主日礼拝

心の扉を開いて

「心の扉を開いて」 牧師 藤掛順一
・イザヤ書第55章1-5節
・ヨハネの黙示録第3章20節

心が閉ざされてきている
 いわゆる「コロナ禍」が始まった頃、「外出自粛」が求められました。日本ではいわゆる「ロックダウン」までにはなりませんでしたが、私たちは、なるべく外に出ないように、人の密集する所には行かないように気をつけて生活をしてきました。仕事の仕方もそれによって大きく変わって、「在宅」で仕事をすることが多くなりました。そのためのツールも整備されて、リモート会議が当たり前になりました。教会にもそういうことが急速に入って来て、コロナ前は毎週教会に集まって行っていた祈祷会、共にお祈りをする会も、月に二回はリモートで行うようになりました。その時間だけパソコンの前に座れば、どんなに遠くにいても参加できるこの方式はとても便利で、だからこそ出席できる、という人もいて、定着しています。「コロナ禍」以降、家から外に出なくてもいろいろなことができるように、私たちの生活が急速に変化してきたわけです。それは特に高齢の方や基礎疾患のある方々をコロナ感染から守るために必要なことだったし、皆が外出自粛に努めたために感染が抑えられたことは確かでしょう。
 しかしそういう生活が続いたことによって、私たちの心にもいろいろな影響が出てきているように思います。外出せず、家に閉じ籠っている生活の中で、心も閉ざされてしまうことが起っているのではないでしょうか。そのことは「マスク生活」によっても起っているように思います。マスクをすることが当たり前だった数年間を経て、今マスクは個人の判断に委ねられるようになりましたが、感染が心配という理由だけでなく、マスクを外せない、外したくない、という思いを持つ人が多いようです。マスクを外して人に顔を見られたくない、という感覚が生じています。それは、人に対して心が閉ざされてきていることの現れだと思います。人と会うことが少なくなり、会ってもマスクごしでしか会話をしなかったしばらくの間の経験によって、私たちの心が人に対して閉ざされてきているのではないでしょうか。リモートワークが多くなって、仕事の上でも人と会って話をすることが少なくなったことによって、孤独を感じている人、メンタルな不調に陥っている人も多いようです。新型コロナウイルスは私たちに、心が閉ざされてしまう、という大きな影響を及ぼしているのです。
 このところは感染もかなり下火となり、と言ってもどうなのかよく分かりません。またじわじわと増えてきているとも言われますが、しかし社会全体においてはもう「外出自粛」はなくなり、いろいろなことが再開され、外に出ることも多くなりました。しかしそうなっても「リモートワーク」はなくなることはないようです。職種にもよるでしょうが、以前のように毎日会社に出勤して働く、ということはもう当たり前ではなくなっています。またこのごろはレストランで注文をする時にも、店員と話をせずにタブレットに入力するだけ、という所が増えています。この間回転寿司に入ったら、目の前に握っている人がいるのに、タブレットで注文する、ということになっていました。仕事においても日々の生活においても、人と直接関わりを持つことが確実に減っています。そういうことが私たちの心にも影響を与えないはずはありません。意識はしていなくても、人に対して心を閉ざし、人との間に壁を築いて、自分の中に閉じこもってしまうことが起っているのではないでしょうか。ウイルスから身を守る中で、心にもアクリル板の壁を築いてしまってはいないでしょうか。それは自分の心を守るためでもあるけれども、それによって孤独に陥り、かえって心が不調になっていく、ということが起っているのではないでしょうか。

人に対して心を閉ざしてしまいがちな私たち
 しかしこのことは、「コロナ禍」だから起った特別なことではないと思います。私たちは基本的に、人に対して心を閉ざしてしまいがちなのではないでしょうか。人との間に壁を築いて、それによって自分を守ろうとしがちなのではないでしょうか。コロナ禍によって、私たちが元々持っているそのような傾向がはっきりと現れてきた、ということなのではないでしょうか。私たちは、人に対して心を閉ざすことによって自分を守ろうとします。固い鎧を着てその中に閉じ籠ることによって身を守ろうとするのです。しかしそれによってかえって、周囲の人々とうまくやっていけなくなって、自分自身がつらい思いをしてしまうのです。

神に対して心を閉ざしている私たち
 それと同じことが神との間にも起っている、いや、神との間にこそ先ずそれが起っているのだ、と聖書は語っています。聖書は、私たちが、神に対して心を閉ざしてしまっていると指摘しています。神なんていない、と思うことも勿論そうですが、神は自分の願いを叶えるだけの存在であってほしい、と思っていることも、神に対して心を閉ざしていることです。神にはとにかく自分に口出しをしないでほしい、自分が思い通りに生きることを邪魔しないで、こちらが求めた時に手助けをするだけにしてほしい。私たちは基本的にそう思っているのではないでしょうか。もし誰か身近な人が自分に対してそのように、「邪魔せず、口出しせず、頼んだら助けるだけにしてくれ」という姿勢でいるなら、私たちが感じるのは、その人は自分に対して心を閉ざしている、自分との間に壁を作っている、ということでしょう。そういうことを私たちは神に対してしているのです。神に対して心を閉ざし、壁を作って自分の心の中に神を入れようとしないでいるのです。聖書は、私たちの神に対するそのような態度、姿勢のことを「罪」と言っています。人間は皆罪人だ、というのが聖書の教えですが、それは、人間は皆、神に対して心を閉ざしている、ということなのです。

神にも人間にも心を閉ざしている私たち
 神に対して心を閉ざしている私たちが、人に対してはいつも心を開いている、ということはあり得ません。神との間に壁を築いて、その中に閉じこもって自分を守ろうとしている私たちは、共に生きている人々との関係においても、同じことをしているのです。勿論私たちは人間の社会において、いろいろな人と関わりを持って生きていますから、全く心を閉ざしてしまうことはできませんし、人との交わりによって喜びや力づけが得られることもしばしばです。しかし一旦そこに何か問題、トラブル、対立が起ってくると、私たちはたちまち心を閉ざして、壁を作って自分を守ろうとします。普段人と共に生きている時でも、いつでも心の扉を閉ざせるように、警戒しつつ備えているのではないでしょうか。私たちの人間関係はそのようなものだと思います。そして確かに、そういう警戒もこの世においては必要です。無防備に心を開いてしまったことによって、騙されたり、利用されたりすることが確かにあるのです。だから私たちは人との関係においていつも、心の扉をちょっと開けて様子を見て、もっと開いても大丈夫かな、と探りながら、そしていつでも扉を閉ざせるようにしているのではないでしょうか。神に対して心を閉ざしている罪人である私たちは、隣人に対しても心を閉ざしがちです。つまり神に対する罪は隣人に対する罪と繋がっていて、隣人を傷つけ、自分も傷ついてしまう、ということが起っているのです。
 このように私たちは、神に対しても、隣人に対しても、心の扉を閉ざすことによって自分を守ろうとしています。でもそのように扉を閉ざして壁を築いていたのでは、本当に喜んで人と共に生きることはできません。心の扉を閉ざして自分を守ってばかりいると、喜びが失われて、自分自身もおかしくなってしまうし、人をも傷つけてしまうことになるのです。そうなるとますますお互いに心の扉を固く閉ざしていってしまう、それが私たちの現実なのではないでしょうか。そこにこのコロナ禍が起って、仕事や生活においても閉じ籠ることが多くなったことによって、ただでさえ閉ざされがちの私たちの心の扉がさらに固く閉ざされてしまっている。そのことによって生じている苦しみを今私たちは体験しているのだと思います。コロナ感染が下火になって、社会全体にいろいろな活動が戻ってきている中で、閉ざされていた心ももう一度開かれていけばよいのですが、しかし心の扉を開くことはそう簡単ではありません。神に対しても人に対しても心を閉ざしてしまいがちな罪人である私たちは、心を閉ざすことは簡単にできるけれども、それを開くことはなかなかできないのです。

心の扉をたたいておられる神
 そのような私たちの心の扉の外に、神が立って、扉をたたいておられる、とうことを語っている聖書の箇所が先ほど読まれました。ヨハネの黙示録第3章20節です。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」。戸口に立ってたたいている「わたし」とは、復活して天に昇り、父なる神のもとで栄光を受けておられる神の独り子イエス・キリストです。ご自身が神であり、私たちの救い主として地上を歩み、十字架の死と復活によって救いを実現して下さったイエス・キリストが、私たちの心の扉の外に立ってたたいておられるのです。主イエスを遣わして下さった父なる神が、独り子主イエスを通して私たちの心の扉をたたいておられるのです。この呼びかけに応えて心の扉を開いて主イエスを迎え入れることが、聖書の教える信仰です。自分から心の扉を開くことはなかなか出来ない私たちですが、固く閉ざされた私たちの心の扉を神がたたいて下さっているので、それに応えることによって、私たちも心の扉を開くことができるのです。

人間の自由を尊重する神
 ここに、聖書が教えている信仰のいくつかの大事なポイントが示されています。先ず、神は私たちの心の扉の外に立ってたたいておられるけれども、その扉を無理やりこじ開けて入って来ようとしているのではない、ということです。「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば」と言われています。戸を開けるのはあくまでも私たちです。神は私たちが戸を開けるのを忍耐強く待っておられるのです。つまり私たちの信仰は、神からの語りかけ、働きかけに私たちが自発的に応えることによって生じるのです。応えるか応えないかは私たちの自由です。聖書の神は、私たち人間の自由を大切にしておられます。神がこの世界と私たちをお創りになった、と聖書は語っていますが、神は私たち人間を、何でもご自分の命令に従うロボットとしてではなくて、神の呼びかけに応えて従うこともできるし、応えずに逆らうこともできる者としてお創りになったのです。神を信じるか信じないかは私たちの決断次第です。神がお創りになったこの世界に、人間の罪が満ちており、様々な苦しみや悲しみがあるのは、神が人間に、罪を犯す自由をも与えておられるためなのです。

既に扉をたたいておられる神
 しかしそこでもう一つ大事なのは、信じるか信じないか、従うか逆らうか分からない私たちに、神はいつも語りかけ、働きかけ、私たちの心の扉をたたいて下さっている、ということです。私たちが心の扉を開いて神を信じる者となるのは、神が先に語りかけ、戸をたたいて下さっているからです。私たちが求めたら語りかけて下さるとか、願ったら初めて訪ねて来て下さるのではありません。神はもう既に私たちのところに訪ねて来ておられ、戸口の外に立って、私たちがそれに応えることを願い、期待しつつ、扉をたたいておられるのです。この神からの語りかけ、働きかけに気づいて扉を開けることが私たちの信仰なのです。
主イエスと食事を共にする
 私たちが心の扉を開くと、主イエスが入って来られます。主イエスは入って来て何をなさるのでしょうか。扉を開いて主イエスを迎え入れると私たちに何が起こるのでしょうか。この20節には、「わたしは中に入ってその者と共に食事をする」とあります。主イエスは私たちと共に食事をなさるのです。それはどういうことなのでしょうか。食事を共にするというのは、とても親しい、まさにお互いを信頼して心を開いている友人どうしの交わりのしるしです。心の扉を開いて主イエスを迎え入れることによって、私たちは、イエス・キリストと、共に食事をするような親しい、心を開いた信頼関係に生きる者となるのです。信仰者になるというのは、主イエスとそのような関係を持って共に生きる者となるということです。

主イエスをもてなす、主イエスにもてなされる
 ところでここには「わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」とあります。私たちと主イエスが共に食事をするようになることが、二度繰り返されているのです。「わたしは中に入ってその者と共に食事をし」というのは、私たちが扉を開いたことによって主イエスが私たちの心の中に入って来られ、私たちの家の食事の席に連なる、ということでしょう。その食事は基本的に、私たちが主イエスをお迎えしておもてなしをする食事だと言えるでしょう。心の扉を開いて主イエスを迎え入れるというのは、主イエスを自分の心の大切な客としてお迎えしてもてなす、ということです。主イエスを信じる信仰者になるというのは、そのように主イエスを自分の心に、客としてお迎えすることなのです。しかしここには、「彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」とも語られています。共に食事をする、という意味では同じことですが、改めて「彼もまた、わたしと共に」と言われているのはなぜなのでしょうか。このことによって見つめられているのは、主イエス私たちを招いて、もてなして下さる食事ではないかと私は思います。つまり私たちは、心の扉を開いて主イエスを客としてお迎えして、おもてなしをする、そういう思いで信仰者になるのですが、しかしそこで実際に起るのは、むしろ主イエスが私たちをご自分の豊かな食卓に招いて、もてなしをして下さる、ということなのです。信仰者となって、主イエスと親しく共に生きる者となることによって私たちが体験するのはそういうことです。私たちが主イエスを客として迎えて、主イエスのためにおもてなしをし、奉仕をする、というのではなくて、主イエスが私たちのところに来て下さって、私たちをもてなして下さる、豊かな糧を与えて私たちを養って下さるのです。洗礼を受けてクリスチャンとなった者たちは皆、そういう体験をしているのです。

タダで養って下さる神
 神が豊かな糧を与えて養って下さることを語っている旧約聖書の箇所が先ほど朗読されました。イザヤ書第55章の始めのところです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」と語られています。神は、渇きを覚えている者、空腹な者に、水や穀物やぶどう酒や乳を与えて下さって、豊かに養って下さるのです。しかもここには「銀を持たない者も来るがよい」「来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」とあります。つまり神はこれらのものをタダで与えて下さるのです。それは、お金を払わなくてよい、ということであるよりも、神によるもてなしを受けるために私たちが整えなければならない条件は何もない、ということです。つまり、神が私たちを養って下さるのは、私たちが神のためにどれだけ奉仕したか、主イエスを迎えてちゃんともてなしをしたか、そういうことへの見返りとしてではないのです。私たちは、銀を持たない者です。価を払うことのできない者です。つまり心の扉を開いて主イエスをお迎えしても、ちゃんと食卓を整えておもてなしをすることができないのです。しかし主イエスは、そのような私たちを、ご自分の食卓に招いて、水や穀物やぶどう酒や乳を与えて、豊かに養って下さるのです。食べ物や飲み物を与えて下さるだけではありません。主イエス・キリストは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。ご自分の命を与えて、私たちに救いを与えて下さったのです。心の扉を開いて主イエスを迎え入れると私たちに何が起こるのか。ご自分の命をすら与えて、私たちを養って下さる主イエス・キリストのもてなしを豊かに受けて、だからこそ主イエスを信頼して共に生きることができるようになるのです。

扉を開いて主イエスを迎え入れるなら
 この主イエス・キリストが今、私たちの戸口に立ってたたいておられます。「開けろ」と無理やりドンドンとたたいているのではありません。「だれかわたしの声を聞いて戸をあげる者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と静かに、語りかけておられるのです。今日初めて教会の礼拝に来られた方々に、今すぐ扉を開いて主イエスを迎え入れなさい、とは申しません。見知らぬ人に扉を開くことは不安なことですし、世の中には人を破滅させるような教えを語っている宗教がありますから、よく気をつけなければなりません。ですから先ず、心の扉をたたいておられるイエス・キリストの静かな声に耳を澄ませていただきたいのです。その主イエスが、そして主イエスを私たちのところに遣わして下さった父なる神が、どのようなお方なのかを知っていただきたいのです。そのために、教会の礼拝に続けて参加していただきたいのです。そして、扉を開いてこの方をお迎えしたい、と思う時が来たら、勇気を出して主イエス・キリストを迎え入れて下さい。そこには、ご自分の命をも与えて私たちを愛して下さり、私たちの罪を赦して新しく生かして下さり、私たちに本当に必要なものを豊かに与えて養って下さる神の子イエス・キリストと共に生きる幸いな歩みが始まります。そして心の扉を開いて、主イエスを迎え入れ、主イエスによって支えられて歩むことの中でこそ私たちは、自分を守るために築いているアクリル板を取り除いて、他の人にも心の扉を開き、勇気をもって関係を築いていくことができるようになるのです。神との関係が新しくなることによって、私たちの人との関係も、新しくなっていくのです。

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