夕礼拝

子どものように

説教題「子どものように」 副牧師 川嶋 章弘
旧 約 ヨエル書第2章12-17節
新 約 ルカによる福音書第18章15-17節

神の国について語られている
 ルカによる福音書18章を読み進めています。18章に入ってからこれまで主イエスは二つの譬えを語られてきました。「やもめと裁判官の譬え」(1~8節)と「ファリサイ派の人と徴税人の譬え」(9~14節)です。前者では、不正な裁判官ですら、ひっきりなしにやって来るやもめの訴えを聞いて裁判を行ったのであれば、まして神様は、昼も夜も叫び求める私たちの祈りを聞いて、裁いてくださるに違いないと語られ、だから気を落とさずに絶えず祈るよう言われていました。後者では、ファリサイ派の人がほかの人と自分自身を見て、自分がほかの人たちのようではないことに感謝して祈ったのに対して、徴税人はただ神様だけを見て、自分が神様の前に立ち得ない罪人であることを深く知り、一言、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったことが語られ、義とされて家に帰ったのは徴税人であって、ファリサイ派の人ではない、と言われていました。この二つの譬えの共通点は「祈り」であるように思えます。確かに前者ではやもめのように落胆せずにあきらめることなく祈ることが見つめられ、後者では徴税人のようにただ神様だけを見つめて神様に罪の赦しを求めて祈ることが見つめられていました。しかし両者の共通点はそれだけではありません。それぞれを読むだけでは気づきにくいかもしれませんが、17章20節からの文脈の中で読むと一貫したテーマが示されます。それは神の国、神のご支配です。17章20~21節で主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われていました。神の国、神のご支配は、主イエス・キリストがこの世に来てくださり、とりわけ十字架で死なれ復活されることによって、すでに私たちのただ中に実現しているのです。しかし続く22節で主イエスはこのようにも言われていました。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」。人の子の日、つまり復活して天に上げられたキリストが再びこの世に来てくださる日を見たいと望んでも、見ることができない時代が来ると言われたのです。私たちが生きているのはまさにこの時代です。神のご支配が完成するのはキリストが再び来てくださるときです。しかし私たちはその神のご支配の完成を見たいと望んでも見ることができない時代に生きているのです。確かにキリストの十字架と復活によってすでに神のご支配は実現しています。しかし今、私たちの目でそのご支配を見ることはできません。むしろ私たちの目に見える現実は、神のご支配がないかのように思える現実、「どうしてこんなことが起こるのだろうか」と思わずにはいられない現実です。しかしそのような現実の中で、キリストが再び来られるときまで、私たちは目には見えない神のご支配を信じて歩んでいくのです。神様を信じて生きるとは、すでにキリストによって神のご支配が実現し、しかしなおそのご支配が完成していない中で、目に見えない神のご支配を信じて生きることなのです。主イエスが「やもめと裁判官の譬え」を語られたのは、私たちが目に見えない神のご支配を信じて生きるために気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるためでした。また「ファリサイ派の人と徴税人の譬え」を語られたのは、ただ神様だけを見つめ、罪の赦しを求める者こそが義とされ、神の国、神のご支配に入れられることを示すためでした。このように17章20節以下では神の国、神のご支配について語られていて、本日の箇所でも同じテーマで語られています。それは16節で主イエスが「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われていることからも分かります。本日の箇所でも神の国、神のご支配に入れられるのはどのような者なのかが語られているのです。

ルカ福音書ならではのメッセージ
 本日の箇所の出来事は、マルコによる福音書10章13~16節とマタイによる福音書19章13~14節でも語られています。福音書の中で最初に書かれたのはマルコ福音書と考えられているので、この箇所でルカ福音書は、マルコ福音書を下敷きにしていると考えられます。両者を比べるとほとんど同じですが幾つか違いもあります。その違いは、後から書かれたルカ福音書が下敷きにしたマルコ福音書を変更した部分であり、そこにルカ福音書ならではのメッセージがあるのです。私たちはそのことに目を向けつつ、この箇所で見つめられていることを受けとめていきたいのです。

主イエスに触れていただくために
 冒頭15節にこのようにあります。「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った」。人々は主イエスに触れていただくために乳飲み子を連れて来ました。これまでもルカ福音書は、人々が主イエスに触れようとしたことを語ってきました。6章19節では、「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」と語られていました。また7章36節以下では、ある罪深い女が主イエスに近寄り、主イエスの足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、その足に接吻して持ってきた香油を塗ったことが語られていました。あるいは8章40節以下でも、十二年出血が止まらない女性が後ろから主イエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まったことが語られていました。そのとき主イエスは「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われています。このように群衆が、罪深い女が、十二年出血が止まらない女性が、主イエスに触れようとして主イエスのもとにやって来たのです。本日の箇所でも同じように人々は主イエスに触れようとして主イエスのもとにやって来ました。ただそれは、自分自身のためではなく自分の子どものためでした。自分の子どもが主イエスに触れていただき、力を与えられ、恵みと祝福を受けることによって健やかに成長することを願って連れて来たのです。マルコ福音書には、「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」(10章16節)とあり、主イエスが子どもたちに手を置いて祝福されたと語られています。ルカ福音書でも、主イエスに手を置いて触れていただき、祝福してもらうために、人々は自分の子どもを主イエスのもとに連れて来たのです。

乳飲み子
 冒頭15節にもマルコ福音書との違いが見いだせます。マルコ福音書10章13節では、「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」と語られています。マルコ福音書が「子供たちを連れて来た」と語っているところを、ルカ福音書は「乳飲み子までも連れて来た」と語っていて、「子供たち」を「乳飲み子」に変えているのです。「子供」と訳された言葉は、通常、思春期より下の年齢の子どもを指す言葉で、赤ん坊も含みますが、幅の広い年齢の子どもが含まれます。それに対して「乳飲み子」とは、文字通り乳児を指す言葉であり、また福音書の中ではルカ福音書だけで使われている言葉です。あのクリスマス物語で、天使が羊飼いに「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と告げましたが、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」の「乳飲み子」がこの言葉です。飼い葉桶に寝かされている主イエスを思い浮かべれば、人々が連れて来た「乳飲み子」のイメージも湧くのではないでしょうか。マルコ福音書では、子どもたちは親に連れて来られたとはいえ、自分で歩いて来たのかもしれません。しかし飼い葉桶の中に寝かされた主イエスと同じような乳飲み子であれば、もちろん歩くこともできなかったし、もしかしたら首も座っていなかったかもしれません。親が抱きかかえて連れて来るしかなかったのです。自分から主イエスに触れることもできないので、主イエスに触れていただくしかなかったのです。

大人を叱った弟子たち
 そのような乳飲み子を人々が連れて来ると、主イエスの弟子たちは「これを見て、叱った」と言われています。原文を直訳すれば「弟子たちは、これを見て、彼らを叱った」となり、弟子たちが叱ったのは、乳飲み子ではなく、乳飲み子を連れて来た大人たちであることが分かります。弟子たちが大人たちを叱った理由については色々と想像することができます。彼らは自分たちが主イエスのボディーガードであることを自負して、主イエスの安全を確保するために叱ったのかもしれません。あるいは主イエスの忙しさを心配してのことかもしれません。エルサレムに向かう途上で、主イエスは群衆に語りかけ、ファリサイ派の人たちや律法学者たちと論じ合い、弟子たちに教えておられました。忙しく慌ただしい日々を送っていたのです。それを間近に見ていた弟子たちは、この上、乳飲み子までも構っていたら先生が倒れてしまう、という思いがあったのではないでしょうか。ルカ福音書は、わざわざ「乳飲み子を」ではなく「乳飲み子までも」と語っています。それは、大人だけでも子どもだけでもなく乳飲み子までも主イエスのもとにやって来たということを強調しているだけでなく、大人と子どもはともかくとして、乳飲み子までも相手にしていられない、という弟子たちの思いをも強調していると思います。もしかしたら弟子たちはより自己中心的な思いから叱ったのかもしれません。彼らは自分たちこそが主イエスの近くにいる特権を持っていると思っていて、乳飲み子が大人に抱えられて主イエスに近づいてくることに、その特権が侵害されたような不快感を覚えたのかもしれません。随分と弟子たちは心が狭いということになってしまいますが、彼らが自分たちの間で誰がいちばん偉いか議論していたことを考えれば(9章46節、22章24節)、あながち的外れでもないように思います。いずれにしても弟子たちは乳飲み子を連れて来た大人たちを叱ったのです。

乳飲み子を招く神
 しかし主イエスは、「乳飲み子たちを呼び寄せて」、このように言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」。弟子たちは乳飲み子たちを連れて来た大人たちを見て、その人たちを叱りました。彼らの眼差しは乳飲み子ではなく大人たちに向かっていたのです。しかし主イエスは乳飲み子を抱えている大人ではなく、乳飲み子をご自分のもとに呼び寄せられました。もちろん乳飲み子は大人に抱えられているので、乳飲み子だけでなく大人も主イエスのもとに来ることになります。それでも主イエスの眼差しは大人たちではなく乳飲み子たちに向けられていたのです。「呼び寄せる」と訳された言葉は、神様の招きを表すのに使われる言葉です。使徒言行録2章39節に「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」とありますが、「わたしたちの神である主が招いてくださる者」の「招いてくださる」がこの言葉です。ですから主イエスが乳飲み子たちをご自分のもとに呼び寄せ、招かれることに、神様の招きが見つめられています。主イエスはご自分のもとに乳飲み子たちを呼び寄せることによって、神様がこの乳飲み子たちをも招いておられることを示されたのです。この10節冒頭は、マルコ福音書ではこのように語られています。「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた」(10章14節)。マルコ福音書では、弟子たちが人々を叱ったのを見て、主イエスが憤った、と語られているのに対して、ルカ福音書では、主イエスは弟子たちに対して憤るのではなく、「乳飲み子たちを呼び寄せ」たと語られているのです。つまりルカ福音書はマルコ福音書とは違い、主イエスの怒りではなく、主イエスの招きを強調しています。主イエスが乳飲み子たちを招かれることを、そして神様が乳飲み子たちを招かれることを強調しているのです。

神の招きを妨げてはならない
 そして主イエスは「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と言われました。直訳すれば、「わたしのところに来ることを子どもたちに許せ」となります。大人たちに抱かれた乳飲み子たちが主イエスのところに来ることを許せ、と命じられたのです。弟子たちは主イエスの安全を確保するために、あるいは主イエスの忙しさに配慮して、もしかすると自分たちの特権が脅かされる不快感から、乳飲み子たちを連れて来た大人たちを叱りました。しかしそれは乳飲み子たちが主イエスのところに来ることを許さないこと、妨げることであり、神様の招きを許さないこと、妨げることになるのです。弟子たちが大人たちを叱った理由がなんであれ、彼らは神様の御心に目を向けるよりも、自分の思いや考えに目を向けていたのです。そのことによって乳飲み子をも招かれる神様の招きを妨げてしまったのです。主イエスはそのような自分の思いや考えに縛られるのではなく、子どもたちがご自分のもとに来ることを許せ、妨げるな、と命じられたのです。
 私たちは弟子たちを他人事のように批判することはできないと思います。私たちも自分の思いや考えにとらわれて、神様の招きを妨げてしまうことがあるからです。教会の安全を確保するために、教会の営みが忙しくならないように、あるいは自分たちの居心地の良さが損なわれないように、というような理由で、教会を訪れる方を拒んでしまうことがあります。もちろん教会の安全確保も、円滑な営みも、居心地の良さも疎かにすべきものではありません。しかしそうであったとしても私たちは、これらのことに目を向ける余り、神様の招きを妨げることになっていないか絶えず気をつけなくてはなりません。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」という主イエスのお言葉は、ほかならぬ私たちに神様の招きを妨げないよう告げてもいるのです。

子どものように
 乳飲み子が主イエスのもとに来ることを妨げてはならない理由を、主イエスは、「神の国はこのような者たちのものである」と語っています。そして続く17節で「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とも言われています。「このような者たち」とは、子どもたちではなく、子どものような人たち、ということです。そしてルカ福音書においては、乳飲み子のような人たち、ということにほかなりません。つまりここで主イエスの視点は、神様が乳飲み子たちをも招かれることから、神の国、神のご支配に入れられるのはどのような者かへと移っているのです。乳飲み子のように神の国を受け入れる人でなければ、決して神の国に入ることはできない。だから神の国、神のご支配は、乳飲み子のような人たちのものである、と言われているのです。「子供のように」とは、何を意味しているのでしょうか。私たちは子どものような人と言われると、純真無垢で罪のない人を思い浮かべるかもしれません。しかし聖書は子どもが純真無垢で罪がないとは語っていません。あのアダムの罪以来、子どもも罪の力の支配の下に生まれてくるのであり、罪人であることに変わりはないのです。そもそも私たちは、子どもを可愛いと感じることがある一方で、子どもが相手の気を引こうとして嘘をついたり、癇癪を起こして人や物にあたるのを知っています。ですから神の国が子どものような人たちのものであるとは、神の国は純真無垢で罪のない人たちのものである、という意味ではありません。そうであれば、誰も神の国に入ることはできないのです。
 子どものように、とりわけ乳飲み子のように神の国を受け入れるとは、ただひたすらキリストによって実現した神の恵みのご支配を受け入れて生きることです。私たちはしばしば目に見えない神の恵みのご支配を信じられず、その証拠が欲しいと思ってしまいます。「どうしてこんなことが起こるのだろうか」と思わずにはいられない現実の中で、神の恵みのご支配を受け入れるための証拠を求めてしまうのです。しかし乳飲み子は、徹底的に受け身で生きるしかありません。自分で主イエスのもとに来ることができないので、親に抱きかかえて連れて来られるしかなかったし、自分から主イエスに触れることもできなかったので、主イエスに触れていただくしかなかったのです。言葉で自分の気持ちを伝えることができないので泣いて訴えるしかありませんし、自分で食事を摂れないので与えられる乳によって養われるしかないのです。しかしまさにこのような乳飲み子の姿こそ、神の国を受け入れる者の姿なのです。乳飲み子が母親の乳をひたすら吸うように、与えられている神の恵みのご支配をただひたすら受け入れるのが、子どものように、乳飲み子のように神の国を受け入れることです。乳飲み子が自分では何もできず、周りの人たちが、とりわけ親が与えるものに完全に頼っているように、神様が与えてくださるものに完全に頼り切り、それをひたすら受け入れる者が、乳飲み子のように神の国、神のご支配を受け入れる者なのです。

神のご支配を告げるみ言葉を受け入れて
 主イエスは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われます。すでに神のご支配は、キリストの十字架と復活によって私たちのただ中に実現しています。その神のご支配を子どものように、乳飲み子のようにただひたすら受け入れるのでなければ、将来、世の終わりにキリストが再び来てくださり、神のご支配が完成するときに、そこに入ることはできないのです。私たちは世の終わりにこの目で神の国、神のご支配を見ることができるでしょう。しかしそれまでは目に見えないけれど、確かに実現している神のご支配を受け入れ、信じていくのです。将来、目で見ることができたら信じるのではありません。今、目に見えない神のご支配を信じることが求められているのです。とはいえ目に見えるものに惑わされてしまいがちな私たちが、乳飲み子のように神の国を受け入れるためには、どうしたら良いのでしょうか。それは、私たちが神の国について告げる神の言葉を受け入れ続けるしかありません。乳飲み子のように神の恵みのご支配をただひたすら受け入れることは、神のご支配を告げる神の言葉をただひたすら受け入れることによってこそ起こされていくのです。私たちは日々、目に見えるものに、あるいは自分の思いや考えに翻弄され、神の恵みのご支配を受け入れることができずにいる者です。そのような私たちが主の日毎の礼拝で、乳飲み子のように徹底的に受け身になって、神の恵みのご支配を告げるみ言葉をただひたすら受け入れることを通して、すでにキリストによって実現した神の恵みのご支配のもとに生かされていることを知らされ、そのご支配を受け入れる者とされていくのです。神様が与えてくださるものに完全に頼り、それをひたすら受け入れる者とされていくのです。

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