夕礼拝

偶像を造る人間

「偶像を造る人間」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:士師記 第17章1-13節
・ 新約聖書:コロサイの信徒への手紙 第3章5-11節
・ 讃美歌:227、463

士師とは  
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書士師記からみ言葉に聞いてきましたが、本日をもってそれを終りたいと思います。士師記をしめくくるに当ってもう一度、士師とはどのような人々かを振り返ってみましょう。新共同訳聖書の後ろの付録に「用語解説」があります。そこから「士師」の項を読んでみます。
 「本来は『裁く』という動詞の分詞形であるが、『士師』と訳される場合は、イスラエルの歴史において、カナン占領から王国設立までの期間、神によって起こされ、イスラエル人たちを敵の圧迫から解放する軍事的、政治的指導者を指す。士師記には12人の名が挙げられている。」  
 このように、士師は神によって立てられた軍事的、政治的指導者ですが、彼らが立てられたのは「カナン占領から王国設立までの期間」でした。イスラエルの歴史の中のごく限られた期間にのみ現れた人たちだったのです。また彼らは一代限りの個人的英雄でした。イスラエルの危急存亡の折に国を救い、その働きを終えると消えていったのです。このことには深い意味があります。イスラエルの民は、主なる神によってこそ治められ、導かれているのです。主こそがこの民の真実な王なのであって、人間の王が世襲によって治めるものではない、士師たちは、そのような神ご自身のご支配を現すために用いられたのです。つまり士師たちの存在は、イスラエルが主なる神の民であることを示していたのです。

王が立てられる必然性  
 しかし士師の時代はそう長く続きませんでした。イスラエルにも、周辺の他の国々と同じように王が立てられ、王国となっていったのです。士師記はそのことを決して否定的に見ているわけではありません。むしろ、士師の時代はダビデ、ソロモンによる王国設立の備えとして位置づけられており、イスラエルが王国となっていったことの必然性を語っていると言うことができます。そのことを示しているのが本日の17章の6節です。こう語られています。「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」。これと同じ文章が士師記の最後、21章25節にもあります。ですからこれは、士師記の中心的なメッセージを語っている文章だと言うことができます。「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」というのは良い意味ではありません。人々がそれぞれ自分の好き勝手なことをしており、収拾がつかなくなっていた、ということです。まだ王がいなかったから時はそうだった、と言っているのです。人々を治め、守り、指導する王がいないと、皆が勝手なことをして混乱が生じ、神の民としてのあるべき姿が失われてしまう、それゆえにイスラエルにも王が立てられていった、士師記はその必然性を語っているのです。

士師記の補遺?  
 士師たちは神によって立てられた個人的英雄ですが、その士師たちの物語は16章までのサムソンの話で終わっています。サムソンが最後の士師なのです。本日の17章以降に語られているのは、士師の話ではありません。この時代にイスラエルの民の中で起ったいくつかの出来事、事件です。それゆえにここは、注解書によっては、士師記の補遺、つまり付け足しの部分とされているものもあります。実際この17章から21章に語られていることは、いったいどうして聖書の中にこんな話があるのか、と首をかしげたくなるような話ばかりです。特に19章などはそうです。そのような話を読むと、17章以下はなくてもよいのではないか、いやむしろない方がよいのではないか、とさえ思います。サムソンの話で終りにしておいた方がよかったのではないか。しかし士師記を書いた人はそうは思わなかったのです。この部分をも士師記の一部として語り伝えることに意味があると考えたのです。その意味とは何なのでしょうか。それを語っているのが、先程読んだ17章6節の「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」という文章であると言えます。人々がそれぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた、その結果どのようなことが起っていったのかをこれらの話は語っているのです。17章以下はそのような話として読むことによってその意味が見えてくるのです。

17、18章  
 そこで本日の17章ですが、これは次の18章へと続いている話で、イスラエルの一つの部族であるダン族が、カナンの地の一番北に住むようになったいきさつを語っています。イスラエルの地をよく「ダンからベエル・シェバまで」と言いますが、一番北の町がダン、一番南の町がベエル・シェバです。聖書の付録の地図の3.「カナンへの定住」を見て下さい。一番北にあるダンの町は、元々はライシュと呼ばれていましたが、ダン族がそこを攻め、占領して住みついたためにダンと呼ばれるようになった、ということが18章に語られているのです。そのダンには、アッシリアによって北王国イスラエルが滅ぼされるまで、銀で造られた神の像が置かれており、その祭儀、礼拝を行うための祭司がいました。その神の像はどのようにして造られたのか、そしてそれがどのような経緯でダンにおいて祭られることになったのか、を17、18章は語っているのです。

偶像礼拝との戦い  
 ところで私たちは、イスラエルの人々の中にこのような神の像、偶像があり、それが祭られていたことに驚きととまどいを覚えます。イスラエルの人々は、あの十戒の第二の戒め「あなたはいかなる像も造ってはならない」という主なる神の戒めを厳格に守り、一切の偶像を拒否していたはずではなかったのか、と思うのです。しかし実際にはそうではなかったことがこの箇所から分かります。イスラエルの民の中には、繰り返し偶像が生み出され、偶像礼拝が行われていました。あの十戒の第二の戒めは、そういう現実があったからこそ語られているのです。そういう現実の中で、主なる神によってエジプトの奴隷状態から救われ、主の民とされたイスラエルは、主のみを拝み、人間の手で造ったいかなる像をも拝んではならないのだ、ということを教えて、神の民としてのイスラエルのあるべき姿を示し、偶像を造り出そうとする人々の心を正して、主なる神のもとへと立ち帰らせようとしているのがあの戒めなのです。つまりイスラエルにおいて、偶像の否定は、厳しい信仰の戦いによって打ち立てられていったことだったのです。その信仰の戦いは、自分たちの中にある、偶像を造り出そうとする思いとの戦いです。「いかなる像も造ってはならない」という戒めはその信仰の戦いにおいて大事な意味を持っていたのです。

偶像が造られた事情  
 そのように人間の心には偶像を造り出そうとする思いがある、ということが17章のミカという人の話において語られています。ダンに置かれるようになった神の像は、ミカという男とその母によって造られたものでした。彼らがこの偶像を造ったきっかけはとても面白いものであって、そこに偶像の本質が浮き彫りになっていると言うことができます。ミカは、母親の持っていた銀を盗みました。「千百シェケル」とあります。これは、親の財布からちょっと小遣いをくすねた、などというのとは全く違う、莫大な金額です。ミカはとんでもない罪を犯したのです。犯人が息子だとは知らない母親は、盗んだ者を呪いました。それは、然るべき儀式をして、この銀を盗んだ者には神からの呪い、罰が下るようにと祈った、ということです。それを知ったミカは恐ろしくなり、母に事実を打ち明けました。「その銀はわたしが持っています。実はわたしが奪ったのです」。それを聞いた母の言葉は「わたしの息子に主の祝福がありますように」でした。なぜこんなことを言うのでしょうか。これが、息子が親の金を盗んだことを知った親の言葉でしょうか。しかし彼女がこう言ったのには訳があります。これは、「正直に告白したお前は偉い」ということではありません。彼女は、自分が犯人にかけた呪いを打ち消そうとしているのです。この銀を盗んだ者は呪われよ、主から罰を受けるように、と祈った、その呪いがこのままでは息子に下ってしまう、それを避けるために、呪いを打ち消すために彼女は慌てて息子に主の祝福を祈ったのです。そしてそれだけでは足りないと思った彼女は、息子が返した銀で「彫像と鋳造」を造ると言い出します。神の像を造ろうということです。それは「息子のために」です。息子の守り神として、息子にかかる呪いを防ぎ、祝福を与えてくれるお守りのようなものとして、神の像を造ろうとしたのです。このようにしてこの神の像は造られ、ミカは偶像の所有者となったのです。  
 ここに、偶像というものの本質、あるいは偶像を造ろうとする人間の思いの本質が見て取れます。偶像は、災いや呪い、あるいは「祟り」などを恐れる人間の思いから生み出されるのです。それらのものから守ってくれるものを求めて人は偶像を造るのです。しかしこの話がいみじくも語っているように、その呪いや災いは実は人間自身が造り出したものです。人間の罪の現実があり、それによって起る憎しみから呪いが生み出され、その呪いから身を守るために偶像が生み出されるのです。人間は、神に背く罪の結果として怒りや呪いに陥り、それによって生じる恐れや不安や悲しみの中で偶像を生み出しているのです。

宗教を作り出す人間  
 偶像を生み出す心は、それを祭る祭司をも生み出します。5節にこうあります。「このミカという男は神殿をもっており、エフォドとテラフィムを造って、息子の一人の手を満たして自分の祭司にしていた」。ミカは神殿を持ち、そこにエフォドとテラフィムを置いていました。エフォドとテラフィムが何を指しているのかははっきりしませが、これらも、あの銀で造られた偶像と同じような神の像か、あるいはそれらを祭る祭儀を行うための道具です。ミカは偶像を造り、それを祭る神殿を造り、祭儀、礼拝の道具を整えたのです。後はそこで祭儀を行う祭司が必要です。そこで彼は自分の息子を祭司に仕立てました。こうして一つの宗教が誕生しました。本尊があり、礼拝の場所があり、祭司がいれば、それで立派な一つの宗教です。しかしその宗教は自分勝手な願いのために作り上げられたものであり、自分の家族のためだけのものです。こういうことを受けて6節では、「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」と語られているのです。人間がそれぞれ自分の目に正しいとすることを行っていくと、このような勝手な宗教が、偶像礼拝が乱立していくのです。

レビ人である祭司  
 さてここに一人の新たな人物が登場します。ユダ族の若者で、レビ人であったとあります。これは厳密に言うとおかしなことで、ユダとレビは別の部族の名ですから、ユダ族で同時にレビ人であることはあり得ないのですが、しかしレビ族はイスラエルにおいて特別な部族でした。彼らは土地を与えられずに、各部族の中に分散して住んでいました。土地の代わりに与えられていたのは、主なる神への礼拝に使える祭司としての役割です。レビ人イコール祭司ということになったのです。このレビ人の若者は、元々はユダ族のベツレヘムに住んでいました。「寄留していた」とあるのは、彼らレビ人は自分たちの土地を持っていないからです。その若者が「適当な寄留地を求めて」、つまり自分を祭司として迎え、生活を保証してくれる地を求めてベツレヘムを離れて旅をしていって、ミカの家に着いたのです。ミカは彼を歓迎し、自分の家の祭司となってくれるように頼みました。それはこの若者が求めていたことでもありましたから、話はまとまり、このレビ人はミカの家の祭司となりました。13節でミカは「レビ人がわたしの祭司になったのだから、今や主がわたしを幸せにしてくださることが分かった」と言いました。ここにも偶像を造る人間の典型的な思いが表れています。彼はこれまで自分の息子を祭司にしていましたが、それは自分が勝手に仕立て上げた祭司です。しかし今や、本物の祭司であるレビ人が彼の家の祭司になってくれたのだから、彼の家で行われている礼拝、祭儀は本物になった。だから神の祝福、恵みがこれまでに増して与えられるに違いない、と彼は思ったのです。自分の幸せのため、自分を災いや呪いから守ってもらうために礼拝をしている人は、礼拝をきちんと整えようとします。きちんとしていないと神々がご機嫌を損ねて、願いを叶えてくれないかもしれないからです。祭司も代用品より本物の方がよいに決まっています。こういう思いでなされている礼拝においては、神と自分との人格的な関係がどうなっており、自分が神を本当に信じ、信頼し、従おうとしているかどうかということよりも、きちんとした形式を整えることが大事になります。形を整えようとすることが偶像礼拝の特徴です。自分の求めているものを与えてもらうための神なのですから、そこでは、自分の願いとは違う思いを持つかもしれない神との人格的な関係や交わりは必要ないというよりもない方がよいのです。

偶像を拝む者の悲劇  
 このようにしてミカは偶像とその祭司を得た、というのが17章の話ですが、次の18章は、彼がそれを失ったという話です。そのことと、ダン族がライシュを占領したことが結びついています。ダン族はまだ定住する土地を得ていなかったので、相応しい土地を捜し求めてあちこちを調べていました。その偵察隊がミカの家を訪れ、そこに神の像があり、レビ人である祭司がそれを祭っているのを見たのです。この宗教を自分たちのものにしよう、と彼らは思いました。そしてライシュへと攻め上る途中で、ミカの家から神の像を奪い、あのレビ人を自分たちのための祭司にしてしまったのです。18章19節に、彼らがあのレビ人に語ったことがこのように記されています。「口に手を当てて、一緒に来てください。わたしたちの父となり、祭司となってください。一個人の家の祭司であるより、イスラエルの家の一部族、氏族の祭司である方がよいのではありませんか」。我々と一緒に来ればあなたは、一つの家に仕える祭司から、一部族全体の祭司へと出世することができる、と持ちかけたのです。この誘いに彼は乗り、ミカを裏切って、自分に預けられていた偶像もろともダン族に加わってしまったのです。ミカは自分の偶像と祭司を何とか取り戻そうとしましたが、多勢に無勢で結局泣き寝入りするしかなかった、こうして、ミカが造り、所有していた偶像はダン族のものとなった、ということが18章に語られているのです。この18章も偶像の本質を描いています。人間が自分のために造った偶像は、人間の他の所有物と同じく、奪ったり奪われたりするのです。そこでものを言うのは結局人間の力関係です。その力関係の中で、偶像に仕える人間は結局偶像に仕える人間によって裏切られる、ということもここに描かれています。ミカはあの偶像のために大金を払ったし、さらに神殿を建て、あの祭司を雇うために随分多くのお金をつぎ込んだことでしょう。しかしあの祭司は、ダン族の人々からより良い条件を示されるとミカを裏切り、さっさとそちらに鞍替えしてしまいます。でもそれは当然のことです。元々ミカが自分の幸せを求めて造った偶像に仕えていた祭司が、今度は自分の幸せを求めてより良い条件に飛びつくのは自然なことです。彼らは二人共結局のところ同じことをしているのです。

偶像礼拝との信仰の戦い  
 士師記17、18章はこのように、偶像を造る人間の姿とその末路を皮肉を込めて描いています。そしてそれは、「それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」ために起ったことだったのです。だからイスラエルに王が必要だったのだ、と士師記は語っています。主なる神によって立てられた王が継続的に民を治め、指導することによって、イスラエルの人々から偶像礼拝が取り除かれ、主なる神をこそ礼拝し、主への信頼と服従に生きるまことの神の民となっていく、そのためにイスラエルに王が立てられたのです。しかしそれは、王がいれば自然にそうなるというものではありません。この後立てられていった王たちの中のある者たちは、ここで期待されているように、イスラエルから偶像礼拝を根絶し、主なる神のみを礼拝する民となるために力を尽くしました。しかし逆に、率先して偶像を拝み、偶像礼拝をイスラエルに導入した王もいたのです。偶像礼拝との信仰の戦いは、王国になっても終わることはありませんでした。その戦いは今も続いています。私たちも、その信仰の戦いの中に置かれているのです。それは、私たちの周囲には神社やお寺があってそこで偶像が拝まれているから、それらと戦わなければならない、ということであるよりも、むしろ私たち自身の心の中に、偶像を造り出そうとする心があるからです。私たちは、自分たちの中にある、偶像を造り出そうとする思いと常に戦っていかなければならないのです。

貪欲  
 偶像を造り出そうとする思いとはどのような思いでしょうか。本日共に読まれた新約聖書の箇所、コロサイの信徒への手紙第3章5節に「貪欲は偶像礼拝にほかならない」とあります。貪欲こそ、私たちの心の中にあって、偶像を造り出し、偶像礼拝を生む思いなのです。士師記17、18章に書かれているのも、人間の貪欲が偶像を造り出し、偶像礼拝を蔓延させていったという話です。貪欲はなぜ偶像礼拝を生むのか。それは、私たちの貪欲は神を自分の願いや欲望を叶えるための道具としてしまうからです。言い替えれば、自分に幸福をもたらし、不幸や災いを防ぐお守りのように神を自分の手元に所有しておこうとする貪欲のゆえに私たちは偶像を造り拝もうとするのです。そのような神を求めているなら、たとえ目に見える像を造ったり拝んだりしていなくても、私たちは貪欲の虜になっており、偶像礼拝に陥っているのです。そこから抜け出すためには、ただ貪欲の思いを抑えつけようとしてもダメです。そこで大切なのは、生きておられるまことの神と人格的な関係をもって共に生きることです。神とのそういう人格的関係は、人間が造り出せるものではありません。人間が神との関係を造り出そうとする所に起るのは、あのミカの母のように、呪いを抑えて祝福を与えてくれる偶像を造るということです。神との人格的な関係は、人間が造り出すものではなくて、神が与えて下さるものなのです。神は独り子イエス・キリストによって私たちとの間にその関係を築いて下さいました。罪のために私たちが受けなければならない呪いを、主イエス・キリストが代って引き受けて下さり、十字架にかかって死んで下さったことによって、神は私たちとの関係を結んで下さったのです。この主イエスによる救いのゆえに、私たちはもはや自分の手で、呪いを抑えて祝福を与えてくれる神を造らなくてもよいのです。呪いを、つまり罪に対する罰を私たちに下すことのできる方である神が、それをご自分の独り子において代って背負って下さり、私たちには祝福を与えて下さったのです。そのことを知らされる時に、私たちと神との関係は本当に生きた人格的な良いものとなるのです。感謝と喜びをもって神に従い仕えていく関係がそこに生まれるのです。私たちの努力によっては決して築かれ得ないそのような良い関係を神ご自身が主イエスによって結んで下さったのです。そこには、自分の幸せのために神を利用しようとする貪欲からの解放があります。そして貪欲から解放された私たちは、もはや偶像を造り出す必要がなくなります。神が自分のために成し遂げて下さった大いなる恵みを知っており、その中で生かされている者は、もはや自分のための神を造り出す必要などないのです。

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