夕礼拝

分裂と平和

6月18日(日) 夕礼拝
「分裂と平和」 副牧師 川嶋章弘
・ミカ書第7章1節-7節
・ルカによる福音書第12章49-53節

平和でなく分裂?
 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。本日の箇所の51節で、主イエスが弟子たちに語られたお言葉です。私たちはこの主イエスのお言葉に戸惑いを覚えます。ルカによる福音書は、主イエスが地上に平和をもたらすために来てくださった、と語ってきたはずではないか、と思うからです。実際、主イエスの誕生物語において、洗礼者ヨハネの父ザカリアは、ヨハネについて預言しただけでなく、主イエスについてもこのように預言していました。「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(1章78-79節)。「あけぼのの光」である救い主イエス・キリストは、私たちを平和に導くと言われていたのです。だから羊飼いたちに救い主の誕生を告げた主の天使たちは「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と神を賛美しました。私たちの救い主イエス・キリストは、地に平和をもたらすために来てくださった、誕生してくださったはずなのです。だからこそ私たちの戸惑いは大きくなります。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。ほかならぬ私たちが主イエスは「地上に平和をもたらすために来た」と思っています。その私たちに、主イエスは「そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言われるのです。

分裂は現代の象徴
 この主イエスのお言葉は、私たちが生きている社会や世界の現状に目を向けるとき、いっそう深刻に受け止めざるを得ません。「分裂」あるいは「分断」は、現代社会と世界を象徴する言葉の一つだからです。今、私たちは対立が新たな分裂や分断を生み出していくのを目の当たりにしています。ウクライナにおける戦争は、ロシアとウクライナの対立であるだけでなく、国際社会に新たな分断をもたらしているのです。ロシアがウクライナに侵攻したとき、私たちはとても心を痛め、事態を深刻に受け止めました。しかし同時にわりと単純に考えていたかもしれません。「プーチンが悪い」というようにです。しかし長期化する中で、そんな単純には考えられないことが明らかになりました。もちろん今も、私たちが命と生活を脅かされている人たちの苦しみに心を痛めていることに変わりはありません。しかしこの戦争の原因を、一人の人物や一つの理由に求めることはできなくなっています。世界中の国々を巻き込むことによって、この戦争はとても複雑化し、国際社会に新たな分断をも生み出しています。ロシアやウクライナに対する距離感の違いが、世界の国々の間の分断を深めているのです。この複雑さのゆえに、新たな分断が生じていくゆえに、この戦争が終わる見通しは立ちそうにありません。私たちは対立が分断を引き起こし、分断が対立を深める、対立と分断の悪循環を目の当たりにして、混乱せずにはいられないのです。

欲望に従って生きる社会が生み出す分裂
 主イエスは53節で「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」と言われています。これは共にお読みした旧約聖書ミカ書7章6節の引用ですが、6節が置かれている文脈を見ておきたいと思います。2-3節にはこのようにあります。「主の慈しみに生きる者はこの国から滅び 人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい 互いに網で捕らえようとする。彼らの手は悪事にたけ 役人も裁判官も報酬を目当てとし 名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す」。ミカの告発する社会の腐敗の元凶には、「名士も私欲をもって語る」と言われているように「私欲」、つまり自分の欲望があります。自分の欲望の実現をなによりも優先する社会は、皆が「ひそかに人の命をねらい 互いに網で捕らえようとする」社会なのです。そのような社会では、たとえ本当に相手の命を奪うことがなくても、人々は相手を蹴落とすことに躊躇しないのです。今、私たちは、まさにミカが告発したような社会に、自分の欲望の最大化が求められる社会に生きているのではないでしょうか。
 5-6節でもこのように言われています。「隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り 娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」。最も親しい者すら信頼できず、家族の中ですら対立し分裂する社会が告発されています。そのような社会では、親しい者や家族との関係だけでなく、あらゆる人間関係においても信頼が失われ、対立が生じているのです。私たちの社会においても、親が子の命を奪い、子が親の命を奪うことはめずらしくなくなっています。様々な人間関係において、信頼関係を築けないために対立し、相手を傷つけてしまうことも度々起きているのです。2節で「主の慈しみに生きる者はこの国から滅び」と言われていました。「主の慈しみに生きる者」は聖書協会共同訳では「忠実な人」と訳されています。主の慈しみに生きる者がいなくなった社会、つまり神に忠実に生きるのではなく、自分の欲望に従って生きる社会は、対立と分裂を生み出す社会なのです。

主イエスは分裂の社会のただ中に遣わされた
 主イエスがもたらす分裂とは、私たちが目の当たりにしているような分裂なのでしょうか。そうではありません。ミカが告発しているように、主イエスが来てくださる前からこのような対立と分裂はあったのです。社会の腐敗を告発し、そこに生じる対立と分裂を語ったミカは、それにもかかわらず7節で「しかし、わたしは主を仰ぎ わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」と告げています。対立と分裂の社会にあっても、願いを聞き届けてくださる神に信頼して「救いの神」を待つ、と告げているのです。このミカが告げたことは、神が独り子主イエス・キリストを世に遣わされることにおいて決定的に実現しました。救いの神は、対立と分裂の社会のただ中に、主イエスを遣わしてくださったのです。そうであるならば主イエスが分裂をもたらすために来たと言われている、その分裂とは、人類の歴史で繰り返され、そして今、私たちが目の当たりにしているような分裂ではあり得ません。そのような分裂は、主イエスが来るまでもなく社会の至るところで生じていたのです。乱暴に言えば、主イエスが来てくださらなくても、そのような分裂はもう十分この地上に起こっていたのです。
地上に火を投ずるために来た
 主イエスは弟子たちに49節で「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われています。主イエスがもたらす分裂は、主イエスが地上に火を投ずることによって引き起こされるのです。しかも主イエスは「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われます。つまりまだその火は、燃えていないのです。人間の欲望がもたらす対立の火は、憎しみの火は、人類の歴史において燃え続けてきました。しかし主イエスが地上に投じようとしている火は、まだ燃えていないのです。つまり主イエスが地上に投じようとしているのは、すでに地上に燃え上がっていた火とは異なる火なのです。主イエスはその異なる火を投じるために世に来たのであり、今、その火を投じようとしておられるのです。

私たちを裁き、滅ぼす火
 「火」は、聖書において神の裁きのしるしです。ですから地上に火を投ずるとは、地上に神の裁きをもたらすことにほかなりません。主イエスはこの地上に神の裁きをもたらすために来られたのです。主に忠実に生きようとせず、自分の欲望に従って生きることによって対立と分裂を引き起こしている者たちを裁き、滅ぼすために来られたのです。私たちにとってこのことは他人事ではありません。自分たちが目の当たりにしている社会や世界の分裂や分断を嘆き、あるいは批判しているだけでは済まされないのです。ほかならぬ私たち自身が神に忠実に生きるのではなく、自分の欲望に従って生きているからです。神を主人として生きるのではなく自分自身を主人とし、自分の欲望を満たそうと、もっともっと欲しいという思いを満たそうとしているのです。欲望の対象が何であれ、大きいことであれ小さいことであれ、自分の欲しい物を手に入れることに満足を得ようとしているのです。私たちは欲望に駆られるとき、しばしば怒りと憎しみにも駆られます。自分の欲望が満たされないとき、思い通りに行かず期待していた満足が得られないとき、私たちは怒りと憎しみにとらえられるのです。とりわけほかの誰かによって妨げられ、邪魔されたと感じるとき、私たちは相手に対して怒りや憎しみの火を燃やします。そこに対立と分裂が生じるのです。私たちの身の周りで起こっている小さな対立や分裂であっても、社会や世界で起こっている大きな対立や分裂であっても、相手に対する怒りと憎しみによって引き起こされていることに変わりはありません。主イエスが地上に投ずる火は、このように神に背いて自分勝手に生きている私たちを裁き、滅ぼす火です。相手に対する怒りと憎しみによって対立と分裂を引き起こしている私たちを、主イエスが地上に投ずる火は裁き、滅ぼすのです。

主イエスが受けねばならない洗礼
 しかし神に背いて生きている罪人を裁き、滅ぼす火は、まだ地上に投じられていません。この火はまだ地上に燃え上がっていません。主イエスは、いつ、どのようにしてこの火を地上に投じ、燃え上がらせるのでしょうか。主イエスは50節でこのように言っています。「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」。この福音書はすでに3章で、主イエスが(洗礼者)ヨハネから洗礼を受けられたことを語っています。ですからここで「わたしには受けねばならない洗礼がある」と言われている洗礼は、ヨハネから受けた洗礼のことではありません。そうではなく主イエスが受けねばならない洗礼とは、主イエスの十字架の死のことです。今、主イエスはエルサレムへ向かって、十字架の死に向かって進まれています。主イエスは受難の道を歩まれ、多くの苦しみを受け十字架に架けられて死なれるのです。だから主イエスは「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と言われているのです。

十字架で神に裁かれ、滅ぼされた
 この主イエスが受けねばならない洗礼において、つまり主イエスの十字架の死において、主イエスは地上に火を投じられます。地上に神の裁きをもたらされるのです。しかしその火によって燃やされたのは、つまり神の裁きによって滅ぼされたのは、神に背いて自分勝手に生きている私たちではありませんでした。何一つ罪を犯しておられない主イエスご自身が、神に裁かれ、滅ぼされたのです。地上に火を投じ、神の裁きをもたらすために来られた主イエスご自身が、その十字架の死において、私たちの代わりに神に裁かれ、滅ぼされてくださったのです。主イエスは「それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と言われましたが、「それが終わるまで」の「終わる」は、「成し遂げられる」と訳したほうが良い言葉です。私たちの罪をすべて担って、私たちの代わりに、主イエスが十字架で神に裁かれ、滅ぼされ、死なれたことによって、私たちの罪からの救いが成し遂げられたのです。この私たちの救いが成し遂げられるまで、主イエスは私たちが想像できない大きな苦しみをお受けくださったのです。そして神は、十字架で死なれた主イエスを復活させてくださいました。私たちの代わりに神に裁かれ、滅ぼされて、死なれた主イエスは、復活させられ、新しい命、永遠の命を生きておられるのです。
ありのままの自分で良いのではない
 このように地上に神の裁きをもたらすために来られた主イエスご自身が、私たちの代わりに神の裁きを十字架で受けて死んでくださったことこそ、私たちの救いにほかなりません。この主イエスの十字架による救いに、私たちに対する計り知れない神の愛が示されています。しかしもし私たちが自分は救われ、神に愛されているのだから、このままの自分で、ありのままの自分で良いと思っているとしたら、私たちは大きな間違いを犯しています。なによりそのように思っているならば、私たちは主イエスの十字架の死を台無しにしてしまっているのです。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」という主イエスのお言葉を、私たちは自分たちへ語られている言葉として真剣に受け止めなくてはならないのです。

洗礼において火が投じられる
 なぜならこの主イエスのお言葉は、私たちが主イエスの十字架による救いを信じ、洗礼を受けるとき、私たちの身に起こることを見つめているからです。洗礼を受けることによって私たちは古い自分に死に、主イエスに結ばれて主イエスの命、新しい命に生き始めます。洗礼において、主イエスが地上に投ずると言われたあの火が、私たちにも投じられ、私たちの古い自分を滅ぼすのです。自分の人生は自分のものだと思い、神に背いて自分勝手に生きていた古い自分が滅ぼされます。神に忠実に従って生きるのではなく、自分の欲望に従って生き、怒りと憎しみに駆られ、対立と分裂を生み出してしまう古い自分が滅ぼされるのです。しかし洗礼において私たちに投じられた火は、古い自分を滅ぼすだけではありません。その火は、私たちを新しく生かしもするのです。私たちを新しく生まれさせ、主イエスの命、新しい命に生き始めさせるのです。
 私たちが怒りや憎しみに駆られて燃え上がらせる火は、人間関係を破壊するだけです。相手の命を奪うことすら起こります。国家と国家の関係になれば、怒りや憎しみは文字通り燃え上がる炎となって、人の命を奪い、街を破壊します。私たちはそのような光景を、ウクライナにおける戦争を報じるテレビやインターネットを通して目の当たりにしているのです。私たちが怒りや憎しみに駆られてこの地上に投じる火は、破壊するだけでなにも生み出しません。しかし主イエスが投じてくださる火は、そうではない。私たちを滅ぼすだけではなく、新しくするのであり、私たちを本当に生かすのです。

洗礼においてもたらされる分裂
 洗礼を受けた私たちは、主イエスに結ばれて新しい命に生き始めました。しかしだからといって、私たちが自分の欲望に従って生きることから完全に解放されたのか、というとそうではありません。このことは自分自身が一番良く分かっています。洗礼を受け、救いに与り、新しい命に生き始めているにもかかわらず、なお私たちは自分自身を自分の主人とし、もっともっと欲しいという自分の貪りを満たそうとしてしまいます。しばしば怒りと憎しみに駆られ、対立や分裂を引き起こしてしまうのです。それならば洗礼を受けてもなにも変わらないということなのでしょうか。そうではない。私たちは、主イエスの地上に投ずる火が、地上に分裂を引き起こす、と言われていたことを思い起こさなければなりません。そうであるならば、主イエスが洗礼において私たちに投じた火も、私たちに分裂を引き起こすに違いないのです。それは、古い自分と新しい自分の分裂です。確かに私たちは洗礼を受け、救いに与りました。しかしその救いの完成は、世の終わりを待たなくてはなりません。それは、救いの完成に至るまでは、なお罪の力が私たちを脅かし続けるということであり、なお古い自分が頭をもたげようとするということです。主イエスが洗礼において投じた火は、私たちに古い自分と新しい自分の分裂をもたらします。私たちは、この古い自分と新しい自分のせめぎ合いの中を歩んでいるのです。救われた者として、新しくされた者として、神に忠実に従って生きようとする自分と、なお罪の力にとらえられ、神に背いて自分勝手に生きようとしてしまう自分とのせめぎ合いの中を歩んでいるのです。それだけでなく、新しくされた者として神に忠実に従って生きようとするために、私たちと世の人々との間で、とりわけ家族や親しいとの間で、分裂が起こることもあります。主イエスを信じ、洗礼を受けて、主イエスによる救いに与って生きるがゆえに、私たちは自分自身の内にも、ほかの人との間にも分裂を抱えて歩むことになるのです。

分裂と平和
 しかしこの分裂は、私たち人間が引き起こす分裂ではなく、洗礼において主イエスが投じる火によって引き起こされる分裂です。私たちが引き起こす対立や分裂は、新たな対立と分裂を引き起こすことはあっても、決して平和をもたらすことはありません。私たちの怒りや憎しみによって引き起こされた対立や分裂は、平和をもたらすはずがないのです。しかし主イエスが投じる火によって引き起こされた分裂はそうではありません。なぜならこの分裂は、私たちが主イエスに従って生きていく中で、私たち自身の内に、また私たちとほかの人たちとの間に起こる分裂だからです。古い自分と新しい自分のせめぎ合いに苦しみつつも、また周りの人との軋轢に苦しみつつも、私たちが主イエスに従って歩んでいくところに、主イエスは平和をもたしてくださいます。主イエスは、確かにこの地上に平和をもたらすために来てくださったのです。その平和の完成は、なお世の終わりの救いの完成を待たなくてはならないとしても、しかしすでに私たちが主イエスに従って生きていくところに、主イエスは平和をもたらしてくださるのです。主イエスが洗礼において私たちに投じてくださった火は、私たちの内と外に分裂を引き起こしつつも、私たちに平和をもたらすのです。私たちは救われてなお、自分の欲望のために生き、怒りと憎しみに駆られ、対立と分裂を生み出しています。しかし私たちの内に主イエスが投じた火によって、私たちは繰り返し滅ぼされ、新しくされるのです。自分自身を主人として生きるのではなく、神を主人として生きる者へ、怒りと憎しみに生きるのではなく、赦しに生きる者へと繰り返し新しくされるのです。繰り返し新しくされて生きていく私たちキリスト者の歩みに、主イエスによる平和が与えられていくのです。
 主イエスは地上に投ずる火を、十字架でご自分の身に受け、神に裁かれ、滅ぼされてくださり、私たちを救ってくださいました。私たちを救ってくださった主イエスが、主イエスに結ばれて生きる私たちに、古い自分を滅ぼし、新しく生かす火を投じてくださっています。この火によって、主イエスに従って歩もうとする私たちに分裂が引き起こされるだけでなく、主イエスによる平和がもたらされていくのです。

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