主日礼拝

主イエスの証し

「主イエスの証し」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記 第12章1-4節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第8章48-59節
・ 讃美歌:55、151、401

主イエスの証し
 本日は、今年度第二回の教会全体修養会が行われます。この礼拝は、その開会礼拝をも兼ねています。本日の修養会の主題は、今年度の私たちの教会の年間主題「聖霊を信じて祈り求めつつ証しする教会」の後半部分、「証しする教会」です。昨年7月に行われた第一回では、前半部分、「聖霊を信じて祈り求めつつ」を取り上げました。それを前提として、今度は「証しする教会」について共に学び、語り合おうとしているのです。
 そのことを覚えて、本日の説教の題を「主イエスの証し」としました。証しする教会となることを祈り求めていくことにおいて、先ず、主イエスご自身の証しに注目したいのです。今私たちが連続して読んでいるヨハネによる福音書第8章には、主イエスのなさった証しと、それに対するファリサイ派のユダヤ人たちの反発が繰り返し語られています。本日の箇所である48節以下には「証し」という言葉はありません。しかし8章12節に、主イエスが「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とおっしゃったとあります。これを聞いたファリサイ派の人々は13節で「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と言ったのです。つまりファリサイ派の人々は主イエスの言葉を「証し」として聞いたのです。それは、主イエスが「わたしは世の光である」とおっしゃったことを指しています。主イエスがご自分について「証し」をなさったのです。ヨハネ福音書には、「わたしは○○である」という主イエスの「証し」が繰り返し語られています。6章51節には「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とありました。これは今読んだ8章12節の「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と対になる言葉だと言えるでしょう。また7章37、38節には「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」というお言葉が記されています。これも、「わたしは生きた水の源である」という主イエスの証しです。またこの後のところにも、「わたしは良い羊飼いである」とか「わたしは復活であり命である」とか「わたしは道であり、真理であり、命である」という主イエスのお言葉があります。ヨハネ福音書は、主イエスが「生きたパン、世の光、生きた水の源、良い羊飼い、復活と命、道・真理・命である」という様々な言葉を用いてご自分のことを「証し」なさったことを語っているのです。

父なる神の証し
 主イエスのこの証しに対してファリサイ派の人々は文句を言っています。先程の8章13節にあったように「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」と言ったのです。自分で自分のことを「こうだ」と言う証しには信憑性がない、というのが彼らの言い分です。彼らにしてみれば、「証し」は本来、他の人が「あの人はこういう人だ」と言うものです。自分で自分のことを証ししても信頼できない、それを裏付ける他の人による証しがあって初めて信じることができる。「証し」とは本来そういうものなのです。主イエスご自身もそのことは認めておられます。5章31節以下でこう言っておられました。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」。証しは本来自分で自分についてするものではない。他の人によってなされるべきものだ、と主イエスもおっしゃっていたのです。そして主イエスはここで、ご自分について証しをなさる方が別におられる、と言っておられます。それは誰か。その先の37節には「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」とあります。父なる神が、主イエスについて証しをなさるのです。主イエスこそ独り子なる神であり、父によってこの世に遣わされた救い主であり、「生きたパン、世の光、生きた水の源、良い羊飼い、復活と命、道・真理・命」であることは、父なる神が証しして下さっていることなのです。

父と子の一致
 しかし8章14節では主イエスは、「自分についての証しは真実ではない」と言うファリサイ派の人々に対してこう言っておられます。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ」。私は自分自身について証ししているが、その私の証しは真実だ、と言っておられるのです。その根拠は、主イエスはご自分がどこから来て、どこへ行くのかを知っている、ということです。つまり主イエスは、ご自分が父なる神のもとから遣わされてこの世に来ており、父なる神のもとに帰ろうとしていることをはっきりと知っておられるのです。つまり、独り子である主イエスをお遣わしになった父なる神と、遣わされてこの世を生きている主イエスの思いは完全に一致しているのです。だから先程の5章に語られていた、父なる神が主イエスについて証しをなさることと、主イエスがご自分について証ししておられることとは全く同じなのです。そのことが8章18節では、「わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」と語られています。父なる神が私について証ししておられることと、私が自分について証ししていることは同じだ、だから私が自分について語っている証しは真実なのだ、ということです。

見たことを証しする
 つまり主イエスと父なる神との思いは完全に一致しており、主イエスは父なる神のみ心を語っているのです。そのことが8章26節の後半にはこう語られています。「しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」、また28節の後半にも「わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」とあります。そして38節には「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」とあります。父なる神のもとで見たこと、父なる神から聞いたことをその通りに語っておられる、それが主イエスの証しなのです。ここに「証し」というものの本質が示されています。自分が直接見たり聞いたりして知っていることを語るのが「証し」です。つまり「証し」とは「証言」です。事故の目撃証言のように、実際に現場を見た人のみが証言をすることができます。見ていない人には証言は出来ません。証しは、自分が直接見たり聞いたりして知っていることを語る言葉なのです。主イエスは、父なる神のもとで子として見聞きしたこと、そこで示された父なる神のみ心をはっきり知っておられるので、ご自分のことを神の子、救い主であると証しなさったのです。

ファリサイ派との対立の根本
 ところで前回も申しましたが、今読んだ8章38節の「あなたたちは父から聞いたことを行っている」というところは、口語訳聖書のように「あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている」と読む方が意味がはっきりします。つまり主イエスは父である神のもとで見たことを証ししておられるのに対して、ファリサイ派の人々は、自分たちの父、つまり先祖から伝えられた教えを聞いてそれに従っている、ということです。ファリサイ派の人々は、ユダヤ人の間で先祖から伝えられてきた教え、特に律法を大事にして、それを行うことが神のみ心に従うことだと思っていました。主イエスは父である神のもとで見聞きしたことを証ししておられるのに対して、ファリサイ派は先祖から言い伝えられた律法に固執している、そこにこの第8章における主イエスとファリサイ派の対立の根本があるのです。
 その対立の中で主イエスは、44節において、父なる神のもとから来た子なる神である私を受け入れないあなたがたは、神ではなく悪魔の子となっている、とおっしゃいました。それに対してファリサイ派が激しく言い返したのが本日の48節です。「あなたがサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」。神の民である我々のことを悪魔の子呼ばわりするなんて、お前の方こそ悪霊に取りつかれている、ということです。「サマリア人」というのは、神のもとから離れて行ってしまった人々ということで、元々神の民でない異邦人よりももっとたちの悪い連中、という意味の悪口です。売り言葉に買い言葉的に対立が激しくなっています。その対立の中で、主イエスは大事なことをお語りになりました。51節です。「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」。「はっきり言っておく」は前にも出てきましたが、直訳すれば「アーメン、アーメン、私はあなたがたに言う」で、主イエスが大切なことを宣言なさる時の言葉です。主イエスは、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」、つまり主イエスの言葉こそが、さらに言えば主イエスこそが、死ぬことのない命、死に打ち勝つ永遠の命を与えるのだ、と宣言なさったのです。それはあの6章51節の、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と同じことを意味しています。

主イエスとは何者か
 しかしこれによってユダヤ人、ファリサイ派の人々の怒りは頂点に達しました。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」などと言うのはとんでもない思い上がりであり、神を冒?する言葉だ、と思ったのです。そして彼らが持ち出したのは、彼らが父と呼んでいる、神の民イスラエルの最初の先祖であるアブラハムのことです。53節「わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」。彼らにとって、アブラハムは最も偉大な先祖です。アブラハムが自分たちの父であり、アブラハムの子であるということに彼らは誇りを持ち、そこに自分たちが神の民であることの拠り所を見ていました。そのアブラハムもしかし死んで葬られたのです。その後神から遣わされた多くの預言者たちも皆死んだのです。死を味わうことがなかった人など一人もいないのです。それなのにイエスは、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」と言う。いったい何様のつもりだ、自分はアブラハムよりも偉大な者だとでも言うのか。ここで彼らが言っている「あなたは自分を何者だと思っているのか」という言葉は、主イエスに対する彼らの根本的な問いであると同時に、この福音書全体の主題でもあります。ヨハネ福音書の主題は、主イエスとは何者なのか、ということなのです。20章31節に、この福音書が書かれた目的が語られています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。主イエスは神の子メシアである、ということを人々に示し、それによって人々が命を受ける、つまり永遠の命を受け、決して死を味わうことがない者とされるためにこの福音書は書かれたのです。この福音書全体が、「イエスは神の子メシアであり、永遠の命を与えて下さる救い主である」と証ししているのです。父なる神も主イエスご自身も一致してそのことを証ししています。しかしユダヤ人、ファリサイ派の人々はその証しを受け入れずに、アブラハムという父を崇め、先祖から伝えられたことに固執して、主イエスに「お前は何様のつもりだ」と言っているのです。

アブラハムと主イエス
 この、アブラハムと主イエスとの関係ということが、第8章のクライマックスとなっています。56節で主イエスはこうおっしゃいました。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」。これは謎のようなお言葉です。「わたしの日」とは何だろうか、アブラハムがそれを見たとはどういうことだろうか、よく分かりません。しかしこのお言葉が全体として語ろうとしていることは、アブラハムは主イエスを待ち望んでおり、その希望に生きていたのだということです。アブラハムは、主なる神さまの語りかけを受け、生まれ故郷、父の家を離れて、神さまの示す地へと旅立ちました。そのことを語っているのが、先程共に朗読された旧約聖書、創世記第12章1節以下です。その4節に「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とあります。このアブラムが後にアブラハムという名を神さまから与えられるのです。彼が主の言葉に従って旅立ったことが、神の民イスラエルの歴史の始まりです。ここに、イスラエルの原点があるのです。
 アブラハムが旅立ったのは、神さまの約束のみ言葉を信じたからです。2、3節にその約束が語られています。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪うものをわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。この約束を受けてアブラハムは旅立ったのです。つまり彼の歩みは、神さまの約束の実現を信じて待ち望む歩みでした。その約束はまだ実現してはいません。大いなる国民になっているわけではない。旅立った時点での彼らは一人も子どものいない老夫婦でしかなかったのです。だから地上の全ての人々に神の祝福をもたらす祝福の源どころか、神の祝福とは無縁な存在でしかなかったのです。神がお告げになったことは全て、将来への約束であって、それらがまだ何一つ目に見える現実とはなっていない中で、アブラハムは旅立ったのです。そこに神の民イスラエルの原点があります。神さまを信じて生きるとはどういうことかがそこに示されているのです。信仰をもって生きるとは、神の約束の実現を信じて待ち望みつつ、その希望に生きることです。アブラハムはその人生において、この神の約束の実現の最初の一歩を見ただけでした。しかしそのことを彼は感謝し、喜びをもって人生を終えたのです。ヘブライ人への手紙の第11章13節に「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ…」と語られている通りです。アブラハムがはるかに見て喜びの声をあげた、地上の全ての人々に神の祝福に入る道が開かれること、それが実現したのは、人間となられた独り子なる神イエス・キリストにおいてでした。アブラハムは勿論そのことを知りませんでしたが、彼は主イエスによって神の救いが実現するその日をはるかに望み見つつ生きたのです。アブラハムに約束されていた神による祝福を全ての人々にもたらすために、神の独り子主イエス・キリストが、父なる神によって今やこの世に遣わされたのです。

「わたしはある」
 ユダヤ人、ファリサイ派の人々は、アブラハムと主イエスとの関係を語っているこのお言葉の深い意味を理解することができません。「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」ととんちんかなことを言っています。彼らはアブラハムを父と呼び、その信仰を受け継いでいるつもりでいますが、アブラハムの生涯の深い意味、その信仰の本質が全く分かっていないのです。主イエスはその彼らに、8章のクライマックスとなる言葉をお語りになりました。58節「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」。ここに、主イエスが様々な言葉を用いて「わたしは○○である」と言われた全ての「証し」が指し示している根本的なことが語られています。「わたしはある」。それは既に8章の24節と28節にも語られていた言葉です。出エジプト記3章14節において主なる神がモーセに現れた時の言葉に由来しています。生きておられる神が、何者にも支配されないご自分の意志をもって存在しておられ、み業を行なっておられることを宣言している言葉です。主イエスはこの言葉によって、ご自分がまことの神であられることを宣言なさったのです。しかも「アブラハムが生まれる前から」と語られています。それはさらに遡って、天地が創造される前から、ということでもあります。この世が始まる前から、主イエスは独り子なる神として、父である神と共におられたのです。神がアブラハムに語りかけ、祝福の約束をお与えになった時、既にそこには独り子なる神主イエスがおられて、主イエスによって実現する祝福、救いのご計画が見つめられていたのです。アブラハムには知らされていなかったけれども、主イエスによる救いの約束の中で彼は旅立ち、その救いの完成を信じて待ち望みつつ生きたのです。主イエスこそ、アブラハムに与えられた神による祝福の約束を実現して下さるまことの神、独り子なる神であられる。ヨハネ福音書が語っている主イエスについての様々な証しの言葉は全てこのことを指し示しているのです。 わたしの言葉を守る人は決して死ぬことがない
 まことの神であられる主イエスは、父なる神によって遣わされて、人間となってこの世を歩んで下さいました。そして私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死ぬことによって、罪人であり神の祝福を失ってしまっている私たちに赦しを与え、神の祝福の下へと回復して下さり、そして復活によって、神が私たちにも死を超えた復活と永遠の命を与えて下さる、その約束を確かなものとして示して下さったのです。主イエスの証しを信じることによって私たちはその救いにあずかることができます。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」というみ言葉はそのことを語っています。肉体の死は私たちの誰もが必ず体験しなければならないことですが、しかし独り子なる神主イエスを信じるなら、私たちは、肉体の死が最終的な現実なのではなくて、それを超えて復活と永遠の命にあずかる約束が主イエスの復活によって与えられていることを信じて待ち望むことができるのです。私たちもアブラハムと同じように、主イエスの日を見るのを楽しみしつつ、礼拝において主イエスによる救いの完成、復活と永遠の命の恵みを垣間見る喜びにあずかりつつ生きることができるのです。

主イエスの証しを信じる
 私たちがこの救いにあずかり、救いの喜びに生きることができるか否かは、「わたしはある」という主イエスのお言葉、つまり主イエスこそまことの神、父なる神から遣わされた独り子なる神である、という主イエスの証しを信じるか否かにかかっています。主イエスの証しを信じないなら、私たちはファリサイ派のユダヤ人たちと同じように、主イエスのことがいつまでたっても分からないままです。しかしそれを信じるなら、3章16節に語られていたあの真理、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」が私たちの現実となり、私たちも、死を乗り越える希望に生きる者となることができるのです。

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