夕礼拝

恐れから信仰へ

「恐れから信仰へ」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第57章15節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第8章40-56節
・ 讃美歌:451、72

ゲラサから帰って来ると
 本日の箇所の冒頭40節に「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである」とあります。先週お話ししましたが、主イエスはガリラヤから湖を渡って、向こう岸にあるゲラサ人の地方を訪れ、「悪霊に取りつかれている男」を悪霊から解放し、救いのみ業を行いました。しかしその救いのみ業を目の当たりにしたゲラサの人たちはとても恐れ、主イエスにゲラサから出て行ってもらいたいと願いました。そこで主イエスは舟に乗ってゲラサを去り、再び湖を渡って、ガリラヤに戻って来たのです。ですから40節冒頭の「イエスが帰って来られると」とは、「主イエスがゲラサから帰って来ると」ということであり、主イエスがゲラサから帰って来るのを待っていた群衆は喜んで主イエスを迎えたのです。

ヤイロの娘
 会堂長のヤイロも主イエスが戻ってくるのを待っていた一人でした。「会堂」(シナゴーグ)とはユダヤ人たちが礼拝のために集まる場所です。その長である「会堂長」は会堂を管理する責任者で、地域のユダヤ人社会の指導的立場にあり、人々から信頼され、尊敬されていました。会堂長ヤイロは、ゲラサから帰ってきた主イエスのところにやって来て、主イエスの足もとにひれ伏し、「自分の家に来てくださるよう」願いました。彼がそのように願ったのは、彼の十二歳ぐらいの一人娘が死にかけていたからです。私たちの社会では、十二歳というと小学校6年生か中学校1年生であり、結婚を考えるような年齢ではありません。しかし当時の社会において十二歳は結婚適齢期でした。ヤイロの娘は親の手を離れ、一人前の女性として歩み始めようとしていたのです。まさに「人生はこれから」という年齢でした。十二年間育ててきた一人娘が、いよいよこれから自分の人生を歩み始めようとしている。ヤイロにとって感慨深いものがあったに違いありません。ところが思ってもみなかったことが起こりました。死の力が突然彼女を捕らえようとしたのです。自分の娘が死にかけている。ヤイロは苦しみと悲しみのどん底に突き落とされました。その絶望のどん底にあって、彼は一縷の望みを託して主イエスのところにやって来て、「自分の家に来てくださるよう」願ったのです。そこで主イエスはヤイロの家に向かうことにしました。

出血が止まらない女性
 ところが主イエスがヤイロの家に向かう途中で、群衆が主イエスのまわりに押し寄せてきました。その中に一人の女性がいました。43節にこのようにあります。「ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた」。先ほど見たように、ヤイロの娘は十二歳ぐらいでしたから、この女性はヤイロの娘が生まれてから今にいたるまでずっと「出血が止まらず」にいたことになります。十二年という時間が、ヤイロの娘とこの女性を結びつけているのです。新しい命が生まれすくすくと育っていく十二年。父親にとっても、娘にとっても「自分の人生が前進している」という思いがあったはずです。順風満帆とまでは言えなくても、確実に人生が前に進んでいると思えたのです。そしていよいよこれから新たな歩みへと進んでいこうとしていました。それに対して出血が止まらない十二年。この女性にとって自分の人生は十二年間止まったままでした。何歳のときに彼女がこの症状を発症したのかは分かりません。しかし何歳で発症したとしても、今より寿命の短い時代にあって、十二年という時間は、彼女の人生の大きな部分を占めています。それだけに自分の人生が十二年間止まったままであることは深い苦しみでした。彼女はなんとかして治りたい、再び人生を前に進めたいと願い、医者を探し求めました。しかし全財産を使い果たしても、だれも彼女の症状を癒やすことはできなかったのです。彼女は病の症状に苦しむだけでなく、その治療のために全財産を失う苦しみをも味わいました。それでも病は治りません。財産を失って日々の生活も厳しくなっていたはずです。

居場所がなく孤立している
 それだけではありません。旧約聖書のレビ記15章25節以下によれば、出血が止まらない女性は「汚れている」とされました。この女性は「汚れている」のであり、彼女が触れるものもすべて「汚れている」のであり、また彼女に触れた者は誰でも「汚れる」のです。このことは彼女の居場所がユダヤ人共同体の中になかったことを意味します。誰かに触れることなく、誰にも触れられることなくほかの人と関わりを持って生きられるはずがないし、社会生活を送れるはずがありません。出血が止まり、その汚れから清くならない限り、彼女は共同体の中に居場所を持てないし、社会生活に復帰することもできないのです。十二年間、彼女にはずっと居場所がありませんでした。ずっと人を避け、人から避けられて生きてきたのです。十二年間ずっと孤立していたのです。たとえ病を抱えて歩まなければならないとしても、病を抱えている人を受け入れる社会であるならば、あるいはその苦しみを共に担ってくれる家族や友人がいるならば、その人は孤立せずに生きることができます。しかし病を抱えている人を受け入れず排除する社会であるならば、その人は孤立するしかないのです。孤立こそが人の心を深く蝕んでいきます。孤立こそが深い絶望をもたらします。生きようとする力を徐々に奪っていくのです。

命の消耗
 同じレビ記に、「血を食べてはならない」という戒めがあります。「血を食べてはならない」のは、血に命があるとされていたからです。レビ記17章10節以下にこのようにあります。「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである」。このことに目を向けるならば、十二年間、出血が止まらないこの女性に起きていたことの本質は、どんどん命が出ていくのをくい止めることができなかった、どんどん命が尽きていくのをくい止めることができなかった、ということではないでしょうか。病の症状のために、あるいは社会に居場所がなく孤立しているために、彼女の命は消耗していき、生きようとする力が奪われていったのです。十二年間、命の消耗をくい止めることができず、今、彼女も死の力に捕らえられようとしていたのです。彼女は様々な恐れを抱いていたに違いありません。これからずっと自分の人生が前に進まないのではないかという恐れがあり、社会の中に居場所を持てずに孤立していることへの恐れがありました。しかしその根本にあるのは死への恐れです。生きようとする力が奪われ、命が尽きていくことへの恐れなのです。しかもその死への恐れの先には、死への渇望があります。孤立が心を蝕むことによって生きることに絶望し、生きようとする力が枯渇するとき、死を望むようになるのです。死への恐れの先に、死への渇望がある。この大きな矛盾を、私たちは抱えつつ生きているのです。

交錯する人生
 着実に前に進んできた十二年とまったく前に進めなかった十二年。対照的な十二年を過ごしてきた二人の女性の人生が、ヤイロの娘が突然死の力に襲われることによって交錯しました。本日の箇所では、ヤイロの娘の物語に挟まれて、十二年間出血の止まらなかった女性の物語が語られています。このサンドイッチ構造そのものが、このとき二人の人生が交わったことを示していると思います。もちろん二人は直接会ったわけではありません。しかし対照的な十二年を過ごしてきたにもかかわらず、今、同じように死の力に捕らえられようとしているのです。二人の人生は確かに交錯したのです。

主イエスの力
 出血が止まらなかった女性は、主イエスに近寄って来て、「後ろからイエスの服の房に触れ」ました。すると彼女の出血が止まります。祭司のところに行き、汚れを清めるための贖いの儀式を行いさえすれば、彼女は正式に汚れから清められたことになります。そのことによって共同体の中に自分の居場所を回復し、社会生活に復帰する道が開かれました。なによりも彼女は自分の命が尽きていくのをくい止めることができたのです。全財産を使い果たしてもくい止めることができなかった命の消耗を、主イエスの服の房に触れることによってくい止めることができたのです。46節で主イエスは「わたしから力が出て行ったのを感じた」と言われています。この主イエスから出て行く「力」によって、病が癒やされ、尽きていく命がくい止められました。その力によって彼女は死の力から救われたのです。死への恐れから解放され、また同時に死への恐れの先にある死への渇望からも解放されました。主イエスの力は命の消耗をくい止めるだけでありません。消耗した命に力を与え、新たに生かすのです。

わたしに触れたのはだれか
 しかし主イエスの力によって彼女が癒やされて一件落着ではありませんでした。先ほどお話ししたように、「汚れている」とされていた彼女が触れるものはすべて汚れます。ですから彼女が主イエスの服の房に触れるのは、律法によれば汚れを移す行為と言えるのです。もちろん彼女は自分がなにをしようとしているか分かっていました。だから群衆に紛れて主イエスに近寄り、主イエスに気づかれないように後ろから服の房に触れたのです。そのとき直ちに「出血が止まった」ことは、彼女にとって大きな驚きと喜びであったに違いありません。しかしそれと同時に彼女は誰にも気づかれずにその場を離れたいと思ったはずです。「汚れていた」自分が主イエスの服の房に触れたことを誰にも気づかれたくなかったし、なによりも主イエスに知られたくなかったのです。けれども主イエスはそれをお許しになりませんでした。主イエスは「わたしに触れたのはだれか」と言われます。人々は皆、「自分ではない」と答えます。弟子のペトロが、群衆が主イエスを取り巻いて押し合っているのだから、誰が主イエスに触れたか分かるはずがない、と至極まっとうな意見を述べます。しかし主イエスは「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われました。主イエスの言葉を聞いて、この女性は隠しきれないと悟り、「震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した」のです。すると主イエスは言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。彼女が「震えながら進みでてひれ伏し」たのは、自分が汚れを移すというとんでもないことを主イエスにしてしまったことへの恐れであり、そのことを罰せられることへの恐れでした。けれども主イエスは彼女を罰するために、「わたしに触れたのはだれか」と問われたのではありません。そうではなく彼女が主イエスの御前に進み出ることを望まれたからです。主イエスは癒やされた彼女がそのままその場から立ち去ることを望まれません。彼女が恵みを与えられてそのまま立ち去るのではなく、主イエスと出会うことを求められるのです。彼女にとって、主イエスの御前に進み出るのは、誰にも気づかれずにその場を離れるよりはるかにつらいことでした。自分が「(主イエスに)触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話」すことに不安と恐れを覚え、あるいは恥ずかしさを感じたに違いないのです。自分の過去を語るのは簡単なことではありませんし、それが苦しみに満ちた過去であればなおさらです。それに加えて、してはいけないことをしてしまった、という思いもあります。しかしそれでも主イエスは彼女が自分と出会い、主イエスの御前にすべてを隠さずに語ることを求められるのです。それが、主イエスと本当に出会うことだからです。主イエスによる癒しや恵みを受けるだけでなく、主イエスの御前に進み出て、自分の心を開くとき、私たちは本当に主イエスと出会うのです。ですから「わたしに触れたのはだれか」という主イエスのお言葉は、自分に触れた人を見つけ出して裁こうとする言葉ではなく、主イエスと出会うことへの招きの言葉です。その招きにお応えするとき、主イエスは「安心して行きなさい」と言ってくださいます。もし主イエスと出会うことなく、恵みを受けるだけで立ち去ったら、本当に安心して生きていくことはできないのではないでしょうか。患っていた病は癒やされました。しかしこれからまた別の病になることがあり得ます。一つの病が癒やされたからといって、あるいは一つの困難や試練が取り除かれたからといって、私たちに本当の平安が与えられるわけではないのです。だからこそ主イエスは自分と出会うように招かれます。主イエスと出会い、主イエスから「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と告げられることによってこそ、たとえこれからどのような病や困難に直面するとしても、主イエスが与えてくださる平安の内に歩むことができるのです。

ヤイロの娘の死
 十二年間、出血が止まらなかった女性は、癒やされ、命が尽きていくのをくい止められ、死への恐れとその先にある死への渇望からも解放されました。十二年間止まっていた彼女の人生は前に進み始めたのです。主イエスに出会うことによって、「安心して行きなさい」という主イエスの言葉を携えて、本当の平安の内に彼女は新しく生き始めました。しかしそうこうしている間に、ヤイロの娘は死んでしまいました。十二年間止まっていた女性の人生が動き出したとき、ヤイロの娘は十二年の地上での歩みを終えたのです。49節に「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません』」。ヤイロの一縷の望みは断たれました。もはやなにをしても手遅れなのです。しかも手遅れになったのは、主イエスがあの女性に関わったからかもしれないのです。あの女性が群衆に紛れ主イエスに近寄りその服の房に触れて癒やされた。それだけなら良かった。そのまま足を止めることなくヤイロの家に向かえば、娘が死ぬ前に間に合ったかもしれない。ところが主イエスは足を止め、「だれが触れたか」と問い、女性を御前に招き、語りかけられました。その様子を見ていたヤイロはイライラしていたに違いありません。癒やされたならそれで良いではないか。わざわざ触れた人物を探して手間取っている間に、肝心の娘の死に間に合わなくなったらどうするのだ。そのような苛立ちを感じずにはいられなかったのです。いや、そうではない。ヤイロがこの女性の癒やしに立ち会うことによって、主イエスへの信頼、主イエスの力への信頼を強められ、彼は自分の娘が死んだ際にも主イエスへの希望を失うことがなかった、と言われることもあります。けれども私はそうではないと思います。自分の娘が今にも死にそうなときに、ヤイロにそんな余裕はなかったと思うのです。主イエスが自分に触れた人を探す理由も分からなかったはずです。ヤイロは娘が死ぬ前になんとしても主イエスに自分の家に着いてほしかった。当たり前です。それが彼の一縷の望みです。娘の死という決定的瞬間を迎える前に何とか間に合ってほしい。それしか考えられなかったのではないでしょうか。しかしヤイロの一縷の望みは断たれました。主イエスは娘の死に間に合わなかったのです。あの女性と関わることなく、主イエスがもっと早く自分の家に来てくださっていたら娘は助かったかもしれない。ヤイロは絶望の中でそのように思ったのではないでしょうか。着実に前に進んできた十二年とまったく前に進めなかった十二年。対照的な十二年を過ごしてきた二人の人生が交錯したのは、前に進めなかった女性が再び前に進み始め、前に進んできた女性がその歩みを終えることにおいてだったのです。

死は決定的
 会堂長の家の者は「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません」と言いました。「先生を煩わすことはありません」とは、主イエスが来ても「もう手遅れだ」ということです。会堂長の家の者にとって、そしてヤイロにとっても死は決定的であり、主イエスにもどうすることもできないと思ったのです。しかし主イエスは会堂長に言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」。そして主イエスはヤイロの家に向かいました。家に着くと、人々がヤイロの娘のために泣き悲しんでいたので、主イエスは「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と言われます。しかし人々は娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑いました。「死んだのではない。眠っているのだ」という主イエスのお言葉は、ヤイロの娘が死んだのではなく仮死状態に過ぎないと言っているのではありません。主イエスはヤイロの娘が死んだことを否定しているのではないのです。ですから人々が「娘が死んだことを知っていた」というのは、その通りです。彼らの中には、ヤイロの娘の死に立ち会った人もいたかもしれません。彼女は本当に死んだのです。死の力に捕らえられ死の力に負けたのです。彼らはそのことを知っていました。彼らにとって死は決定的であり、「死んだら終り」なのです。

死に打ち勝つ主イエス
 しかし主イエスはそうではないと言われます。「死んだのではない。眠っているのだ」とは、死が終りではない、死が決定的ではないということです。主イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられます。すると娘は起き上りました。主イエスは死んだ娘を生き返らせることによって、ご自分が死の力を打ち破る方であることを示されたのです。もちろん主イエスの死に対する本当の勝利は、主イエスの十字架と復活において実現します。主イエスは十字架で死に復活することによって、死に打ち勝たれ、死の力を打ち破られました。十字架において死の力に捕らえられた主イエスは、しかしその力を打ち破り、復活して、死に勝利されたのです。甦ったヤイロの娘は、私たちの誰もがそうであるように、いずれ地上の人生を終えて死を迎えます。しかし死んだ娘を生き返らせた主イエスのみ業は、その死が、終りでも決定的でもないことを示しているのです。私たちは誰もが死の力に捕らえられ、死の力に負けて地上の生涯を終えます。しかし死に打ち勝たれたキリストと一つとされている私たちは、終りの日に復活させられ、永遠の命に生きることができるのです。十字架と復活においてキリストは死に打ち勝ってくださいました。だからこそ私たちにとって死は終りではないし、決定的でもないのです。

恐れから信仰へ
 対照的な十二年を過ごしてきた二人の人生が交錯しました。このことにおいて私たちが本当に見つめるべきなのは「死の恐れからの解放」です。死に打ち勝たれる主イエスが、二人の人生に関わってくださり、死の恐れから解放し、死の力から救ってくださったのです。私たちは日々自分の命が消耗していっているように、絶えず死の力に脅かされているように思えます。私たちは自分の力で命の消耗をくい止めることも、死の力に打ち勝つこともできません。ただ主イエスのみが私たちの命の消耗をくい止め、私たちを死の力から救ってくださるのです。そのことによって私たちは死を恐れることから、死の力に打ち勝つ主イエスを信じることへと導かれていきます。あの女性のように、こっそり主イエスの服の房に触れることによって、あるいはヤイロのように、一縷の望みを主イエスに託すことによって、私たちは主イエスにすがります。そのような私たちに主イエスは出会ってくださり、死を恐れるのではなく、その死に打ち勝たれた主イエスを信じるよう導いてくださるのです。
 このあと聖餐に与ります。聖餐は、終りの日に私たちが復活と永遠の命に与り、主イエスと共に与る祝宴の先取りでもあります。私たちは聖餐に与る度に、地上の死を越えた復活と永遠の命の希望を確かにされ、死への恐れから解放され、死に打ち勝たれた復活のキリストを信じる信仰を新たにされるのです。

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