降る

「聖霊が降る」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第11章 1節-9節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第2章 1節-13節

 
活動開始
3月から主日礼拝において使徒言行録を読み始めまして、本日から第2章に入ります。使徒言行録は、主イエス・キリストの十字架と復活、そして昇天の後、主イエスを信じる信仰者の群れである教会がこの世に誕生したこと、その最初の教会の指導者であった使徒たちがどのように伝道をし、主イエス・キリストを信じる信仰がどのように広まっていったかを語る書物です。生まれたばかりの教会の様子を知ることができる、大変興味深い、また貴重な史料であると言うことができます。先週までこの使徒言行録の第1章を読んできたわけですが、第1章は「戦闘準備」の章である、ということを先週申しました。教会が生まれ、その活動が開始される、そのための準備、備えのことが第1章に語られていたのです。その準備の中心は、「聖霊を待つ」ということでした。復活された主イエスが、弟子たちに、あなたがたに間もなく、父が約束して下さっている聖霊が降る、それによってあなたがたは力を受け、全世界へと、わたしの証人として派遣されていくと言われたのです。弟子たちは、共に集まって心を合わせて祈りながら、その聖霊の降るのを待っていました。それが、教会の誕生と活動開始のための最も大事な、中心的な準備だったのです。そして本日からの第2章は、待っていた聖霊が弟子たちに降ったことを語っています。第2章はいよいよ、教会の誕生、活動開始の章なのです。

ペンテコステ
 そのことは、「五旬祭の日」に起こったと1節にあります。「五旬祭」と訳されているのは「ペンテコステ」という言葉です。それは「五十日目」という意味の言葉です。「旬」という言葉は、上旬中旬下旬の旬ですから十日という意味です。ですから五旬祭はまさに五十日目の祭という意味になります。何から五十日目かというと、「過越の祭」からです。ユダヤ人の最大の祭である過越の祭から五十日目に、五旬祭、ペンテコステが祝われていたのです。その日に、主イエスの約束が成就し、弟子たちに聖霊が降ったのです。


 そこで何が起ったのでしょうか。2節に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。「激しい風が吹いて来るような音」、それが聖霊の働きを指し示しているのです。聖霊、神様の霊はしばしば風になぞらえられます。最もよく知られているのは、ヨハネによる福音書の3章8節でしょう。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。風は私たちの目に見えません。しかし確かに吹いてきて、私たちに働きかけます。風は日本語でも、新しい出来事が起こることを象徴して用いられる言葉です。「新しい風が吹く、風向きが変わる」などのようにです。神様の霊、聖霊が、新しい風として吹きつけ、弟子たちに出来事を起し、彼らを新しくした、それがペンテコステに起こったことだったのです。


 聖霊の風は弟子たちにどのような新しい出来事を起したのでしょうか。3節には「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。今度は「炎のような舌」です。炎、それは神様が人間にご自身を示し、人間と関わりを持とうとされる時に現れるものです。神様と出会い、関わりを持つことは、人間の内面に何かの心理的変化、心の動きが起こる、というようなことではありません。炎によって焼き尽くされるようなことです。神様からの炎に焼かれるような体験の中で、私たちは神様との出会いを与えられるのです。出エジプト記3章で、モーセは神の山ホレブで、燃え上がる柴の炎の中から神様のみ声を聞きました。神様は炎の中から彼に語りかけると同時に、「ここに近づいてはならない」と言われたのです。罪人である自分がこれ以上近づいたら焼き尽くされずにはおれない、モーセはそういう体験の中で、神様と出会い、遣わされたのです。聖霊が降った時に炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまったというのは、まさに神様ご自身が彼ら一人一人に出会い、働きかけて下さったことを現わしていると同時に、その聖霊の働きが彼らの内面から生じてきたのではなく、外から与えられたものであること、聖霊の風はあくまでも私たちの外から吹き来たり、炎のように私たちを焼き焦し、そして新しく生かすのだということを現わしていると言えるでしょう。


 「舌」という言葉が用いられていることにも意味があります。聖書において「舌」は語ることとの関連で出てきます。「炎のような舌」というのはどういうものか、イメージがわきにくいですが、これによって語られているのは、神様からの炎が、弟子たち一人一人に、舌となって、つまり「語る」力として与えられたということでしょう。それゆえに、4節には「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と言われているのです。聖霊の風が吹き来たり、神様の炎に焼き焦されて、弟子たちは新しく生かされていった、それは、言葉を語る者としてです。聖霊に満たされた者は、「霊が語らせるままに」語り出すのです。ペンテコステの出来事において弟子たちに降った聖霊は、彼らに新しい舌、新しい言葉を与え、語る力を与えたのです。

ほかの国々の言葉
 彼らはどんな言葉を語ったのか。それは「ほかの国々の言葉」だったと言われています。それはどのようなことだったのかが、次の5節以下に語られていきます。エルサレムには、あらゆる国から帰って来たユダヤ人たちが住んでいた、その人々が、「自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった」のです。ユダヤ人は当時既に、あらゆる国に散らされて住んでいました。紀元前6世紀にバビロニアによって国を滅ぼされて以来、彼らは自分たちの国、国土というものがあったりなかったりする歩みをしてきました。国があっても、それが本当に自分たちの国であるとは言えないような状況があったのです。そのような中で彼らは、逆に「国土」に縛られない生活を身につけていったのです。彼らは世界のどこにでも移り住み、その土地の人々と交流を持ち、そこの言葉を語り、しかしイスラエルの主なる神を信じて生きることにおいてユダヤ人としての共同体を維持しながら生きていました。そのような外国におけるユダヤ人共同体の中で生まれ育った人、つまり外国生まれのユダヤ人で、エルサレムに帰って来て住んでいた人々というのがここに語られている人々です。彼らが、自分の生まれ故郷の言葉を聞いた、それは、9節以下にリストがあげられているように、当時の地中海世界の人々が知っていたあらゆる地域に及ぶものです。それらの諸国の、全く異なる様々な言葉が、しかしこの時聖霊の働きを受けた弟子たちによって語られたのです。そのように弟子たちは、聖霊の力によって、様々な国々の言葉で語っていったのです。彼らは、いろいろな外国語を学んだ語学の素養のある人々などではありません。7節に、「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか』」とあるように、皆、ガリラヤの田舎の、例えば漁師だったり、そういう普通の人々です。そういう弟子たちが、学んだこともない外国語を突然しゃべり出した、そういう奇跡が起ったのです。
 このような奇跡は本当にあったのだろうか、ということは考えてもあまり意味がありません。一つ言えることは、この奇跡はこの時のみの、一時的なものだったということです。この後弟子たちが、それぞれしゃべれるようになった外国語を駆使してそれぞれの国で伝道していった、ということは語られていません。全世界への伝道は、そのような華々しい奇跡によってではなく、別の、もっと地味な歩みによってなされていったのです。そういう意味では、このペンテコステの日の奇跡が本当にあったのかどうか、と考えるよりも、このことによって使徒言行録は何を示し語ろうとしているのか、を考えた方が実りがあると言えるでしょう。そこには、いろいろなことが見えて来るのです。

イスラエルの再結集
 先ず言えることは、たとえ一時的にもせよこのように世界の様々な言葉が弟子たちによって語られ、しかもそれが人間どうしのコミュニケーションの成立と言うよりも、11節の終わりに、「神の偉大な業を語っている」と言われているように、神様の救いのみ業、具体的には主イエス・キリストの十字架と復活による救いが語られたということは、ここに、主イエス・キリストの福音が全世界に宣べ伝えられ、広められていくことへの予告と言うか、聖霊の働きがそういう全世界への伝道をもたらす、ということが示されたということです。けれども先程も申しましたように、それはこのことから直接直ちに実現していくことではありません。むしろここで注目すべきなのは、これらの外国語での証しの言葉を聞いたのは皆ユダヤ人だったということです。外国生まれのユダヤ人が、それぞれ自分の生まれ故郷の言葉を聞いたのです。様々な言葉が語られましたけれども、それによって神の偉大な業、主イエス・キリストの救いを聞いたのはユダヤ人だけ、あるいは異邦人でも11節の「ユダヤ教への改宗者」だけだったのです。このことが意味しているのは、ここで聖霊の働きによって主イエス・キリストの福音のもとに一つに集められているのはユダヤ人、つまりイスラエルの民である、ということです。神様の民イスラエルの再結集がここで行われているのです。それは1章6節に言われていた、「イスラエルのために国を建て直す」ということです。聖霊が降ることによって、神様の民イスラエルが、主イエス・キリストによる救いのみ業のもとに結集されたのです。それが、教会の誕生です。その教会は、最初はユダヤ人の群れだった、それは、神の民イスラエルを受け継ぐものだからです。しかしそのように新しいイスラエル、教会がユダヤ人の群れとして誕生した、その時に、世界の様々な国語が語られたということは、この新しいイスラエルが、決してユダヤ人だけのためのものではなく、様々な国語を話す異邦人たち、全世界の人々に開かれたものとなっていくのだ、ということを示していると言えるでしょう。教会の誕生に際して起ったこの奇跡において、既にこのことが先取りされていたのです。

バベルの塔の反対
 さらにこういうこともあります。聖霊を受けた弟子たちが、様々な国の言葉を語ることによって、新しいイスラエルの民が結集されている、それは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記の第11章におけるいわゆる「バベルの塔」の物語において起ったことの反対であり、その解決である、ということです。バベルの塔の物語は、「世界中な同じ言葉を使って、同じように話していた」ということから始まっています。その人間たちが、シンアルの地に、天にまで届くような塔を建て始めるのです。「天にまで届く」というのは、神様のおられる所にまで届く、つまり神様の領域にまで人間が自分たちを高め、力を及ぼしていこうとすること、つまり人間が神に成り代わろうとすることを象徴しています。そういう意味では、バベルの塔を建てることは今でもいろいろな形で行われています。とりわけ、生命科学、遺伝子工学などにおいてそれが言えるでしょう。いやそのような科学や技術の最先端の話でなくても、私たちが、自分の命と自分の体を、自分のものだからそれをどう使おうと自分の勝手だ、と思って生きる時に、私たちはそこにバベルの塔を建てていると言わなければなりません。神様は、人間のそのような傲慢な、不遜な営みをご覧になり、人間の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようになさったのです。それによって人間は全地に散らされていき、それぞれの違う言葉を語りつつ生きるようになったのです。つまりこのバベルの塔の物語は、この世界に様々な違う言葉があり、違う言葉どうしは通じない、という現実の原因を語っているのです。そのようになっているのは、人間が神様に成り代ろうとしたことへの、つまり自分自身やこの世界の主人になろうとしたことへの神様の裁きだと言っているのです。自分が神になり、主人になろうとしていく時に、人間どうしの言葉が通じなくなる、コミュニケーションが失われる、そして、共に生きることができなくなる、これは私たち人間のかかえている問題を非常に深くえぐり出している話です。そしてペンテコステの出来事、聖霊が降り、新しいイスラエルである教会が誕生したことにおいて、これと反対のことが起り、この問題の解決が示されているのです。ここに起こっているのは、みんなが同じ言葉をしゃべるようになった、ということではありませんから、厳密に言えば反対のことが起っているとは言えないかもしれません。けれども、互いに通じないそれぞれの言葉の中で生まれ育った人々が、この聖霊の働きによって、皆、同じことを聞いたのです。神の偉大な業が語られるのを聞いたのです。それぞれの言葉の違いはあります。それを統一して世界共通語を語らせるのが聖霊の働きではありません。それぞれの言語、文化の違いは尊重され、残されながら、しかし皆が同じ神の偉大な業を語る言葉を聞く、つまり主イエス・キリストの十字架と復活による神様の救いの恵みを聞くのです。それによって、言葉の違う人々が一つになり、新しいイスラエルへと結集されていくのです。バベルの塔において散らされた人間の再結集がここにあります。神に成り代ろうとする傲慢によって言葉が通じなくなり、共に生きることができなくなってしまった人間が、聖霊の働きによって力を与えられた弟子たちが主イエス・キリストにおける神の偉大な救いのみ業を語るのを聞くときに、様々な違いを越えて一つにされるのです。聖霊は、そのように私たちを一つにします。矢澤先生が中国の教会についての研修旅行から帰られました。これからそのお話をいろいろな場で伺うのが楽しみです。例えばこの中国の教会と私たち日本の教会が、言葉の違い、文化の違い、そして過去の歴史における様々ないきさつを越えて一つとされ、共に歩むことができるようになる、それは、聖霊の働きによるのです。

語る言葉を与える聖霊
 ペンテコステの日に起った出来事、聖霊が降ったことによって弟子たちに与えられた奇跡は、このように、豊かな意味を持っています。それらは全て、この後、ここで誕生した教会が成長していき、全世界へと広がっていくことの中で実現していくことの予告、先取りであると言うことができます。主イエス・キリストの父なる神様が、聖霊の力によって生まれさせて下さった教会を通して、どんなに豊かな恵みのみ業を繰り広げていって下さるのかが、このペンテコステの日の出来事に凝縮されて示されているのです。私たちはここから、神様が教会において実現して下さる恵みの豊かさを知ることができます。けれども、それと同時に私たちは、このペンテコステの日に、祈りつつ待っていた聖霊を受けた弟子たちに起ったことの中心、本質をしっかりとつかんでおくことが大切だと思います。それは、いろいろな国語でしゃべり出したことではありません。異文化コミュニケーションができるようになったことでもありません。起ったことの本質は一つ、それは、彼らが、「神の偉大な業」を語り始めたことです。その「神の偉大な業」は、既に繰り返し言っているように、主イエス・キリストにおけることです。神様が、その独り子イエス・キリストを私たちの救い主としてこの世に遣わして下さり、主イエスが私たちと同じ人間としてこの地上を歩んで下さり、そして私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、その十字架の死を父なる神様は、私たちの罪の赦しのための贖いの死として受け入れて下さり、私たちの罪を赦して神の子として下さった、そして罪と死の力を打ち破って主イエスを死者の中から復活させて下さり、主イエスによる罪の赦しの恵みを受ける私たちにも、死に打ち勝つ復活の命、永遠の命を約束して下さった、この、主イエス・キリストにおいてなされた神様の偉大な救いのみ業を、弟子たちは、聖霊を受けることによって語り始めたのです。それを証しする者とされたのです。1章8節の、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という主イエスの約束が実現したのです。聖霊は、私たちを、主イエスの証人とします。主イエスの救いを語る者とします。語る言葉を与えてくれるのです。

語る者にも聞く者に働く聖霊
 そして、その言葉を人々に理解させ、それは人間の勝手なたわ言ではなく、「神の偉大な業」が語られているのだと分からせて下さるのも聖霊の働きです。いろいろな国から来た人々が、それぞれの国語で「神の偉大な業」が語られるのを聞いて驚いた、それは、弟子たちに聖霊が働いていろいろな言葉を語れるようにした、ということであると同時に、人々にも聖霊が働いて、弟子たちの語る言葉を理解できるようにした、ということでもあるのです。聖霊は、語る者にも聞く者にも働きます。それによって、主イエス・キリストの福音が、喜ばしい救いの知らせが、伝えられ、受け取られるのです。教会が生まれたというのは、そのような聖霊の働きが開始されたということです。そしてその聖霊の働きは、今も、私たちにおいても、同じように与えられているのです。私たちが、先輩の信仰者たちの語る言葉、証しを聞いて、主イエス・キリストを信じて信仰者になった、そこにこの聖霊の働きがありました。そして今私たちが人々に主イエス・キリストのことを、その救いの恵みを証しし、語っていく、そこに聖霊が働いて下さり、またそれを聞く人々にも聖霊が働いて下さって、信仰が伝わっていくのです。伝道がなされていくのです。聖霊が働きかけて下さらなければ、どんな言葉が語られても、伝わってはいきません。信仰が生まれてはいきません。そのことが、このペンテコステの日にも起ったことが13節に示されています。「しかし、『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」。同じように弟子たちの言葉を聞いた人の中に、「神の偉大な業が語られている」と思った人もいれば、「あれは酔っ払いのたわ言だ」と思った人もいたのです。同じことは今も起ります。どんな言葉、どんな証し、どんな説教を聞いても、聖霊の働きがなければ、そこに語られている福音は、信仰は伝わらないのです。しかし聖霊が働いて下さるなら、人間的などんな違いも問題ではありません。言葉や文化や生活習慣がどんなに違っていても、その違いが乗り越えられて、神の偉大な業が伝わっていき、私たちを新しいイスラエル、教会へと結集し、一つとして下さる神様のみ業が実現するのです。

聖霊を祈り求めつつ
 教会はこの聖霊のお働きによって生まれ、今も歩んでいます。私たちはその聖霊のお働きを、聖霊の風を、自分自身に祈り求めていきたいのです。つまり私たち一人一人が、主イエス・キリストによる神の偉大な救いのみ業を語る者とされることを、主イエスの証人とされることを求めていきたいのです。それは何か特別な勉強をすることではありません。巧みに語る技術を身につけることでもありません。人間の知識や技術などは、何ほどのものでもないのです。そんなもので伝道ができるわけではありません。大事なことは、私たちが聖霊の働きを、その風を、その炎を、真剣に祈り求めていくことです。私たちが何かをするのではなく、聖霊が新しい出来事を起して下さることを願い求めることです。しかしその出来事は、自分と関係のないどこかの誰かに起るのではなくて、この自分に起こるのです。自分に聖霊が働いて下さり、語る言葉を与えられるのです。私たち一人一人がそれを願い求めて祈りを合わせていくところに、生き生きとした伝道がなされていきます。始まろうとしている新しい年度、私たちは、「宣べ伝える教会」という主題を掲げ、歩み出そうとしています。聖霊が降り、教会が最初に誕生したペンテコステの出来事をしっかりと見つめ、その聖霊が今私たちにも豊かに働いて下さることを信じて祈り求めつつ、新しい年度を迎えたいと思います。

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