「あなたはわたしの愛する子」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; イザヤ書、第42章 1節-9節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第3章 21節-22節
・ 讃美歌 ; 13、277
序 洗礼者ヨハネは罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えつつ、民衆に向かって次にように語りかけました、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:7-9)。ヨハネが宣べ伝えた洗礼は悔い改めのしるしとしての洗礼でした。来るべき主のさばきに備えて、罪を告白し、悔い改めのしるしとして洗礼を受けることが求められたのです。「差し迫った神の怒り」から、免れる者は誰もいないことを明らかにしたのです。そこでまことの悔い改めの実を結ぶことが求められたのです。民衆の中にあ、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」という深刻な問いが引き起こされたのです。今のままではいけない、このままでは神の裁きの前に滅び去るしかない、それが自分たちの本当の姿だ、ということを示されたのです。
1 しかしここに、その民衆と同じ姿で、同じ悔い改めの洗礼を受けに来られた方があります。それが主イエスです。洗礼者ヨハネはこのお方について次のように預言しています、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(3:16)。洗礼者ヨハネが授ける水の洗礼は、悔い改めのしるしとしての洗礼です。それは人々の心を神に向けるよう、わたしたちを導きます。けれども、それは主の道を整え、その道筋をまっすぐにするためのものです。来るべき洗礼のための準備の意味を持った洗礼です。それはまだ聖霊と火による洗礼を待っているのです。主イエスの授けてくださる洗礼を待っているのです。それがなければこのヨハネの洗礼はその意味を満たされないのです。ヨハネの洗礼のみでは、わたしたちにまことの救いは与えられないのです。ヨハネの水による洗礼は、来るべき洗礼、聖霊と火による洗礼へとわたしたちを方向づけるのです。
けれどもわたしたちがここで驚かされるのは、この「ヨハネよりも優れた方」と言われた主イエスがわたしたちの前に現れた時、この方もまた、まずヨハネの洗礼をお受けになったということです。「民衆が洗礼を受け」という言葉にすぐ引き続いて、「イエスも洗礼を受けて祈っておられると」という言葉があるのです。主イエスはこの地上に来られて、いきなり「聖霊と火による洗礼」によって力を奮われたのではありませんでした。そうではなくて、悔い改めを必要とするすべての民と同じ立場、同じ姿、同じ有り様となられて、ヨハネの洗礼をお受けになったのです。もしヨハネが、このお方が来るべきお方だと知っていたのなら、自分よりも優れたお方に洗礼を授けることに、さぞかし躊躇したに違いありません。実際「マタイによる福音書」の場合には、洗礼を受けに来た主イエスに向かって、ヨハネはそれを思いとどまらせようとしています、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3:14)。これに対して、主イエスは答えられています、「今は、止めないでほしい。正しいことを行うのは、我々にふさわしいことです」(同3:15)。
主イエスがここで、わざわざ洗礼者ヨハネの洗礼を受けていることは、決して計なことや、不必要なことであったのではありません。それは正しいことで、ヨハネにとっても、主イエスにとっても、ふさわしいことであったと言うのです。それはなぜでしょうか。
洗礼者ヨハネは、旧約と新約との間に立っている人物だと言われます。来るべき救い主を指し示しつつ、自らは旧約聖書のメシアを待ち望む世界にも深く足を下ろしているからです。ダビデの子孫からイスラエルの救いを実現させる救い主が出る、まことの王としてお出でになる、そのようなメシアを待ち望む世界の中を、ヨハネも生きていました。彼が宣べ伝えた悔い改めの洗礼も、来るべきお方が、いよいよ来られることに備えて行われていたものです。もしここで、主イエスがヨハネの洗礼をお受けにならなかったら、主イエスの言葉と行いは旧約のメシアを待ち望む世界とのつながりを持たなくなってしまったかもしれません。
東京神学大学では年に1回運動会が行われます。そこで最後に行われる種目は 800メートルのリレー競争です。このリレー競争でわたしの学年は途中まで一位を保っていたのですが、最後のランナーのところに来た時、驚いたことに、バトンを受け取る最終ランナーがいなかったのです。事前にランナーをそろえる時、人数を一人少ない形で選んでしまい、誰もそのことに気づいていなかったのでした。それでわたしの学年は一位だったのに、結果的には失格となってしまったのでした。
主イエスがヨハネの洗礼をお受けになったということは、そうしたバトンの引継ぎの失敗がないようにしてくださったということです。メシアを待ち望む旧約の民の願いに連なってご自身を現してくださったのです。皆にわかる形で、ご自身を現してくださったのです。主イエスがそうしなければご自身を現すことがおできにならなかったというのではありません。別の形でご自身を現す自由も、主なる神は持っておられたでしょう。けれども、旧約の流れの中に乗っかって、しかも肉を取り、わたしたちと同じ姿になられてご自身を現すということを、神はよしとしてくださったのでした。悔い改めを必要とする民衆と全く同じ姿になられて、主イエスはわたしたちのもとに来てくださったのです。罪の全くない方であるのに、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と脅え、罪の中に苦しむ民の下に、この方は来て下さったのです。この方は悔い改めの必要があってヨハネの洗礼を受けたのではありません。そうではなくて、悔い改めを必要としているわたしたちと同じところに降ってきて、わたしたちと同じところに身を置いてくださったのです。主イエスがバプテスマのヨハネの洗礼を受けられたのはこのことを表しています。そのようにして、神と隣人に背を向けて歩むことしかできないわたしたちの苦しみをご自身に引き受けてくださったのです。
2 主イエスはこのようにして洗礼をお受けになると祈られました。その時、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で主イエスの上に降って来たと言われています。洗礼者ヨハネには天を開く力はありませんでした。ただ、この主イエスがわたしたちの中に身を置かれ、祈っておられる時、天が開くということが起こったのです。後に祈りを教えてください、と願った弟子たちに、主イエスはおっしゃっています、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子 供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11:9-13)。
祈りは深く聖霊と結びついています。すべての祈りは聖霊を求める祈りに至るのだ、と も言われています。わたしたちがどう祈ればいいのか分からないのに、ただ聖霊の執り 成しによって祈ることができるのは、この主イエスの上に降った聖霊が、今わたしたち にも注がれるからにほかなりません。聖霊は、神が今、ここに、わたしたちとともにお られる、このことを表してくださる神ご自身のことです。祈りはすべて、神が、今、こ こにおられて、わたしの悲しみも、嘆きも、感謝も、讃美も、憂いも、悩みも、恐れ
も、喜びも、すべてをご自身に引き受けて顧みてくださることを信じて捧げられるので す。
主イエスの上に聖霊が降るということは、このお方が父なる神とのこの上なき交わりの中に生きているお方であるということです。神がこのお方と共におられるということです。さらに言えば、このお方が神ご自身だ、ということです。「人となられた生ける神」だということです。このことを示すのが開かれた天から聞こえてきた声です、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(22節)。「わたしの心に適う者」という言葉は、新改訳では「わたしはあなたを喜ぶ」、文語訳でも「我なんじを悦ぶ」と訳される言葉です。父なる神が最もお喜びになる独り子が、み父のもとから離れて、わたしたちのもとに来てくださっているのです。それはわたしたちの感覚からすると、主なる神にとって神らしくない行為に見えるかもしれません。奇異に見えることかもしれません。ご自身の栄光と力に満ち満ちておられるお方が、わざわざその栄光を離れて、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたのです。いったいどうしてでしょうか。
わたしたちはここで、ただ神のはかりしれない愛を感じるのです。まことの愛を知らされ、教えられるのです。最も神らしくない形で、罪の泥沼の中にあるわたしたちの世界に入り込んできてくださったのがわたしたちの神なのです。神様ご自身の中では、そうしなくてはならない理由などないのに、主なる神はわたしたちのもとに来てくださったのです。もし敢えて理由を挙げるなら、神はそれほどまでにわたしたちを愛してくださったということしかないでしょう。
この神のこの上なき愛が、主イエスにおいて現れているのです。かつて預言者イザヤは、主の救いの業に用いられるために立てられた、主の僕について預言しました、「しかし見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。 わたしが選び、喜び迎える者を。 彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す」(イザヤ42:1)、「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び あなたの手を取った。 民の契約、諸国の光として あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために」(同6-7節)。この主の僕が直接主イエスのことだとは言えないかもしれませんが、少なくとも主イエスのお姿には、この主の僕の姿がこだましています。父なる神の御心にかなうお方として、まことの主の僕が、神ご自身がわたしたちの下に降るまでの激しい愛の行為をもって、わたしたちと関わってくださるのです。
結 それなのに、わたしたちのしたことといったらなんでしょうか。主イエスご自身がご自分の歩まれる道をご存知でおられ、後に「ぶどう園と農夫」のたとえを話されていますが、わたしたちはそこでぶどう園の主人の独り息子を殺してしまうのです。「どうしようか。わたし の愛する子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」(20:13)と言っ て父なる神がこの世に送った独り子を、「あれは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」(20:14)と言って殺してしまったのです。それが十字架の出来事です。わたしたちの罪が最も明らかにされ、裁かれた時です。
先ほど、主イエスは旧約の世界のメシアを待ち望む思いに合わせて御自分を表されたと言いました。しかし100パーセント、旧約以来の民に分かる形であったかというと、そうではありません。洗礼者ヨハネ自身が後につまずいたように、主イエスの救いの業は、およそ人間には予期できないような形で実行されたのでした。それは神がご自身においてその裁きを引き受け、十字架を担われるという形で実行されたのです!ヨハネが呼びかけたような、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる裁きは、裁く方自身が引き受けるという形で実行されたのでした。
このまことの神の子が、わたしたちの罪を引き受けてくださったおかげで、わたしたちもまた、神の子とされる恵みに与かっています。天からの声、上からの声にとらえられて感謝と讃美の中を歩む者とされているのです。「天からの声」を知らないこと、それゆえ横の関係、地上の関係、罪の力に縛りこめられていること、それがこの国と社会にとっての大問題です。今日は選挙の日ですが、わたしたちが投票をする時も、この国が「天からの声」、垂直に、上から聞こえてくる声に耳を開かれるようになることを祈らずにはおれません。
わたしたちが選挙で人を選ぶ以前に、神によって選び別たれ、罪を清められて神のものとされていることを喜びたいと思います。「天からの声」を知る者とされたこと、神のダイナミックな愛を知る者とされたこと、その恵みを素直に喜び、「天からの声」に聞き続けながら、証しの歩みを辿りたいと思います。
祈り 父なる神様、わたしたちの憐れな姿を顧みてくださり、あなたの愛する独り子、御心にかなう独り子をわたしたちにお与え下さり、わたしたちを愛し抜いてくださる恵みに感謝いたします。どうかわたしたちも聖霊に満たされて「天からの声」に聞き続け、主イエスの愛に生かされて歩む民とならせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。