2025年1月26日
説教題「安息日の主」 牧師 藤掛順一
ホセア書 第6章4~6節
マタイによる福音書 第12章1~8節
主イエスへの敵意が深まっていく
本日からマタイによる福音書の第12章に入ります。この12章に語られているのは、おおざっぱに言って、イスラエルの民の信仰的指導者であったファリサイ派の人々が、主イエスへの敵意、敵対を深めていって、なんとかしてイエスを殺してしまおうという相談を始めた、ということです。主イエスが、神の恵みのご支配の到来を告げる福音を語り、そのしるしとしての癒しの業、奇跡を行っていくにつれて、イスラエルの人々の間に、特にその指導者たちの中に、主イエスに対する敵意が深まっていったのです。そのことは既に11章において語られ始めていました。主イエスが福音を宣べ伝え、数多くの奇跡を行われたのに、それを見たガリラヤの町々の人々が悔い改めようとせず、むしろ主イエスに対して、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言ったことが語られていたのです。そのような無理解と敵対が、宗教的指導者であるファリサイ派の人々においてとりわけ深まっていくことが12章に語られていくのです。
安息日の掟
そのような敵意が生まれた中心的な原因は、安息日をめぐる問題でした。本日のところには、主イエスの一行が安息日に麦畑の中を通った時に、弟子たちが、その穂を摘んで食べたことが語られています。ファリサイ派の人々はこれを見て、それは神の掟である律法に違反している、安息日にしてはならないことだ、と言って批判したのです。
ファリサイ派の人々は何を問題にしているのでしょうか。これは、他人の麦畑で勝手に穂を摘んで食べるのはいけない、ということではありません。それは律法で許されていました。律法は、空腹な人は、他人の畑になっているものを自由に食べてよいと語っています。ただしそれはその場で自分の空腹を満たすためだけに限られており、例えばそこに袋を持ってきてそれに詰め込んで持ち帰ったりしてはいけないと定められていたのです。この掟は、畑を持っている者は、持たない貧しい人が生きていけるように支えるべきだ、ということです。同じ考え方によって、麦畑で収穫をした後、そこに残された落穂は貧しい人のために残しておかなければならない、という掟もありました。旧約聖書の律法は、そのように、貧しい人々への配慮に満ちた教えだったのです。ですから、他人の畑の麦を食べたことが問題なのではありません。それでは何がいけないと言われているのかというと、麦の穂を摘んで、殻を取って実を食べることが、「収穫」あるいは「脱穀」という「仕事」にあたるからです。それは、安息日には、一切の仕事を休まなければならないという律法に反している、というのが、ファリサイ派の人々の主張なのです。
このことは私たちには理解しかねる、こっけいなことに感じられますが、イスラエルの人々にとっては深刻な、重大な問題でした。律法の中心である十戒の中に「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とあり、それに続いて、この日には一切仕事をしてはならないと語られています。神から与えられた掟を守ることによってこそ神の民であることができると考えたイスラエルの人々は、この掟を真剣に守ろうとしました。ユダヤ人の歴史においては、戦争のさ中に、敵が攻めてきたが安息日だったので戦わずに全滅したという出来事もありました。命よりも律法を守ることの方を大事にする、という信仰の伝統があるのです。そういう信仰はキリスト教にも受け継がれています。キリスト教においては、主イエス・キリストの復活の記念日である日曜日が安息日となりました。この主の日には、仕事は勿論、遊びや娯楽に類することはしない、という伝統がキリスト教の一部にはあります。「炎のランナー」という映画をご覧になった方も多いでしょう。100年前のパリ・オリンピックにおいて、100メートル走の選手に選ばれていながら、日曜日に行われる試合を辞退した人がそこに出て来ます。最近でも、と言ってももう二十数年前ですが、走り幅跳びの選手が、日曜日の試合を辞退したということが話題になりました。そういう信仰の伝統が一部では脈々と受け継がれているのです。イスラエルの人々は、安息日にしてよいことといけないこと、仕事に当ることとそうでないことを定めた細かい規則を作っていました。その規則において、麦の穂を摘んで殻を取ることは仕事に当るとされていたのです。
ダビデの故事
「あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」という批判に対して、主イエスは、旧約聖書の故事を引いて答えていかれました。第一に引かれたのは、「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか」ということです。これは、サムエル記上の第21章に語られている話です。後にイスラエルの最も偉大な王となったダビデですが、この時はまだ、サウル王に命をねらわれて逃げ回っていました。その逃亡の途中で、ノブという町の聖所の祭司アヒメレクのところに身を寄せ、そこで、祭壇に供えられていて、そこから下げられてきた供えのパンで空腹を満たしたのです。そのパンは本来、祭司たちしか食べることを許されていないものでした。また、その日は、丁度祭壇のパンを供え変える日だったとあります。それは安息日でした。つまりダビデと供の者は、安息日に、祭司たちしか食べてはいけないはずのパンを食べたのです。しかし聖書はそのことをダビデの罪としてはいないし、主なる神もそのことでダビデにお怒りになってはいません。むしろ主はそのようにしてダビデを苦境から救って下さったのです。この故事を示すことによって主イエスは、安息日にその掟を破って腹を満たすことは偉大な王ダビデもしている、とおっしゃったのです。けれども、このことだけでは、主イエスが本当に言おうとしておられることを理解することはできません。ファリサイ派の人々も、このダビデの故事はよく知っているのです。そして彼らはこのことを、「ダビデと供の者たちは空腹で命の危機のもとにあったのだから、そういう場合は特例として安息日の規定が適用されない」と説明していたのです。命の危機がある時には、安息日の掟も例外を認められる、という理解です。昔は先ほど申しましたように、殺されても安息日を守るということもありましたが、それではイスラエルの民全体が滅ぼされてしまうので、もっと合理的な考え方をするようになっていたのです。その論理で弟子たちの行為を弁明するとしたら、弟子たちは空腹で倒れそうだったのだので、その場合には安息日の掟の例外として認められるはずだ、ということになります。しかし主イエスがここで語ろうとしておられるのはそういうことではありません。そのことは次の5節から分かってきます。
安息日に神殿にいる祭司たち
5節には、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか」とあります。安息日に神殿にいる祭司は安息日の掟を破っている。安息日にも神殿では、動物の犠牲を捧げることを中心とする礼拝がなされていました。犠牲とする動物を引いていって、それを作法にのっとって屠殺し、血を抜き、解体してしかるべき部分を焼いて捧げるのです。それはかなりの重労働です。祭司たちは安息日に、そういう大変な労働、仕事をしていたのです。日曜日に牧師が大変忙しい思いをして仕事をし、くたくたになる、というのと似ています。安息日が安息日として守られるために、このように忙しく働いている人がいるのです。それを主イエスは指摘しておられるわけですが、しかしそのことと、弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べることとはどう結びつくのか、という疑問は残ります。その疑問は保留にしておいて、さらに次の6節へと読み進めていきたいと思います。「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」。これはどういうことなのでしょうか。
神殿より偉大なもの
この6節は、前の口語訳聖書では、「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる」となっていました。「宮よりも大いなる者」の「者」は、人間を示す「者」という字です。つまり、宮、神殿よりも偉大な人物がここにいる、というのが口語訳の理解です。それに対して新共同訳は、「神殿よりも偉大なものがここにある」と訳しています。それは人間を想定していない訳し方です。この違いは翻訳のもとになっている原文の違いからくるもので、少し文法的なことを申しますと、この「偉大なもの」という言葉は、写本によって、男性形で書かれているものと、中性形で書かれているものとがあるのです。男性形で訳せば、口語訳のように「偉大な者がいる」という人間を示す訳になるし、中性形で訳せば、新共同訳のように「偉大なものがある」となるのです。そして現在では、中性形で読む方が主流になっています。男性形で、「宮よりも大いなる者がここにいる」と訳せば、それは当然主イエス・キリストのことを言っていることになります。そうするとここには、神殿の犠牲のために安息日の掟が破られてよいなら、神殿よりも偉大な方である主イエスのもとでは、なおさらではないか、と語られていることになります。それは分かりやすいことですが、しかし中性形で、「神殿よりも偉大なものがここにある」と訳す場合にはどうなるのでしょうか。「神殿よりも偉大なもの」とは何なのでしょうか。
神殿より偉大なものとは「憐れみ」
そのことが、次の7節に語られているのです。「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」。主イエスはここで、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という旧約聖書の言葉を引用しておられます。それは、本日共に読まれたホセア書第6章6節の言葉です。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」。「いけにえ」とか「焼き尽くす献げ物」は、神殿において捧げられる犠牲です。神が本当に求めておられるのは、そういうものではなくて、愛、憐れみなのだということをこのみ言葉は語っています。それこそが、「神殿よりも偉大なもの」です。つまり「神殿よりも偉大なもの」とは、「憐れみ」なのです。そうするとここの意味はこうなります。神殿で犠牲がささげられるために安息日の掟が破られてよいならば、それよりも偉大なものである憐れみのためにはなおさらではないか、憐れみの心こそ、犠牲をささげることに優って神が求めておられることなのだ。主イエスはそのように言っておられるのです。
それは神の憐れみ
しかしそこで私たちは勘違いをしてはなりません。神殿で犠牲をささげることよりも、憐れみの心の方が大事だ、それは、犠牲をささげて神を礼拝することよりも、憐れみの心を持って人に親切にし、人のために奉仕することの方が大事だ、ということではありません。弟子たちはここで、安息日の掟を守っていないと批判されているわけですが、その代わりにもっと大事な、人々への憐れみの業、人々に仕える働きをしていたのかというと、そうではありません。彼らがしたのは、空腹だったので麦の穂を摘んで食べたということです。それは人のための憐れみの業なんかではない、むしろ自分のためのこと、自分の空腹を満たすことです。ですから主イエスが言っておられるのは、私の弟子たちは確かに安息日の掟を十分に守っていないかもしれないが、それよりも大事な、憐れみの業をしているのであって、その方が大事なのだ、ということではないのです。
それでは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういうことなのでしょうか。ここで見つめられている「憐れみ」は、私たちが誰かに対して憐れみの心を持つことではなくて、神が私たちに対して憐れみのみ心をもって接して下さる、ということなのです。「神殿よりも偉大なもの」とは憐れみだと申しました。それは、私たちが持つ憐れみの心が神殿より偉大だということではなくて、神が私たちに対して抱いてくださる憐れみが神殿より偉大だ、と言っているのです。主なる神の憐れみのみ心は、いけにえを求める心よりも大きい、と主イエスは言っておられるのです。だからこそ、空腹になった弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べることは、神にとって何の問題でもないのです。むしろ弟子たちが、今日は安息日だから休まなければといって、空腹のままでいることは、神の憐れみのみ心に反するのです。ダビデの話もそうです。ダビデが安息日に、祭司しか食べてはいけないはずのパンを食べた、それは主なる神にとって、命にかかわる緊急の場合だから仕方ない許してやろう、ということではなくて、むしろ神ご自身が、供えのパンを与えてダビデと供の者たちを支えて下さった、その空腹を満たして下さった、そういう神の憐れみのみ心によることだったのです。主なる神にとっては、安息日が掟に従って守られ、神殿での犠牲が正しくささげられることよりも、この憐れみのみ心によって人々が守られ、力を与えられ、励まされ、本当の平安の内に生かされていくことこそが大切なのです。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というみ言葉の意味はそこにこそあるのです。
罪もない人たちをとがめる
ファリサイ派の人々は、そのことがわかっていませんでした。神の憐れみのみ心を見ようとせずに、ただ安息日の掟を正しく守ることしか考えていなかったのです。安息日にはああいうことをしてはいけない、こういうことをしてはいけない、ということばかりを考えていて、それが神に正しく従うことだと錯覚していたのです。しかし神に正しく従うとは、神のみ心を本当に知り、それを受け止めることです。安息日をお定めになった神の本当のみ心は、人々が神の憐れみのみ心、恵みのみ心の中で憩い、喜びとまことの安らぎを与えられ、新しく生きる力を与えられることなのです。そのみ心を見つめようとせず、掟を正しく守ることしか考えない彼らが陥ったのは、7節の主イエスのお言葉にあるように、「罪もない人たちをとがめる」ことでした。掟を守ることによって正しい者になろうとしている人は、掟をきちんと守っていないと思われる人を批判し、とがめるようになるのです。しかしその人たちは、「罪もない人たち」です。それは、掟に基づいて罪がないということではなくて、神の目から見てということです。神はその人たちを憐れみのみ心によって受け入れ、はぐくみ、守っておられるのです。それなのにファリサイ派の人々は、彼らをとがめ、神がそうしてはおられないのに、罪に定めてしまっているのです。
このファリサイ派の人々の姿は、決して他人事ではありません。私たちはしばしば、こういう過ちに陥ります。そして罪もない人たちをとがめるようなことをしてしまうのです。それは、神のみ心を知ろうとせず、自分の思い、自分の考えを神のみ心として、それを絶対化してしまうから起こることです。私は神のみ心を知っており、それに従っている、と思うことほど危険なことはありません。そういう時にこそ、私たちは恐ろしい過ちを犯すのです。人を傷つけ殺しても平気でいるようになってしまうのです。戦争はそういう思いによって起こると言えます。戦争ではなくても、現在の世の中、SNS上などに、自分の思いこそが正しい、それと違う思いの人は間違っているのだから攻撃してもよい、という思いによる誹謗中傷が溢れています。それを拡散することで正義を行っているように思っている人が大勢います。そういうことによって人が死に追いやられるようなことが起こっているのです。
神の憐れみのみ心の下で生きる
そのような中で私たちは、「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」というみ言葉をしっかり噛み締めたいと思います。神の本当のみ心は、そして神が本当に願い求めておられることは、憐れみなのです。そのことは、神がその独り子であられる主イエスをこの世に、人間としてお遣わしになり、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことにおいて明らかに示されています。「掟をちゃんと守って正しく生きよ」ということが神のみ心ならば、主イエスが人間としてお生まれになることも、十字架にかかることも必要なかったのです。自分の力で正しく生きることができない、本当に神と人とを愛して生きることのできない私たち人間のために、神はその独り子を遣わして下さり、その独り子の命を与えることによって、私たちの罪を赦して下さったのです。その憐れみこそ、神の本当のみ心であり、み心の中心です。主イエス・キリストによって、その神の憐れみのみ心を知り、そのみ心によって守られ、生かされ、養われていくことが、私たちに求められている信仰であり、その神の憐れみのみ心を伝えていくことが私たちの伝道なのです。このことは午後の修養会のテーマと繋がることです。
人の子は安息日の主
最後の8節に「人の子は安息日の主なのである」とあります。人の子とは主イエスがご自身を言う言葉です。主イエスは安息日の主であられる。それは、主イエスこそ、私たちに本当の安息を与えて下さる方、私たちを本当に休ませて下さる方だ、ということです。そのことは、先週読んだ11章25節以下と繋がります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と主イエスは言われました。主イエス・キリストこそが、私たちにまことの安らぎを与えて下さる方であられることを私たちは聞いたのです。それは言い換えれば、主イエスによってこそ、私たちの安息日が本当に安息日となる、ということです。掟を守って正しい者となろうという思いに支配されて、自分は安息日を正しく守っていると思い、罪もない人たちをとがめていくような所には、本当の安息はありません。本当の安息は、安息日の主であられるイエス・キリストによって示されている神の憐れみの中に、自分が置かれていることを知るところにこそあるのです。この神の憐れみのもとへと、主イエス・キリストは私たちを招いて下さっているのです。