夕礼拝

期待をはるかに超えて

「期待をはるかに超えて」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第35章 1節-10節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第7章 18節-23節
・ 讃美歌 ; 437、173

 
1 私たちが神様と出会う時、それはいつも驚きを伴います。当たり前ではない形で、とても予想などできなかった仕方で、私たちは神と出会うのです。生ける神はそのようにして、私たちに出会ってくださるのです。しかし、そのことに目が開かされるまでは、私たちは、自分の予期していたとおりの姿を見せてくれない神に苛立ちを覚えたり、自分の信仰の確信を失って不安になったりするものです。今日の洗礼者ヨハネもそうではないでしょうか。

2 ヨハネは、牢に閉じ込められていました。3章の19節に、このことについて記されていますが、ヨハネは当時のガリラヤの領主ヘロデに対して、その行いが神の前に誠実でないことを咎められたのです。領主ヘロデは自分の兄弟であるフィリポの妻、ヘロディアと通じ、この女性と結婚していたのです。これは結婚の秩序を破壊する、姦淫の罪を犯していることになります。だからこそ、ヨハネは「この結婚は律法で許されていない」と真実を告げたのです。しかし真実を聞きたくはないのが、私たち人間の姿です。ヘロデは真理を聞く耳を閉ざし、ヨハネを牢に閉じ込めたのでした。
 暗闇に包まれ、水滴が滴り落ちてくる牢獄の中で、ヨハネはいったいどんなことを考えたのでしょうか。ヨハネが預言したのは、「来るべきお方」についてでした。「やがて来るべき方が来られて、すべて義しくないことを裁き、神が望んでおられる事柄を実現させてくださる。神のご支配を実現させてくださる。神の正義が行き渡った世界を来らせてくださる。自分はそのことを告げ知らせるために遣わされているのだ」。それがヨハネの自己理解でした。けれども彼は、「来るべきお方」を目にする前に、ヘロデによって牢に閉じ込められてしまったのです。もう一度、このルカによる福音書の3章をご覧になってください。主イエスが洗礼を受けて、公の活動を始められるのは、21節以下、つまりヨハネがヘロデによって牢に閉じ込められた後のことです。ですから、もしかしたらルカにおいては、主イエスに洗礼を授けたのはヨハネを教師として仰ぐ弟子たちの集団だったのかもしれません。ルカは主イエスが誰から洗礼を受けたのかをはっきりと語らないのです。その直前で既にヨハネは牢に閉じ込められているからです。ヨハネはついぞ「来るべきお方」に直接会うことなく、自由を奪われ、獄につながれてしまったのです。
 牢獄の暗闇の中にうずくまりながら、ヨハネは心の中でつぶやき続けたのではないでしょうか。「ヘロデは神の義に背を向けて、私を獄につないだ。しかしそれでも、来るべきお方が必ず来てくださる。きっとすべての不義を裁き、神の義しさをもたらしてくださる」。ヨハネはこのことを思い巡らし、このことに望みを繋いで、ただこの孤独とひどい仕打ちに耐えていたのではないでしょうか。

3 この間、公の生涯を始められた主イエスは、悪魔の試みに打ち勝ち、汚れた霊に取りつかれた男をいやし、漁師のシモンたちを弟子として招きました。さらに重い皮膚病を患っている人々や中風の人をいやし、律法を巡るファリサイ派との論争に入っていかれました。そしてそれまで誰も聞いたことのない新しい、権威ある教えを説かれたのです。そして今日の箇所の直前には、百人隊長の僕をいやしたり、やもめの息子を生き返らせたりする奇跡を起こされています。こうした主イエスのさまざまな活動を、ヨハネは直接目の当たりにしてはいないのです。   
それゆえに、これらすべての主イエスの言葉と業についての知らせがヨハネの下に届いた時、暗闇の中に座り込んでいたヨハネは自分の心に、ひとすじの光が差し込んでくるのを感じたに違いありません。けれども、彼には納得しきれないものがありました。ストーンと腹の底まで落ち切らないものがあったのです。
それは、主イエスの言葉と業が、彼の預言していたことと、必ずしもぴったりと一致してはいなかったということです。ヨハネはかつて民衆に向かってこう語りました、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(3:7-8)。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:9)。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:16-17)。ヨハネがその到来を待ち望んでいたのは、裁きを行い、この地に神の正義を打ち立てる、怒りと裁きのメシアだったのです。
ところがどうも、弟子たちの知らせを聞く限り、イエスというお方の言葉と業には怒りと裁きが前に出てきているとは感じられないのです。むしろこのお方は目の見えない人を見えるようにし、足の不自由な人を歩けるようにし、重い皮膚病の人を清くされ、耳の聞こえなかった人を聞こえるようにしておやりになり、死んだ人を生き返らせる、そういうことをいつもしています。あのヨハネのように、神の怒りと裁きを語り、民衆に確かな実を結ぶ悔い改めを迫る、といった雰囲気とは、少し様子が違います。ヨハネの心には不安と動揺がムクムクと頭をもたげてきたのです。自分がこれまでの生涯をかけて宣べ伝えてきたことは正しいことだったのか、本当のことだったのか、確信を失い始めているのです。ひょっとすると自分がこれまですべてをかけて宣べ伝えてきたことは虚しいまやかしごとで、意味のないことだったのか、そうだとすれば、自分の人生は何の報いもないままに、横暴なヘロデの手によって消し去られてしまって終わるだけなのだろうか。ヨハネは牢屋の暗闇の中で悶え苦しんでいるのです。主イエスにつまずいてしまったのです。

4 ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、尋ねさせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(19節)。弟子たちは早速主イエスのところへ出かけていき、ヨハネから託された問いの言葉を全く同じように繰り返しています。けれども、私には思えるのです。託されたとおりの言葉で主イエスにヨハネの問いを伝えながら、実はこの弟子たちも、主が何とお答えになられるのか、固唾を飲んで見守っていたのではないのか。彼らもまた、自分の人生は洗礼者ヨハネに託して大丈夫なのか、怒りと裁きの神の前に、自分は本当に心安んじて立つことができるのだろうか、はたして神の喜ばれる悔い改めにふさわしい実を結ぶことができるのだろうか、そういった不安があったのではないかと思うのです。主イエスにヨハネの問いを伝えながら、この二人の胸の鼓動もドキドキと高鳴っていたのではないでしょうか。
 確かにヨハネが宣べ伝えた「来るべき方」は、旧約聖書の預言者の伝統に連なっているお方でした。たとえば、預言者イザヤはイスラエルが回復される恵みの出来事を預言する時、同時に裁きが伴うことを語っています。「暴虐な者はうせ、不遜な者は滅び 災いを待ち構える者は皆、断たれる」(29:20)と言われますし、貧しい者に福音が知らされる時は、「わたしたちの神が報復される日」(61:2)が告知される日でもあるのです。そのこと自体は、間違っているわけではありません。けれども、送られたヨハネの弟子たちが目の当たりにしたのは、まさに今そこで、病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々がいやされ、大勢の盲人が見えるようにされる、という憐れみと慰めの出来事だったのです!
そして主イエスはおっしゃるのです。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。この主イエスのお言葉は、預言者イザヤが、バビロンによって捕らわれの身にあるイスラエルの栄光が回復される時を預言した言葉と対応しています。「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。 そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う。 荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる」(35:5-6)。もちろん4節のあるように、その時「敵を打ち、悪に報いる神が来られる」とあるように、神の怒りと裁きが伴います。けれども、この35章全体を見ても分かるように、主なる神が望んでおられるのは、私たちが恵みによって救われ、生きることなのです。裁きと怒りの炎によって焼き尽くされることではなく、ここで主にいやされている多くの人々のように、新しい命を与えられて生きることなのです。その恵みの中でこそ、本当に実を結ぶ悔い改めが始まっていくのではないでしょうか。私たちは、悔い改めることによって、そのご褒美として神の憐れみを手に入れるのではありません。そうではなく、神の憐れみと慰めに打たれた時、真実の悔い改めに導かれるのです。神の憐れみ、神の愛こそが、主イエスの宣べ伝えておられることなのです。ただ神がご自身の愛という一つのことを貫かれる中で、その愛を拒む者には、愛が裁きという形をもって臨むことになるのです。しかし神様がその御心の一番の中心で願っておられるのは、私たちが裁きの下で、永遠の死に至ることではなく、恵みの中で、神とのとこしえの交わりに新しく生き始めることなのです。

5 私たちもその信仰の歩みの中で、洗礼者ヨハネや、あるいはあの二人の弟子たちのように、不安になることがあります。礼拝を通して、自分がそれまで神にしていたもの、お金や名誉、仕事上の上司や友人、家族や国家について抱いていた期待が打ち壊される経験をします。さらにはどんなイメージであれ、およそ「神」というものについて自分が抱いていたイメージが打ち壊される経験をします。私の母は、ヴェトナム戦争が行われていた時代に、初めて教会に行って、そこで大の大人が礼拝というものに与かり、そこで命を与えられて生きている姿に強い衝撃を受けたのでした。この激動の時代に、全く予想できない仕方で生きている人間たちに出会って、本当にびっくりしたのです。こうやって生きる生き方があるんだ、という発見をしたのです。そしてそこに生きて働いておられる神に出会ったのです。
それまでは自分の苦しい時にだけ現れて、危機の中から助け出してくれるのが神というものだと思っていたかもしれません。自分が一生懸命努力していれば、それに応えてご褒美をくださるのが神というお方だと理解していたかもしれません。あるいはそんなお方などいない、この世で頼ることができるのは自分だけだ、自分がしっかりしなきゃいけないと、いわば自分を神として、がむしゃらに生きてきた、ということも多いでしょう。
 そのような自分流、自己流の神様の理解を、いつも新しく打ち壊して、新しく私たちと出会ってくださるのが、聖書の語る、生ける神なのです。その意味では、私たちはいつもあのヨハネやその弟子たちのように、主イエスに躓いているのです。主イエスの十字架こそは、躓き中の躓きです。それは「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(Ⅰコリ1:23)だ、と神から遣わされた使徒パウロは言いました。救い主が十字架にかかって死んでしまう、それはおよそ私たちが予想したり、期待したりすることのあり得ない神の姿です。けれども、もし私たちが、この礼拝において、聖霊なる神に触れていただくなら、私たちはこの主イエスこそが、まことの救い主、生ける神であることを知らされるのです。そしてあの十字架でそれまで自らを神としてきた私たちも共に死に、復活された主イエスの命に共に与かって生き始めることを知るのです。十字架という躓きを通して、私たちの自分勝手な神様の理解を躓かせ、蹴躓いた先で一度死ぬのです。そしてそこから引き起こし、立ち上がらせてくださる力に与かって、それだけを頼りに、そこから新しく歩み出すのです。主なる神はそのようにして十字架のもとに新しい神の民を集めてくださいます。そしてそこから新しく遣わしてくださるのです。御国に向けて歩む神の民の歩みが始まるのです。

6 主イエスの答えに、洗礼者ヨハネがどういう反応を示したのか、そのことを福音書は語っておりません。いやそもそも、「あなたは来るべきお方なのですか、それともそうではないのですか」というヨハネの問いに「そうだ」とも、「そうではない」ともお答えになっていません。ただ、今ここに起こっていること、あなたが目の当たりにしていることをそのままに受けとめなさい。そうすれば答えは自ずから明らかなはずだ、しかしそのことをあなた自身の心で信じ、口で公に言い表してほしい、主はそう願っておられるのではないでしょうか。そのような生き方こそ、あのヘロデが姦淫の罪によって、神との生きた人格関係に背を向けたのとは正反対に、神に問われ、神に応えつつ歩む、生き生きとした人生へと私たちを導いてくれるのです。
 主イエスがどなたであるのかを問いかけたヨハネは、逆に、主イエスにおいて起こっている出来事を見て、それにあなたが応えなさい、と問いかけられました。「神の出来事の現場」を見れば、答えは明らかだとおっしゃったのです。私たちもそうではないでしょうか。この礼拝につながる歩みを通して、病に悩む人、その看病に心を砕く人、心や体の不自由さに気落ちしている人、人生に絶望している人、世界の行く末に不安を抱いている人が、新しく神と出会い、命を与えられ、遣わされていくのを見るのです。ここに神の民が集められ、御国に向かって歩んでいるのを見るのです。ここが「神の出来事の現場」なのです!いつも私たちの抱く期待や願望をはるかに越えたお方として、私たちの予想をはるかに越える形で救いの御業を成し遂げてくださるお方として、神は私たちに出会ってくださいます。その時私たちは、十字架の躓きを経て、もはや躓かない歩みを与えられます。そして「あなたこそ、来るべきお方です!」と心で信じ、口で公に言い表して歩むことのできる恵みと平安に満たされるのです。

祈り 父なる神様、私たちがあなたについて抱く考えやイメージは、まことに狭く、小さく、自分勝手なものであることを御前に畏れます。どうか今この礼拝で起こっているあなたの恵みの出来事を目の当たりにする目を、聖霊によって開いてください。そしていつも私たちの期待や願望をはるかに越えてご自身を現し、御旨を成し遂げてくださるあなたにこそ、望みを繋がせてください。自分の思いや計画の中にあなたを閉じ込めてしまう罪の誘惑が繰り返し迫ってきます。神様どうか、そのような私たちのあなたに対する自分勝手な理解を、いつもいつも新しく打ち砕き、私たちの前にご自身を現してください。十字架の躓きに真実に躓かせてください。そしてそこから起き上がらせ、新しい命の中を歩み出させてください。
 御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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