主日礼拝

生きている者の神

「生きている者の神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章4-6節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第12章18-27節
・ 讃美歌:10、76

キリストの再臨において与えられる復活と永遠の命
 毎週の礼拝で告白している使徒信条に導かれてみ言葉に聞いておりまして、先週は「からだのよみがえり」というところを取り上げました。「からだのよみがえり」とは、いつか死んで墓に葬られる私たちが、復活して、もはや死ぬことのない新しい体を与えられ、永遠の命を生きる者とされるということです。それはこの世の終わりに神が与えて下さる救いです。使徒信条の第二の部分、イエス・キリストを信じる信仰を語っている部分の最後に、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」とありました。復活して天に昇り、父なる神の右に坐しておられる主イエスが、もう一度来て下さり、全ての者をお裁きになるのです。お裁きになるとは、主イエスのご支配が完成するということです。それによって、この世は終わり、私たちの救いが完成するのです。その時、救いの完成として、「罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命」が与えられるのです。
 主イエスがもう一度来られる時にからだのよみがえりが実現することを語っている箇所が、テサロニケの信徒への手紙一の第4章16節以下です。そこを読んでおきます。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」。この世の終わりを告げる神のラッパが鳴り響くと、主イエスが天から降って来られる。その時、キリストに結ばれて死んだ人たちが復活し、その時まで生きている者たちと共に、天から降って来られる主イエスと出会うために地上から引き上げられていく。そして「わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」ということが実現する。復活して永遠の命を生きておられる主イエスと、いつまでも共にいる者となる、それは私たちにも永遠の命が与えられるということです。世の終わりの主イエスの再臨において、主イエスと共に私たちにも復活の体が与えられ、主イエスと共に私たちも、永遠の命を生きる者とされるのです。

聖霊に導かれて聖書の真理を知らされる
 しかし正直に言ってこれは、「ああそうか」と簡単に信じることができるようなことではありません。主イエスが天から降って来ることも、死者が復活することも、そして雲に包まれて引き上げられるというのも、荒唐無稽な話だと誰もが感じるのです。こういうことが将来いつか起こると確信することが信仰なのだとしたら、自分はちょっと信仰は持てないな、と思う人は多いのではないでしょうか。洗礼を受けて信仰者となっている人でも、「あなたはこんなことを本気で信じているんですか」と問われたら、「うーん」とうなってしまうかもしれません。そのように感じることを不信仰だと思う必要はありません。信仰は、そういう自然な思いを押し殺して、聖書に語られていることを鵜呑みにし、それに疑いをはさむような思いはサタンの誘惑として退ける、というものではありません。それは今話題となっている旧統一教会をはじめとするカルト宗教における信仰です。本当の信仰は、無理強いされるものではなくて、私たちが自然に喜んで神を信じ、それによって慰めと支え、力づけを与えられる、というものです。そういう本当の信仰は、聖霊に導かれて聖書を読むことによって与えられます。聖書に語られていることは、私たち人間の常識を超えているので、私たちがそれをなかなか受け止められなかったり、荒唐無稽だと感じて、こんなこと信じられないと思うのはむしろ普通のことです。しかし聖霊が働いて下さる時に私たちは、聖書がそのようなつまずきに満ちた言葉を通して指し示している神の救いの真理を悟ることができるのです。聖書を字面だけで読んでいると、こんなこととても信じられない、と思いますが、聖霊の導きを受けることによって私たちは、聖書が指し示している神の救いの恵みが分かるようになり、それを、自然に、喜んで信じるようになるのです。

世の終わりに実現する救いの完成
 例えば、主イエスが天から降って来て裁きをなさる、ということですが、それは、生きておられる主イエス・キリストが、世の終わりに私たちのところに来て下さり、ご支配を完成して下さる、という救いの恵みを指し示しています。そして死者の復活は、先週の説教においてお話ししたように、私たちを最終的に支配するのは死の力ではなくて神の恵みなのだ、ということを指し示しています。私たちの歩みは死んで墓に葬られて終わるのではない、私たちを捕え支配する死の力を、神が打ち破り、死を滅ぼして、新しい命を生きる新しい体を与えて下さる、つまり神は最終的に死に勝利して下さるのだ、ということです。死者の復活を信じるとは、死んだ体がゾンビのように生き返ることを信じることではなくて、神の恵みが死に勝利すると信じることなのです。そして、復活した者たちが雲に包まれて引き上げられるというのも、復活した者は天から降って来られる主イエスとお会いするのだ、ということを指し示しています。神が与えて下さる復活の命において私たちは、もう一度来て下さる主イエス・キリストとお会いして、そして「いつまでも主と共にいることになる」のです。それは先ほども申しましたように、私たちにも永遠の命が与えられるということです。復活して、主イエスと共に永遠の命を生きる者とされる、それが救いの完成であることが指し示されているのです。言い換えれば、永遠の命とは、命が失われずにいつまでも続くという長さの問題ではなくて、主イエスと共にいる者とされることなのだ、ということが指し示されているのです。聖霊に導かれて聖書を読むことによって私たちは、主イエスのご支配が完成し、神が死の力に勝利して下さり、そして主イエスと共に永遠の命を生きる者として下さる、という救いが、この世の終わりに約束されていることが分かるようになるのです。

からだのよみがえりへのとまどい
 だとしても、「からだのよみがえり」、つまり肉体の復活は、「からだ」という目に見える具体的なものに関わることだけに、どう受け止めたらよいのか、とまどいを覚えます。私たちは体をもって生きています。体なしに心だけで生きている人はいません。体をもって生きているからこそ、人生のいろいろな喜びを味わうことができるのです。しかし同時に私たちは、からだをもって生きているゆえにこそいろいろな苦しみや悲しみも味わいます。からだに障がいをかかえて生きなければならないこともあるし、病気の苦しみも生じてきます、老いて弱っていく苦しみも体験します。愛する者の死という悲しみも味わいます。そのように私たちは、この体をもって喜びや悲しみを味わいつつ生きています。そしてその体は、いつか死んで朽ちていくのです。しかしその体が復活すると聖書は語っています。そうしたらどうなるのか、どんな体で復活するのか、よく分かりません。世の終わりに復活すると言われても、私たちはそれをイメージできないのです。だから、復活なんて信じられない、と思うのは自然なのです。

サドカイ派の問い
 それは主イエスが地上を歩んでおられた時にも同じだったことが、本日の聖書箇所、マルコによる福音書第12章18節以下に語られています。18節に「復活はないと言っているサドカイ派の人々が」とあります。新約聖書には、ユダヤ人の間にファリサイ派とサドカイ派があったことが語られていますが、ファリサイ派は復活を信じていたのに対して、サドカイ派はそれを否定していました。そのサドカイ派の人たちが、自分たちの主張を認めさせようとして主イエスに問いかけました。その問いの前提となっているのは、兄が子を残さずに死んだ場合に、弟が兄の妻と結婚して兄の後継ぎをもうけねばならない、という律法の掟です。それを確認した上で彼らは一つの極端な例をあげています。20節以下です。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、後継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、後継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも後継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」。生きている時にこの女性は七人の兄弟全員と結婚した、みんな復活したら誰が夫になるのか、夫が七人いることになってしまう、死者が復活するとしたらこういうおかしなことが起る、だから復活はないのだ、と彼らは言いたいわけです。

復活についての私たちの疑問
 このサドカイ派の人々と同じような疑問を私たちも抱きます。この話は極端であるとしても、夫や妻と別れて他の人と再婚する、ということはもはや珍しくありません。生きている間に、二人の妻あるいは夫を、同時に持ったらまずいですが、時を置いて持つことはあります。じゃあ復活したら、二人の妻あるいは夫を同時に持つことになるのか、そこで何か揉め事が起こらないだろうか、なんて心配してしまうことはあります。復活について私たちが抱くこのような疑問は他にもいろいろあります。何歳ぐらいの体で復活するのか、というのもその一つです。老いて衰えて死んだその時の姿のまま復活するのでは有り難くない、もっと若くて元気だった頃の体で復活したい、と思ったりします。でも、それでは何歳ぐらいがいいか、というのは人によって違うでしょう。そういう希望は聞いてもらえるのだろうか、なんて思ったりもします。また、肉体に障がいをかかえていた人は、復活したらどうなるのか、復活しても車椅子生活なのか、という問いもあります。先ほどの結婚、夫婦ということで言えば、復活してもこの人と夫婦でいたい、と思っている人もいるでしょうが、復活してまでこの人と一緒なのはご免被りたい、と思っている人もいるでしょう。からだのよみがえりについては、そういういろいろな疑問が生じてきて、訳がわからなくなるのです。そうすると、やっぱり復活などということはないのかな、と思ってしまうのです。

神の力による新しい命と体
 つまりこのサドカイ派の人たちと同じ思いを私たちも抱くわけですが、主イエスはそれに対してこうお答えになりました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」。サドカイ派の人々や私たちが復活について抱いているこれらの疑問は「思い違い」だ、あなたがたは神が与えて下さる復活が分かっていない、と主イエスは言っておられるのです。先ほどあげたような疑問を抱く私たちは、どんな思い違いをしているのでしょうか。サドカイ派の人々の言っていることと私たちが抱いている疑問に共通しているのは、体をもってこの世を生きている自分たちの歩みが、復活においてそのまま再開されると思っていることです。この世で夫婦だから復活においても夫婦であるとか、この世の何歳ぐらいの時の体が復活するのかとか、この世で障がいがあったら復活においてもそうなのかとか、死によって中断するこの世の生活が再開されることが復活だと思っているので、そういう疑問が生じているのです。しかし主イエスは、そのように思っているあなたがたは、神の力を知らない、と言っておられます。復活は、自然に起ることでは勿論ありません。それは神が、ご自身の力によってして下さる、神のみ業です。復活を信じるとは、それを与えて下さる神の力を信じることであるはずです。ところが私たちは、その神の力が分かっていない、つまり神がご自身の力によって私たちを復活させて下さる時、そこで何をして下さるのかが分かっていないのです。神が復活においてして下さるのは、肉体をもってこの世を生きていた時の歩みの再開ではありません。そうではなくて、神はその大いなる力をもって、私たちに新しい命と新しい体を与えて下さるのです。この世を生きている今のこの体をそのまま蘇生させるのではなくて、主イエスと共に永遠の命を生きる、完成された体を与えて下さるのです。私たちがこの世を生きているこの体には、様々な弱さがあり欠けがあります。だから私たちは病気になるし、老いていって、ついには死を迎えるのです。そういう弱さや欠けは、私たちが神に背く罪に陥っていることとも関係しています。私たちの体は、罪によって汚れてしまっているのです。そしてそれゆえに、私たちがこの体をもってこの世で築いている人間関係にもいろいろな問題が生じています。人との間がうまくいかず、愛し合うことができずにかえって対立し、憎み合い、傷つけ合ってしまうことがあります。夫婦や親子、兄弟姉妹の間においてもそうです。つまり肉体をもってこの世を生きている私たちの人生は、私たちの罪や弱さによる様々な問題を抱えているのであって、それが終わらずにいつまでも続くとか、あるいはそのまま再開されるというのは、決して喜ばしい救いとは言えないのです。しかし神がそのみ力によって与えて下さる復活は、この世の人生の再開ではありません。神はその力によって、私たちに、主イエスと共に生きる新しい命を与え、主イエスに与えて下さったのと同じ、完成された新しい体を与えて下さるのです。その新しい命、新しい体においては、私たちの全ての罪が赦され、弱さや欠けが取り去られ、苦しみや悲しみからの解放が与えられます。天地創造において神が人間を造り、命を与えて下さった時と同じように、復活において神は私たち一人ひとりを新しく造り、新しい命を与えて下さるのです。つまり復活は第二の天地創造と言ってもよいのです。神がそのみ力によってして下さるのは、この体をもって生きているこの人生の再開ではなくて、そこにおける全ての罪や弱さや問題から解放された新しい命と体の創造なのです。

人間関係も完成される
 「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく天使のようになるのだ」というみ言葉はそのことを語っています。「天使のようになる」というのは、復活においては今のこの体と同じものが蘇生するのではなくて、完成された体が与えられるということです。そしてそこでは、「めとることも嫁ぐこともない」。このことは、「復活してもこの人と夫婦でいたい」と思っている人にとっては寂しいことと感じられるかもしれません。逆に、復活してまでこの人と一緒にいたくない、と思っている人には喜ばしい解放の言葉と感じられるかもしれません。しかしそれはどちらも正しい捉え方ではありません。この言葉が語っているのは、世の終わりの復活においては、今のこの世における人間関係がそのまま再開するのではなくて、神の力によってそれは完成されるのだ、ということです。この体をもって今のこの世を生きている私たちは、人間関係によって大きな喜びも得ているけれども、同時に大きな苦しみを味わっています。そういう今の私たちの人間関係が、復活においては完成されるのです。私たちの全ての罪が赦されて、罪によって生じている争いや対立などの問題が全て解消して、本当に良い関係が与えられるのです。ですから、復活してもこの人と夫婦でいたい、という良い関係を今与えられている人は、復活においてその良い関係を失うのではなくて、今以上のすばらしい関係を与えられるのです。復活してまで一緒にいたくない、と思うような問題ある関係にある人も、そういう問題が全て解消された良い関係が与えられるのです。再婚を経験した人も、そういうことは何の問題でもない関係が与えられるのです。夫婦のみでなく、私たちの今の全ての人間関係が、復活においては完全なものとされるのです。それを実現して下さる神の力を信じなさい、と主イエスは言っておられるのです。

生きている者の神
 復活を信じないあなたたちは「聖書も知らない」と主イエスは言っておられます。それは具体的には26節以下のことです。死者が復活することについては、聖書、それは旧約聖書のことですが、にちゃんと語られているのです。主イエスがあげておられる「モーセの書の『柴』の箇所」とは、本日の旧約聖書の箇所、出エジプト記第3章です。主なる神が、燃える柴の中からモーセに語りかけて、モーセと出会って下さった場面です。そこにおいて主はモーセに、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とお語りになりました。それを受けて主イエスは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とおっしゃったのです。そしてここに、死者が復活することがはっきりと語られている、とおっしゃったのです。
 ここに死者の復活のことが語られているとはどういうことだろうか、と私たちは思います。この箇所は復活とは関係ないのではないか、さらに「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」というのは、神は死んだ者はもう相手にしない、生きている者だけと関わる、ということではないか、だったらますます、神は死者の復活には関心がない、ということになるのではないか、と思うのです。しかしそうではありません。ここに語られているのは、主なる神が「わたしはあなたの神だ」と宣言して、その人と関わるなら、その人は必ず生きる者となる、ということです。たとえ死んでいても、神はその人を必ず生きている者としてご自分の前に立たせて下さるのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」というのは、神が名を呼んでご自分のものとされた人を、神は必ず生きている者になさる、ということです。そういう力を持っておられる神が、モーセと出会い、語りかけ、モーセを生かしてみ業のために用いようとしておられるのです。同じように神は、私たちと出会い、私たちの名を呼んで、ご自分の民として下さっています。神が名を呼んで、あなたは私のものだ、と言って下さったのですから、その私たちは、生きるのです。この世を生きる体はいつか死んでいきますけれども、それで終わりではなくて、神は必ずその死に勝利して、私たちを復活させ、生きている者として下さるのです。私たちは、聖霊に導かれて、聖書から、「わたしはあなたの神だ」と語りかけて下さっている神の言葉を聞きます。その語りかけを聞いた私たちは、生きている者とされるのです。神が、み力によって、罪と弱さに満ちているこの体を復活させて完全なものとして下さり、この体をもって私たちが築いている、喜びもあるけれども問題もあり、苦しみ悲しみの多い人間関係を完成して下さり、主イエスといつまでも共にいる永遠の命に生かして下さるのです。「からだのよみがえり」を信じるとは、そのことを信じて待ち望みつつ生きることなのです。

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