2025年1月19日
説教題「闇が力を振るっている」 副牧師 川嶋章弘
ゼファニヤ書 第1章12~18節
ルカによる福音書 第22章47~53節
イエスがまだ話しておられると
前回、ルカによる福音書22章39~46節を読み、本日は47~53節を読みます。前回の箇所と本日の箇所が途切れなく続いていることは、本日の箇所の冒頭で「イエスがまだ話しておられると」と言われていることから分かります。前回の箇所では、いわゆる「最後の晩餐」の後に、主イエスが「いつものように」オリーブ山に行き、「いつもの場所」で父なる神様に祈られたことが語られていました。「いつものように」と言われているのは、21章37節に「イエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」とあるように、主イエスが夜はオリーブ山で過ごすのを習慣としていたからです。そこにはもちろん弟子たちもいました。彼らも夜はいつも主イエスと一緒にオリーブ山で過ごしたのです。オリーブ山のいつもの場所で(ほかの福音書ではゲツセマネと呼ばれている場所で)、主イエスはこのように祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。「この杯」とは、十字架の苦しみと死のことです。主イエスはこれからご自分が逮捕され、裁判にかけられ、十字架で処刑されることをご存知でした。その直前に、主イエスはこの十字架の苦しみと死を取り除いてほしい、と父なる神様に祈られたのです。しかし主イエスは自分の願いを訴えただけで祈りを終えたのではありません。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。主イエスはこのように祈って、自分の願いとは違う神様の願いを受け入れるために、自分の願いを神様の御心に合わせていくために格闘されたのです。この祈りの格闘を終えて、主イエスが弟子たちのところに戻ると、弟子たちは眠り込んでいました。そこで主イエスは弟子たちに「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われました。それは、徹夜して祈れ、ということではありません。誘惑や試練の中でも神様に祈り続け、神様との交わりに生き続けなさい、ということです。そのように主イエスが弟子たちに話しておられるまさにその時、そこに群衆が現れ、その先頭にはユダが立ち、主イエスに近づいて来たのです。このように前回の箇所と本日の箇所は途切れることなく続いています。ですから私たちは前回の箇所と切り離すことなく、本日の箇所を読み進める必要があるのです。
いつもの場所で引き渡す
改めて本日の箇所の冒頭47節を見ると、このようにあります。「イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた」。ユダは、主イエスやほかの弟子たちと共に最後の晩餐の席にいました。22章21節で、主イエスがその席で「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている」と言われているからです。主イエスを裏切る者であるユダが、主イエスと一緒に最後の晩餐の食卓に手を置いていたのです。最後の晩餐が終わると、ユダは主イエスと一緒にオリーブ山に行きませんでした。しかしユダは、主イエスがいつもの場所に行くことを知っていました。だからいつもの場所で主イエスをユダヤ教の宗教指導者たちに引き渡すことにしたのです。22章4節では、「ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた」と言われていました。最後の晩餐が終わると、ユダは主イエスのもとから離れ、かねてから相談していたように、祭司長や神殿守衛長たちのもとを訪ね、主イエスを引き渡す絶好の機会が到来したことを伝えたのです。
接吻で裏切る
それにしても「十二人の一人でユダという者」という言い方は、遠回しな言い方で、よそよそしい感じがします。普通に「ユダ」とだけ記せば良かったように思います。この福音書を記したルカが、主イエスを裏切ろうとしているユダと距離を取っているようにも思えます。しかしここでわざわざユダを「十二人の一人」として紹介したのは、主イエスがユダを選んで、十二人の弟子の一人としてくださったことに改めて目を向けるためではないでしょうか。「十二人の一人のユダと言われる」今が、ユダにあるのは、主イエスが彼を選び、今に至るまで愛してくださり、彼のために時間を割き、心を配ってくださったからにほかなりません。それなのにユダは群衆の先頭に立って、主イエスに「接吻をしようと近づ」いたのです。すると主イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われました。「接吻」とはキスのことです。私たちの社会では多くの場合、キスは恋人同士の間ですることですが、ユダヤの社会ではそれだけに限られるわけではありません。友人同士ですることがあり、目下の者が目上の者にすることもあります。その場合キスは、相手への愛情や友情、尊敬を表す行為です。ここでユダが主イエスにキスをしたことは、普段と違う特別な行為のように思えるかもしれませんが、そうではありません。ユダはこれまでも繰り返し愛情と尊敬を込めて主イエスにキスをしてきたはずです。このとき普段と違っていたのはキスをしたことではなく、これまでと同じようにキスをしながら、そのキスに主イエスへの愛情と尊敬がまったく込められていなかったことです。主イエスはユダに「あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われました。「裏切る」というのは、「引き渡す」という意味の言葉ですから、「あなたは愛情と尊敬を表すキスで、人の子を裏切り、宗教指導者たちに引き渡そうとするのか」と言われたことになります。主イエスに対する愛情と尊敬を表しているように見せかけて、主イエスを裏切り、引き渡そうとするユダの醜い姿を指摘しておられるのです。主イエスが選び、愛してくださったから、「十二人の一人のユダと言われる」今があるにもかかわらず、ユダは主イエスから受けた愛を捨てて、主イエスが自分のために割いてくださった時間を台無しにして、主イエスを裏切りました。このユダの裏切りは、主イエスから受けた大きな恩を仇で返す、まことに恩知らずな振る舞いであったのです。
私たちこそ恩知らずな者
このユダの裏切りの理由については、実に多くのことが言われてきました。多くの人が、主イエスによって十二弟子の一人として選ばれたユダが、なぜ裏切ったのだろうか、そこには特別な理由があるのではないだろうか、と関心を抱いてきました。私たちもそのような関心を抱くかもしれません。しかしルカ福音書はユダの裏切りについて22章3節でこのように語っていました。「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」。サタンとは神様に敵対する力であり、神様から人間を引き離そうとする力です。ルカ福音書は、神様に敵対する力によって、神様から引き離そうとする力によって、ユダが主イエスを裏切ったと語っているのです。私たちが受けとめるべきなのは、このことです。何故なら、サタンの働きによってユダが裏切ったのであれば、それはユダだけに起こることではなく、私たちにも起こることだからです。そもそもルカ福音書は、ユダだけがサタンの働きを受けたとは語っていません。22章31節で主イエスはペトロに「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と言われています。サタンの働きはユダだけでなく、ペトロにも、そしてほかの弟子たちにも及ぶのです。だからこそ前回の箇所で主イエスは弟子たちに「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われました。サタンの働きによって神様から引き離されてしまわないよう祈り続けなさい、と言われたのです。そしてこのサタンの働きは私たちにも及んでいます。ユダはなぜ裏切ったのか、そこには特別な理由があるのではないかと考えている内は、私たちにとってユダの裏切りは所詮他人事でしかありません。しかしユダが受けたサタンの働きを私たちも受けていることに目を向けるとき、あのユダの醜い姿は私たちの姿であることに気づかされるのです。主イエスは私たちをも選び、愛してくださっています。主イエスの愛によって私たちの今があります。救われた者として生かされている今が、キリスト者として生かされている今があります。それにもかかわらず私たちも主イエスから受けた愛を忘れて、主イエスが私たちのために命を割いてくださったことを忘れて、主イエスを裏切ってしまいます。神様から離れ、神様との交わりに生きることをやめてしまいます。主イエスを信じ、愛しているように見せかけて、主イエスを裏切ってしまうのは、ほかならぬ私たちです。私たちこそ主イエスから受けた大きな恩を仇で返す、まことに恩知らずな者なのです。ユダが接吻で主イエスを裏切る姿は私たち一人ひとりの姿なのです。
不安に駆られて
49節から50節では、主イエスの「周りにいた人々」の姿が語られています。主イエスの「周りにいた人々」とは、オリーブ山のいつもの場所に主イエスと一緒にいた弟子たちのことでしょう。49節にあるように、弟子たちは「事の成り行きを見て取り、『主よ、剣で切りつけましょうか』」、と言いました。そして弟子たちの内の「ある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とし」ます。弟子たちは「主よ、剣で切りつけましょうか」と尋ねていますが、主イエスの答えを待たずに、弟子の一人が大祭司の手下の右の耳を切り落としたのです。この弟子は主イエスの答えを待つことができないほど衝動的に、一時の感情に駆られて剣を振り回して人を傷つけました。このように衝動的に剣を振り回したのは、弟子たちが不安に支配されていたからです。主イエスが逮捕されようとしている、そして自分たちも逮捕されるかもしれないという試練がもたらす不安に支配されていたのです。その不安の中で、弟子たちは剣を取ろうとしました。それは、試練の中で自分の持っている物に頼ろうとした、ということです。不安に駆られて自分の持っている剣に頼り、それを振り回して人を傷つけたのです。52節にあるように、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って」主イエスを捕らえに来た人たちに対して、一人が剣を振るったからといって抵抗できるはずがありません。剣で主イエスの逮捕を防げるわけではないのです。つまりこの行動は、まったく理性的でない衝動的な行動と言わなくてはなりません。不安に駆られて衝動的に剣を振り回しても、ただ人を傷つけるだけなのです。
私たちはこの弟子の理性的でない衝動的な行動を愚かだと思って済ませるわけにはいきません。この弟子の姿は、不安に駆られて自分の持っている物に頼り、それで人を傷つけてしまう私たちの姿にほかならないからです。2025年を迎えて、世界はますます不安に支配されているように思えます。政治の責任を負っている人や社会的に立場のある人から、攻撃的な発言が相次いでいます。自分の持っている力で脅すような発言すらあります。地位や立場のある人だけではありません。SNSでは多くの人がほかの人を攻撃し、批判する発信をしています。そのような攻撃的な発言や発信の背後には、大きな不安があるに違いありません。自分の国が、自分の会社が、あるいは自分の将来がどうなるか分からないという大きな不安が、人間をこれほどまでに攻撃的に、批判的にするのです。本日の箇所の最後で主イエスは「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」と言われています。今、まさにこの世界は、不安という闇が力を振るっています。不安に駆られた人たちが自分の持っている剣を振り回し、傷つけ合っているのが、今の私たちの世界です。そして私たち一人ひとりも世界を覆っている不安にのみ込まれて、剣を振り回し、隣人を攻撃し、批判し、傷つけてしまいかねないです。
やめなさい、それまで
弟子の一人が不安に駆られて剣を振り回し、大祭司の手下の右耳を切り落とすと、主イエスは「やめなさい。もうそれでよい」と言われました。主イエスはご自分を逮捕するためにやって来た人たちに対して、剣を振るって、力によって抵抗することを拒まれました。抵抗することなく人々に捕らえられることを望まれたのです。それが神様の御心、神様のご計画であったからです。しかし「やめなさい。もうそれでよい」という主イエスのお言葉は、それだけを示しているのではありません。「もうそれでよい」というのは、「それまで」という表現です。主イエスは不安に駆られて、自分の剣を振り回し、隣人を傷つけてしまう弟子たちと私たちに対して、「やめなさい、それまで」と言われているのです。それは、私たちへのお叱りの言葉であるだけでなく、私たちを守る言葉でもあります。主イエスの言葉によって、あの弟子は、剣を振り回すことをやめました。あれ以上、人を傷つけることはなかったのです。世界を覆っている不安に飲み込まれて、剣を振り回し、隣人を傷つけそうになる私たちは、「やめなさい、それまで」という主イエスの言葉にこそ耳を傾けなくてはなりません。この主イエスの言葉によって私たちは、不安に駆られてますます剣に頼り、隣人を傷つけてしまうことから守られるのです。この世界が、これ以上、剣を振り回して傷つけ合わないために、攻撃や批判がエスカレートしないために、私たちは「やめなさい、それまで」という主イエスの言葉を聞き続ける必要があるのです。
主イエスの癒し
主イエスは「やめなさい、それまで」と言われただけではありません。弟子の一人が切り落とした大祭司の手下の耳に触れて癒してくださいました。主イエスは隣人を傷つけてしまう私たちが、それ以上隣人を傷つけることのないよう守ってくださるだけでなく、私たちが傷つけてしまった隣人を癒してもくださるのです。この世界では不安に駆られた人たちが、いえほかならぬ私たちが、自分の剣を振り回して隣人を傷つけています。その傷を本当に癒すことができるのは主イエス・キリストだけです。私たちが互いに傷つけ合ったその傷を癒すために、主イエスはこの後、十字架に架けられて死なれます。サタンの働きによって神様から離れてしまう私たち罪人のために、自分の剣を振り回して隣人を傷つけてしまう私たち罪人のために、主イエス・キリストは十字架に架かって死んでくださり、私たちの罪を赦してくださるのです。この主イエスの十字架による赦しのもとでこそ、壊れてしまった私たちと隣人との関係の回復が与えられていきます。私たちが隣人に負わせた傷の癒しが、また隣人が私たちに負わせた傷の癒しが与えられていくのです。主イエスが私たちの罪を赦すために十字架で死んでくださったことに目を向けることによって、私たちは互いの罪を赦していくよう導かれるからです。互いに傷つけ合ったその傷が癒されるのは、互いに赦し合うことができるのは、私たちが主イエスの十字架を見つめることによってなのです。
自分の地位や権力を守るために
52、53節で、主イエスを逮捕するために押し寄せて来た祭司長や神殿守衛長や長老たちに向かって、主イエスはこのように言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった」。ここでもユダヤ教の宗教指導者たちが剣や棒に頼っている姿が、暴力に訴えている姿が描かれています。その暴力を生み出したのは、彼らの勇敢さではありません。むしろ彼らの恐れと不安です。彼らは主イエスが毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、主イエスを捕らえようとしませんでした。剣や棒に頼らずとも、神殿の境内で主イエスを捕らえることはできたはずです。しかし彼らは民衆の目を恐れました。民衆は主イエスに期待していましたから、主イエスを捕らえることで、民衆の支持を失うことを恐れたのです。民衆の支持を失えば、自分たちの地位や権力が脅かされるかもしれない、と考えたからです。そもそも彼らが主イエスを捕らえようとしたのも、自分たちの地位や権力を守るためであったと言うべきでしょう。「まるで強盗にでも向かうように」と言われていましたが、この「強盗」という言葉は、お金や物を盗む人を意味するだけでなく、「革命家」をも意味します。当時のローマ帝国の支配者たちやユダヤ人の宗教指導者たちにとっては、自分たちの支配を転覆させて、自分たちの地位や権力を脅かす者を意味したのです。主イエスを「強盗のように」「革命家のように」見なしているところに、彼らが主イエスを自分たちの地位や権力を脅かす者と考えていたことが示されているのです。神殿の境内ではなく、夜のオリーブ山で主イエスを捕らえようとした彼らの行動を一貫して支配していたのは、この自分たちの地位や権力が失われることに対する恐れと不安です。そして恐れと不安に駆られているから、彼らは必要のない暴力に、過剰な暴力に訴え、剣や棒を持ってやって来たのです。今、この世界を覆っている不安も、自分の、あるいは自分の国の地位や権力が脅かされることに対する不安ではないでしょうか。自分の国の地位や権力が脅かされることを恐れて、必要のない過剰な暴力に訴えて、戦争を行い、多くの命を奪い、多くの人たちを傷つけています。国だけではなく、私たち一人ひとりも自分の持っているものを守るために、自分だけの安全を守るために、自分の剣をむやみやたらと振り回して、互いに傷つけ合っているのです。主イエスを逮捕するために押し寄せて来た宗教指導者たちの姿もまた、私たちの姿なのです。
主イエスだけが御心に従って
このように本日の箇所には、主イエスを裏切るユダと、不安に駆られて剣を振り回して人を傷つける弟子と、自分の地位や権力を守るために必要のない過剰な力に訴える宗教指導者たちの姿が描かれています。主イエスは53節で、「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」と言われています。聖書協会共同訳では、「しかし、今はあなたがたの時であり、闇が支配しているのである」と訳されています。まさにこの闇の支配に、ユダも弟子たちも宗教指導者たちものみ込まれています。闇の支配とは、要するにサタンの支配です。ユダもほかの弟子たちも宗教指導者たちも、サタンに、神様に敵対する力に、神様から引き離そうとする力に支配されているのです。しかし闇の力が猛威を振るう中で、サタンの支配が圧倒している中で、ただ主イエスお一人が、闇の力に翻弄されることも、サタンの支配に捕らえられることもなく歩まれています。何故でしょうか。それは、主イエスが「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りに生きていたからです。主イエスだけが神様の御心を求めて、その御心に従って歩まれました。誰も彼もが、闇の力に、サタンの支配にのみ込まれている中で、ただ主イエスだけは神様の御心に従って歩まれたのです。そしてその主イエスが、この歩みの先で、十字架で死なれることによって、闇の支配に対する、サタンの支配に対する決定的な勝利が実現します。そのために今、主イエスは神様の御心に従って引き渡されようとしているのです。
闇が力を振るっている世界にあっても
今、この世界でも闇の力が猛威を振るっているように思えます。闇の力にのみ込まれ、不安に駆られた人たちが、自分の剣を振り回して傷つけ合っているのです。しかし忘れてはいけません。主イエスの十字架の死によって、すでに闇の支配に対する決定的な勝利が実現しています。どれほど闇が力を振るっているように思えても、その闇の力に対する神様の勝利は揺らぐことがないのです。闇の力にのみ込まれて主イエスを裏切ってしまう私たちを、不安に駆られて剣を振り回して人を傷つけてしまう私たちを、自分の地位や権力を守るために過剰な力に訴えてしまう私たちを救うために、主イエスは十字架で死んでくださいました。この主イエスの十字架の赦しのもとに留まる私たちは、闇の支配のもとにいるのではなく神様の恵みの支配のもとにいるのです。私たちが闇の力にのみ込まれそうになるとき、主イエスは私たちを必ず守ってくださいます。そのことに信頼して、闇が力を振るっている世界にあっても、私たちは不安に駆られて互いを傷つけ合うのではなく、互いに赦し合って生きていくのです。