主日礼拝

まことの安らぎを求めて

2025年1月19日   
説教題「まことの安らぎを求めて」 牧師 藤掛順一

詩編 第8編1~10節
マタイによる福音書 第11章25~30節

前後との繋がりの中で
 本日は、マタイによる福音書第11章の最後のところからみ言葉に聞きます。ここには、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエス・キリストのみ言葉が語られています。様々な重荷を負って疲れている私たちに、主イエスが、まことの安らぎを与え、力づけ、元気づけて下さる、そういう恵みに満ちたみ言葉です。28節にそれが語られているわけですが、私たちはこの28節だけを独立させて読みがちです。しかしこのみ言葉には前後があります。本日はその前後をも見つめていきたいと思います。
 先ず25〜27節です。25節の冒頭に、「そのとき」とあります。何気なく読み過ごしてしまいがちな言葉ですが、原文においては、この言葉に四つの単語が使われています。20節の始めには「それから」と訳されている言葉がありますが、これは一つの単語です。それに比べて25節は、わざわざ四つの単語を費やして「そのとき」と語ることによって、24節までに語られたことと25節とを結びつけているのです。そしてそれと同じ四つの単語は12章の1節にもあります。こちらは「そのころ」と訳されています。「そのとき」と「そのころ」では日本語ではニュアンスが違いますが、原文では同じ言葉です。このことが示しているのは、本日の25~30節は、かなり意識的に、前後の部分と結びつけられているということです。つまりこの25~30節は、前後との繋がりの中で読まれるべきなのです。

答えて言われた
 25節には、前のところとの結びつき示すもう一つの言葉があります。ここの原文には、翻訳に現れていないもう一つの言葉があるのです。それを含めて訳せは、「そのとき、イエスは答えて言われた」となります。「答えて」という言葉が原文にはあるのです。しかしその前のところに、誰かが主イエスに何かを問いかけたことは語られていません。だから「答えて」と訳すと話がつながらなくなるので省略されたのでしょう。しかしこの言葉も、24節までと25節以下が繋がっていることを示しています。問いに対する答えではないけれども、24節までの所に語られていたことへの応答として、主イエスは25節以下のみ言葉を語られたのだということが意識されているのです。それでは24節までの所には何が語られていたのでしょうか。
 前回読んだ20節以下には、主イエスのみ言葉が語られ、数々の奇跡のみ業が行われたのに悔い改めなかったガリラヤの町々を主イエスがお叱りになったことが語られていました。さらにその前のところには、主イエスの前にその道備えをするために現れた洗礼者ヨハネのことをも、人々が受け入れなかったことが語られていました。このように、神が人々を救うためにお遣わしになった救い主イエスをも、またその主イエスの先駆けとなったヨハネをも、人々が受け入れず、その語ることを聞こうとしない、という現実が見つめられてきたのです。そのことへの応答として、25節以下のみ言葉は語られている、と言えるでしょう。また、次の12章にも、同じようなことが語られていきます。そこには今度はユダヤ人の宗教的指導者だったファリサイ派の人々が、主イエスを批判したことが語られていくのです。そして12章14節には、早くも彼らが主イエスを殺そうと相談したことが語られています。主イエスのみ言葉とみ業を、人々は受け入れず、悔い改めようとせず、それどころかむしろ主イエスを批判、攻撃し、殺そうとする動きが起こってくる、そういうことがこのあたりには語られているのです。その中で本日の25~30節が語られています。安らぎへの招きを語っているこの部分は、前後の暗い、敵対的な話の中で、唯一明るい、ほっとするようなみ言葉です。しかしその明るいみ言葉は、「そのとき、そのころ」という言葉によって、前後の暗い、敵対的な現実としっかり結びつけられているのです。

主イエスの賛美の理由
 ご自身のみ言葉やみ業が受け入れられず、敵対が深まっていく、その現実への応答として主イエスは、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と語られました。暗い、敵対的な現実の中で主イエスは、天の父なる神をほめたたえ、賛美したのです。それは、主イエスはどんな逆境にあっても神を賛美することを忘れなかった、私たちもそうしよう、という教訓話ではありません。主イエスには、父なる神を賛美する理由がちゃんとあったのです。それが、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」ということです。「これらのこと」というのは、主イエスがお語りになり、み業をもって示された神の国の福音です。神の恵みのご支配が今や到来しようとしている、だから悔い改めて神の方に向き直り、その恵みを受ける備えをせよ、というメッセージです。それが知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示された、そういう父なる神のみ業が今行われている、そのことを主イエスは賛美しておられるのです。多くの人々が悔い改めようとせず、敵対しているという現実を、主イエスはこのように見ておられます。つまりそこには、天地の主である父なる神ご自身が、神の国の福音を、ある者たちには隠して、分からなくしておられ、ある者たちにはそれを示し、分からせて下さっている、というみ業が行われているのです。

知恵ある賢い者と幼子のような者
 神の国の福音が隠され、分からなくされているのは、「知恵ある者や賢い者」です。主イエスのみ言葉を受け入れずに敵対しているのは、決して愚かな人々ではなくて、むしろこの世において知恵のある、賢い人々なのです。逆に神の国の福音を示され、信じて悔い改めた人は「幼子のような者」と言われています。それは、「幼子のように素直で純粋な者」という意味ではありません。「幼子のような者」は「知恵ある者や賢い者」と対比されているのですから、それは「素直で純粋な者」という褒め言葉ではなくて、「知恵がなく賢くない、弱く愚かな者」という意味です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所である詩編第8編の2節から3節にかけてのところに、「天に輝くあなたの威光をたたえます、幼子、乳飲み子の口によって」とありますが、その「幼子、乳飲み子」もそれと同じ意味です。「幼子、乳飲み子の口」とは、幼子の片言ということです。賢い大人の言葉ではなくて、子どもの片言の方が、天に輝くあなたの威光をたたえている、と言っているのです。このことを間違って受け止めてはなりません。これは、「だから頭のいい連中はだめなんだ。わたしらのような単純な人間の方が神さまの恵みを素直に受け入れてほめたたえることができるんだ」ということではありません。それは、「神なんか信じるのは弱い愚かな人のすることで、理性的にものを考える人はそんなことはしない」というのと結局同じことを言っていることになります。ここに語られているのは、知恵ある者や賢い者と、幼子のように弱く愚かな者と、どちらがより神を信じられるか、という話ではありません。そういうことではなくて、神が隠されるなら、どんなに知恵ある賢い者も神を信じほめたたえることはできないし、神がお示しになるなら、どんなに幼い、弱く愚かな者でも信じて、ほめたたえることができる、ということです。つまり、私たちが神の国の福音を信じることができるかどうかは、私たちの側の力や資質や性格によるのではなくて、神がそれを示して下さるかどうかにかかっているのです。

父から全権を委任されている主イエス
 それでは、神はどのようにして「これらのこと」を、つまり神の国の福音を示して下さるのでしょうか。そのことが26節以下、特に27節に語られています。「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。「すべてのことは、父からわたしに任せられています」と主イエスは言っておられます。主イエスは、父なる神から、全権を委任されてこの世に来られたのです。それは、主イエスと父なる神の間には、子と父という関係があるからです。その関係は、「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」という関係です。主イエスが神の子であられることは、父であり、主イエスをこの世に遣わされた父なる神のみがご存じなのであり、また神の子である主イエスは、ご自分の父であられる天地の主なる神をはっきりと知っておられ、父なる神のみ心をわきまえて、それを実現しようとしておられるのです。そのように父と一体であり、父からすべてのことを任せられている子である主イエスが、その委任された全権によって、父なる神を示して下さったのです。つまり、父なる神が「これらのこと」を示して下さって、私たちが神を信じ、ほめたたえることができるようになるのは、神の子である主イエス・キリストによってなのです。

抽象的な神と具体的な主イエス
 そしてこのことによってこそ、神の国の福音は、知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示された、ということが起っているのです。主イエス・キリストのお姿は、他の人と特に変わっていたわけではありません。誰が見ても「この人は神の子であり救い主だ」と分かるような姿ではなかったのです。だから、そのみ言葉やみ業を受け入れずに敵対する人々もいた、いや、そういう人たちの方が多かったのです。知恵ある者や賢い者は、この人が神の子、救い主だなどとは思わなかったのです。それと同じことは今日の私たちにも少し違う仕方で起っています。私たちは、イエス・キリストがすばらしい教えを語り、力あるみ業を行った方であることを聖書を通して知らされていますから、一人の偉大な宗教家としてイエスを受け入れ、尊敬することはできます。しかし、すばらしい人物、偉人ではあったとしても、二千年前に生きた一人のユダヤ人の男を、神の子、救い主と信じることには躊躇を覚えます。そしてしばしばこう思うのです。「イエス・キリストの教えはすばらしい、キリストのなさった愛の業もすばらしい、しかしイエス・キリストという具体的な一人の人にこだわらなくてもよいのではないか、立派な教えを説いた人は他にもいるだろう。釈迦の教えにも聞くべきことがあるし、ムハンマドの教えにだってそれはあるだろう。だからキリストも釈迦もムハンマドも、神の真理を証ししていたのであって、その中の一人を神として信じるのではなくて、彼らが証しした真理を受け止めて、それを信じて生きるべきなのではないだろうか」。これがまさに、知恵ある者、賢い者の考えです。知恵ある者、賢い者はこのように、神さまを抽象化していこうとします。二千年前とか、ユダヤ人とか、イエスという名とか、そういう具体性をどんどん剥ぎ取って、人類愛とか、自己犠牲の愛とか、そういう理念を神として信じようとするのです。そういう考え方においては、イエス・キリストという具体的存在を神の子、救い主と信じることは、まさに幼子のような、無邪気だが幼稚なこと、愚かなことに見えるのです。しかしそのように主イエス・キリストという具体的な神の子、救い主を抜きにして神や救いを受け止めようとする知恵ある者、賢い者たちは、「天地の主である父」を知り、ほめたたえることはできません。父なる神を知り、ほめたたえることができるのは、この世を具体的な一人の人として生きた子なる神である主イエスを信じて、主イエスによって父なる神を示される者のみなのです。

柔和で謙遜な者
 28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というみ言葉はこのことを受けて語られています。今見てきた27節までを前提として読むことによって、「わたしのもとに来なさい」という招きの意味がはっきりするのです。「わたし」とは、神の子であり、父なる神からすべてのことを任せられてこの世を一人の人間として生きた具体的な存在である主イエスです。この方を通してこそ私たちは父なる神を知ることができるのです。この方が示して下さらなければ、誰も父を知ることはできないのです。その主イエスのもとに行くことによってこそ、様々な重荷に疲れ果てている私たちに、まことの休み、安らぎが与えられるのです。この主イエスのもとに行かなければ、つまり主イエスという具体的な神の子によってでなければ、まことの安らぎを得ることはできないのです。何故なら、私たち人間が自分の知恵や賢さによって考える抽象化された理念としての神は、私たちに、例えば隣人愛、自己犠牲の愛などという課題を重荷として与えることはあっても、私たちが現に負っている様々な重荷を取り除いたり、そこに安らぎを与え、新しい力を与えたりはしてくれないからです。それに対して、主イエス・キリストという具体的な方のもとに来るとき、私たちは安らぎを与えられるのです。それは、主イエス・キリストが、この地上を、人間となった神の子として具体的に歩み、そして私たちのために、私たちの罪を背負って十字架にかかり、具体的な苦しみを受け、死んで下さったからです。父と一体であり、父からすべてのことを任されている方が、私たちの人生にそこまで関わって下さり、苦しみと死を具体的に引き受けて下さったのです。この主イエス・キリストのもとに来ることによって私たちは、自分の重荷を共に負って下さる方と出会い、安らぎを与えられるのです。わたしは柔和で謙遜な者だと主イエスは言っておられます。その柔和と謙遜によって、主イエスは十字架の死への道を歩まれたのです。だからこれは、「いつも柔和さを忘れず、謙遜に生きましょう」という教えではありません。私たちにまことの安らぎを与えてくれるのは、柔和に謙遜に生きようという教えではなくて、柔和と謙遜によって私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストという具体的な方です。この主イエス・キリストのもとに来て、主イエスと共に歩むことなしには、重荷を負って疲れている私たちのまことの安らぎはないのです。

主イエスの軛を負う
 主イエスは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる」と言われました。私自身も、軛と言われても具体的なイメージを持つことができないのですが、それは、家畜の動きを制御して農作業などに使用するためのものです。だから軛を負うというのは、不自由なことです。束縛を受け、自分の思い通りに行きたい方に行くことはできなくなるのです。主イエス・キリストという具体的な方を神の子、救い主と信じて生きることにはそういう不自由さ、ある束縛があります。それに対して、具体性を剥ぎ取った抽象的な理念や教えを信じるなら、その時私たちは自由です。何の軛も負う必要がありません。私たちの頭の中の理念である神は自分の思いによってどんなふうにでもなるし、都合の悪い時はひっこんでいてもらうこともできるのです。それはまことに自由で結構なことです。しかしその時私たちは、主イエスの軛を負わなくてすむ代わりに、自分の人生の重荷の全てを自分一人で負わなければならなくなるのです。理念である神は、私たちの重荷を負ってはくれません。そしてこの世を生きる私たちの歩みには、様々な重荷もあれば、私たちをがんじがらめに縛りつける軛が他にいくらでもあります。主イエスという具体的な神の子から自由になることによって、私たちはそれらのこの世の力に縛られる奴隷となっていくのです。

まことの安らぎを求めて
 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と主イエスは言われました。それは主イエス・キリストの弟子となること、信仰者となることへの招きです。この招きに応えて私たちは、主イエスのもとに行って、その軛を負うのです。それは、柔和で謙遜な者になろうと努力することでもなければ、幼子のようになろうと努力することでもありません。先ほど申しましたように、幼子のような、というのは、幼子のように素直で純粋なということではありません。要するに信仰者となることにおいて、私たちの側で満たすべき条件など何もないのです。神の国の福音は、父なる神が示して下さることによってのみ分かるものです。27節の言い方を用いれば、子であられる主イエスが父を示そうと思って下さった時に初めて分かるものです。つまり私たちの信仰そのものも、実は神の賜物、神が与えて下さるものなのです。それゆえに、今この礼拝に、信仰をもって集っている私たちは、主イエス・キリストが、私たちに父なる神を示そうと決意して下さり、信仰へと導いて下さったことを感謝することができます。また今、主イエスによるまことの安らぎを求めてこの礼拝に集っておられる方々も、主イエス・キリストが、自分に父なる神を示そうと既に決意しておられることを確信してよいのです。そうでなければ、皆さんがこうして教会の礼拝に集うことなど起っていないはずです。要するに今ここにいる私たちは一人残らず、子が父を示そうと思った者であり、これらのことを示された幼子のような者たちなのです。そこには、主イエスを通しての神の選びがあります。私たちは、主イエスによって選ばれて、父を知る者とされているのです。私たちの側には、選ばれる理由など何もありません。ただ神が、主イエスが、多くの人々の中から恵みによって私たちを選び、招いて下さったのです。この神の選びと招きがあるから、私たちは、重荷を負って疲れた心と体をひきずって、主イエスのもとに行くことができるのです。そしてそこでまことの安らぎにあずかることができるのです。
 主イエスのもとで私たちは、主イエスの軛を負って生きる者となります。それはこの世の重荷や軛とは別の新たな重荷と軛を負わされることではありません。軛は、二頭の家畜を連ねて負わせるものだと言われます。主イエスの軛を負う時、つまり洗礼を受けて信仰者となる時、私たちの傍には主イエスがおられて、私たちと共にその軛を負って下さるのです。私たちが背負っている重荷を、主イエスが共に背負って下さるのです。それによって私たちには安らぎが与えられます。まことの安らぎは、神が何の資格もない自分を恵みによって選んで下さり、独り子主イエスのもとへと招いて下さっていることを示され、その招きに応えて主イエスのもとに行ってその軛を負い、主イエスと共に生きる者となるところにこそあるのです。 

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