夕礼拝

命を救うことか、滅ぼすことか

「命を救うことか、滅ぼすことか」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:レビ記 第23章3節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第6章6-11節
・ 讃美歌:55、532

安息日を守る理由
 本日の箇所ルカによる福音書第6章6~11節は、安息日の出来事について語っていますが、その前の1~5節でも安息日の出来事が語られていました。そこでは、ある安息日に主イエスの弟子たちが麦畑の麦の穂を摘み、手でもんで食べているのをファリサイ派の人たちが見て「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言ったのに対して、主イエスは旧約聖書のダビデの物語に拠りつつ、彼らに「人の子は安息日の主である」と言われた、と語られていました。この出来事でファリサイ派の人たちが問題にしたのは、麦の穂を摘むのが刈り入れの仕事であり、その麦の穂を手でもむのも脱穀の仕事であり、弟子たちが行ったことはどちらも安息日にしてはならないことであったということです。先々週、この箇所の説教においても安息日についてお話ししましたが、本日も少し視点を変えて安息日についてお話ししたいと思います。
 旧約聖書で主なる神はイスラエルの民に十戒をお与えになりました。それが出エジプト記第20章と申命記第5章に記されていますが、その第四の戒めが安息日についての戒めです。出エジプト記20章に記されている十戒と申命記5章に記されている十戒はほとんど同じで、第四の戒めについてもその中心となる部分では、どちらにおいても次のように述べられています。「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」つまり週の七日目、土曜日は安息日であり、その日にはいかなる仕事もしてはならないのです。本日の聖書箇所の出来事で、またその前の出来事においても、ファリサイ派の人たちが問題にしているのは、この安息日には「いかなる仕事もしてはならない」ということです。しかし第四の戒めはほかの戒めとは異なり、この中心となる部分以外ではエジプト記と申命記で違いがあります。安息日にいかなる仕事もしてはならない理由が異なっているのです。それは、出エジプト記では天地創造において神が七日目に休まれたことにあり、申命記では主なる神によってエジプトの国で奴隷であったイスラエルの民が解放されたことにあります。出エジプト記には「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別された」とあるように、主なる神が七日目に休まれたゆえに主は安息日を祝福して聖別されたのです。「聖別された」とは神のものとされたということです。イスラエルの民は安息日に「それは、極めて良かった」と言われた神の創造のみ業の完成に与り、その祝福に与り、神のものとされた日を過ごすのです。一方、申命記には「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」とあるように、出エジプトの出来事、奴隷状態からの解放を覚えるためにイスラエルの民は安息日を守るのです。

聖なる集会の日
 この安息日にイスラエルの民は「聖なる集会」を行ったことが、本日共にお読みした旧約聖書レビ記第23章3節に書かれてあります。すなわち「六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、主のための安息日である。」ここで安息日は「聖なる集会の日」と呼ばれています。レビ記23章を見ると分かりますが、「聖なる集会」は安息日以外にも開かれ、イスラエルの民はすべての日常の働き、営みを脇に置いて「聖なる集会」に集まり、神さまを礼拝し、神さまが与えてくださった人生の喜びを祝います。「聖なる」と呼ばれているのは、この集会が開かれる日が神さまのものであり、その唯一の目的が主なる神さまを礼拝することにあるからです。ですから「聖なる集会の日」である安息日の唯一の目的も神さまを礼拝することにあります。そのためにイスラエルの民は日常の仕事をすべて休むのです。そして安息日の礼拝において、彼らは出エジプト記にあったように創造のみ業の完成に与り、そのことを喜び、また申命記にあったように出エジプトの出来事を想い起こし、その救いの恵みに与るのです。このように礼拝で神さまの御前に進み出て、神さまのみ業に与り、その祝福と恵みに与るためには自分を神さまに明け渡す必要があります。自分の思い、自分の喜びや悲しみや不安に囚われていたら、神さまのみ業を受け取ることもその祝福と恵みを受け取ることもできないからです。だからこそ自分のことばかりに囚われてしまっている日々の働きをやめて安息日に礼拝を守るのです。

右手が萎えている人
 本日の箇所の冒頭に「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた」とあります。「ほかの安息日に」と言われているのは、本日の箇所で語られている出来事が、その前の1~5節で語られていた安息日に起こった出来事とは別の安息日に起こったということです。その安息日に、主イエスは会堂にお入りになられて人々に教えておられました。それは、主イエスが安息日に会堂で礼拝を守られ、そこで人々にみ言葉を語られ教えられていたということです。これまでもルカによる福音書はそのような主イエスのお姿を語ってきました。4章31~37節には、安息日にガリラヤの町カファルナウムの会堂で主イエスが人々に教えておられたことが語られていました。その会堂には「汚れた悪霊に取りつかれた男」がいて、主イエスがその男から汚れた霊を追い出し彼を癒やしたので、会堂にいた人々は皆驚いたのでした。カファルナウムでは安息日の会堂に「汚れた悪霊に取りつかれた男」がいましたが、本日の箇所では会堂に「一人の人がいて、その右手が萎えていた」と6節にあります。「右手が萎えている」とは、おそらく右手が痺れていた、麻痺していたということでしょう。彼の利き手が右手であったかどうかは分かりません。しかしルカによる福音書があえて「右手」と語っていることによって、私たちは彼のことをより詳しく知ることができ、右手が麻痺している彼の日々の生活がどれほど困難に満ちていたかに思いを寄せることができます。右手が使えないことの困難さは、私たちの日々の生活においてとても身近なことだからです。たとえばご飯を食べるときに右手が利き手であればお箸を持つことができませんし、左手が利き手であれば今度はお茶碗を持つことができないのです。私たちが毎日当たり前のように行っていることを思い浮かべてみても、彼の日々の生活の困難さが、そしてそれがもたらす苦しみ、悲しみ、あるいは苛立ち、絶望を窺い知ることができます。けれども、あのカファルナウムの会堂で「汚れた悪霊に取りつかれた男」が大声で叫んでいたのとは違って、ここでは彼はなにも語っていません。困難を抱え、彼の日々の歩みは苦しみ、悲しみ、苛立ち、絶望の思いが渦巻いていたはずです。それにもかかわらず、彼は自分を癒やして欲しいと主イエスに願ったわけではありません。安息日の礼拝で、彼は自分の思いに囚われるのではなく、神のみ前で沈黙し、創造のみ業の完成に与り、そのことを喜び、また出エジプトの出来事を想い起こし、その救いの恵みに与っていたのではないでしょうか。

訴える口実を見つけようとして
 右手が萎えている人のほかに、この礼拝には律法学者たちやファリサイ派の人々がいました。彼らは律法の戒めを厳格に守っていたので、言うまでもなく安息日には会堂で礼拝を守っていたのです。しかし自分の思いに囚われるのをやめて、静まって主イエスが語っているみ言葉に耳を傾けていた右手が不自由な人とは違って、彼らは自分の思いで一杯一杯でした。7節に「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた」とあります。彼らは礼拝に右手が不自由な人がいることを知っていましたし、主イエスが病を癒せることも知っていました。ルカ福音書はすでに主イエスが高熱に苦しんでいたペトロのしゅうとめや重い皮膚病にかかった人、中風の人を癒やしたことを語ってきました。ですからここで彼らが注目していたのは、主イエスが病を癒すことができるかどうかではなく、安息日に病の癒しを行うかどうかでした。「訴える口実を見つけようとして」とあるように、彼らは右手が動かないために不自由な生活を強いられている人が癒されることに注目していたのではありませんし、抱えている苦しみや苛立ち、絶望から彼が解放されることに関心があったのでもありません。彼らにとってこの人がどうなるかはどうでも良かったのです。彼らの唯一の関心は、主イエスが十戒の第四の戒め、安息日にはいかなる仕事もしてはならいという戒めを破るかどうかにあったのです。安息日に病を癒すことは仕事に含まれましたから、主イエスが癒しのみ業を行うことによってこの戒めを破るならば、彼らは主イエスを訴えることができたのです。このような彼らの姿は、「注目していた」という言葉にも現れています。なぜならこの言葉はギリシア語の旧約聖書で、正しい人がよろめくのを待ちかまえる悪人を言い表し、「悪意を持って見る」ことを意味するからです。彼らは戒めを破るかどうか悪意を持って主イエスを見ていました。その姿は、癒しを求めるでも望むでもなくただ礼拝を守っていた右手が不自由な人の姿と対照的です。彼らが、病にある人が癒されるかどうかにまったく関心がなかったにもかかわらず、訴えるために主イエスが癒しのみ業を行うことを待ち構えていたのに対して、本当に癒しを必要としていた病にある人は、自分が癒されることを望むのではなく神さまを礼拝していたのです。律法学者たちやファリサイ派の人たちは、神さまのものである安息日、聖なる集会の日に自分の思いを休めるのではなく、主イエスを陥れようとすることばかり考えていたのです。

彼らの考えを見抜いて
 そのような彼らの悪意を主イエスは見抜かれました。「イエスは彼らの考えを見抜いて」と8節冒頭にあります。「考え」と訳されている言葉もルカ福音書において良い意味で使われることはありません。ヨセフとマリアが幼子イエスを連れてエルサレムに行ったとき、神殿で出会ったシメオンは母マリアに「――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と告げましたが、ここで「思い」と訳されている言葉が8節冒頭の「考え」と同じ言葉です。マリアが剣で心を刺し貫かれるのは、主イエスが十字架で死なれたときです。つまり多くの人の心にある思いこそ、主イエスを十字架の死に追いやるのです。8節で主イエスが見抜かれたのも律法学者やファリサイ派の人たちの主イエスを十字架の死に追いやる考え、つまり彼らの罪にほかなりません。神さまを礼拝するための日である安息日に、彼らの罪があらわになったのです。
 そこで主イエスが手の萎えた人に「立って、真ん中に出なさい」と言われると、その人は「身を起こして立」ちました。彼は会堂の端っこに座っていたのかもしれません。主イエスが彼に起き上がり会堂の真ん中にやって来るように言われたのは、これから主イエスが行われることを、主イエスが示される神さまの御心を会堂にいるすべての人に見せるためです。彼は、律法学者やファリサイ派の人たちとは異なり、礼拝でみ言葉を語っている主イエスに心を真っ直ぐに向けていました。だからこそ主イエスのお言葉が与えられると、彼は直ちに迷うことなく「身を起こして立った」のです。

命を救うことか、滅ぼすことか
 主イエスは手の萎えた人から律法学者とファリサイ派の人たちへと目を向け、言われました。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」主イエスの問いに対する彼らの答えはなにも語られていませんが、彼らは実際に口には出さずとも心ではこのように考えていたのではないか、ということがほかの聖書箇所から見えてきます。安息日に命を救うことは律法で許されているかと問われれば、彼らはYESと答えたに違いありません。命に関わるような緊急事態のときは、安息日であってもその命を救うためになんらかの対処をして良いという例外が定められていたからです。それはルカ福音書14章5節で主イエスが律法の専門家やファリサイ派の人たちに「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」と言われていることから分かります。安息日であっても自分の息子や牛が井戸に落ちたら引き上げることを、彼らは認めていたし行っていたのです。では安息日に命を滅ぼすことは律法で許されているかと問われたらどうでしょうか。基本的には彼らはNOと答えたと思います。例外があるとすれば戦争状態で安息日に敵が攻めてきたときなどです。ですから平時であればNOです。さて安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことかと問われれば、彼らの答えはどちらもNOです。善い行いであろうが悪い行いであろうが安息日に何かを行うことは、「いかなる仕事もしてはならない」という戒めを破ることになるからです。彼らにとって安息日は何もしない日なのです。ルカ福音書15章10節以下に、十八年間腰が曲がったままどうしても伸ばすことができなかった女性を主イエスが安息日に癒したところ、その場にいた会堂長は「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言ったと語られています。病を癒すことはもちろん悪いことではない、でも安息日には行ってはならないと言うのです。この会堂長の言い分、あるいはファリサイ派の人たちの考え方は必ずしも的外れとは言えません。確かに右手が不自由な人は、そのことによって生活に大きな困難を抱えていたし、また拭い去ることができない苦しみや悲しみや憤り、絶望を抱いていたに違いありません。しかしそうであっても私たちは、一日ぐらい治療が遅くなっても良いのではないかと思ってしまいます。十八年間腰が曲がったまま伸ばすことができなかった女性も同じです。十八年間の苦しみは私たちの想像の及ばないことかもしれないけれど、十八年間病の中にあったのなら治療が一日遅れるとしてもまったく問題はないだろうと思ってしまうのです。右手が不自由な人も十八年間病であった女性も命が危険に晒されていたわけではありません。ファリサイ派の人たちは、そして私たちも一日ぐらい我慢しても良いのではないかと思うのです。それに対して主イエスは、ファリサイ派の人たちのように「善を行うことか、悪を行うことか」という問いと、「命を救うことか、滅ぼすことか」という問いを別々のこととして切り離して考えません。主イエスにとって、「善を行うこと」は「命を救うこと」であり、「善を行わないこと」つまりなにもしないことは「悪を行うこと」であり、「命を滅ぼすこと」なのです。彼らが悪を行わなかったとしても、なにもしないのであれば、なにもしないということそのものが悪を行っていることであり命を滅ぼしていることになるのです。
 ですから安息日であっても、いえ安息日だからこそ主イエスは病を癒されるのです。右手が不自由な人の病を癒すことは彼の命を救うことであり、このことこそ神さまの御心にほかならないからです。神さまのものである安息日だからこそ、主イエスは神さまの御心を行い、その御心を会堂にいるすべての人に示されました。そしてこの神さまの御心が主イエスの十字架の死まで貫かれていくのです。11節には、この出来事の顛末を見てファリサイ派の人たちが「怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」とあります。怒り心頭の彼らが話し合った結果は穏やかなものではなかったでしょう。その話し合いにおいてすでに主イエス・キリストの十字架の死が見据えられていたのです。もし主イエスが安息日に癒しを行わず、翌日に癒しを行ったのであれば、彼らが怒り狂うこともなかったし、物騒な話し合いも行われなかったはずです。けれども主イエスは、私たちの命を救うために十字架で死なれたように、右手の不自由な人を癒し彼の命を救うために、ご自分の命を危険にさらされました。私たちの救いに一日ぐらい遅くなっても良いということがないように、彼の癒しも、翌日でも良かったのではなく、安息日に行われることこそ神さまの御心だったのです。

なんのための安息日か
 ファリサイ派の人たちは十戒の第四の戒めを守ることに、自分に対しても他人に対しても厳格でした。しかし彼らは、なんのために安息日に「いかなる仕事もしてはならない」のか見えなくなっていたのです。安息日に神さまを礼拝するために自分を主人として生きるのをやめて、神さまを真の主人として生きるのではなく、むしろ自分のことばかり考えていました。自分が律法を守っているにせよ、他の人が破っていないか悪意を持って見ているにせよ、それは自分のためにしていることです。なによりこのとき彼らが礼拝で行っていたのは、主イエスを訴える理由を探すことです。そのために同じ礼拝を守っていた病の人を利用しようとすらしたのであり、共に礼拝を守っている隣人が抱えている病の現実に、その苦しみ、悲しみに心を向けようとはしませんでした。ですから彼らはこの礼拝において神さまも隣人も愛さなかったのです。神さまのものであり、神さまのみ業に与る安息日ですら、人間の営みの日、人間の思いが支配する日としていたのです。ここに彼らの罪がはっきり示されています。神さまが、ご自分のものとして聖別された安息日に、聖なる集会の日に、私たちに求めておられるのは神さまを愛し隣人を愛することです。主イエスは癒しのみ業を通してこの神さまの御心を示されたのです。ファリサイ派の人たちは安息日に「いかなる仕事もしてはならない」という戒めを形だけは守っていました。しかしその戒めがなんのためにあるのか、そこに示されている神さまの御心が分からなくなっていたのです。
 このことは私たちにとって他人事ではありません。礼拝で神さまの御心を求めるより自分のことばかり考えてしまうことがあります。自分が聞きたいみ言葉には耳を傾けるけれど、聞きたくないみ言葉は受け取ろうとしないということがあります。あるいは共に礼拝を守っている隣人へ心を配ることができず、共に礼拝を形作るのではなく、独りよがりの礼拝を守ろうとしてしまいます。礼拝を守ることは私たちの信仰生活において最も大切なことです。しかしなんのために礼拝を守っているのか分からなくなるとき、私たちはファリサイ派の人たちとなんら変わらない、形だけの礼拝を守っていることになるのです。

真実の安息日
 10節に主イエスが「彼ら一同を見回して、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった」とあります。「元どおりになる」という言葉は、ギリシア語の旧約聖書において預言者が終わりの日のイスラエルの回復を、その救いを告げるために用いている言葉です。預言者エレミヤは、捕らわれの地にいた神の民が約束の地イスラエルへ帰還することを「見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもう、『イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる』と言わず、『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』というようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる」と預言しています。この「帰らせる」が「元どおりになる」という言葉です。このエレミヤの預言が実現したのは、ほかならぬ主イエス・キリストの十字架においてです。その十字架の死によって、主イエスは罪に捕らわれていた私たちを本当の約束の地である天の国、神さまの支配する国へと「帰らせた」のです。もちろん私たちは地上の人生をなお歩んでいます。それにもかかわらず、主イエス・キリストの救いに与った私たちは神の国を味わい始めているのです。このことはまた、私たちが罪の力に捕らわれることによって失ってしまった神さまとの関係が元どおりになった、回復したということでもあります。創造のみ業において、私たちは神さまにかたどって創造され、神さまとの関係の中で、交わりの中で生きる者として造られました。しかし私たちは罪によってその関係、交わりを失っていたのです。それが主イエス・キリストの十字架によって回復されるという新しい創造のみ業が行われたのです。
 私たちの安息日は、週の七日目ではなく週の初めの日、日曜日です。イスラエルの民が安息日に創造のみ業の完成に与ったように、私たちも主イエス・キリストの十字架によって実現した新しい創造のみ業に与り、そのことを喜びます。またイスラエルの民が安息日に出エジプトの救いの出来事を想い起こしたように、私たちも主イエス・キリストの十字架による救いの出来事を想い起こし、その恵みに与ります。私たちの安息日は週の終わりにあるのではなく初めにあります。それは月曜から土曜まで頑張って過ごして疲れたから日曜日に休むのでも、月曜から土曜までの頑張りのご褒美として日曜日の休みがあるのでもありません。休息は必要ですし、時には自分の頑張りを自分で褒めることも大切かもしれません。けれども疲れを取るための日曜日やご褒美としての日曜日は、私たちを本当に生かすことはできません。私たちは週の終わりではなく初めに、真実の安息日に、主イエスの「手を伸ばしなさい」というお言葉を聞くのです。そしてそのとき、私たちは主イエスによって癒され、新しい創造のみ業、救いのみ業に与り、新しい命を与えられ、その恵みと喜びに満たされて新しい一週間を歩み始めます。日曜日は、平日の歩みのゴールではなくスタートなのです。真実の安息日によって、私たちの平日の歩みは支えられるのです。命を救うことか、滅ぼすことか。この礼拝においても、主イエスは私たちの命を救い生かしてくださっているのです。

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