夕礼拝

乳飲み子のように

「乳飲み子のように」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第34編1-10節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第2章1-10節
・ 讃美歌 : 361、400

生きた石として
私共が今手にしております聖書とは、どのような書物なのでしょうか。歴史書、あるいは文学書としても読めるかもしれませんが、教会が歴史を通じて聖書を大事にしてきた理由はただ一つです。聖書は主イエス・キリストを証する書物だからです。私たちは聖書に証しされている主イエス・キリストを通してこそ、父なる神様について、また私たちの救いについても知ることが出来ます。神様の言葉である聖書の目的はただ主イエス・キリストを証しすることです。そのために聖書は主イエスのことを様々なたとえによって語っています。羊飼いであったり、葡萄の木であったりです。このように様々なたとえが用いられておりますが、本日、共に御言葉を聞きます新約聖書のペトロの手紙一の第2章の4節においては、主イエスについてこのように語られております。「主は、人々から見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」。主イエス・キリストが「神にとっては選ばれた、尊い、生きた石」であると表現されているのです。そして「この主のもとに来なさい。」と言われています。選ばれた、尊い、生きた石である主イエス・キリストのもとに来ること、歩み寄ることが勧められているのです。主イエスが神にとっては選ばれた、尊い、生きた石であるとは、どのようなことでしょうか。その直前には「主は、人々からは見捨てられたのですが」とあります。主イエス・キリストは人々からは見捨てられたけれども、神様にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。見捨てるというのは、関係を保つことをやめるという意味です。面倒を見たり、目をかけたりするのをやめ、関係を切ることです。人々がそのように主イエスを見捨て、関係を断ち切る理由は、人々にとって主イエスは役には立たないと見えたからでありましょう。主イエスという石は人々には価値のないもののように見えた、もう少し違う言い方にしますと、人生の計画においていらないもの、必要のないものに見えたのです。だから、目をかける必要が無い、関係を持つ価値がないと思ったのです。「見捨てる」というのはそういうことです。私たちは、最初は自分にとって価値があると思っていたが、しばらくすると利用する価値がなくなって捨ててしまうということもあります。自分の都合で捨てたり、拾ったりするのは私たちの日常の姿です。けれども神様は、人々によって見捨てられた主イエス・キリストを選ばれたのです。人々にとっては価値のない、必要の無いものとして見捨てられた存在が神様にとっては選ばれた、尊い、生きた石だったのです。人間の価値判断で捨てられた主イエスを、神様は選び、尊い、生きた石として用いられたのです。

新しく生きるため
それは主イエス・キリストにおいて人間の救いを実現するためです。神様の独り子である主イエス・キリストが人間によって捨てられ、殺されたのです。けれどもそのことこそが、私たちの救いのためでありました。人間は自分の側の都合や価値判断で神様の独り子を見捨てたけれども、神様は最初から、その主イエスを用いて人間を救うご計画を持っておられたのです。神様が主イエスをこの世に遣わして下さったのは、私たち人間が主イエス・キリストによって新しく生きるためだったのです。新しく生きるとは、それまでとは違う生き方を始めるということです。それまでの自分の生き方が新しい生き方に変わり、主イエス・キリストと共に生きる信仰を与えられるのです。そのことのしるしが洗礼を受けるということです。そして5節では洗礼を受けて新しい生き方を始めた者たちに「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」と命じられております。私たち自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにと勧められているのです。主イエス・キリストによって新しく生きるようにされた者たちは、霊的な家に造り上げられていきます。主イエス・キリストを土台石とする霊的な家、それは即ち教会です。人の手で造られた建物としての教会ではなく、聖霊なる神様が内に住んで下さる霊的な家としての教会を造り上げなさいというのです。この霊的な家こそ、主イエス・キリストを土台石とする共同体である教会です。「共同体」という言葉には「体」という字が使われているように、主イエス・キリストによって新しく生きるようにされた者たちの群れである教会は手足のある生きた体のようなものです。土台の石を中心に、多くの生きた石が積み重ねられて霊的な家が造り上げられていくのです。この群れに洗礼を受けて加えられ、一人一人がこの霊的な家を築く生きた石となることこそが、「霊的な家に造り上げられる」ということでしょう。

二つの勧め
ペトロは、神様によって新たに生まれさせられた人々の群れである教会に、その神様の恵みに応えて生きるべき道を示しております。ペトロはここで二つのことを勧めております。一つは1節にありますように「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」ということです。もう一つは、2節「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」ということです。1節の「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」と言うのはいわゆる悪徳であります。「悪意」と言うのは他人や物事に対して抱く悪い感情です。それは隣人との関係を壊すような心のあり方でしょう。「偽り」というのはえさで魚を捕らえるという意味の言葉であり、自分の目的を達成するための口先だけのだましごとを示しております。「偽善」という言葉には役者、俳優、芝居を演じる人間という意味があります。自分の本当の感情を隠して、自分の心とはかけ離れた、全く異なった言葉で人と接することです。「ねたみ」とは口語訳聖書では「そねみ」とあり、自分の分に満足出来ず、神様に対して不満を抱く思いです。そしてそのねたみの結果が「悪口」です。または、この「悪口」は悪い噂話とも言えます。悪い噂話は、後になって後悔することがあるとしても、ほとんど全ての人が楽しんでいるものではないでしょうか。これらの悪徳がなくなることはないのが、私たちの現実ではないでしょうか。何故私たちはこのような悪徳から抜け出すことができないのでしょうか。それは一つに自分の身を守るためではないでしょうか。ありのままの自分には、裸のままの自分には自信が無いから、自分の本来の姿を隠してまうのです。そのためにこれらの悪徳が生じるのではないでしょうか。つまりそれらは、自分を装う武器なのです。本来の自分を隠すためのものなのです。ここでは、このような悪徳をみな捨て去ることが求められております。捨てるという言葉には、「脱ぎ捨てる」という意味があります。自分が装っている衣服を脱ぐのです。これまで自分の身を守るために装っていたものを脱ぎ捨てるのです。汚い衣服を脱ぐように、これらの自分の身を守るために装っていたものを脱ぎ捨てるのです。そして、2節の勧めにありますように「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求め」るのです。自分の身を守るために着ていた衣服を脱ぎ捨てたら、全く無防備になります。生まれたばかりの乳飲み子のようになるとは、まさにそのように一切を脱ぎ捨てて無防備な裸になることです。生まれたての乳飲み子は全く無防備であり、ただ母親にすがって、母乳を慕い求めます。ペトロは、そのような乳飲み子の姿を用いて、主イエス・キリストによって新しく生まれたあなたがたは、全てのものを脱ぎ捨て、全く無防備になって、乳飲み子が母親を信頼するように神様に信頼して、神様が与えて下さる霊の乳を慕い求めるようにと勧めているのです。神様が与えて下さるのは「混じりけのない霊の乳」です。それは神の言葉であります。私たちは、混じりけのない霊の乳である神の言葉を飲んで成長し、救われるようになるのです。母乳も一度飲めばそれで成長できるわけではありません。私たちはこの地上を歩む限り絶えず繰り返し、神様の御言葉を聞き続けるのです。聖餐に与るとはそのように、神様の言葉に聞き続けるということです。聖餐とは神様が見える形で私たちに与えて下さっている御言葉なのです。

恵み深い方
私たちは神様の御言葉を絶えず繰り返し聞き続ける必要があるのです。それは神様の御言葉には確かに力があり、信頼できるものだからです。3節には「あなたがたは、主が恵み深い方だと言うことを味わいました。」とあります。主なる神様は恵み深い方なのです。「恵み深い方」というのは「こころよい、ためになる」という色々な意味を持ちます。けれども、ギリシャ語では「クレーストス」であり、クリストス(キリスト)という言葉とよく似た響きです。つまり「主はクレースト、クリストス、キリストである」ということです。主はキリストである。「あなた方は主は救い主であるということを味わったというのです。」ペトロは主イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって救われた者たちが、新しく生まれさせられた者たちがどのように生きるべきかを訴えております。神様の御言葉以外にほかに求めるものは何もないと言います。神様の御言葉の力によって、主が恵み深い方であるということを知った者達の生き方を示しています。本日の旧約聖書の詩編の第34編9節にはこのようにあります。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」とあります。私たちはこれらから、聖餐に与ります。私たちの救いのために十字架におかかりなった主イエス・キリストをこの口でもって味わい知りましょう。この主の御もとに身を寄せる歩みは幸いな歩みなのであります。この一週も主のもとに身を寄せ歩みましょう。

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