主日礼拝

永遠の命

「永遠の命」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ダニエル書 第12章1-2節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第3章16節
・ 讃美歌:

とこしえの命は神の救いの恵み
 毎週の礼拝で告白している使徒信条に導かれてみ言葉に聞いてきましたが、いよいよその最後のところに来ました。最後の言葉である「とこしえの命」について、本日はみ言葉に聞きたいと思います。先週まで二週間にわたって、その前の「からだのよみがえり」を取り上げました。その説教において申しましたが、「からだのよみがえり」と「とこしえの命」とは一つであると言うことができます。この世の終わりに、主イエスがもう一度来られるとき、私たちは死者の中から復活して、もはや死ぬことのない新しい体を与えられ、そして永遠の命を生きる者とされるのです。この世の終わりに神が与えて下さる救いの完成は「からだのよみがえり」と「とこしえの命」である、と使徒信条は語っているのです。
 つまりこの「とこしえの命」は、「からだのよみがえり」と並んで、神がそのみ力によって実現し、与えて下さる救いです。私たちは自分の力で死に勝利して復活することができないのと同じように、とこしえの命も、自分の力で獲得することはできないし、またそれは自然に得られるものでもありません。「とこしえの命を信じる」というのは、人間は肉体が死んでも魂においてとこしえに生き続ける、といういわゆる「霊魂不滅」を信じることではないのです。永遠の命は、神が私たちを死の支配から解放して復活させて下さり、もはや死ぬことのない新しい命を生きる者として下さることによって初めて与えられます。ですから、人間だれでも自然に「とこしえの命」を得ることができるのではありません。それは神による救いの恵みとして与えられるのであって、それが与えられなければ、とこしえの命はありません。そこにあるのは永遠の死、つまり滅びです。

永遠の命と永遠の滅び
 先ほど朗読された旧約聖書の箇所、ダニエル書第12章のはじめのところにそのことが語られていました。その1節に「その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が」とあります。この「その時」とは、世の終わりの時です。この世の終わりに向けて、大きな苦難が続くことが語られているのです。しかしその次には「しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は」とあります。世の終わりに向けては大きな苦難があるが、しかしそれを通して神による救いが与えられる。「あの書に記された人々」つまり神の民とされている人々は、大きな苦難を通して救われるのだ、ということが預言されているのです。そしてその時に死者の復活が起こることが2節に語られています。「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」、それは死者が復活するということです。そしてその復活において、「ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」とあります。復活した者たちのある者は永遠の生命に入る、つまりとこしえの命を与えられる。しかしある者は、永久に続く恥と憎悪の的となる、これは永遠の命の反対の永遠の滅びです。世の終わりにはこの両方のことが起こる、つまり人間が、救われて永遠の命を与えられる者と、永遠の滅びに陥る者との二つに分けられる、ということがここに語られているのです。これはつまり、神による裁きが行われるということです。この世の終わりに神は全ての人をお裁きになるのです。そこにおいて人間は、救われる者と滅びる者とに分けられるのです。使徒信条の第二の部分、主イエス・キリストを信じる信仰を語っているところの最後に、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」とありました。もう一度来られる主イエスによって、その時生きている者も、既に死んでいる者も、全ての者が審かれる、いわゆる最後の審判が行われるのです。その審判において、救われて永遠の命を与えられる者と、永遠の滅びに至る者がはっきり分けられる、そういう世の終わりの裁きを聖書は見つめているのです。

復活して裁きを受ける
 そのことは新約聖書にも語られています。ヨハネによる福音書の第5章28、29節に、主イエスのこういうお言葉が記されています。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ」。世の終わりに人の子主イエスが来られる時、全ての人が復活してその前に立つ。そして、善を行った者は命を受け、悪を行った者は裁きを受ける。つまり永遠の命を与えられる者と、裁かれて永遠の滅びに陥る者とが分けられるのです。ここでは、復活は即救いではありません。復活した者は神の裁きを受け、その裁きにおいて、救いか滅びか、永遠の命か永遠の滅びかが決まるのです。これは、先週の説教の中で引用した、テサロニケの信徒への手紙一の第4章に語られていたこととは違います。そこでは、主イエスの再臨において、主に結ばれて死んだ人たちが復活して、生き残っている人たちと共に、天から降って来る主イエスと出会うために引き上げられ、そしていつまでも主と共にいる者とされる、即ち主イエスと共に永遠の命を生きる者とされる、と語られていました。つまり復活と永遠の命は一つであって、世の終わりに救いの完成としてそれが与えられる、と語られていたのです。またこれは先々週の礼拝において読まれた箇所ですが、コリントの信徒への手紙一の第15章には、この世の終わりを告げる最後のラッパが鳴ると、私たちは復活して朽ちないものとされる、つまり永遠の命が与えられる。そして、神によって死が滅ぼされたことを喜び、感謝して神を賛美をして高らかに歌うことができる、と語られていました。これも、復活即永遠の命、ということです。このように聖書には、復活と永遠の命の関係について、ふた通りの語り方があります。復活と永遠の命が一体として語られているところと、復活した者は裁きを受け、そこで救われる者が永遠の命を得る、と語られているところがあるのです。

死の支配からの解放か、神のご支配の確立か
 この違いは、この世の終わりに神によって与えられる救いの完成のどこに強調を置くかによって生じています。復活、からだのよみがえりを、神が死の力に勝利して、私たちを死の支配から解放し、神と共に生きる新しい命、永遠の命を与えて下さる、という救いとして見つめ、そこに強調を置くならば、からだのよみがりととこしえの命は一つのことだと言うことができます。復活して永遠の命を与えられることが救いの完成である、ということになるのです。他方、世の終わりの救いの完成とは、神のご支配が確立し、あらわになることである、ということを見つめ、そこに強調を置くならば、神による裁きが大切となります。神による裁きこそ、神のご支配の確立です。支配を確立したからこそ裁くことができるのだし、裁くことは支配していることの明確なしるしなのです。神による救いとは、神が私たちとこの世に対するご支配を確立して下さることです。それゆえに、神による救いは、神が私たちを裁いて下さることにおいてこそ完成するのです。とこしえの命は、その神の裁きにおいてこそ与えられるのです。
 この二つの語り方は、どちらかが正しくて他方は間違っている、という話ではありません。どちらも、世の終わりに神が与えて下さる救いの大事なポイントを示しています。ただ、「とこしえの命」ということに絞って考えれば、それが神の裁きにおいて与えられる、というのは大事なことです。裁きにおいては、救われて永遠の命を与えられる者と、永遠の滅びに陥る者とがはっきりと分けられるのです。その裁きを見つめることによって、先ほど申しましたこと、つまり永遠の命は皆に自動的に与えられるのではない、それは神による救いの恵みとして与えられるのだ、ということがはっきりするのです。

私たちの不安
 しかしこのことは私たちに不安を引き起こします。世の終わりには神による裁きが行われ、そこで永遠の命か永遠の滅びかが決まるのだとしたら、自分はどうなるのだろうか、神の裁きにおいて、果たして永遠の命を与えてもらえるのだろうか、と誰もが思います。先ほどのヨハネ福音書の主イエスのお言葉には、「善を行った者は命を受け、悪を行った者は裁きを受ける」とありました。善を行った者が永遠の命を与えられ、悪を行った者は永遠の滅びに至るのです。果たして自分は、永遠の命を受けることができるだけの善を行えているだろうか、むしろ悪を行った者として裁かれ、滅ぼされてしまうのではないだろうか、そういう恐れを感じない人はいないでしょう。

小福音書
 そういう不安、恐れを覚える私たちに対して、聖書が告げている福音、良い知らせ、救いの知らせ、それが、先ほど読まれた新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書第3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神はこの世を、つまり私たちを、愛して下さっており、私たちに永遠の命を与えようとして下さっているのだ、とこのみ言葉は告げています。そのために神は独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。主イエス・キリストによる救いとは、私たちが永遠の命を得ることです。そういう救いを主イエスが実現して下さったことがここに告げられているのです。このヨハネ3章16節は、聖書全体が語っているキリストによる救いの知らせ、福音を最も簡潔にまた的確に要約した文章です。だからこの節は「小福音書」と呼ばれます。キリストによる救いとは一言で言えばこういうことなのです。

滅びるしかない私たち
 しかしこの箇所には、よく読むと、先ほど申しました、神の裁きによって救われる者と滅びる者とが分けられる、ということがしっかり見つめられており、それが前提となっています。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というところにそれが現れています。永遠の命は、自然に、自動的に与えられるのではありません。それは「独り子を信じる者」に与えられるのであって、そうでなければ誰もが皆滅びていくのです。つまりこの言葉が前提としているのは、この世の全ての人々が「悪を行った者」として滅びるしかない、ということです。このままでは、みんなが滅びてしまって、誰も永遠の命を得ることはできないのです。神はそのことを見かねて、人々が滅びを免れて永遠の命を得ることができるようにと独り子を与えて下さったのです。その神の愛によって、独り子主イエスを信じる者が、「一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことができるようになったのです。私たちは、この神の愛によってのみ、永遠の命を得ることができるのであって、そうでなければ誰もが皆滅びるしかないのです。これがもし、私たちが頑張って善を行うことによって、神の裁きにおいて永遠の命に相応しいと認められ、それを獲得することができるのであれば、神はその独り子をお与えになる必要はありませんでした。「頑張って善を行いなさい、そうすれば永遠の命を得ることができる」と言っていればよかったのです。頑張った人は救われて永遠の命を得ることができるが、頑張れなかった人は裁かれて永遠の滅びに陥る、全ては人間の努力次第、自己責任だ、ということでよかったのです。しかし、それでは永遠の命を獲得できる人は一人もいません。先ほど、自分は永遠の命を受けることができるだけの善を行えているだろうか、むしろ悪を行った者として裁かれ、滅ぼされてしまうのではないだろうか、と不安を感じると申しましたが、それは不安どころかまさに私たちの現実です。私たちは、頑張って努力すれば何とか永遠の命を得られる、という者ではありません。頑張って努力して良い行いに励むことはあっても、それで決して帳消しにできないくらい大きな罪を、神さまに対しても、隣人に対しても、犯し続けているのです。だから私たちはこのままでは神の裁きにおいて、永遠の滅びを宣告されるしかないのです。

独り子を与えて下さった神の愛
 しかし神は、そういう私たち人間を愛して下さいました。愛される資格などない、滅ぼされて当然な私たちを深く憐れんで、私たちが滅びてしまうのを何とかして食い止め、永遠の命を与えようとして下さったのです。そのために神は、その独り子を与えて下さいました。神の独り子である主イエス・キリストを、一人の人間としてこの世に生まれさせ、遣わして下さったのです。「独り子をお与えになったほどに」とあるのは、主イエスが人間としてこの世を生きて下さっただけでなく、私たちの全ての罪をご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さったことを指しています。主イエスがこの世を生きて下さったのは、私たちに「頑張って良い行いに励めば永遠の命を獲得することができるぞ」という激励を与えるためではありません。罪に支配されてしまって、自分の力で救いを得ることができない、つまり滅びるしかない私たちの身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さるために、主イエスは来て下さったのです。十字架は、最悪の罪人が処刑される道具です。本当は私たちが罪人としてかけられなければならない十字架に、主イエスが代わってかけられ、私たちの罪の償いをして下さったのです。そのために神の独り子が命をささげて下さったのです。それが「神はその独り子をお与えになったほどに」ということの中身です。それほどに、神は罪人である私たちを愛して下さっているのです。私たちが滅びてしまわないようにと願っておられるのです。この神の愛を受け、独り子主イエス・キリストを救い主と信じることによって、私たちは滅びを免れて永遠の命を得ることができるのです。

主イエスによる裁きにおいて私たちは救われる
 とこしえの命、永遠の命は、世の終わりの神の裁きにおいて与えられます。その裁きをなさるのは、もう一度来られる主イエス・キリストです。主イエスによる裁きにおいて、神のご支配が確立し、あらわになり、完成するのです。その神は、独り子主イエスを与えて下さったほどに私たちを愛して下さっている方です。主イエスの十字架の死によって、私たちの全ての罪を赦して下さり、私たちを滅びから救い出して永遠の命を与えて下さる方です。この神のご支配が、世の終わりの主イエスの再臨と最後の審判において確立し、完成するのです。私たちはその裁きにおいて、滅ぼされるのではなくて、とこしえの命、永遠の命を与えられます。それは、私たちが善を行っているからではありません。あるいは、そのために努力をしているからでもありません。私たちの現実を見つめるなら、善を行おうと多少の努力してはいても、神のみ心に従って歩めてはいないし、隣人を愛するよりもむしろ憎んでしまい、傷つけてしまうことばかりを繰り返しています。少しばかりしている善よりもよほど大きな罪を日々犯しているのです。だから、自分の善い行いによって永遠の命を得ることなど私たちにはとうていできません。むしろ罪のゆえに神に裁かれ、滅ぼされるしかないのです。しかし、神はその私たちのために、独り子主イエスを遣わして下さり、その命をすら与えて下さいました。その主イエスを信じることによって、つまり神の愛を信じることによって、私たちは、自分が裁かれて滅ぼされてしまうのでなくて、永遠の命を得ることができる、と確信することができるのです。だから私たちは、主イエスがもう一度来て下さり、全ての者をお裁きになることを、喜びをもって待ち望むのです。主イエスの再臨と最後の審判は、主イエスを信じる者にとっては、復活と永遠の命という救いの完成の時です。神が、死の力に勝利して、その支配から私たちを解放して下さり、既に永遠の命を生きておられる主イエスと共に生きる者として下さる、つまり私たちにも永遠の命が与えられる、その救いを私たちは待ち望みつつ生きることができるのです。

私たちの人生への慰め、支え、希望
 「からだのよみがえり」や「とこしえの命」を信じるというのは、現実味がない、よく分からない話に感じられるかもしれません。またそれはこの世の終わりに与えられる救いですから、今現在の自分の人生には関わりがない、はるか遠い先の話のようにも感じられるかもしれません。しかし、「からだのよみがえり」を信じるとは、これまでの二回の説教において申しましたように、私たちを最終的に支配するのは死の力ではなくて神の恵みの力だ、と信じることです。死んでしまえばそれでおしまいなのではなくて、神が最後には死を滅ぼして新しい命、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さると信じることです。そして「とこしえの命」を信じるとは、ヨハネ福音書3章16節に語られている、独り子を与えて下さったほどの神の愛を信じること、その愛によって、本来なら裁かれて滅びるしかない私たちが、救われて永遠の命を得ることを信じることです。これらのことを信じる信仰は、今この世を生きている私たちの人生に確かな慰めと支えと希望を与えます。私たちは、独り子を与えて下さったほどにこの自分を愛して下さっている父なる神の下で、その神を礼拝し、その神に祈りつつ生きるのです。この世の歩みにおけるあらゆる苦しみや悲しみ、困難の中で、この神の愛にすがり、支えと助けを祈り求めながら生きるのです。いつも神に背き逆らってばかりいる罪人ですから、本当はそんな図々しいことができはずはないのですが、神はその私たちをなお愛して下さって、主イエス・キリストのもとに呼びあつめ、その十字架による救いを与えて下さっているので、私たちはその神の愛にすがって生きることができるのです。そしてその人生の終わりに私たちは死を迎えます。死の支配下に置かれます。でもそれが最後のことではありません。主イエスを復活させて下さった父なる神が、私たちを支配する死の力に勝利して、新しい命、主イエスと共に生きる永遠の命を与えると約束して下さっているのです。だから死においても私たちは絶望しません。神の愛はそこにもあり、復活と永遠の命の希望を与えて下さっているのです。この世の人生には、苦しみ悲しみによって目に見える希望が失われてしまうような時がありますが、とこしえの命を約束して下さっている神を信じる私たちは、そこでなお感謝と喜びと平安と希望をもって歩むことができるのです。

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