夕礼拝

ここにいるけれど…

「ここにいるけれど…」 和泉短期大学チャプレン 和寺悠佳

・ 旧約聖書:
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第15章1-10節
・ 讃美歌:237、459

 探し物をすることがあります。物をなくしてしまって、必死に探すことがあります。自分の身の回り、部屋のなかをあちこち探し回って、やっと見つけてほっとする。落とし物をしてしまって、色々なところに問い合わせをして、ようやく見つけることができた。そういう経験を、多くの方がしたことがあるものと思います。物を探しているときには、探している物のことで頭がいっぱいになり、それ以外の物について意識が行かないこともあります。ずっと探していた物を見つけたとき、その物がとても愛おしく思えてきます。
 今日、与えられた聖書の御言葉にも、そんな風に物を必死に探す人が出てきます。

 徴税人や罪人が、イエス・キリストの話を聴こうとしてイエス・キリストのもとへと集まってきました。その様子を見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは不平を言います。イエス・キリストがなさっていることは、神様の御心に適うことであるのに、ファリサイ派の人々や律法学者にはそれが分からない。イエス・キリストは、ファリサイ派の人々や律法学者に対して、神様とはどのような方であるのか、たとえ話を用いて伝えることにしました。
 福音書には、イエス・キリストのたとえ話がたくさん出てきます。たとえ話とは、ある事柄を説明するときに、他の話を用いて伝えることです。イエス・キリストがたとえ話を用いるのは、神様について話をするときです。神様がどんなお方なのか、神様が私たちに対して何をしてくださるのか、神様は私たちのことをどのように思ってくれているのか、そういった事柄を伝えるときに、イエス・キリストはたとえ話を使います。今日の聖書の御言葉には、二つのたとえ話、二人の人が出てきました。

 一つ目は、「百匹の羊を持っている人」の話です。
 百匹もの羊を持っている。イエス・キリストの時代、羊とは財産でした。百匹もの羊を飼っているとは、相当なお金持ちであったと言えます。百匹も羊がいたとしたら、その中からたった一匹がいなくなったとしても、気づかないかも知れません。自分が持っている百匹というたくさんの羊の中の一匹です。けれども、この人は、百匹の中の一匹がいなくなったとき、羊が一匹いないと気づいて、必死に探すのです。百匹の羊は、この人の財産です。財産がなくなっては困ります。この人は自分の財産をきちんと管理し、行方不明のものがあれば、すぐに探す人です。
 羊はとても弱い生き物です。例えば、目がとても悪く、自分の前を歩く羊のしっぽがやっと見えるぐらいの視力しかないそうです。先頭を歩く羊の前には、羊飼いがいて、先頭の羊は、自分の前を歩く羊飼いに付いていきます。羊は、自分の前を歩く羊のしっぽを見て、その後をついて行くことで、餌を食べる場所に移動し、水を飲む場所に移動して、生活することができます。このように、羊は、ほかの羊たちと一緒に、群れの中で生活しないと、生きていくことができません。だから群れからはぐれてしまったら、その羊は、自分が何について行ったらいいのか分からず、水を飲む場所や餌を食べる場所にたどりつくことができずに、生きていくことができなくなってしまいます。
 百匹の羊を持っている人は、羊が群れからはぐれてしまっては生きていけないことを知っていました。そうなれば自分の財産がなくなってしまいます。だから、必死になって、見失った一匹の羊を探し回ったのです。
 百匹もの羊がいれば、その中の一匹がいなくなったとしても、気づかないのではないか。皆さんはどう思われるかもしれません。でも、この人は、その一匹が見当たらないことにすぐに気づいたのです。その一匹が群れからはぐれて、たった一匹でいることを心配しました。羊は、たった一匹では生きていけないことも分かっていたので、その羊を必死になって探したのです。この人にとって、羊一匹、一匹がとても大切でした。羊が百匹もいるのだから、その中の一匹がいなくなっても、大したことはない、そんな風には思えなかったのです。羊が百匹いたとしても、たくさんの羊をもっていたとしても、その中の一匹一匹がとても大切だったのです。たった一匹がいなくなったとしても、その一匹が必死になって探すぐらい、その一匹が大切だったのです。その一匹は、この人のものだからです。
 大切な、大切な、自分の一匹の羊を必死に探したこの人は、ついにいなくなってしまった羊を見つけることができました。この人は、そのことがとても嬉しかったのです。非常に喜んで、自分ひとりで喜ぶだけでは気が済みませんでした。友達や近所の人々を呼び集めて、一緒に喜ぶのです。大げさな喜び方に思えます。

 もう一人、必死に探し物をする人がいます。「ドラクメ銀貨を十枚持っている女」です。ドラクメ銀貨とは、一日分の給料に相当する金額のお金です。この女の人は、その銀貨を十枚持っていました。けれども、その中の一枚をなくしてしまいました。
 十枚の中の、一枚の銀貨です。一枚なくしても、まだ九枚は残っています。その九枚があれば一応、生活はできるでしょう。けれども、この女の人は、なくしたその一枚の銀貨を必死に、念入りに探すのです。この銀貨がこの女の人の持ち物であって、とても大切だから、自分のものであるから、必死になって探すのです。
 なくした銀貨をどうしても探し出したい女の人は、明かりをつけて、部屋の中が隅々までよく見えるようにしました。何かに紛れてしまったのかもしれないと、部屋の中を片付け、掃除をしました。部屋のあちらこちらを綺麗にし、部屋の隅から隅まで見て、そしてようやくなくした一枚の銀貨を見つけました。女の人はとても喜びました。自分の銀貨が見つかったからです。この女の人も、友達や近所の女性たちを呼んで、一緒に喜ぼうとしたのです。たった一枚の銀貨を見つけて喜ぶ。なくしていた物を見つけたのですから、嬉しくなって喜ぶのは当然でしょう。けれども、銀貨一枚です。この女の人にとっては、大切なものであっても、友達や近所の人たちにとっては、大したものと思えないかも知れません。友達や近所の人たちを呼び集めてまで一緒に喜ぶというのは、やはり大げさに思えます。

 いなくなってしまった、たった一匹の羊を見つけた。なくしてしまった、たった一枚の銀貨を見つけた。このことは、見つけた人にとっては、とても嬉しいことでしょう。必死になって、念入りに探して、ようやく見つけることができた。大切な羊を見つけた、大切な銀貨を見つけた。それは、百匹の羊を持っている人にとっても、十枚の銀貨を持っている女の人にとっても、とても嬉しく、大喜びすることだったでしょう。けれども、いくら嬉しくて大喜びしたからと言って、友達や近所の人を呼び集めて、一緒に喜ぶ、というのはやりすぎのようにも思えないでしょうか。
 一匹の羊を見つけた人の話、一枚の銀貨を見つけた女の人の話は、たとえ話でした。イエス・キリストがたとえ話をする目的は、神様がどんなお方なのか、神様が私たちに何をしてくださるのか、神様が私たちのことをどう思ってくださるのか、それを伝えるためでした。
 一匹の羊を見つけた人、一枚の銀貨を見つけた女の人は、神様の姿です。神様は、百匹の羊の群れからいなくなったたった一匹の羊を必死に探して、見つけたら大げさに思えるぐらいに喜ぶ方です。神様は、十枚の銀貨の中の一枚がなくなったときに、必死にその一枚を探して、見つけたら、やりすぎに思えるぐらいに喜ぶ方です。
 神様は、姿が見えなくなってしまった一匹の羊、一枚の銀貨を、そのままにはしておかれません。一匹の羊、一枚の銀貨を見つかるまで探してくださる方です。その一匹の羊、一枚の銀貨は、神様のものだからです。
 ここで、一匹の羊を探している間に九十九匹の羊はどうなるのか心配だと思う人がいるかも知れません。それは、この場合に問題になりません。見失ってしまった一匹の羊と、なくしてしまった一枚の銀貨には、同じ意味があります。それは、両方とも持ち主の前からいなくなってしまった、持ち主の見えないところ、手の届かないところにある存在ということです。持ち主にとっては、自分のものでありながら、いま、自分のもとからなくなってしまった物を見つけることが重要です。そのたとえとして、羊や銀貨の話があります。一枚の銀貨を探している間に、残りの九枚の銀貨がどこかに行ってしまうことなどありえません。一枚の銀貨と一匹の羊は、持ち主の前から見えなくなっているという点で同じなので、九枚の銀貨と同じように、九十九匹の羊も、持ち主の前から姿を消すということはありません。
 そもそも、このたとえ話は、神様がどういう方なのかを伝えたくて、イエス・キリストが語ってくださった話です。百匹の羊を持っている人、十枚の銀貨を持っている女の話で、羊や銀貨の話ではありません。イエス・キリストの伝えたいのは、この人、この女のことです。それを、羊や銀貨に注目してしまうと、神様のことが分からなくなってしまいます。イエス・キリストがたとえ話を通して伝えてくださっているメッセージを受け取れないことになってしまいます。

 羊を探す人、銀貨を探す女の人とは、神様のことで、私たちはその神様に目を向ける必要があると言いました。
 では、いなくなってしまった一匹の羊、なくしてしまった一枚の銀貨とは、誰のことでしょうか。もちろん、私たちのことです。私たちは、羊を持っている人、銀貨を持っている女の人、つまり、神様の前からいなくなってしまう存在です。神様は、私たちのことをとても、とても、大切にしてくださっています。愛してくださっています。けれども、私たちは、その神様の前からいなくなってしまう者なのです。
 神様から離れてしまうことが、聖書の言う「罪」です。神様から離れてしまう人が、聖書の言う「罪人」です。私たちは、罪人なのです。神様に愛され、大切にされているのに、そのことに気づかない。あるいは、神様に大切にされ、愛されていることに気づいていても、それでも神様から離れてしまう。神様から離れようとは思っていないのに、気づけば神様から離れている自分がいる。神様以外に目を向け、神様以外のことに囚われてしまっている自分がいます。そうやって、神様の前から離れてしまって、羊のように迷子になり、銀貨のように姿がみえなくなっている。それが私たちです。
 私たちが「銀貨」であると考えるとわかりやすいと思います。羊は生き物ですから、もしかすると群れからはぐれてしまったら、不安になったり、恐怖を感じたりするかも知れません。けれども、銀貨にはそういう感情は一切ありません。銀貨は、一緒に置かれていた他の銀貨から離されてしまっても、寂しいとも心細いとも思いません。まして探してもらいたいとも感じるはずがありません。私たちも、そのような存在なのではないでしょうか。神様に大切にされている、愛されているのに気づかない。神様に必死に探してもらっているのに気づかない。見つけたら、大げさに思われるぐらいに神様は喜んでくれるのに、自分が神様にそのように思われていることに気づかない。自分が居るところに、神様が来てくださるのに、自分が居るのがそのような場所だと分からない。それが私たちです。

 けれども、私たちが銀貨のようにどんなに何も感じなくても、神様は、私たちのことを大切に思ってくださいます。神様の前から離れてしまったら、必死に探してくださいます。百匹の羊の中の一匹ぐらいいなくてもいい、十枚の銀貨のうちの一枚がなくなったとしても構わない、神様は、そんなことを絶対にお思いにはなりません。銀貨が何も感じなくても、つまり、私たちが何も思わなくても、あるいは、神様に探してもらうほどの価値、誰かに喜んでもらうほどの価値がないと思ったとしても、それでも、神様は私たちを大切にしてくださいます。必死になって探してくださいます。私たちが神様のものだからです。そして、見つけたら、つまり、私たちが神様のもとへとかえってきたら、大喜びしてくださいます。
 聖書が伝える神様とは、このように私たちのところへと来てくださるお方です。神様と共に歩むと言っても、私たちのほうから神様に近づくのではありません。私たちが、神様がどこにいらっしゃるのだろうかと探すのではありません。神様のほうから、私たちのところへ来てくださいます。

 今日からアドヴェントの歩みが始まりました。クリスマスを待ち望むときです。クリスマスは、神様の御子、イエス・キリストがお生まれになった日。そうです、クリスマスは、神様のほうが、私たちのところへ来てくださった出来事です。イエス・キリストは、神様の方から私たちのところへ来てくださるという神様のお姿を、たとえ話を通して伝えてくださいました。イエス・キリストご自身が、私たちのところへと来てくださった神様その方でした。
 「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」。たとえ話で、このように言われていました。「悔い改める」とは、罪人である私たちが神様の方を向くことです。
 私たちには、罪があります。罪とは、神様から離れ、神様以外のものが大切になってしまう、神様以外を頼りにしてしまうことだと言えます。見失った羊、なくした銀貨のように、持ち主から離れてしまうことです。私たちは、神様のもの。神様が造ってくださったもの。それなのに、神様から離れてしまう。
 その私たちがどうやって、神様のもとにかえってくることが、悔改めることができるのでしょうか。見失った羊やなくした銀貨はどうやって持ち主のところに戻ってきたのでしょうか。羊や銀貨が自ら持ち主のもとにかえってきたのではありません。持ち主が必死にさがしたから、羊も銀貨も戻ってくることができたのです。私たちも同じです。私たちが自分で神様のところにかえっていくことはできません。そうではなく、神様が、私たちを探してくださる。だから、私たちは神様のもとへ行くことができる、神様のもとへとかえって行くことができるのです。
 神様が見つけてくださるから、探し出してくださるから、私たちは神様のところへ行くことができます。私たちは探してもらっていることに気づいていなくても、神様が見つけてくださったときに、自分が神様の前から離れて迷子になっていたことに気づきます。見つけてもらうまでは分からない。見つけてもらって、初めて、自分が神様から離れてしまっていたことに、その自分のことを神様が必死に探してくださっていたことが分かります。自分が今や神様と共に居ることが分かります。自分がどこに居るかわかります。そのときに、その神様と共に歩みたいと思うのではないでしょうか。

 神様は、私たちを見つけるために、私たちのところへと来てくださいました。クリスマス、イエス・キリストが私たちのところに来てくださいました。イエス・キリストが十字架にかかるために、生まれてくださいました。イエス・キリストによって、私たちの罪が赦されました。罪が赦されたから、私たちは悔い改めます。つまり、神様から離れるのではなく、神様のもとに招かれ、神様と共に歩む者にされます。そのために、神様はクリスマスに私たちのところへと来てくださいました。

 神様はおっしゃっています。
 私にとって、あなたはいなくなっては困る存在。百匹の羊の中のたった一匹であったとしても、十枚の銀貨の中のたった一枚であったとしても、その一匹、一枚の存在を神様はご存じでいらっしゃいます。その一匹、その一枚がとても大切なのだ。その一匹がいなくなったら、その一枚がなくなったら困る。その一匹、一枚がとても大切で愛おしい。それは、あなたが、私のものだから。だから、あなたがいなくなってしまったら、私は必死になって探します。探して、見つけ出します、と。
 その神様の姿を私たちは確かに知らされています。クリスマス、神様は、私たちを探して見つけるために来てくださいました。十字架にかかって、私たちの罪を赦すために、私たちの悔改めのためにきてくださいました。それを喜びとして、クリスマスに来てくださいました。
 私たちのために、来てくださった神様、イエス・キリストに見つけていただき、神様と共に、歩んで参りましょう。

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