夕礼拝

主の思いを知らされている者

6月4日(日) 夕礼拝
「主の思いを知らされている者」 副牧師 川嶋章弘
・民数記第15章27-31節
・ルカによる福音書第12章35-48節

もう一つの約束
先週、私たちはペンテコステ礼拝を守りました。ペンテコステの日に、聖霊が弟子たちの上に降り、弟子たちは主イエスによる救いを力強く語り始め、三千人ほどの人々が洗礼を受けて最初の教会が誕生したのです。ルカ福音書の続きである使徒言行録によれば、復活された主イエスは40日に亘って弟子たちに現れた後、天に昇られ、それから10日目に、つまり主イエスの復活から50日目に聖霊が降りました。使徒言行録1章8節には、天に昇られる前に主イエスが弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」という約束を与えてくださったと記されています。この主イエスの約束通りにペンテコステの日に聖霊が降ったのです。しかし使徒言行録が記している約束は、それだけではありません。主イエスが天に上げられ、弟子たちの目から見えなくなったとき、天を見つめていた弟子たちに、神様の使いが現れてこのように告げたのです。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(1章11節)。天に上げられた主イエスは、もう一度、天から来てくださる。この約束も弟子たちに与えられていたのです。聖霊が降るという約束は実現しました。しかも主イエスの昇天からたった10日で実現したのです。ではもう一つの約束、天に上げられた主イエスが再び来てくださるという約束は実現したのでしょうか。実現していません。主イエスの昇天から2000年以上経た今も、実現していないのです。

主の再臨を待ち望まない教会はない
ペンテコステの日に誕生した教会は、聖霊に導かれ世の人々に主イエスによる救いを宣べ伝えて歩んできましたし、今も歩んでいます。それだけでなく教会は、主イエスが再び天から来てくださるのを待ち望みつつ歩んできました。しかしそれは、主イエスによる救いを宣べ伝えることと、主イエスが再び天から来てくださるのを待ち望むことが、別々のことであるということではありません。主の救いを宣べ伝えるけれど、主が再び来るのを待ち望まない教会はあり得ないし、逆もまたあり得ません。別の言い方をするならば、伝道はするけれど主の再臨を待ち望まない教会はあり得ないし、逆に、主の再臨を待ち望むけれど伝道はしない教会もあり得ないのです。なぜなら教会が宣べ伝えている主イエスによる救いとは、主イエス・キリストが私たちの救いのために十字架で死んでくださり、復活してくださり、天に昇られ、聖霊を降し、そして世の終わりに再び天から来て救いを完成してくださる。このことにほかならないからです。教会が、私たちが、世の終わりの主イエスの再臨と救いの完成を信じ、待ち望むことなしに、主イエスによる救いを宣べ伝えられるはずがありません。信じてもいないことを宣べ伝えられるはずがない。信じてもいないことをいくら語ったところで伝道は進むはずがないのです。伝道する教会とは、主イエスの再臨を待ち望みつつ、主イエスの再臨によって実現する救いの完成を人々に告げ知らせる教会でしかあり得ないのです。

主の再臨を待ち望むのは難しい
そうではあるのですが、主イエスの再臨を待ち望むのは難しいことであるのも確かです。今を生きる私たちにとってだけ難しいのではありません。教会は誕生してから程なくしてこの困難に直面しました。それ以来、今に至るまで、主イエスの再臨を待ち望むことの難しさは大きくなりこそすれ、小さくなることはありませんでした。本日の箇所で主イエスは、ペンテコステの後に、この困難に直面しつつ教会を担っていく弟子たちに、そして今、教会を担っている私たちに向けて、主の再臨を待ち望むことについて教えてくださっているのです。

思いがけない時に来る
それにしても主の再臨を待ち望むことの難しさは、どこにあるのでしょうか。主イエスは39、40節でこのように言われています。「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。「人の子」とは、主イエスがご自身のことを言い表すときに用いた言葉です。主の再臨を待ち望むことの難しさは、人の子、つまり主イエスが思いがけない時に再び天から来てくださることにあります。いつ来てくださるか分かっているなら私たちは忍耐して待つことができるかもしれません。でも「思いがけない時に」来られる主イエスを、いつ来てくださるか分からない主イエスを待ち続けることに、私たちは難しさを覚えずにはいられないのです。「家の主人は、泥棒がいつやって来るのかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう」というのは、このことを見つめています。いつ泥棒がやって来るのか分かっていたなら、私たちは万全の対策をして、必要ならホームセキュリティを導入して、自分の家に泥棒が押し入らないようにすることができます。しかしいつ泥棒がやって来るのか分からないから、私たちは対策の隙を突かれて、自分の家に泥棒が押し入るのを許してしまうのです。同じように主イエスがいつ来てくださるか分かっているなら、私たちは備えて待つことができるかもしれません。でもいつ来てくださるか分からないから、私たちの備えは疎かになってしまうのです。そのような私たちに主イエスは「あなたたちは用意していなさい」、「備えていなさい」と言われます。泥棒がいつ来るか分からないからこそ、気を緩めることなく日頃から備えておくように、主の再臨が思いがけない時に起こるからこそ、準備をして、緊張感を持って待ち続けなさい、と言われるのです。

いつ帰って来るか分からない
35-38節でも主イエスは譬え話を通して同じことを教えています。35-36節に「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」とあります。「主人」と訳されている言葉は、「主」と訳される言葉であり、婚宴に出かけた主人とは、天に昇られた主イエスの喩えです。主イエスの昇天が婚宴に出かけることに喩えられているのは、婚宴に出かけるといつ帰って来るか分からなかったからだと思います。私たちが出席する披露宴は2~3時間であり、披露宴に出かけたからといって帰って来る時間が分からないということはありません。しかし当時の婚宴はそうではありませんでした。ユダヤ人の婚宴は通常一週間続きました。新郎新婦の近しい人たちは一週間ずっと参加したようですが、そうでない人たちは途中から参加したり、途中で帰ったりしたようです。新郎ないし新婦の父親が裕福であるときは、婚宴に村全体を招待することもあったようで、おそらく村の人たちは一週間続く婚宴に入れ替わり立ち代わり出席して、新郎新婦を祝福したのだと思います。ですから婚宴に出かけるといつ帰って来るか分からなかったのです。一週間帰って来ないかもしれないし、途中で帰って来るかもしれない。帰って来るとしても真夜中なのか夜明けなのかも分からない。38節に「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」と言われているのは、このためです。

腰に帯を締め、ともし火をともして
主イエスは、いつ婚宴から帰って来るか分からない主人が、いつ帰って来ても良いように「腰に帯を締め、ともし火をともして」待っていなさい、主人が帰って来て戸を叩いたときに、すぐに戸を開けられるように待っていなさい、と言われます。「腰に帯を締める」というのは、すぐに動ける準備ができているということです。いつ何時主人が帰って来ても良いように、僕たちは腰に帯を締めて、いつでも働けるように備えていなくてはならないのです。主人が真夜中に帰って来ても良いように、ともし火をともしておく必要もあります。暗闇の中を帰ってくる主人の目印となるためです。このように主人がいつ帰って来ても大丈夫なように目を覚まして、準備して待っているならば、主人が帰ってきて戸を叩くとき、僕はすぐにその戸を開けることができるのです。
私たちも「腰に帯を締め、ともし火をともして」、目を覚まして、主イエスの再臨を待ち続けなくてはなりません。このことは言うまでもなく、いつも動きやすい服を着ているとか、夜も電気を消さないとか、徹夜しなくてはいけないというようなことではありません。そうではなく、いつ主イエスの再臨が起こっても良いように準備し、緊張感を持って待ち続けるということにほかならないのです。

神の国の祝宴に連なる約束
そのように待っている僕たちのところに主人が帰ってくるとき、つまりそのように待っている私たちのところに、主イエスが再び来てくださるとき、驚くべきことが起こります。37節にこのようにあります。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」。本来、僕たちこそが、婚宴から帰って来て食事の席に着いた主人のそばで給仕しなくてはならないはずです。ところが帰ってきた主人の方が帯を締めて、「僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」のです。これは驚くべきことです。このようなことは、普通の主人と僕の間では決して起こりません。しかし主イエスと主イエスの僕である私たちとの間では、起こり得ないことが起こるのです。世の終わりに再び来てくださる主イエスは、私たちを神の国の祝宴の席に着かせてくださり、そばに来て私たちのために給仕してくださいます。本来、私たちこそが主イエスに仕えるべきなのに、神の国の祝宴においては主イエスが私たちに仕えてくださるのです。地上における婚宴も喜びに溢れています。しかしその喜びとは比べようもない大きな喜びで溢れている神の国の祝宴に、私たちは世の終わりに連なるのです。世の終わりに主イエスが再び来てくださり、救いを完成してくださるとき、私たちは復活と永遠の命に与り、神の国の祝宴に連なり、まことに大きな喜びと救いの恵みに満たされます。この約束が、再び来てくださる主イエスを待ち望みつつ歩んでいる私たちに与えられているのです。

忠実で賢い管理人として生きることへの招き
とはいえ準備をして、緊張感を持って、再び来てくださる主イエスを待ち望みつつ生きるとは、どのように生きることなのでしょうか。本日の箇所の後半では、このことが見つめられています。42節で主イエスは「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」と言われています。ここで言われているのは、信仰者の間にも、管理人のような働きを担う人と、その管理人に仕える召使いのような人がいるということではありません。神様の御前にあって、信仰者の間には何の区別もないからです。ですから主イエスに従う人の間の区別が語られているのではなく、主イエスに従う人は誰であっても、「忠実で賢い管理人」になるよう勧められているのです。この主イエスのお言葉は、すべてのキリスト者に向けられた、「忠実で賢い管理人」として生きることへの招きなのです。

忠実に賢く仕える
この「忠実で賢い管理人」とは、43節に「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」とあるように、主人が帰って来るまで、主人の言われた通りにしていた僕のことです。この譬え話では、具体的には42節にあるように「時間どおりに食べ物を分配し」ていたということでしょう。旅立つ前、主人はこの僕に食料を預け、その管理を委ねました。僕は与えられた務めに、忠実に賢く仕えたのです。「主人の言われた通りにしていた」というのは、主人の言われたことだけをしていたのでもなければ、自分ではなにも考えなかったのでもありません。むしろ預けられた食料を適切に管理するために、その時その時、精一杯考え、判断し、実行したのです。ここで言われている「賢い」とは、単に頭が良いとか、知識や経験が豊富であるとかではなく、自分の持てる力のすべてを用いて判断し、実行していくことです。そのように与えられた務めに忠実に仕えた僕に、帰って来た主人は、「全財産を管理させるにちがいない」と言われています。主人はこの僕に食料だけでなく、自分の持っているすべての物を預け、その管理を委ねるに違いないのです。

主人の帰りは遅れる
それに対して「忠実で賢い管理人」でない僕について、45-46節でこのように言われています。「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」。下男や女中を殴るとか、食べたり飲んだり酔っ払ったりするというのは、主人から与えられた務めを放棄しているだけでなく、主人のものを自分のものとし、自分が主人となってしまうことです。そのようになってしまう理由は、どこにあるのでしょうか。それは、この僕が「主人の帰りは遅れる」と思ったことにあるのです。

主の再臨への緊張感が失われるとき
私たちはいつ主イエスが再び来られるか分かりません。教会が誕生してから今まで、2000年に亘って主イエスの再臨は実現しませんでした。しかしだからといって、主イエスの再臨が遅れていると思い、それに備えることを怠るならば、私たちは「主人の帰りは遅れる」と思っていた僕となんら変わらないのです。なにより主の再臨が遅れているから、それに備えなくても良いという思いの根底にあるのは、早ければ備えるけれど遅ければ備えないという時間の問題ではなく、本気で主イエスの再臨を信じていない不信仰です。いつかは分からないけれど、再び天から来てくださり、救いを完成してくださるという約束を、真剣に受けとめていないのです。主の再臨を本気で信じて生きないとき、私たちは主イエスを主人として生きるのではなく、自分を主人として生きるようになり、自分勝手に生きるようになります。好きなだけ食べたり、飲んだり、酔っ払ったりして、自分さえ楽しく生きられれば良いと思うようになるのです。
このような自分さえ楽しく生きられれば良い、あるいは自分が生きている間だけ楽しめれば良いという風潮が、私たちの社会を覆っているように思えます。自分の幸せを最大化することが当然の権利であるかのように言われます。しかしその陰で、多くの人が苦しんでいることに気づこうとはしません。自分が生きている間だけ楽しむことを積極的に求めるよう言われることもあります。そのとき次の世代の苦しみに目を向けられることはありません。私たちが主の再臨を本気で信じないならば、私たちもこのような社会の風潮、言い換えるならば神様から引き離す罪の力に飲み込まれてしまうのです。主の再臨への緊張感が失われるとき、私たちの信仰は崩れてしまうのです。

主の思いを知らされている者
主イエスの再臨を信じ、緊張感を持って再び来てくださる主イエスを待ち望んで生きるとは、主イエスが来られるときまで、私たちが主イエスの言われた通りにして生きることです。47節に「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる」とあります。主イエスの思いを知らされている私たちは、そうならないように、その思いに従って生きていかなくてはなりません。私たちが「忠実で賢い管理人」として生きるとはそういうことなのです。この「思い」と訳されている言葉は、「意志」や「計画」と訳せる言葉です。私たちは主イエスの意志、主イエスの計画を知らされている者として、その意志と計画に従って生きていくのです。しかしそれは、主イエスのご計画通りにできなければ駄目だ、ということではありません。計画通りにできないから鞭打たれるのではないのです。そもそも私たちは主イエスの計画のすべてを担うことなどできないし、主イエスの意志に背いてしまう弱さや欠けを抱えています。しかしそうであったとしても、主イエスの意志を受けとめ、その計画に仕えるために少しでも用いられて生きようとすることこそが、主の思いを知らされている者として生きることなのです。主イエスの再臨を信じ、緊張感を持って再び来てくださる主イエスを待ち望んで生きるとは、主の思いを知らされている者として、弱さや欠けを抱えつつも主イエスの計画に仕え、主が与えてくださった務めに仕え、自分の持てる力のすべてを用いて考え、判断し、実行して生きていくことにほかならないのです。
主の思いを知らされている者は、知らされていない者よりも多くを求められるとも言われています。この箇所の最後で「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」とある通りです。そして主の思いを知らされているにもかからず、その思いを受け止めず、主イエスに従うことなく生きた者は、主の思いを知らずに主イエスに従うことなく生きた者よりも、ひどく鞭を打たれ、厳しく罰せられる、と言われているのです。そのように言われると、主イエスの思いを知らないほうが良かったのではないかと思うかもしれません。知らずに主イエスに背いた方が軽い罰で済むなら、主の思いを知ることなく、自分勝手に生きたほうが得なのではないかと思うのです。しかし忘れてはいけません。主の思いを知らされている者として、再び来てくださる主イエスを待ち望みつつ生きる私たちに、世の終わりに神の国の祝宴に連なりまことに大きな喜びで満たされる、という約束が与えられているのです。このことにまさる喜びはなにもありません。この約束のゆえに、主の思いを知らされている私たちは、感謝と喜びを持って与えられた務めに忠実に仕え、与えられた賜物を精一杯用いて生きていくのです。

伝道する教会
「ともし火をともしていなさい」と主イエスは言われました。主人がいつ帰って来ても良いようにともし火をともすとき、そのともし火は、帰って来る主人の目印になるだけではありません。ともし火をともして主人を待っている人がいることを、世の人々に伝えることにもなるのです。同じように私たちが主イエスの再臨を信じ、緊張感を持って再び来てくださる主イエスを待ち望みつつ、主イエスの思いを知らされている者として生きるとき、私たちの緊張感は世の人々へと伝わっていきます。世の終わりの救いの完成を求める真剣な思いが伝わっていきます。自分勝手に生きるのではなく、主イエスの思いを知らされて生きることの大きな喜びが伝わっていくのです。このことこそ、私たちが、教会が伝道するということにほかなりません。主の再臨を信じ、緊張感を持って再び来てくださる主を待ち望み、主の思いを知らされて生きる群れこそが、伝道する教会なのです。

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