夕礼拝

主イエスの家族

「主イエスの家族」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第56章1-8節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第3章31-35節
・ 讃美歌 ; 18、393、78(聖餐式)

 
はじめに
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」。主イエスはご自身のもとに集まり、周りを囲んで座っている人々のことを、「わたしの母」「わたしの兄弟」と言われました。本日お読みした箇所は、内容的には、先週お読みした3章20節以下に続いている箇所です。20節には、「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もない程であった」とあります。ここで、家といわれているのは、弟子のシモンとアンデレの家です。ここで、主イエスは弟子のシモンのしゅうとめの熱を癒されました。主イエスがこの家にいる時にはいつも人々が集まって来ました。この時も、家の中は人でいっぱいになっていたことでしょう。本日お読みした箇所には、「大勢の人が、イエスの周りに座っていた」。とあります。主イエスを囲んで人々が座っていたのです。ここには様々な人がいました。使徒とされた人達や、主イエスの弟子達がいたでしょう。それだけでなく、病を抱えた人や悪霊に取り付かれた人もいたことでしょう。ここにいる人々は、その思いは様々ですが、主イエスを囲んで座っているのです。主イエスはその人々を見回され、「わたしの母、わたしの兄弟」と言われるのです。

イエスの身内の人々
 しかし、一方で、この家の中に入ってこない人々がいました。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」とあります。主イエスの身内の人たちも、この場所にやってきていたのです。ここでの母、兄弟というのは、主イエスの血縁関係における、母、兄弟です。けれども、この人々は家の中に入らずに、家の外に立っていたというのです。この人々は、先週お読みした20節にあるように、「イエスのことを聞いて取り押さえに来た」のです。この時、主イエスは、「あの男は気が変になっている」と言われていました。大工の息子として生まれた主イエスがある日突然、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語りだし、病を癒し、悪霊を追い出す等の様々な業を行い始めたのです。そしてそれを見た人々が「気が変になった」と噂をしだしたのです。家族としては、いてもたってもいられません。もうこれ以上、勝手に行動されたくない。そのような思いから、何とかしてイエスを取り押さえ、自分達の下に連れ帰そうとしていたのです。
「気が変になる」というのは、「外に立つ」という意味の言葉です。その人が、正気を失って、本来のその人ではなくなってしまっているような状態を示しています。身内の人たちは、主イエスが、自分の知っていたかつてのイエスと変わってしまったことに戸惑いを覚えたでしょう。もう自分達の身内のものではなくなってしまったような思いになったのはないでしょうか。この家族の思いは、わたし達にも理解し易いと思います。自分の身内のものが、自分の理解できる範囲を超えたことをしだすと、わたし達は不安を感じます。カルト集団に入信してしまった家族を奪回するために非常な努力をなしている人々がいます。何とか、かつてのように自分達の下に戻ってきてほしいと祈るのです。又、そのような深刻な問題に直面していないにしても、自分の身内を自分のもとに留めておきたいという思いは誰しも少なからず持っていると思います。親は子供に対して、自分の願う歩みをなしてほしいと思うものです。自分の思うような生き方をしてほしいと思うのです。そのような思いや期待が行き過ぎてしまうこともあります。時に親が子供のためを思ってなしていることがかえって空回りして子供を縛り付けてしまうということもあります。最近は、親離出来ない子供ということが言われると共に、子離なれ出来ない親ということも言われます。知らず知らずの内に家族のものを自分の内に置こうとしているのです。この時、主イエスの身内の人々は、主イエスをなんとかして、自分達の下に取り返そうとして必死になっていました。

イエスへの愛情
わたし達が家族を自分のもとにおいておこうとするのは、家族を愛しているからに他なりません。家族を愛するが故に、そばに置いておこうとするのです。主イエスの身内の人々も又、当然のことながらイエスを愛していました。わざわざ、ナザレからイエスを取り押さえに来たのには、これ以上人々から自分の身内のものが「変わり者」扱いされては困るという思いもあったでしょう。しかし、ただ、世間体、他人の目を気にしていたというだけではありません。そこには、当然、わが子、わが兄弟イエスに対する愛情があったのです。
その愛のために、必死になって主イエスを取り押さえようとしているのです。しかし、この時、身内の人々は、イエスを血縁によって結ばれた家族として愛していたに過ぎませんでした。身内の者であったために、イエスを自分の子、自分の兄、自分の弟と呼ぶことは出来ても、イエスを主と呼ぶことはできなかったのです。我が子イエスのことを受け入れることが出来ても、神の子として、主イエスを受け入れることが出来なかったのです。主イエスを取り押さえ、わが子イエス、わが兄弟イエスを取り戻そうとしたのです。ですから、神の国の福音を語る主イエスを取り押さえに来たのです。
この身内の人々は、主イエスのいる家のすぐ目の前にまで来ていながら、自分から家の中に入ることもしませんでした。人を使って、主イエスを家の外に呼び出し、自分達の下に引き戻そうとしているのです。家の中に入るのを恐れたのかもしれません。この家の中で、自分の知っている息子、兄弟イエスとは異なる主イエスの姿を見るのが嫌だった。家の中に入ることで、人々に、主イエスの身内のものだという眼差しを向けられることが耐えられなかったのかもしれません。いずれにしても、この人々は、主イエスのおられる家の中に入ろうとしないのです。そこには、主イエスのもとに行くことへの恐れがあるのです。その恐れが、外に立つという姿に表されていると言っていいでしょう。人を使ってイエスを外に出そうとするのです。主イエスは、家の中で、「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされたことが記されています。身内の人々は、当然イエスの居場所はわかっていました。ですから「捜す」というのは単純にイエスの居場所を突き止めるということを意味するのではありません。イエスを見つけて取り戻そう。自分達の支配下に置こうとしているのです。

主イエスの母、兄弟
しかし、主イエスは、外にいる母や兄弟を「御覧なさい」と言われたのに対して、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言われます。この時、おそらくここに集まる全てのものが、外にいる人々が、主イエスの母、兄弟であると思っていたことでしょう。しかし、主イエスは、周りに座っている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われるのです。主イエスは周りに座る人々を見回されたと記されています。家の外を見ることもせずに、御自分の下に座っている人々を見回されるのです。主イエスは、家の外にいる家族よりも、むしろ、御自分の下に座っている人々を見回されるのです。そして、そして、逆に、そこにいる人々に向かって、「見なさい」と声をかけられるのです。ここを「見なさい」。これこそ、わたしの兄弟、姉妹、母である。主イエスは、ここで、外にいる、血縁による家族を退けて、ご自身の周りに座っている人々こそ自分の兄弟、姉妹、母であると語っているのです。主イエスは、わたし達とは全く異なる視点で、家族ということを見つめているのです。そして、その主イエスと同じ視点で見ることを求めておられるのです。私たちはしばしば自分の視点でしか物を見ません。私たちの視点からすれば、主イエスが自分の家族として見ることは出来ないし、まして、主イエスを囲んで、共に座っている人などは家族として見ることは出来ないのです。しかし、主イエスは主なる神の視点で物事を見られるのです。そして、わたしたちにも「見なさい」と言われるのです。
教会は、主イエス・キリストの家族であると言われます。もちろん血縁による家族ではありません。主イエスがご自身の周りに座っているものを、わたしの母、わたしの兄弟、と語ってくださることによって家族なのです。皆共に、主イエスの下に座っている。ただ座っているのではありません。イエスを自らの主とする。そして共に、主イエスの御言葉に聞こうとしているのです。この家族は、わたし達にとって自明なことではありません。主イエスがそう語られなければ、決して家族とは言えない人々が家族とされているのです。詩篇133編の詩人は歌います「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。この家族は、わたし達が見出し得るものではありません。共に主イエスの周りに座り、主イエスがご自身の家族としてくださるところにこの交わりがあるのです。そして主イエスは、この恵みに目を向けるようにと言われるのです。

御心を行う人
 ここで、主イエスは「御心を行う人」こそがわたしの家族であると言われています。御心を行う人とは、何か立派な行いをする人のことではありません。この時、主イエスの周りに座る人々は、主イエスにとってどのように見えたのでしょうか。様々な病を持った人々、汚れた霊に取り付かれた人、後にご自身裏切る人々、自分の願いを叶えてもらおうとして主イエスに近づこうとする人、わたし達の常識からしてみれば、家族などと呼びたくもないような人々であったかもしれません。しかし、主イエスは、それを自分の家族と言われているのです。ここで、主イエスの血縁における家族と、この人々の違いは、外に立たずに、主イエスの周りに座っていたということです。そして、御心を行うというのは、何よりも、先ず、主イエスの下に座ることです。じっと座って、主イエスの御言葉に聞くのです。このことこそ主なる神が求めていることです。もちろん主イエスに仕えて、主イエスを証すること、奉仕の業に励むことは大切なことです。しかし、何よりも主イエスが願っておられることは、主イエスの下に座ることです。そのことがなされないで、わたし達が行動を起こそうとしても、神の御心を行うことにはなりません。何か、立派な行いをしようとする。自分から、必死にキリストを伝えようとする。教会の奉仕に精を出す。それらすべてのことは、主イエスの下に座るということ無くしてなされるのであれば、主の御心をなすことにはならないのです。そこで人々は、自分のしたい業をしてしまいます。神のために行うと言いながら、その業が、自己実現のための働きになってしまうことすらあるのです。そこでは、家の外に立っていた身内の人々のように、いつの間にか主イエスを自分の下に呼び出そうとする思いに縛られていってしまうのです。

神の子に対する躓き
わたし達は、主イエスの身内のものではありません。しかし、この時の身内の人々のように、主イエスのおられる場所の外に立とうとする時があります。その輪の内側にいるのではなく、外に立って、主イエスのことを気が変になっているとさえ言って取り押さえようとする。又、家の外から、主イエスを自分の方に引き寄せようとするのです。わたし達が主イエスを思い主イエスを愛する時、自分の思いに従わせようとしてしまうことがあるのです。親が、わが子のことを思いながらも、知らず知らずの内に、自分の思いに従わせようとするかのように、主イエスを自分の思いに従わせようとしてしまうのです。そして、自分の思いの中に主イエスを留めておこうとすることがあるのです。しかし、それは、本当の意味で主イエスを愛していることにはなりません。身内の人々が、血縁で結ばれた家族としてだけ愛そうとしたように、自分がこういう救い主であってほしいと願うイエスの姿を思い描き、そのような主イエスを愛そうとしているのです。
どうして、そのように主イエスを自らの内に、引き寄せようとするのでしょうか。それは、主イエスが示される業が、人間にとって躓きになるからに他なりません。主イエスのお姿が、自分の理解し得る範囲のものであれば何も主イエスを取り押さえ、自分の下に引き寄せようとする必要はありません。主イエスのお姿が、自分の理解を超えている。そのことに人々は躓くのです。マルコによる福音書6章は、主イエスが生まれ故郷のナザレに行かれた時の人々の反応が示されています。「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように人々は主イエスにつまずいた」(6:3)。自らの故郷の人々にとっても、主イエスは躓きでした。大工の家に生まれた主イエスが、神の国の福音を語る姿に躓かざるを得なかったのです。キリスト者とは、イエス・キリストを愛するもののことです。しかし、この愛が、主イエスを自らの主として愛するのでなければ、この方の真の神の子としての姿に躓くことになってしまいます。そして、この躓きの中で、いつの間にかこの方を自分の思いに従わせようとしてしまうことがあるのです。神様のご支配の内に身を置くことをしないで、外に立って、主イエスを取り押さえようとしてしまう。自分の良識の内に押し込めてしまうのです。神の国の福音を信仰によらずに、人間の思い、良識で考える時に世に生きる人間が経験する躓きがあるのです。しかし、これは、世に生きるものが、キリストの福音に接する時に必ず経験する躓きなのです。私の肉の息子、私の肉の兄弟イエスが、神の子として歩みだす。大工の息子イエスが神の福音を語りだす。そして、十字架につけられて殺されたイエスが神の子であり、三日目に復活する。ここには、人間の目から見れば躓きでしかない神の業があるのです。この躓きは無くなることはありません。しかし、わたし達はどこかで、この躓きを取り除こうとしてしまいます。しかし、そこで、自分達の視点や思いによって、この躓きを取り除こうとしてしまうのであれば、そのことによって、救い主なる主イエスを取り押さえようとすることになる。主イエスの家の外に立って、主イエスを呼び出そうとすることになるのです。
主イエスが願っておられるのは、そのように、主イエスを自らの下に引き寄せようとするのではなく、主イエスのおられる場所、主イエスの家に留まるということです。主イエスの御言葉、福音の中に留まることです。そこにこそ、わたし達の救い、罪人の赦しがあるのです。この救いは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって示されています。それは、わたし達の理性のみで考えれば躓きでしかないでしょう。しかし、そのことが、わたし達を罪から救うための神の救いの業なのです。

聖餐の恵み
 本日、この後、聖餐に与ります。主イエスは、この食卓を、ご自身が十字架に赴く前に弟子達と囲まれました。又、復活された時にも又、弟子達と共になされました。主イエスは十字架と復活という救いの業の前後に、ご自身の周りに座る弟子たちと食卓を囲まれたのです。これは、主イエスの十字架と復活に触れて、この方の救いに与るものたちの食卓です。この食卓を共にするものたちこそ、主の家族なのです。ここに主イエスが共にいて下さり、主イエスの恵みをしっかりと受け取れないわたし達の信仰を呼び起こすために、はっきりとした仕方でご自身を示して下さっているのです。私たちは、主の目から見て、欠けの多いものかもしれません。時に、主イエスを自分の思いに従わせようとするかもしれません。しかし、ここで共に座り、食卓につく時に、主イエスがわたし達を見まわし、「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と語ってくださっているのです。そして、この方の救いを味わい知ることによって、わたし達は共に家族とされているのです。これは、わたし達が知りうることではなく、神の恵みとして与えられることです。そのような主の家族にいれられていることの恵みを味わいつつ、歩みだしたいと思います。

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