主日礼拝

結婚の清さ

6月4日(日) 主日礼拝
「結婚の清さ」 牧師 藤掛順一
・申命記第24章1-4節
・マタイによる福音書第5章27-32節

新共同訳と聖書協会共同訳
 現在私たちが礼拝で使用している新共同訳聖書は、1987年に出版されたものです。カトリックとプロテステントの共同作業によって翻訳された記念すべきものです。それからおよそ30年経って、2018年に、新しい翻訳「聖書協会共同訳」が出版されました。新共同訳とこの新しい聖書協会共同訳では、訳文の違いがいろいろありますが、大きく変わったところが、本日の箇所、マタイによる福音書5章27~32節に二つあります。

「女」か「他人の妻」か
その一つは28節です。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」となっていますが、ここは聖書協会共同訳では「情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのである」となっています。「他人の妻」が「女」に変わったのです。これは実は、新共同訳の前の、1954年に出版されたいわゆる「口語訳聖書」の訳文に戻った、ということです。口語訳では、「情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」となっていました。聖書協会共同訳とほとんど同じです。聖書協会共同訳にはこのように、口語訳に戻ったと言える箇所がけっこうあります。そしてこの訳語の違いは大きな影響を及ぼします。みだらな思いで、言い換えれば情欲を抱いて女性を見ること自体が姦淫の罪を犯している、というのであれば、年頃になって女性に対してそういう思いを抱かない男性は少ないのであって、みんな姦淫の罪を犯していることになります。だからこのみ言葉を真剣に読んだ、特に若い男性たちは昔からとても悩んできたのです。しかもその後の29、30節には「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」とあります。「右の目があなたをつまずかせる」それは当然、みだらな思いをもって女性を見るその目ということになるし、「右の手があなたをつまづかせる」それはその情欲を発散させる手ということになります。その目をえぐり出し、その手を切って捨てなければ、地獄に投げ込まれる。これを読んだ多くの人たちは、自分は主イエスが命じておられるような清い者にはなれない、地獄に投げ込まれるしかない罪人だと思ったのです。そういう情欲の問題から、主イエスによる罪の赦しを求めていったという人も多かったのです。このみ言葉はそのように、特に男性たちに、自らの情欲の罪を意識させる働きをしてきました。ところが新共同訳においては、「女」が「他人の妻」になりました。そうすると話は全然違ってきます。「他人の妻」いわゆる「人妻」に横恋慕することが戒められている。つまり主イエスは、性的欲望を抱くこと自体を「心の中での姦淫」と言っておられるのではない、ということになるのです。

夫婦の関係を破壊することが姦淫の罪
この大きな違いはどうして生まれたのでしょうか。どちらが正しい訳なのでしょうか。原文の言葉には「女」「妻」の両方の意味があり、「他人の」という言葉はありません。つまりどちらにもとれるのです。だからこのことは、主イエスの他の教えから、さらには聖書全体から判断するしかありません。主イエスは、男性が女性に、また女性が男性に、性的欲望を抱くこと自体を罪とされたことはありません。この福音書の19章においても主イエスは、神が人間を男と女とに創造され、二人が結婚して一体となることを祝福しておられることを語っておられます。男女の性的関係を汚れたことや罪とするという考えは主イエスにも、聖書にもないのです。もう一つの大事なヒントは、この教えが、27節にあるように「姦淫するな」という十戒の教えとの関わりにおいて語られていることです。5章21節からのところには、主イエスが、律法のいくつかの教えを取り上げて、「あなたがたも聞いている通り、このように命じられている。しかし、わたしは言っておく」という形で、その律法を完成するご自分の教えを語っておられるところです。ここでは、「あなたは姦淫してはならない」という十戒の第七の戒めがとりあげられているのです。姦淫の罪は、当時のユダヤ人社会において、結婚ないし婚約している女性が、夫ないし婚約者以外の男性と関係を持つことを言いました。つまり姦淫とは、女性の側から言えば、自分の結婚をないがしろにし、夫との夫婦の関係を壊すことであり、男性の側から言えば、他人の夫婦関係に割り込んでいってそれを破壊することだったのです。そういうことを禁じているのが第七の戒めです。主イエスはこの戒めをとりあげて、「しかしわたしは言っておく」とおっしゃって、主イエス独自の教えとして、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」と語られたのです。それは、夫婦の関係を壊す具体的な行為だけが姦淫なのではなくて、そのような思いを持つことが既に姦淫の罪を犯したことになるのだ、ということです。それがこの教えの意味です。ですから、「他人の妻」という新共同訳は、「他人の」は原文にないとは言え、主イエスの教えの内容を明確にしていると言えます。ただし新共同訳の「既に心の中でその女を犯したのである」という訳文はよくありません。「犯す」と訳された言葉は「姦淫する」です。ですからここは、聖書協会共同訳そして口語訳の「心の中で姦淫を犯したのである」の方がよいと思います。自分のであれ他人のであれ、夫婦の関係を破壊するような思いを心の中で持つことが既に姦淫の罪に当る、と主イエスは語られたのです。

心の中で
訳文についていろいろ言ってきましたが、要するにここで主イエスが言っておられるのは、性的な欲望を持つことは罪だ、ということではなくて、自分の、そして他の人の、夫婦の関係を大切に守りなさい、ということです。しかもそれはただ「浮気をしない」という外面的なことではなくて、「心の中で」のことまで含めて、結婚、夫婦の関係を大切にすることを主イエスは教えておられるのです。これは私たちが真剣に聞かなければならないことだし、夫婦が本当に誠実にお互いの関係を築くことは決して簡単ではありません。勿論そこにおいて、「姦淫してはならない」という十戒の戒めは基本的に大切です。今の世の中、結婚とセックスを切り離して考えることが当たり前になっていますが、それは、心と体を切り離してしまうことであって、それでは、夫婦が本当に誠実に関係を築くことはできません。しかし姦淫さえしなければよいわけではありません。主イエスは、「姦淫してはならない」という掟を心の中にまで広げることによって、私たちの結婚、夫婦の関係を本当に清い、よいものとしようとしておられるのです。

離縁状を渡す
31節以下もそのような教えです。結婚に関わるもう一つの掟がとりあげられています。「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」という掟です。これは十戒ではなく、先程共に朗読された申命記24章にあることです。イスラエルにおいては、離婚は夫の方からのみできることでした。夫は、妻に「恥ずべきこと」を見いだした時には、離縁状を書いて渡すことによって離婚できる、と申命記24章に語られているのです。離縁状一枚で離婚できるなんて、妻の立場を顧みない差別的な制度だと私たちは感じます。確かにイスラエルにおいて女性の地位が低かったことは事実です。しかしこの離縁状というのは、「もうこの女は私の妻ではない」ということを証明するもので、その女性の「独身証明書」になります。それを持っていない女性が、他の男と関係したらそれは姦淫の罪になりますが、それを持っていれば、他の男と再婚ができる、そういう意味ではこれは女性の立場を保護するための書類でもありました。律法によってイスラエルにはそのような制度が立てられていたわけですが、主イエスはそれをとりあげて、「しかしわたしは言っておく」とご自身の教えを語られました。それは「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる」ということでした。

「不法な結婚」?
さてここに、先ほど申しました、新共同訳と聖書協会共同訳との訳文の違いの二つ目があります。それは「不法な結婚でもないのに」というところです。ここは聖書協会共同訳では「淫らな行い以外の理由で」となっています。ちなみに口語訳は「不品行以外の理由で」でした。「淫らな行い」「不品行」とは、性的な罪、つまり先程の姦淫の罪のことです。妻にそういう罪があったのなら仕方がないが、それ以外の理由で離婚するべきではない、というのが、聖書協会共同訳と口語訳の意味です。実際この「淫らな行い」の原語は「ポルネイア」です。それは「ポルノ」という言葉の語源になったもので、性的な不道徳、罪を意味する言葉です。ですからここは「淫らな行い」「不品行」と訳した、聖書協会共同訳や口語訳の方が原文に忠実です。それが新共同訳で「不法な結婚でもないのに」となったのは、カトリック教会との共同訳だからです。カトリック教会は、離婚を認めていません。それは結婚を洗礼や聖餐と並ぶ聖礼典、サクラメントの一つとしているからです。洗礼は取り消されたり再び繰り返されることがあり得ないように、結婚も、夫婦を一体とする神のみ業なのだから、離婚はあり得ないのです。ところがこの箇所において主イエスは、妻に淫らな行いがあったら離婚が認められる、と語っておられます。それを認めてしまうと、結婚をサクラメントとし、離婚を禁じるカトリック教会の基本的な教えと矛盾してしまいます。それでカトリック教会はここを「不法な結婚」と読むことを主張したのです。それは、この結婚はもともと不法であり成立していなかった、その場合には、ということです。実際カトリック教会の歴史においては、そういう理屈で離婚を事実上認めてきたということがあります。しかしこれはあまりにも無理な読み方なので、聖書協会共同訳では、言葉の本来の意味の通りに、「淫らな行い以外の理由で」となったのです。ですから私たちとしてはここを、聖書協会共同訳のように、「淫らな行い以外の理由で」と読みたいと思います。

夫や妻を、自分の目や手のように大切にする
さて、新共同訳を使っているとここでどうしてもそういう説明をしなければならなくなるのですが、主イエスがここで語っておられるのは、「どういう場合には離婚してよいのか」ということではありません。「妻を離縁する者は離縁状を渡せ」という旧約の律法においては、先程申命記を読みましたように、夫は「妻に何か恥ずべきことを見いだし」たら離婚できたのです。その「恥ずべきこと」とは何かについて、ユダヤ教の律法学者たちの間でいろいろな議論がなされていました。当時の律法学者の中には、妻が料理を焦げつかせた、それも「恥ずべきこと」になる、という人もいました。それに対して、別の律法学者は、恥ずべきこととは、妻が夫を裏切って他の男と関係を持った、つまり姦淫の罪を犯したことに限られると主張しました。主イエスは、こちらの立場に立っておられるのです。妻を離縁できるのは、つまり結婚を解消できるのは、不品行、姦淫の罪によって関係が裏切られ、破壊された時のみだ、ということです。ここに、主イエスが結婚、夫婦の関係を最大限に重んじ、それを守り、大切にしようとしておられることが示されています。「料理を焦げつかせた」ことも「恥ずべきこと」になるとしたら、夫は少しでも気に入らないことがあったら妻を離縁できる、ということになります。そこには、結婚、夫婦の関係を大切に守り育てようとする姿勢はありません。気に入らなくなったらそれで終わりです。当時は、夫の方からしか離婚ができなかったからこういう言い方になっていますが、今日の私たちにおいては、夫と妻の立場は対等か、あるいは逆転しているかもしれません。夫にせよ妻にせよ、相手のことが気に入らなくなったらもうおしまい、それが「料理を焦げつかせたら」ということに代表される思いです。それに対して主イエスは、それは姦淫の罪を犯すことと同じだ、と言っておられるのです。何故なら主イエスの教えにおいては姦淫とは、先程見たように、自分の、また他の人の、結婚の関係、夫婦の関係を大切に守り育てようとしない思いと行動の全てを指しているからです。姦淫によって自分の、また人の結婚の関係を破壊するのと、相手に気に入らないことがあるからといって関係を断ち切ろうとするというのは同じことなのです。ともすればそういう思いに陥っていく私たちに対して主イエスはここで、そのような思いを起させるものは、右の目であってもえぐり出して捨ててしまいなさい、右の手であっても切り取って捨ててしまいなさいと言っておられるのです。右の目や右の手、それは私たちにとって無くてはならないものです。決して失いたくないものです。しかしそれらすらも、結婚の相手との関係に比べれば何ほどのことはない、捨ててもよいものだ、と主は言われるのです。つまりここで主イエスが言っておられるのは、罪を犯さないで生きるためには、自分の目や手をも切り捨てなさい、ということではなくて、あなたの妻は、夫は、あなたの目や手よりも大事ではないか、ということなのです。妻や夫のために、自分の大事な目や手をも切り捨てなさい、そのように生きるところに、本当に清い、良い夫婦の関係が築かれていく、と主は言っておられるのです。

結婚を清いものとするために
そのように言われる時、私たちはとまどいと恐れを感じずにはおれません。私たちは、自分の妻を、夫を、自分の目や手よりも大事にしているだろうか、目や手を失っても妻や夫を愛する、そういう愛に生きているだろうか。私たちが、妻を、夫を愛しているその愛はまことに身勝手なものであることが多いのです。結局自分のために、自分に都合のよい仕方でしか妻を、夫を愛することができていない。そのことが、心の中での姦淫を生み、気に入らないことがあればもうおしまいという思いを生んでいくのです。主イエスはそのような罪と汚れに常に陥っていく私たちの結婚、夫婦の関係を、本当に清い、良いものとしようとしておられるのです。

主イエスの愛を味わい知りつつ
しかし私たちは、妻を、夫を、自分の目や手以上に大切にしなさいと教えられて、「分かりました」とそれが実行できるわけではありません。そうしようと決意して努力しても、結局やはり自分勝手な愛し方しかできない、それが罪人である私たちの現実なのではないでしょうか。主イエスはそのような私たちを、まさにご自分の目や手以上に大切にし、愛して下さいました。それが主イエスの十字架の死です。神の独り子であられる主イエス・キリストが、父である神のみ心に従って、私たちのために、十字架にかかって死んで下さったのです。それは神が、私たちを、ご自分の独り子よりも大切にして下さったということです。父なる神と独り子主イエスが、ご自分の目をえぐり出し、手を切り捨てて下さるほどまでに、罪人である私たちを愛して下さったのです。私たちは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しという神の恵みの下に置かれています。先週に続いて本日もあずかる聖餐がそのことの印です。聖餐において私たちは、主イエスがご自分の肉を裂き、血を流して死んで下さることによって、救いのみ業を実現して下さったことを味わい知るのです。私たちの結婚、夫婦の関係も、この主イエスの恵みの下に置かれているのです。その恵みを味わい知りつつ歩むことによって、私たちは、主イエスが指し示しておられる真実な夫婦の関係を築いていくのです。そしてこのことは、結婚、夫婦の関係のみの話ではありません。私たちが他者と共に生きていく、その人間関係の全てが、主イエスの恵みの下に置かれているのです。その恵みを味わい知りつつ歩むことによって、私たちは、主イエスが私たちの間に築こうとしておられる誠実な関係、互いに愛し合い、相手を本当に大切にしながら共に生きる関係を築いていくのです。私たちの愛はいつも、それとはほど遠い、自分勝手な欠けだらけの愛です。しかし主イエス・キリストは、真実な愛を私たちに注いで下さっています。その主イエスの愛を味わい知りながら、少しでもそれに応えていこうとすることによって、私たちの愛も少しずつ、清いものとなっていくのです。主イエスが私たちの間に実現しようとしておられる、夫婦も含めた、人間どうしの本当に清い、良い関係が、このことによってこそ実現していくのです。

愛し合い、赦し合う関係を
主イエスの愛に導かれる関係は、赦すことによってこそ築かれていくでしょう。主イエスはここで、淫らな行いつまり姦淫の罪以外の理由での離婚を否定されました。しかしそれは、そういう事実があったら離婚しなさい、と言っておられるのではありません。たとえ姦淫の罪や、その他の様々な罪があったとしても、悔い改めと赦しとによってその夫婦が関係を新たに築いていくならば、それこそが主のみ心に応えて生きることです。その他の人間関係においても同じです。罪人である私たちが人と共に生きていく時に、お互いの罪によって傷つけ合ってしまうことが起ります。関係が悪くなってしまうことがあります。そうなったらもうおしまい、ではなくて、そこにおいて、悔い改めと赦しとによって、新しい関係を築いていくことができるなら、主イエスはそのことを喜んで下さるのです。本日の箇所に語られているのは、直接的には結婚や離婚についての教えですが、もっと広く、私たちが他者との関係をどのように築いていくか、に関わることです。主は、罪に満ちた、愛に欠けた者である私たちをご自分の愛の下に招いて、互いに愛し合い、赦し合い、相手を本当に大切にする関係を築かせようとして下さっているのです。

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