夕礼拝

選ばれた民

「選ばれた民」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第4章25-49節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第12章4-13節  
・ 讃美歌:127、392

申命記の序
私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書からみ言葉に聞いてい まして、先月から申命記に入りました。先月も本日と同じ第4章を読 み、申命記とはそもそもどのような書物であるのか、ということを中 心にお話ししました。申命記という書名は、「神様の命令、律法をも う一度語り聞かせる」という意味です。その場面設定は第1章3-5 節に語られています。「第四十年の第十一の月の一日に、モーセは主 が命じられたとおり、すべてのことをイスラエルの人々に告げた。モ ーセがヘシュボンに住むアモリ人の王シホンを撃ち、アシュタロトに 住むバシャンの王オグをエドレイで撃った後のことであった。モーセ は、ヨルダン川の東側にあるモアブ地方で、この律法の説き明かしに 当たった」。ここに語られている「ヘシュボンの王シホン」と「バシ ャンの王オグ」は本日の第4章の44節以下にも出てきます。エジプ トを出てから四十年、イスラエルの民はアモリ人のこれらの王を打ち 破り、いよいよヨルダン川を渡って神様の約束の地カナンに入ろうと しているのです。その時モーセが、神様の律法をもう一度人々に説き 明かして聞かせた、それが申命記です。44節に「これから述べるこ とは、モーセがイスラエルの人々に示した律法である」とあります。 律法の中心は十戒です。この後の第5章にその十戒が語られていきま す。つまり第5章から、申命記の中心部分に入っていくのです。第4 章までの所は、申命記の序の当る部分です。しかし前回読みましたよ うに、第4章の前半には既に「自分のためにいかなる形の像も造って はならない」という掟のことが語られていました。それは偶像礼拝を 避けるようにという、十戒の第二の戒めです。第二の戒めだけが先取 りされて語られていたのです。本日はそのことの意味から先ず考えて いきたいと思います。

バビロン捕囚の予告
イスラエルの民はこれからヨルダン川を渡り、主なる神様が与えて 下さる約束の地カナンに入ろうとしています。そこに入るに際して、 この地を与えて下さる主なる神様のみ心を改めてわきまえさせようと いうのが、申命記を語っているモーセの思いです。彼らが主のみ心に 従い、それを忠実に行っていくならば、約束の地で幸いを得ることが できるのです。そのことが本日の39節以下にこのように語られてい ます。「あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ 神であり、ほかに神のいないことをわきまえ、心に留め、今日、わた しが命じる主の掟と戒めを守りなさい。そうすれば、あなたもあなた に続く子孫も幸いを得、あなたの神、主がとこしえに与えられる土地 で長く生きる」。主なる神様こそがまことの神であられ、ほかに神は いない、他の諸民族が拝み仕えている神々に心を奪われてはならな い、主なる神様のみを礼拝し、従っていくことによってこそ、あなた がたはこの地で幸いに生きることができるのだ、とモーセは言ってい るのです。このようにモーセは、イスラエルの民が約束の地におい て、主なる神様の下で繁栄し、長く生きることを願い、そのための指 示を与えているわけですが、同時に彼は、民が主なる神様の律法を守 ることができず、主の怒りを招いてしまう時のことをも語っていま す。それが本日の25節以下です。25節にこうあります。「あなた が子や孫をもうけ、その土地に慣れて堕落し、さまざまの形の像を造 り、あなたの神、主が悪と見なされることを行い、御怒りを招くなら ば」。約束の地に入って子や孫が生まれ、世代が代っていく中で、主 の戒めが忘れられて、主が悪と見なされる偶像礼拝を行うようにな り、御怒りを招くことが予測されているのです。そうなったらどうな るのか。26節後半「あなたたちは、ヨルダン川を渡って得るその土 地から離されて速やかに滅び去り、そこに長く住むことは決してでき ない。必ず滅ぼされる」。このように滅びが予告されています。その 滅びは、27、28節にこのように語られています。「主はあなたた ちを諸国の民の間に散らされ、主に追いやられて、国々で生き残る者 はわずかにすぎないであろう。あなたたちはそこで、人間の手の業で ある、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない 木や石の神々に仕えるであろう」。偶像を造り、それを拝むようにな るなら、主の怒りによって約束の地から離され、諸国の民の間に散ら され、知らぬ外国で、人間が造ったものに過ぎない、見ることも聞く ことも食べることも嗅ぐこともできない木や石の神々つまり偶像の神 々に仕えることを強制されるようになる、と語られているのです。こ のことは現実となりました。南北に分裂したイスラエル王国は、先ず 北イスラエルが紀元前722年にアッシリア帝国によって、南ユダは 紀元前587年に新バビロニア帝国によって滅ぼされ、ユダの多くの 人々がバビロンに捕囚として連れ去られたのです。その「バビロン捕 囚」の出来事が、ここに予告されているのです。

罪の結果としての苦しみの中で
それは、モーセが後の時代に起こることを予見していた、モーセに は予知能力があった、ということではありません。この申命記は、バ ビロン捕囚を体験した人々によって書かれたのです。イスラエルの民 が、約束の地において王国を築いていたが、他の民族によって滅ぼさ れ捕囚となってしまった、その苦しみ絶望の中で、どうしてそうな ってしまったのか、この悲劇の原因は何なのか、を真剣に問い、見出 された教えをモーセの口に託して、これから約束の地に入ろうとして いるイスラエルの民にモーセが語った警告として記したのが申命記で す。申命記の著者は、自分たちはモーセのこの警告に従わなかった。 そのために国を滅ぼされ、バビロン捕囚という苦しみに陥ったのだ、 ということを反省を込めて語っているのです。つまりこの25節から 28節には、申命記の著者が、イスラエルの滅亡、バビロン捕囚の苦 しみの中で、その原因は何であったのかを問うた末に得た結論が語ら れているのです。その苦しみの原因は、偶像礼拝に陥ったことです。 つまり十戒の第二の戒めを破ったことです。主なる神様がエジプトの 奴隷状態から解放して下さり、荒れ野の旅路を守り、乳と蜜の流れる 約束の地を与えて下さったのに、その主の恵みを忘れて、他の神々、 カナンの地の先住民たちが拝んでいた農耕の神々、五穀豊穣を約束 し、豊かさと繁栄をもたらすとされている神々を拝み、その像を造 り、その前にひれ伏していった、その恩知らずの罪によって主の御怒 りを招いたために、彼らは国を滅ぼされ、捕囚の憂き目にあっている のです。申命記はそのことを見つめつつ語られています。それゆえに この第4章において、「自分のためにいかなる形の像も造ってはなら ない」という第二の戒めが先取りされているのです。この戒めは、5 章において語られていく十戒の中の一つの戒めというだけでなく、イ スラエルの民が主の怒りを招き、国の滅亡とバビロン捕囚をもたらし てしまった、その原因となった戒めなのです。つまりこの第4章に は、自分たちは今、主なる神のこのような怒りの下にある、そしてそ の怒りは、全く弁明の余地のない正当な怒りだ、自分たちは、主に対 して大きな罪を犯してしまったのだ、という深い罪の自覚が語られて いるのです。

約束と希望の言葉
そしてそれゆえに、29節から31節が、大きな、また切実な意味 を持っているのです。「しかしあなたたちは、その所からあなたの 神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるな らば、あなたは神に出会うであろう。これらすべてのことがあなたに 臨む終わりの日、苦しみの時に、あなたはあなたの神、主のもとに立 ち帰り、その声に聞き従う。あなたの神、主は憐れみ深い神であり、 あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約 を忘れられることもないからである」。これは、モーセの口に託され て語られていますけれども、申命記の著者が、自分も含めた同時代の 人々に向かって語っている呼びかけであり、約束であり、希望の言葉 です。29節の、「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主 を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、 あなたは神に出会うであろう」は、国を滅ぼされ、捕え移されたバビ ロンの地から、今、主なる神を、心を尽くし、魂を尽くして尋ね求め よう、そうすれば私たちは再び神に出会うことができるのだ、という 呼びかけです。30節の「これらすべてのことがあなたに臨む終わり の日、苦しみの時に、あなたはあなたの神、主のもとに立ち帰り、そ の声に聞き従う」は、捕囚の苦しみの中で、私たちは、私たちの神で ある主のもとに立ち帰ることができる、悔い改めて再び主のみ声に聞 き従うことができる、という約束です。そして31節の、「あなたの 神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすこと も、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもないからであ る」は、罪の結果としての苦しみの中にいる我々が、主を尋ね求め、 主のもとに立ち帰り、主のみ言葉に聞き従って新しく歩み出すことが できる、という約束の根拠である主の憐れみを語っています。私たち の神である主は、憐れみ深い神であり、私たちの罪に対してお怒りに なっても、私たちを最終的に見捨てることも滅ぼすこともないし、先 祖に誓った契約を忘れてしまうこともない、その主の憐れみを信じ て、それにより頼んで、心を尽くし魂を尽くして主を求め、主に立ち 帰り、主のみ言葉に聞き従って新しく歩み出そう、その私たちに主は 必ず出会って下さり、導いて下さり、新しい道を開いて下さるのだ、 申命記の著者は、捕囚の苦しみ、絶望の中にいる同胞にそのように語 りかけているのです。

神の裁きと憐れみ
つまり申命記の著者は、25節以下で、エジプトの奴隷状態から解 放して下さった主なる神様の恵みを忘れて、自分のための神である偶 像を造り拝んだという自分たちの忘恩の罪を認め、それに対する神様 の怒り、裁きとして現在の苦しみがあるのだ、ということを見つめて いますが、同時に29節以下で、その罪による苦しみの中で、主に立 ち帰り、悔い改めて新しく歩み出すことができるという希望を見つめ 語っています。その両方のことが同時に見つめられ語られているので す。この二つは切り離すことができません。罪とそれに対する神の怒 り、裁きを深く見つめることなしに、苦しみの中からの新しい出発へ の道は、つまり希望は見えて来ないのです。またその逆のことも言え ます。神の憐れみによって悔改めて新しく歩み出すことができる、と いう希望を与えられる所においてこそ、自分の罪を深く認め、神の怒 りを正面から見つめることもできるのです。イスラエルの民は、捕囚 の苦しみの中で、この二つのことを共に見つめる信仰の目を開かれて いったのです。そのことを語っているのが申命記であり、そこに、申 命記が旧約聖書の中心と言われる理由があるのです。

神の選び
イスラエルの民の忘恩の罪に対して激しくお怒りになっている神 が、なお憐れみ深い方であり、民を見捨てることも滅ぼすこともなさ らない、そのことを申命記の著者が確信することができたのは、32 節以下に語られていることのゆえです。32-34節を読みます。 「あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代に さかのぼり、また天の果てから果てまで尋ねてみるがよい。これほど 大いなることがかつて起こったであろうか。あるいは、そのようなこ とを聞いたことがあろうか。火の中から語られる神の声を聞いて、な お生きている、あなたと同じような民があったであろうか。あるい は、あなたたちの神、主がエジプトにおいてあなたの目の前でなさ ったように、さまざまな試みとしるしと奇跡を行い、戦いと力ある御 手と伸ばした御腕と大いなる恐るべき行為をもって、あえて一つの国 民を他の国民の中から選び出し、御自身のものとされた神があったで あろうか」。「これほど大いなることがかつて起こったであろうか」 と彼は言っています。その「大いなること」として、主なる神様がイ スラエルの民に出会い、働きかけて下さったいろいろなことが語られ ていますが、その中心は、主なる神様が「あえて一つの国民を他の国 民の中から選び出し、御自身のものとされた」ということです。つま り主なる神様がイスラエルの民を他の国民の中から選び出し、御自分 の民として下さったということです。「火の中から語られる神の声を 聞いて、なお生きている」というのも、エジプトでのあの過越の出来 事において、イスラエルの民をエジプト人と区別して救いにあずから せて下さったことも、主なる神様が彼らを選んでご自分の民として下 さったという出来事だったのです。我々は神に選ばれた民だ、それこ そが、「これほど大いなることがかつて起こったであろうか」と彼が 驚きを込めて語っていることなのです。

選ばれたからこそ
「私たちは神に選ばれた民だ」、そのことをこの第4章は語ってい ます。そのことは一つには、神が大きな恵みを自分たちに与えて下さ っている、ということです。37、38節にそのことが語られていま す。「主はあなたの先祖を愛されたがゆえに、その後の子孫を選び、 御自ら大いなる力をもって、あなたをエジプトから導き出された。神 はあなたよりも強大な国々をあなたの前から追い払い、あなたを導 いて、今日のように彼らの土地をあなたの嗣業の土地としてくださ った」。エジプトの奴隷状態から解放して下さったのも、約束の地を 与えて下さったのも、神の選びによる大きな恵みなのです。しかし、 神に選ばれたことによって与えられたのはそういうことだけではあり ません。35節には「あなたは、主こそ神であり、ほかに神はいない ということを示され、知るに至った」とあります。神に選ばれたイス ラエルの民は、主こそ神であり、他に神はいないことを知らされた、 つまり、他の神々を、人間が手で造った偶像を拝むことが間違いであ り、ただ一人の神である主に対する裏切りであることを知らされたの です。つまり、主に選ばれた民には、主のみを拝み、仕える責任もま た与えられているのです。また36節には「主はあなたを訓練するた めに、天から御声を聞かせ、地上に大いなる御自分の火を示された。 あなたは火の中からその言葉を聞いた」とあります。主が火の中から 彼らにみ言葉を語りかけられた、それは彼らへの大きな恵みであると 同時に、彼らを訓練するためだったのです。主のみ言葉に聞き従って 生きるための訓練です。主に選ばれた民は、主によって訓練され、鍛 えられる民でもあるのです。主に選ばれた民は、主のみを拝み、仕え る責任を果たし、主に聞き従う訓練を受けることによって、主の恵み の中を歩むことができるのです。しかしイスラエルの民は、選ばれた 民としての責任を果たすことができず、主に聞き従うこともしません でした。それは、主の怒りを招くことでした。主が彼らに対して怒ら れたのは、彼らが選ばれた民だったからこそです。選ばれた民は、そ の選びにしっかり応えることをしなければ神の怒りを受ける民でもあ るのです。申命記の著者はそのことに目を開かれました。つまり、国 の滅亡とバビロン捕囚という苦しみは、自分たちが神に選ばれた民で あるからこそ起ったことなのだ、ということを彼は見つめているので す。
そしてそこに、彼は希望の根拠をも見出しました。国の滅亡と捕囚 という苦しみの現実の中にいる我々は、それでもなお、主なる神様に 選ばれた民、神の民なのだ、我々が心を尽くし、魂を尽くして求めて いくならば、主は必ず出会って下さる、我々は主のもとに立ち帰り、 悔い改めてそのみ声に聞き従うことができる、我々を選び、契約を結 んで下さった主は、基本的に憐れみ深い神であり、我々を見捨てるこ とも滅ぼすこともなさらないのだ、その確信のもとに、彼は捕囚の苦 しみの中にいる同胞に、「しかしあなたたちは、その所からあなたの 神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるな らば、あなたは神に出会うであろう」と語りかけているのです。

主に鍛えられる民
「私たちは神に選ばれた民だ」、この驚くべき事実を受け止めて生 きることが、聖書に語られている信仰です。その神の選びは、主イエ ス・キリストの救いのみ業によって、イスラエルの民という枠を超え て今や私たちにも及んでいます。私たちが教会の礼拝に集うようにな り、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、その救いにあずか っていくことは全て、神様の恵みによる選びによって起っていること です。今こうして礼拝に集っている私たちは皆、神に選ばれた民なの です。それは決して、私たちが神に選ばれるに相応しい立派な者だと いうことではありませんし、自分たちは選ばれたと言って人に対し て誇ったりできるようなことではありません。神様はただ恵みによ って、選ばれる価値など何もない私たちを選んで、ご自分の民として 下さったのです。本日共に読まれたヘブライ人への手紙第12章の言 葉を用いれば、神様は私たちをご自分の子として下さったのです。主 なる神様によって選ばれて、子とされた私たちは、主の鍛錬を受ける のだ、ということがここに語られています。父が子を鍛えるように、 主はご自分の子として下さった私たちを鍛え、私たちの罪に対しては お怒りになり、懲らしめを与え、鞭打たれるのです。しかしそれは、 神が私たちを憎んでおられるとか、滅ぼそうとしておられるというこ とではありません。むしろ神は私たちを子として扱っておられるので す。11節にはこう語られています。「およそ鍛錬というものは、当 座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後にな るとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせ るのです」。このような主の鍛錬を受けて生きることこそが、神に選 ばれた民として生きること、神の子とされて生きることです。私たち は、神様に選ばれ、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを 信じる信仰を与えられて、神の子とされ、神に選ばれた者とされてい ます。それは私たちの人生に苦しみや悲しみがないということではあ りません。選ばれた者だからこそ、深い苦しみ悲しみに遭わなければ ならないような場合だってあるのです。しかしその時、申命記が語 っていること、「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を 尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あ なたは神に出会うであろう。これらすべてのことがあなたに臨む終わ りの日、苦しみの時に、あなたはあなたの神、主のもとに立ち帰り、 その声に聞き従う。あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを 見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れら れることもないからである」。この語りかけを私たちもかみしめて歩 みたいのです。そこに、憐れみ深い神による希望が与えられていくの です。

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