夕礼拝

祭司の責任

「祭司の責任」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:サムエル記上 第2章12-36節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第2章1-10節
・ 讃美歌:322、469

幼子サムエル
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いており、先月からサムエル記上に入りました。本日は第2章12節以下を読むのですが、12節からとしたのは、新共同訳聖書の区切りがそうなっているからです。しかしここは11節から読み始めた方がよいようにも思われます。11節には「エルカナはラマの家に帰った。幼子は祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた」とあります。この幼子が、サムエル記の主人公であるサムエルです。彼の誕生のエピソードが1章に語られていました。子どもが与えられなかったハンナという女性が、嘆き悲しみの中で主なる神に祈り、男の子を与えて下さったらその子を主にお捧げしますと誓ったのです。その結果生まれたのがサムエルでした。ハンナと夫エルカナは、主への誓いの通り、サムエルが乳離れすると彼をシロの聖所に連れて来て祭司エリに託したのです。それで幼子サムエルは祭司エリのもとに留まり、そこで育てられていった、そのことが11節に語られていたのです。そして12節以下には、サムエルが育てられた祭司エリの家庭の様子が描かれていくのです。

エリの息子たち
 祭司エリは、当時イスラエルの民の聖所であったシロの神殿に仕える祭司でした。その神殿には神の箱、つまり十戒を刻んだ石の板が納められている箱が置かれていたのです。しかしエリは22節にあるように非常に年老いており、祭司としての務めは専ら二人の息子たちが行っていました。その二人の名前は1章3節にありました。ホフニとピネハスです。この二人の息子たちはとんでもない連中でした。12節に「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった」とあります。彼らの行状が13節から17節に語られています。ここに語られていることは私たちには馴染みが無いので分かりにくいですが、要するにこういうことです。祭司は人々が神を礼拝し、犠牲を捧げる時に、それがちゃんと神に受け入れられるように祈り、また神からの祝福を人々に告げます。そのようにして神と人々との仲立ちをするのです。その働きの報酬として祭司は、捧げ物の穀物や動物の肉の一部を取ってよいことになっていました。捧げ物の中に祭司の取り分があって、祭司とその家族の生活はそれによって支えられていたのです。しかし祭司が何でも好きなように取ってよいわけではなくて、神に捧げなければならない部分、つまり祭壇で焼いてしまわなければならない部分がきちんと定められていたのです。ホフニとピネハスがしていたのは、その神に捧げられるべきものまで自分たちで取ってしまったということです。人々の捧げ物から、先ず自分たちが最も良い所を取ってしまい、残りを神に捧げさせたのです。人々は、彼らに逆らうと犠牲が捧げられなくなり、つまり礼拝ができなくなり、神の祝福が得られなくなってしまうので、文句が言えなかったのです。しかしこれは17節にあるように主に対する甚だ大きな罪です。彼らは「主への供え物を軽んじた」のです。祭司としての地位を利用して神のものを横取りして私腹を肥やしていたのです。エリの家ではそんなことが行われていたのです。
 エリの息子たちの悪行はそれだけではありませんでした。22節には、彼らが、臨在の幕屋の入口で仕えている女たち、つまり聖所のための奉仕をしていた女性たちを引き入れて度々肉体関係を持っていたとあります。これも、祭司としての地位を利用してのことです。このように祭司エリの息子たちは悪行の限りを尽くしていました。父親であるエリは、息子たちの悪事を見て見ぬふりをしていたわけではありません。22節から25節にかけて語られていることは、エリが息子たちの罪を指摘し、「息子らよ、それはいけない」と諭したということです。25節でこう言っています。「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」。人間に対する罪なら、神が間に立って和解させて下さることもある。しかし神に対する罪は取り返しのつかないことになるぞ、とエリは息子たちを諭し、悔改めさせようとしたのです。「しかし、彼らは父の声に耳を貸そうとしなかった」のです。 神より息子を大事にしたエリ
 このエリの家庭の姿は私たちに何を語り、示しているのでしょうか。とんでもない息子を持ったエリは気の毒な人だ、ということでしょうか。そうではないでしょう。聖書は、あるいは神は、これは父親であるエリの責任だと言っているのです。27節以下には、エリのもとに「神の人」が来たことが語られています。「神の人」とは神からの使い、人間の姿を取った天使です。その人が伝えた神の言葉が27節から36節です。29節に「あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物をわたしの住む所でないがしろにするのか。なぜ、自分の息子をわたしよりも大事にして、わたしの民イスラエルが供えるすべての献げ物の中から最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やすのか」。つまり神はエリに、息子たちがしていることはあなたがしているのと同じであり、あなたの責任だと言っておられるのです。あなたが自分の息子を私よりも大事にしているからこうなっているのだ、と言っておられるのです。「なぜ、自分の息子をわたしよりも大事にするのか」とも言っておられます。それは子どものことなど放っておいて神に仕えよということではありません。神を敬い、神に仕え従うことこそが人間が第一に大切になすべきことだ、という信仰をもって子どもたちを育て、そのことを子どもたちにしっかり教えなければならない、ということです。神よりも子どもを大事にしてしまうとは、子どものためを考える時に、神のみ心を抜きにしてしまうことです。神のご命令よりも、自分の、また子どもたちの思いを第一にしてしまうことです。息子たちがあのように神を軽んじ、無視し、自分たちの欲望の限りを尽くしているのは、エリが彼らに、神を敬うことを第一のこととして教えて来なかった、神を抜きにして子どものことを考えて来た結果だ、と神は言っておられるのです。そして神は、このことのゆえにエリの家を罰するとおっしゃいます。エリの家が祭司としての働きを与えられ、聖所に仕えることを許され、それによる特権を与えられているのは、28節にあるように主の選びと恵みによることでした。しかし今やその選びと恵みをエリの家から取り去ると主は言われます。34節には、ホフニとピネハスが同じ日に死ぬ、とあります。そして35節には、神がエリの家とは別の新しい祭司を立ててその職に着かせるとあります。エリの家庭の罪に対して神がこのように怒り、罰を下そうとしておられることを神の人は告げたのです。

子育ての失敗、信仰継承の失敗
 エリは神の人の言葉をどう聞いたのでしょうか。彼の反応は何も語られていません。おそらく彼は何も言うことができなかったのでしょう。先程申しましたように彼は息子たちのしていることを決して良しとしていたわけではありません。「それはいけない、神に対する罪だ、神に対する罪は人間に対する罪よりも重大な結果を招くのだ」と彼は息子たちに、おそらく繰り返し語り、諭したのです。しかし彼らは全く聞こうとしない。エリとしてはそれ以上どうすることもできなかったのです。そういう意味では彼は神の人に対して、「いや、私だってできる限りのことをして、あいつらを正しい道に戻そうとしたんです。でも全く言うことを聞かないんです」と言い訳をすることもできたでしょう。しかしその「あいつら」は他人ではなくて自分の息子たちであり、その息子たちを育てたのは自分なのですから、息子たちのせいにして責任を逃れるわけにはいきません。言い訳をしても虚しいのです。自分にはどうすることもできなかった、しかしそれは確かに自分の責任であると認めざるを得ない、そういう事態の中でエリは黙って項垂れ、神の人の言葉を聞くしかなかったのです。このエリの姿は、子育てに失敗した親の姿、信仰の継承に失敗した親の姿であり、神にその責任を問われ、言い訳するすべもなく項垂れている人の姿なのです。 社会において
 ここを読むときに、ああこれは自分のこと、自分の家庭の姿だ、と身につまされる思いをする人もいるでしょう。逆に自分の家庭はこうではない、と安心する人もいるかもしれません。あるいは、自分の家庭は将来どうなるだろうか、こうならないようにしっかりしなければ、と思う人もいるでしょう。そのように人によって受け止め方は様々だと思いますが、この箇所についてのある説教を読んでいて示されたことがあります。それは、これはある家庭がどうなっているかというよりも、ある社会において、世代から世代へと何が継承され、新たな世代によってどのような社会が形成されているか、という問題として読むことができるということです。そのような視点で読み直してみると、エリの二人の息子たちの姿は、まさに現代の社会の風潮をそのまま現していると感じられます。権力を持っている者がそれを利用してひたすら私腹を肥やし、自分の欲望を追求していくという風潮、また性におけるモラルが崩壊し、欲望のままに何でもしてしまうような風潮、それらの根本にある、神を畏れ敬うことの喪失、神を無視して人間の思いや欲望をどこまでも膨らませていくあり方、それはまさに今の私たちの社会の姿であると言わなければならないでしょう。そしてそういう社会を築いているのは私たち自身なのです。私たちは、この社会のあり方を他人事のように批判しているわけにはいきません。この社会を構成しているのは私たちなのであって、私たち自身の思いがこの社会に反映しているのです。いや、自分はそういう風潮には同調していない、それを嘆かわしく思っている、と言ったところで、それはまさに、エリが息子たちに「こんなことはよくない」と言っていたのと同じで、現実を変えることができていない、人々に無視されて終っているのです。そういうことを言っていれば自分に責任がないとは言えません。私などももう世間では停年の世代に入って来ています。今のこの社会は、私たちの世代が築いてきたものであり、責任があるのです。今の若者たちは、と嘆いてみたところで、その若者たちを育ててきたのは私たちの世代なのですから、その言葉は自分に返って来るのです。私たち比較的年配の者たちは、それぞれの家庭においてのみでなく、この社会において、エリのような立場にいると言わなければなりません。そして私たちはエリと共に、自分の無力さを切実に感じ、項垂れざるを得ないのです。

祭司の責任
 もう一つの問題は、エリは祭司であるということです。彼は代々の祭司の家系であり、息子たちも祭司となっています。このことが事柄を深刻なものにしています。祭司は、神に仕え、人々の礼拝を司り、信仰の指導をすべき者です。その祭司がこのような罪に陥ってしまっていることは、一般の人たちが罪を犯しているよりもずっと重大な問題なのです。それによって民全体の神との関係が損なわれてしまうからです。そこにエリとその家の罪の深刻さがあるのですが、このこともまた私たちと無関係ではありません。本日共に読まれた新約聖書の箇所は、ペトロの手紙一の第2章1?10節ですが、そこには、主イエスを信じ、その救いにあずかり、教会に加えられた信仰者たちは、「聖なる祭司」とされているのだということ、教会は神に選ばれて祭司の民として立てられているのだ、ということが語られています。私たちキリスト信者は、教会は、今のこの時代、この世において、神に選ばれ、立てられた祭司なのです。私たちは祭司として、世の人々と神との仲立ちをし、人々が生けるまことの神を礼拝し、その救いの恵み、祝福を受けることができるように執り成し祈り、またみ言葉を宣べ伝える使命を与えられているのです。つまり伝道は私たちの祭司としての働きの一環なのです。私たちがこうして礼拝をしているのは、自分たちのためだけでなく、この地に住む全ての人々のための執り成しの働きでもあるのです。その祭司としての責任のある私たちが、神を崇め従うことよりも人間のこと、自分の思いや願いを優先させてしまっているならば、そしてそのために神による救いを告げ知らせる働きが十分に出来なくなっているならば、私たちは人々のための執り成しをするという神から与えられた使命をちゃんと果たすことができません。その罪は世間一般の人々が犯している罪よりもむしろ重大だと言わなければならないのです。私たちもエリと同じように、祭司としての責任を果たしているかと主から問われているのです。その問いの前で、やはりエリと同じように、自分の罪と無力さを嘆き、黙って項垂れるしかないのではないでしょうか。 エリのもとでサムエルが育った
 エリの家庭にはこのように罪が満ちていました。これではいけない、何とかしなければという思いはありながらも、人間の弱さのゆえにどうすることもできずに、神の怒りと裁きへとまっしぐらに突き進んでいる、そういう絶望の中にあったのです。幼子サムエルはこのエリのもとで育ちました。本日の箇所は、エリとその息子たちの罪、弱さ、問題を描いていますが、その中のそこここに、サムエルが育っていく様子が語られています。11節の後半の「幼子は祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた」から始まって、18?21節もサムエルの成長を語っており、21節の終りには「少年サムエルは主のもとで成長した」とあります。また26節には「一方、少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった」とあります。サムエルの成長を語っているこれらの部分は、それ以外のエリの家庭のことを語る部分の暗さと対照的に、不思議な明るさをたたえています。サムエルは、あのように暗い、罪に満ちたエリの家で、しかし主によってまっすぐにすくすくと成長していったのです。子どもが育つのに決して良い環境だったとは言えないでしょう。ましてサムエルは、神に捧げられた子、神に仕える者として育てられるべき者なのです。エリの家はそのための教育的環境としては最悪であると言わなければならないでしょう。けれどもサムエルはその中で主に仕えていきました。18節にこうあります。「サムエルは、亜麻布のエフォドを着て、下働きとして主の御前に仕えていた」。エフォドといのは祭司が着る祭服です。つまりサムエルは少年祭司として主に仕えつつ成長し、「主にも人々にも喜ばれる者となった」のです。これは不思議なことです。罪の中にあり、神の怒りによる裁きへと向かっているエリの家において、主にも人々にも喜ばれる新しい祭司サムエルが育っていったのです。
 35節で神の人はこういう主のみ心を告げています。「わたしはわたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものとしよう。彼は生涯、わたしが油を注いだ者の前を歩む」。この新しい祭司、主のみ心を行う忠実な祭司とはサムエルのことです。エリの家はその罪のゆえに神に裁かれ、退けられ、新しい祭司としてサムエルが立てられるのです。サムエルは、「生涯、わたしが油を注いだ者の前を歩む」と言われています。それは彼が、主がお選びになった人に油を注いてイスラエルの王として立てることを意味しています。主はサムエルを用いて、イスラエルに油を注がれた王を立てようとしておられるのです。サムエルは主によってもたらされる新しい時代の祭司となるのです。そのサムエルが、他ならぬエリの家で育てられていった、ということを本日の箇所は語っています。子育ての失敗者、信仰の継承の失敗者であるエリ、その責任を問われ、神の罰を受けて退けられるのを項垂れて待つしかない者であるエリが、この新しい祭司を育てる働きを与えられているのです。それだけではありません。18?21節には、エリが、サムエルの両親、エルカナと妻ハンナを祝福し、主が彼らにさらに子どもを授けてくださることを告げ、その通りに三人の息子と二人の娘が与えられたことが語られています。つまりエリは、神の祝福を告げるという祭司の働きをなお続けることを許されているのです。罪の現実をどうすることもできない弱さの中にあり、神の裁きを待つしかないエリが、なお神によってこのように用いられ、彼の下で、新しい時代を担う祭司サムエルが育って行った、そこに私たちは、人間の罪とそのもたらす悲惨な現実のただ中で、そして神の怒りと裁きのただ中で、なお神の善き力が働いて、救いのみ業が前進していく様を見ることができるのです。 キリストを指し示すサムエル
 サムエルこそ、神の人が告げており、待ち望まれている新しい祭司です。エリの家は裁かれ、祭司の働きから退けられて、このサムエルが、「油を注がれた者」の前を歩む祭司として立てられるのです。しかし私たちは、サムエルよりもさらに後に、私たちのためのただ一人の大祭司として、「油注がれた方」が来て下さったことを知っています。それが主イエス・キリストです。主イエスこそ、神によって油を注がれた救い主、メシアです。幼子サムエルの成長を語っている26節の言葉は、ルカによる福音書第2章52節において、幼子主イエス・キリストの成長を語る言葉として用いられています。そこには「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」とあります。「主にも人々にも喜ばれる者」となったサムエルは、この主イエス・キリストを指し示しているのです。「わたしが油を注いだ者の前を歩む」者となったサムエルは、油注がれた救い主イエス・キリストを指し示しているのです。この主イエス・キリストこそ、罪に支配され、それをどうすることもできない弱さの中にいる私たちの救いのために来て下さり、ご自分の命を犠牲として捧げて罪の赦しを与えて下さったまことの祭司です。エリは「人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」と言いました。人に対する罪は神が赦し、執り成してくれても、神に対する罪は許されるすべがない、そこには執り成し手はもういない、そこにエリの絶望がありました。しかし主なる神は、神に対する罪の赦しのための執り成し手として、ご自分の独り子を遣わして下さったのです。この独り子主イエスの十字架の死による執り成しのゆえに、神に対する罪の中にあり、それをどうすることもできない弱さの中にある私たちが、なお神の憐れみによる赦しを信じて、求めていくことができるのです。 祭司の務めを果していくために
 私たちの家庭においても、この社会においても、神をないがしろにしている人間の罪の現実があります。神はそれに対してお怒りになるし、裁きをなさるのです。そのことを私たちは決して軽く見てはなりません。それはなお神を軽んじることになります。しかしその神の怒りと裁きの現実の中で、なお神が善き力をもって救いのみ業、罪の赦しのみ業をも行って下さることを聖書は語っています。だから私たちは、自分の、またこの社会の深い罪の現実に絶望してはならないのです。神が独り子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって成し遂げて下さった、罪人のための執り成しのみ業にしっかりと立って歩みたいのです。私たちが、教会が主イエスによる救いにあずかり、まことの大祭司となって下さった主イエスと結び合わされて歩むなら、そのことによって私たちは、教会は、罪の悲惨さの中を生きているこの世の人々に主の救いを宣べ伝え、人々の罪の赦しのために執り成し祈る祭司の責任を果していくことができるのです。

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