主日礼拝

私には、この神さまがいるから

6月25日(日) 主日礼拝
「私には、この神さまがいるから」 牧師 川﨑公平
・ホセア書第11章1-4節
・ローマの信徒への手紙第5章6-11節

■鎌倉雪ノ下教会牧師の川﨑と申します。今日は神奈川連合長老会の講壇交換ということで、この場所に立たせていただくことになりました。横浜指路教会というこの教会は、私にとって特別に大切な教会です。今から24年前の夏、私が当時24歳であったとき、東京神学大学の学生として、この教会でひと夏を過ごしました。夏期伝道実習、略して夏期伝と言って、今年の夏もきっとそういう神学生がここに来るのでしょうが、牧師になるための実習をする。訓練を受ける。そのために私もこの教会堂の片隅にある居住室というところで、39泊40日の生活をしました。今でも24年前のことを覚えていてくださる方がいらっしゃったら、ちょっと嬉しいような、恥ずかしいような……。何と言ってもこの教会に感謝しなければならないことは、私が生まれて初めて主日礼拝の説教をさせていただいたのがこの場所であったということです。神に召されて、説教者として立たせていただいた、その初心に帰るような思いで、今皆さまと一緒に、御言葉を聞きます。
■先ほどローマの信徒への手紙第5章の6節から11節を読んでいただきました。今朝は、実に4年ぶりに、神奈川連合長老会の講壇交換というのをしております。神奈川連合長老会というグループに、現在13の教会が加盟しておりますが、今日はそのすべての教会で同じ聖書の言葉を読んでいるはずです。それほど長くない文章の中に、しかしきわめて豊かな内容が盛られておりますから、1回の礼拝ですべての言葉をきちんと読み解くことは到底不可能です。そうでありながら、この部分は本当は、少なくとも第5章の最初から読むべきところです。この章の最初のところに、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」と、そう書いてあります。
「わたしたちは、信仰によって義とされたのだ」という、このひとつのことだけを、この手紙はこれまでの4つの章を費やして語ってきたのです。「義とされた」という、この聖書独特の言葉は、一方では評判が悪いのです。「義」なんて言われても、さっぱり意味が分からん。これだから聖書は難しい。ここでこの手紙を書いたパウロという人は、その「義」ということを言い換えて「神との間に平和を得ている」と言います。義というのは、そのまま言い換えて、神との間に平和があるということです。神さまとけんかしていない。争っていない。何もぎくしゃくすることなく神さまの前に立てるし、和らいだ心で神さまと言葉を交わすことができる。心を通わすことができる。
この「神との間の平和」という主題が、今日読みました11節までずっと続いていて、いくつか関連のある言葉を拾っていくと、9節には「神の怒りから救われる」とありますし、その次の10節には「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば」とあります。われわれは神の敵であった。そこまで言うのです。ところがその神の敵でしかなかった私どもが、和解させていただいて、神との間に平和を得ている、というのです。
これはしかし、決して分かりやすい話ではないかもしれません。だいたい、神の敵っていったい何だ。自分は、神さまと争った覚えなんかないので、敵とか和解とか言われても、身に覚えがないと、そう思われるかもしれません。しかし少なくとも、この手紙を書いたパウロ自身は、よく分かったのです。痛いほどによく分かった。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば」。もちろん、それは自分のことだ。わたしのことだ。わたしは、神の敵であったのだ。
■たいへん個人的な話をすることをお許しいただきたいと思いますが、私は最初に行っていた大学を卒業してすぐに神学校に行きました。その最初の大学の4年生・最終学年の、11月の下旬までは、そのまま大学院に進む準備をしておりました。今となっては言うのも恥ずかしいんですが、学者になりたかったんですね。言語学とか、主にギリシア語を勉強していました。まあまあ勉強はできる方だったと思いますが、いつも不安がありました。研究だけで生きていけるんだろうか、くいっぱぐれないだろうか。変な話、小さな研究室ですから、同級生はある意味でライバルなんですよ。俺は、まあまあできる方かな。でもあいつには一生かなわないだろうな。ちゃんとしたポストにつけるかな。
そんな折に、大学4年生の11月の下旬に、当時出席していた教会の修養会がありました。当時東京神学大学の学長であった松永希久夫先生がいらっしゃって――残念ながらもう地上の存在ではなくなりましたが――その修養会の講演も心に残るものがありましたが、修養会のあとに、思いがけず松永先生から声をかけられました。「おお、きみが川﨑くんか。ギリシア語を勉強しているんだって?」 大げさでも何でもなく、神さまに声をかけられたと思いました。「きみ、ギリシア語やってんだ。それで、いったい、何をやっているんだい?」 どうも自分は、神さまの前に説明しにくいことをやっているみたいだ。そのことに気づかされました。自分の中にあった漠然とした不安は、神を無視して生きる者の孤独でしかない。そういう孤独な人間が、「どうしたら偉くなれるかな。ギリシア語だけやってて、学者になんかなれるかな」。
義とされていない人間というのは、いや、正確に言えば既に義とされている、既に救われてはいるんだけれども、そのことを無視している。軽んじている。したがってそのために神との間に平和を得ていない人間は、どうしたってこういう類の不安の中に立つほかないのです。そして私は、少なくとも自分にとっては、学問の道は虚栄の道でしかないことを認めて、「もう一度、初心に帰ろう」。それで一週間祈って、牧師になろうと決断しました、ということは今日の話とは何の関係もありませんので、省略したいと思います。
しかし省略できない話は、「神に義とされて生きる」、「神との間に平和を得る」という、このことであります。またおかしな話をするようですけれども、大学4年生の秋にそういうことがあって、けれども神学校に行こうなんてことはまだ誰にも秘密にしていたというときに、また思いがけず同じ教会の青年会の先輩に声をかけられました。「公平、何か、顔つき変わったね」。自分でもよく分かりました。もともと分かりやすいたちなんです。それにしても、それまでの自分の顔は……いったいどんな顔して生きてきたのか、少し心配になりました。それをここでパウロは、「わたしたちは、神との間に平和を得ている」と、そう言うのです。その平和の関係を、最後の10節以下では、「和解」という言葉で表現しています。

敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

和解であります。和解しなければならない人と、和解できていないということは、本当に苦しいことです。けれども、本当に和解したい人と、本当に和解することができたら、どんなに安心できるでしょうか。そうしたら、きっと誰だって顔つきが変わるのです。
明治・大正時代に訳された、文語訳という古い翻訳があります。ここに出てくる「和解」という言葉をすべて「やわらぎ」と訳しました。「我等もし敵たりしとき御子の死に頼りて神と和ぐことを得たらんには、まして和ぎて後その生命によりて救はれざらんや」。やわらぐのです。神さまとの関わりが、根本的にやわらぐのです。そうしたら、顔つきだってやわらいでくるでしょう。生き方そのものが、丸ごと新しくなるのです。それで人によっては、選ぶ職業だって変わるかもしれませんが、もちろん、牧師になることだけが義とされた者の生活ではありません。どんな立場の人も、どんな職業の人も、この平和の中に立つことができる。そのための主の日の礼拝です。神との間に確かな平和があることを、ここで何度でも確かめながら、平和のうちにここから出て行くのです。
■私がおります鎌倉雪ノ下教会では、この4月から、礼拝で用いる聖書の翻訳を新しくしました。聖書協会共同訳という翻訳です。そうすると、いわゆる説教のための聖書朗読だけでなく、礼拝の最初の招きの言葉も少し変わりました。礼拝の最後の祝福の言葉も、新しくなりました。今日も礼拝の最後に、私が皆さんに祝福を告げます。あれ、そう言えば、指路教会の祝福の言葉はどんなだろうと思って、先週メールで川嶋先生にお伺いを立ててみました。そうしたら、「川﨑先生におまかせします。外部から説教者を招くときはいつもおまかせです」というお答えだったので、今日はひとつ、聖書協会共同訳の言葉で、礼拝の最後の祝福をしたいと考えています。
と言っても、そんなに変わり映えはしないかもしれません。聖書の箇所は同じです。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように」という言葉で始まるのですが、その少し後のところで、おそらく皆さんが聞き慣れているのは、「主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように」という言い方だと思います。これが新しい翻訳では、「あなたに〈平和〉を賜るように」となりました。果たして神さまがわれわれにくださるのは、「平和」と言った方がいいのか、「平安」と言った方がよいのか。語学的にはどちらの翻訳でも正しいのです。ただ、ひとつ大切なことは、この平安あるいは平和というのは、自分ひとりの世界の話ではないということです。「主が御顔をあなたに向けて/あなたに平和を賜るように」と言われますように、この平安、あるいは平和は、神との関係を表す。神が御顔を向けていてくださるなら、それが即私にとっての平安になるし、神がもしもわたしから御顔を背けるようなことがあれば――そんなことはあり得ないのですが、仮にそんなことがあったとしたならば――ほかの何がどんなに満たされていても、私どもは根本的に平安を失うのです。
きっと皆さんも毎週、ここで藤掛先生、あるいは川嶋先生の祝福の言葉を聞いておられるでしょう。そのたびに私どもは新しい思いで知るのです。「ああ、そうだ、神さまがわたしのために御顔を向けていてくださるのだ」。そしてもし、神さまの御顔がわたしに向けられているなら、それが即わたしにとっての平安になる。そして、神が私どもから顔を背けるなんてことは、絶対にないと申しましたが、実はもっと現実的な、そして深刻な問題は、私どもが神さまからプイッと顔を背けて、「神さまなんか知らん」。それが「神の敵」です。
神さまに顔を背けたまま、どんなに一所懸命勉強を頑張っても、あるいはどんなに仕事を頑張っても、あるいは、神さまに背を向けたまま、皆さんがどんなに立派な愛のわざに励んだとしても、その愛のわざがどんなに立派であったとしても、もし私どもが神さまから顔を背けていたら、そこに平安はないのです。私が大学生のときに経験した不安も、きっとそういうことであったに違いない。それを聖書は、「神の敵」と呼ぶのです。それはもちろん、勉強がうまくいくこともあるでしょう。仕事がうまくいくことも、いくらでもあるでしょう。愛のわざに励んだら皆がほめてくれた、認めてくれた、喜んでくれた、感謝してくれた、そうしたら、われわれはいちばん平安な心になるかもしれない。けれども神との間に平和を得ているという、このことをちっとも考えようとしない人間は、根本的には不安の中に立ち続けるほかないのです。
ところがこのローマの信徒への手紙第5章が鮮やかに証ししていることは、まさにその神の敵であった私どものために、神が和解を差し出してくださった。平和を確立してくださったということです。「主が御顔をあなたに向けて」という祝福の言葉を聞きながら、まさかとは思いますが、神さまが鬼のような顔でじーっとわれわれを睨みつけているとお考えになる方はないだろうと思います。神は愛です。私どもが振り仰げばいつも、やわらぎの御顔を私どもに向けていてくださる。神は、愛だからです。
■その神の愛が、明確に現れたひとつの場所がある。それが、キリストの死である、キリストの十字架であると言います。そのことをパウロはこの6節以下で、これでもか、これでもかと、丁寧に言葉を重ねていきます。

実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった(6節)。

ここではまだ「神の敵」という強烈な言葉は出てきません。「わたしたちがまだ弱かったころ」、「不信心な者のために」と、このような、まだ柔らかい表現で、パウロは読み手の心を引き込もうとしているのかもしれません。「あなたは、神の敵だ」なんて言われても困るという人も、「わたしたちは、弱かったんだ」と言われれば、何となく分かるんです。たとえばこのような言葉を読んでも、私は自分の幼稚だった時代を思い出します。確かに自分は弱かったと思います。弱いくせにやたらと強がって、でもそれは本当に弱かったのです。そしてその私の弱さというのは、きっと「不信心」だったんでしょう。大学生の頃も毎週教会には通っていましたが、大学に行けばそこではもう神さまなんか信じちゃいないんです。だから孤独だったんです。だから弱いくせに強がったんです。強がっている人間というのは、実はいちばんこわがりなんだと思います。神を信じていないからです。ところがそんな不信心な者のために、キリストは死んでくださったではないか。そのことをよく考えてごらんなさい。

正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません(7節)。

よく考えてごらんなさい。あの人は正しい人だから、一から十まで完璧な人だから、だからあの人のためなら死んでもいいなんて、誰もそんなこと考えませんよ。でも、善い人のためなら。あの人はわたしの命の恩人だから、わたしのために善いことをしてくれたから、あの人のためなら命だって惜しくない、ということならあるかもしれない。ところが、よく考えてみてください。

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです(8、9節)。

ここでは、「わたしたちが弱かったころ」とか、「不信心な者」とか、そういう生易しい表現は消えます。そりゃあ弱かったんだろう。そりゃあ不信心だったんだろう。言われてみれば確かにそうだ。そう私どもは思うのですけれども、パウロは言うのです。本当はそんなこと言ってられないよ。あの頃は若かったんだとか、そんなの言い訳にならないよ。それは、あなたが罪人だということなんだ。はっきり言えば、神の怒りを招くような、神の敵なんだ。ところが神の御子キリストは、その神の敵でしかなかった私どものために、死んでくださったんだ。私どもに対する愛のゆえにであります。
■主イエスは十字架につけられたとき、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、「神さま、見捨てないでください」と、悲痛な叫びを上げながら息を引き取られました。それはまさしく、キリストが神の敵として死なれたということでしょう。神の敵だから、キリストは神に見捨てられたのです。どうしてそんなことが。本当は、私どもがその死を死ななければならなかったからです。
私どもは、日ごろさんざん神を無視して生きているくせに、ちょっと不幸なことがあったりすると、「神さまなんかいないんだ、神さまはわたしを見捨てたんだ」と、たいへん傲慢なことを申します。自分の方からははさんざん神を捨てているくせに、「神がわたしを見捨てるなんて、そんな」と、わけのわからないことをわれわれは考えるのですが、キリストが私どものために死んでくださったと聖書が言うのは、まさしくその私どもに代わって、神の敵としての立場を甘んじて受けてくださったということなのです。
したがって、「主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」と、いつも私どもは祝福の言葉をいただくのですが、ここで私どもは知らないといけない。十字架につけられたキリストは、神から御顔を背けられて、したがって平和も平安もどこにもないというところに立たれたのです。ただ私どもに対する愛のゆえに、神は私ども罪人の命を、何としてでも守らないと、どんなことがあってもかばわないといけないとお考えになりました。それで、最後にこう言うのです。

敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです(10、11節)。

■最後に、「誇り」という言葉が出てきます。「わたしたちは神を誇りとしています」。「わたしには、この神さまがいるから」。そのことだけが、わたしの誇りになるというのです。「わたしの誇りは、神さまだけ」。
この手紙を書いたのは、パウロという人です。思えば、他でもないこのパウロという人が、こういうことを言えるようになったということ自体が、たいへんな神の奇跡であったと思います。パウロという人は、たいへんに誇り高い人間でした。フィリピの信徒への手紙第3章の4節以下に、パウロはこういうことを書いています。

とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

少し長く引用しすぎたかもしれません。しかしそれだけ、パウロにはたくさんの誇りがあったということだろうと思います。そして私どもも、数えようと思えば、パウロには負けるかもしれませんが、自分が誇りに思っていること、自慢したがっていることをひとつやふたつ、数えることができるかもしれません。私もそうです。私は○○大学で□□を勉強し、△△株式会社の役員で……。ある人は、「パウロは手すりにつかまっていたのだ」と申しました。かつてのパウロは、こういう手すりにつかまらないと立てない人間だったのだ。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で」、そういう手すりにつかまっていないと、たちまち倒れる。それをパウロは、「自分は弱かったのだ。不信心だったのだ」と言ったのでしょう。自分の手柄を信じているだけで、手すりを信じているだけで、けれどもそういう手すりがないと立てない人間というのは、いちばん弱いんです。
私は、それが本当によく分かるのです。ことにこの横浜指路教会に立つと、ますますよく分かるような気がするのです。若い頃の自分の弱さを思い出すからです。「ほう、きみ、ギリシア語やってるんだ」。松永先生の真意は分かりません。しかし私としては、やはりあのとき私に声をかけてくださったのは、神さまだったのだと信じています。「その手すり、いる?」 しかし今は、「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」のですから、わたしは、わたしたちは、神を誇りとしています。ただそれだけで、人間はすこやかに立てるのです。顔つきまで変わるのです。まことの平和の中に立つからです。
今私も、ひとりの牧師として、横浜指路教会の皆さんに心から祝福を告げます。「主が御顔をあなたがたに向けて、あなたがたに平和を賜るように」。この平和が、皆さんを守ります。ここに、私どもの誇りがあり、祝福があるのです。お祈りをいたします。

主イエス・キリストの父なる神さま、今、私どもは、あなたのみ言葉を聴きました。あなたが私どもに平和を与えよう、平安を与えようと、その熱心のゆえに、どれほどの犠牲を払ってくださったか、そのことをちっとも考えようともしない私どもの弱さを憐れんでください。あなたは私どもの父です。神さま、あなただけが私の誇りです。あなたの霊と、あなたの言葉に導かれて、いつもその確かな祝福の中に立つことができるようにしてください。感謝し、主のみ名によって祈り願います。アーメン

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