夕礼拝

主イエスの沈黙

説教 「主イエスの沈黙」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 詩編第62編2-9節
新約聖書 ルカによる福音書第23章1-12節

総督ピラト
 ルカによる福音書を読む進めて本日からいよいよ23章に入ります。この23章において主イエスの十字架の死が語られます。冒頭1節に「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」とあります。「ピラト」という名前が出てきました。すでにこの福音書の3章1節に出てきた名前です。3章1、2節でこのように言われていました。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」。「ポンティオ・ピラトがユダヤの総督」と言われています。当時、ローマ帝国がユダヤを支配していて、ユダヤを統治するために総督を派遣していましたが、このとき総督であったのがピラトでした。その総督ピラトのもとに主イエスは連れて行かれたのです。

死刑執行の許可を得るために
 直前の箇所22章66~71節では、主イエスがユダヤ教の最高法院で裁判を受けたことが語られていました。その裁判において最高法院の議員たちは、主イエスが自分は神の子である、と証言したと強引に判断して、神の子を語り、神を冒瀆した罪で、主イエスに有罪の判決を下しました。しかしそれだけで最高法院は主イエスを死刑にできたかというと、そうではありません。ヨハネによる福音書18章31節で、ユダヤ人たちが「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言っているように、最高法院は人を死刑にする権限を持っていなかったからです。より正確に言えば、死刑の判決は出せても、それを執行することができなかったようです。死刑を執行するためには総督の許可が必要でした。本日の箇所の冒頭1節で、「そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」とは、最高法院で神を冒瀆した罪で主イエスに死刑の判決が出たので、その死刑執行の許可を得るために、主イエスをピラトのもとに連れて行ったということです。しかし総督ピラトのもとに連行すれば、直ちに死刑執行の許可が得られるわけでもありませんでした。前回もお話ししましたが、最高法院が宗教的な事柄を扱ったのに対して、ユダヤの総督は政治的な事柄を扱いました。最高法院における神を冒瀆した罪という判決は宗教的な事柄ですから、それをそのまま総督が政治的な事柄として認めるというのは考えにくいことだったのです。

議員たちの訴え
 そのため最高法院の議員たちは、主イエスの罪状をピラトにこのように訴えました。2節です。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」。「分かりました」と訳されていますが、直訳すれば「見つけた」となります。議員たちはこれこれの罪状を見つけ出した、と言っているのです。第一に「わが民族を惑わし」た、つまり主イエスはイスラエルの民を惑わしたと言われています。「惑わす」という言葉は「ゆがめる」とも訳される言葉です。議員たちは、主イエスがイスラエルの民の歩むべき道、つまり神様を信じて歩む道をゆがめた、と訴えているのです。それは一見、宗教的な事柄を訴えているようですが、イスラエルの民が惑わされ、歩むべき道から逸れて暴動でも起こせば、政治的な問題になります。宗教的な事柄を訴えているようで、議員たちが本当に訴えようとしたのは、主イエスの存在が総督ピラトの統治に対する脅威であり、不安材料であり、排除すべき妨げであるということなのです。第二に「皇帝に税を納めるのを禁じ」た、と言われています。20章20節以下で、「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と問われたとき、主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。ですから主イエスは皇帝に税金を納めるのを禁じたのではなく、むしろ認めたのです。それにもかかわらず議員たちは、主イエスが皇帝に税を納めるのを禁じたと偽り、強引にこの罪状を主イエスになすりつけました。ユダヤの総督の重要な役目は、ユダヤ人から税金を集めることでしたから、皇帝に税を納めるのを禁じる人物は、総督の統治に対する大きな脅威であり、処罰する必要がありました。議員たちはそのことをよく知っていたので、この罪状を主イエスになすりつけたのです。第三に「自分が王たるメシアだと言っている」と言われています。主イエスがメシア、つまり救い主であるかどうかは、前回の箇所で最高法院において問われていたことです。ここでも議員たちは、主イエスがメシアを自称していることを問題にしているように思えますが、しかしそれは宗教的な事柄であって、総督ピラトにとっては問題ではありません。当然議員たちもそのことは分かっていたので、単に「主イエスがメシアだと言っている」とは訴えずに、「主イエスが王たるメシアだと言っている」と訴えました。ピラトにとって、主イエスが王を自称しているのであれば、それは決して見逃すことのできないことでした。なぜならローマ帝国において、王はローマ皇帝ただ一人でなくてはならなかったからです。帝国の支配下で、しかも自分が責任を負っている地域で、王を自称する人物が出てくれば、その人物を排除するのが総督の役目です。王を自称する人物が現れることは、総督ピラトの統治に対する最大の脅威であったのです。

ピラトの尋問
 だからピラトは、議員たちが訴えた三つの罪状の内、第三の罪状についてだけ、主イエスに尋問したのだと思います。このように尋問しています。「お前がユダヤ人の王なのか」。ピラトは「お前がメシアなのか」「お前が救い主なのか」と尋問したのではありません。「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問したのです。主イエスがメシア、救い主であるかどうかに、ピラトは関心を持っていなかったし、持つ必要もありませんでした。それはユダヤ人の問題であったからです。ピラトの最大の関心事は、主イエスが王を自称しているかどうかであったのです。
 ピラトの尋問に対して主イエスは「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。答えになっていないような答えをされたのです。前回の箇所で最高法院において、「お前は神の子か」と問われたとき、主イエスは「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」とお答えになりました。しかしピラトの尋問に対しては、「わたしがそうだとは」という言葉はありません。「それは、あなたが言っていることです」とお答えになったに過ぎないのです。主イエスはピラト自身の責任ある判断を求められたのかもしれません。何よりも主イエスは、自分が政治的な王であるのかどうか、ローマ帝国の支配を脅かす王であるのかどうか、という問いには答えようとされなかったのです。ピラトは主イエスが自分の統治に対する脅威となるかどうかを見極めたかっただけでした。そのような問いに主イエスは答えようとはされません。ピラトの最大の関心事は、主イエスにとって答えるべきことではなかったのです。

ピラトの判断
 4節でピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言っています。ピラトは主イエスが無罪であると認めたのです。その根拠がはっきり語られているわけではありません。おそらくピラトは、最高法院の議員たちの魂胆に気づいていたのだと思います。彼らが総督の統治に対する脅威を部分的にでっち上げてまで主イエスを訴えたのは、自分たちの地位や権力に対する脅威となっていた主イエスを死刑にするためだ、と気づいていたのです。ピラトにとって議員たちの企みに利用されるのは気が乗らなかったし、彼らの訴えはどれも十分なものではありませんでした。「皇帝に税を納めるのを禁じ」た、という訴えに至っては完全な偽証でした。そのようないい加減な訴えを聞いて、主イエスを有罪にするわけにはいかなかった。ローマの法に照らして、主イエスを有罪と認めるに足る証拠はなかったのです。
 しかしこのことだけをもってピラトを評価するなら、私たちはピラトの姿を見誤ることになると思います。確かにピラトは主イエスがローマの法に照らして無実であることを認めています。このことは重要であり、ルカ福音書が強調していることでもあります。主イエスの十字架の死は、神様に対して何一つ罪を犯さなかった者の死であり、またローマの法に対して何の罪も犯さなかった者の死であったのです。しかしピラトが主イエスの無実を認めたことは、彼が主イエスをリスペクトしていたとか、重んじていたということではありません。ピラトは最高法院の議員の企みに利用される気はなかったし、十分な証拠もなく有罪と認める気もありませんでした。しかし何よりもピラトは、目の前の主イエスに脅威を感じなかったのです。ピラトのもとに連行される前に、主イエスは大祭司の家で、見張りの者たちから暴行を受けていました。暴行を受けて傷を負っていた主イエスのお姿を目の前にして、ピラトは何の脅威も感じませんでした。こんな弱々しくみすぼらしい人間が王になれるとは、政治的な反乱を起こせるとは、とても思えなかったのです。だからピラトは主イエスを処刑する必要を感じませんでした。権力者というのは、自分の権力を脅かす者に対しては敏感です。しかしピラトにとって主イエスは自分の権力を脅かす者ではなかった。むしろ自分の脅威にはまったくならない者でした。ですからピラトは主イエスをリスペクトしていたのではなく、むしろ主イエスを見下していたのです。

ヘロデ・アンティパス
 ピラトが主イエスの無実を認めても、最高法院の議員たちは引き下がろうとはせず、さらにこのように訴えました。「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」。ピラトは主イエスを政治的な脅威とは思いませんでしたが、議員たちのしつこさには手を焼いたと思います。これ以上、面倒くさいことに関わりたくないとも思っていたかもしれません。だから議員たちが「ガリラヤから始めて」と言ったのを聞いて、ピラトは彼らに、主イエスはガリラヤ人なのかと尋ねたのです。6、7節にこのようにあります。「これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである」。「ヘロデ」という名前が出てきました。先ほどお読みした3章1節に出てきた名前で、「ヘロデがガリラヤの領主」と言われていました。このヘロデは、マタイ福音書のクリスマス物語に登場するヘロデ(ヘロデ大王)の息子で、ヘロデ・アンティパスという人物であり、父の死後にガリラヤの領主となりました。総督ピラトは主イエスがガリラヤ出身と分かると、ガリラヤを支配していたヘロデ・アンティパスのもとに主イエスを送ったのです。議員たちのしつこさに手を焼いて、ヘロデに投げたのでしょうか。自分一人で判断して責任を負いたくないという思いもあったのかもしれません。いずれにしても主イエスは、ピラトとヘロデという時の権力者の間でたらい回しにされたのです。

ヘロデの態度
 ヘロデ・アンティパスは主イエスに会うと非常に喜びました。8節にこのようにあります。「彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」。ヘロデが主イエスに会いたいと思っていたことは、すでにこの福音書の9章7節以下に語られていました。ヘロデは洗礼者ヨハネの首を刎ねましたが、主イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」(7節)という噂を聞いて、「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」(9節)と言って、主イエスに会いたいと思ったのです。しかしヘロデが主イエスに会いたいと思ったのは、そして本日の箇所で主イエスに会って非常に喜んだのは、有名人に会えた喜びというようなものではありません。ヘロデが主イエスに会いたかったのは、主イエスが自分の支配を脅かす存在なのかどうかを確認したかったからです。そのために主イエスが行う「しるし」を見たいと思っていました。ピラトから主イエスが送られてきたとき、ヘロデはやっとその時が来たことに喜び、主イエスに色々と尋問したのです。しかし主イエスは何もお答えになりませんでした。もちろん「しるし」を行うこともありませんでした。何も話さず、何も行わない主イエスを見て、ヘロデは「自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した」のです。ヘロデは何も話さず、何も行わない主イエスを見て、自分の支配に何の影響も及ぼさない存在だと主イエスを見下し、あざけり、侮辱しました。自分の支配が脅かされるかもしれないと恐れていたけれど、実際、会ってみたら大したことなかった。それで主イエスをあざけり、侮辱して、「派手な衣を着せて」ピラトに送り返したのです。

ヘロデとピラトは仲がよくなった
 12節に「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである」とあります。ルカ福音書はヘロデとピラトが敵対していた理由を記していませんが、権力者同士の間に緊張関係があっても不思議ではありません。むしろ私たちが目を向けるべきなのは、ピラトとヘロデの間で主イエスがたらい回しにされることによって、二人が仲良くなった、ということです。何故、二人は仲良くなったのでしょうか。議員たちのしつこい訴えに対して、責任を分散できたということもあるかもしれません。しかし何よりもピラトとヘロデは、主イエスを見下すことで仲良くなった、と言えるのではないでしょうか。ピラトもヘロデも自分の権力や支配を脅かされることを恐れていました。しかし主イエスに会って、その弱々しくみすぼらしい姿を見て、何も話さず、何も行わない姿を見て、主イエスが自分の権力や支配に何ら影響を及ぼさない存在だと分かり、主イエスを見下し、あざけり、侮辱したのです。この共通の体験によってピラトとヘロデは仲が良くなったのです。

主イエスの沈黙
 これまで議員たちの姿、ピラトの姿、ヘロデの姿を見てきました。しかし私たちは主イエスのお姿にこそ目を向けなくてはなりません。主イエスはこの出来事においてピラトに答えとも言えないような答えをしたほかは、一言もお話しになりませんでした。議員たちが執拗に訴え、ピラトとヘロデが尋問し、ヘロデが兵士たちと一緒にあざけり、侮辱する中にあって、主イエスは沈黙していたのです。この沈黙する主イエスのお姿は、何を示しているのでしょうか。共に読まれた旧約聖書詩編62編2、3節にこのようにあります。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」。6、7節にもこのようにあります。「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない」。詩人は沈黙して、神にだけ心を向けています。神にだけ自分の救いがあり希望があると信じて、神に心を向けているのです。この詩人が置かれている状況は、平穏とは程遠い状況でした。心が穏やかだから沈黙して、神に心を向けられているのではありません。4、5節が示しているのは、人々が詩人に襲いかかり、「亡きものにしようとして」いる現実です。人々は暴力を振るって詩人を襲ったのではなく、言葉によって襲いました。「常に欺こうとして 口先で祝福し、腹の底で呪う」とあるように、口先では祝福の言葉を語っていても心の中では呪っている、そのような欺きの言葉を、人々は詩人に浴びせかけていました。しかし詩人は、そのような現実の中にあって、沈黙して、神にだけ心を向けていたのです。この沈黙して、神にだけ心を向けている姿は、本日の箇所の主イエスの姿にも見ることができます。本日の箇所で、訴える言葉、尋問の言葉、あざけりと侮辱の言葉を浴びせかけられる中で、沈黙している主イエスのお姿は、父なる神様にだけ救いがあり希望があると信じ、父なる神様に心を向けているお姿です。ピラトとヘロデの尋問に対して沈黙を貫かれた主イエスのお姿を通して、私たちは父なる神様だけにより頼み、希望をおいて、動揺することなく歩まれた主イエスを目の当たりにするのです。

私たちのために沈黙を貫いてくださった
 そうであれば私たちは、この主イエスの沈黙を模範とすべきなのでしょうか。私たちもほかの人の言葉に傷つけられることが少なくありません。優しい言葉、あたたかい言葉で自分に接してくれていた人が、実は心の中では自分を嫌っていた、憎んでいたと知ったとき、私たちは深く傷つきます。誰もがそのような経験をしていると思います。自分を傷つける色々な言葉が溢れ、心穏やかではいられない現実の中にあっても、主イエスのように沈黙して神様にだけ心を向けて生きなさい、とこの箇所は私たちに告げているのでしょうか。そうではないと思います。この主イエスの沈黙は私たちの模範なのではなく、私たちの「ため」の沈黙です。罪の力に支配され、神様に背き、自分自身と隣人を傷つけている私たちを救うために、主イエスはピラトとヘロデの尋問に対して沈黙を貫かれ、そして十字架に架けられて死なれるのです。私たちは、主イエスを尋問し、自分の権力や支配に何ら影響を及ぼさない存在だと分かると、主イエスを見下し、あざけり、侮辱したピラトとヘロデの姿に、自分自身の姿を見なくてはなりません。自分の持っているものを握りしめて手放そうとしない私たちこそ、自分のテリトリーを脅かされるのを恐れる私たちこそ、主イエスを訴えます。自分自身が自分の人生を支配していたいから、自分の人生から主イエスを追い出そうとし、主イエスが自分の人生に何の影響も与えないかのように、主イエスを見下し、あざけり、侮辱するのです。私たちは確かにほかの人からの言葉に傷つくことがあります。しかしそれだけではありません。むしろ私たちは沈黙して神様に向かうことができず、神様に背く言葉を、隣人を傷つける言葉を吐き続けているのです。それにもかかわらず、そのような私たちのために、人を傷つけ人から傷つけられて生きるしかなかった私たちのために、主イエスは沈黙を貫いてくださり、十字架で死んでくださいました。主イエスの沈黙は、主イエスだけが貫くことのできる沈黙です。主イエスだけが私たちのために、私たちを救うために貫いてくださった沈黙なのです。

決して動揺しない歩み
 私たちはこの主イエスの沈黙によって、その先にある十字架の死によって罪の支配から救われました。主イエスが沈黙を貫き、十字架で死んでくださったことによって、罪によって壊れていた神様と私たちの関係が回復されました。私たちは神様と共に生き、神様だけにより頼み、希望をおいて生きられるようになったのです。だから私たちは、その救いの恵みの中で、たとえ心無い言葉によって傷つけられてしまうときも、心穏やかではいられない現実に直面するときも、沈黙して、主イエス・キリストの父なる神様だけに心を向け、その神様だけにより頼み、希望をおいて生きることができるのです。私たちが生きている現代社会には心無い言葉が、誹謗中傷が溢れています。自分に対する言葉でなくても、人を傷つける言葉に触れるとき、私たちは心がすり減ります。しかし私たちはそのような社会にあっても、沈黙して、独り子を十字架に架けてまで私たちを愛してくださっている神様だけに心を向けて生きるのです。そのように生きる私たちに、あの詩人が告白していたように、決して動揺しない歩みが与えられていきます。どれほど誹謗中傷が溢れようとも、神様だけにより頼み、神様だけに希望をおいて生きる私たちに、決して動揺しない歩みが与えられていくのです。

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