「断食ではなく、喜び」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第58章1-9a節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第5章33-39節
・ 讃美歌:165、396、74
二つ目の問い
本日の聖書箇所ルカによる福音書第5章33~39節は、27~32節に続いて、同じ場面の二つ目の出来事が語られています。それぞれの出来事の中心には、ファリサイ派の人たちの問いとそれに対する主イエスの答えがあります。一つ目の出来事では、主イエスが収税所で座っている徴税人のレビを見つめられ、彼を選び招かれて「わたしに従いなさい」と言われました。すると彼は何もかも捨てて立ち上がり主イエスに従った、つまり主イエスの弟子となったのです。彼の生活は、税金をごまかし自分の懐に入れてしまうようなそれまでの古い生活から主イエスの弟子として歩む新しい生活へと変えられたのです。新しい生活を歩み始めたレビは、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催しました。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて一緒に席に着いていました。主イエスとの出会いによって変えられたレビは、ほかの徴税人や罪人を集めて、彼らが主イエスと出会う場、出会う機会を作ったのです。しかしそのことを見ていたファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と問うたのです。これが一つ目の問いです。ファリサイ派の人たちにとって、主イエスがあるいは彼の弟子たちが徴税人や罪人たちと一緒に食事をすることは理解できないことでした。徴税人はユダヤを支配しているローマ帝国のために働いている裏切り者でしたし、罪人は神さまがイスラエルの民に与えた戒めを破った者だからです。ファリサイ派の人たちの一つ目の問いに対して、主イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とお答えになりました。主イエスは、自分がこの世へ来たのは罪人を招いて悔い改めさせるためだ、と言われたのです。この主イエスの答えに続いて、本日の聖書箇所の冒頭33節に「人々はイエスに言った」とあります。「人々」と訳されていますが、直訳すれば「彼らはイエスに言った」となり、この「彼ら」は、これまでの文脈を考えれば、ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちのことです。ですからイエスの周りに集まっていた不特定多数の人々が言ったのではなくて、レビが催した宴会で徴税人や罪人と一緒に食事をしている主イエスや彼の弟子たちに「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と問うたあのファリサイ派の人たちが、33節で二つ目の問いを投げかけているのです。
断食
ファリサイ派の人たちはイエスに「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」と言いました。これが二つ目の問いです。一つ目の問いでは、なぜ弟子たちが徴税人や罪人と一緒に飲んだり食べたりしているのかが問われていましたが、二つ目の問いでは、なぜ弟子たちが断食をせずに飲んだり食べたりしているのかが問われているのです。主イエスは「罪人を招いて悔い改めさせるために」自分は来られたのだと言われ、徴税人レビは主イエスの招きにお応えして悔い改め主イエスに従ったのでした。しかしそうであるならば、宴会を催して飲んだり食べたりするのではなくて、悔い改めを表し明らかにするために断食をするべきではないか、とファリサイ派の人たちは考えていたのです。彼らは、徴税人や罪人と一緒に飲んだり食べたりすることだけでなく、悔い改めて断食するのではなく飲んだり食べたりしていることも理解できなかったのです。
ファリサイ派の人たちは、モーセの律法に定められた年一度の贖罪日の断食と、バビロン捕囚後に定められた国家的な災いの日を記念した年に四回の断食を守っていました。贖罪日は、イスラエルの人々のために罪の贖いの儀式を行う日であり、その日に人々は断食したのです。またバビロン捕囚後に守られるようになった年四回の断食も、エルサレムの陥落やエルサレム神殿の崩壊などを覚え、心を痛めて悲しみ断食したのです。旧約聖書で断食はしばしば「自分自身を苦しめる」という表現で語られていて、それによって悲しみや悔い改めを表しました。サムエル記では、サウルがダビデを殺そうと決心しているのを知ったサウルの子ヨナタンが、ダビデのために心を痛めて食事を取らなかった、と語られています。ヨナタンはダビデを自分自身のように愛していて、それゆえ彼は悲しみのために心を痛め断食したのです。またヨエル書では「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け」と言われています。ここでは断食して泣き悲しんで主なる神さまに心から立ち帰ること、つまり悔い改めることが告げられているのです。このように旧約聖書で断食は定められた特定の日に行うことだけにとどまらず、断食することによってイスラエルの人たちは悲しみや悔い改めを表したのです。キリスト教の中でも一部では、受難節に肉などを食べないという習慣が今でも残っていますが、私たちの多くは特定の日に断食するということはありませんし、そもそも断食について考えることはあまりないかもしれません。しかし悲しみのために食事が食べられないというのは、私たちが身近に経験することです。ヨナタンが大切な友人ダビデが殺されるかもしれないと知ったときと同じように、私たちも大切な人を失ってしまったり、大切な人と別れなくてはならなかったり、大切な人との関係が壊れそうになっているとき、そして壊れてしまったとき、食事が喉を通らないということがあるのです。またイスラエルの人たちがバビロン捕囚後に年四回の断食を守ったのは、単に国家的な大惨事に心を痛め悲しんだだけでなく、エルサレムの陥落とバビロン捕囚を引き起こした自分たちの罪とそれに対する神さまの裁きを想い起こしていたからです。そしてヨエル書が告げるように、そのことを悲しみ、悔い改めて神さまに心から立ち帰ることを覚え続けたのです。ここでは悔い改めと悲しみと断食が結びついているのです。ファリサイ派の人たちは、さらに彼ら特有の習慣として週に二度断食していたとルカ福音書18・12節で語られています。洗礼者ヨハネについては、7・33節で「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいる」とあるように、ヨハネとその弟子たちも断食を禁欲的に行っていました。このようにヨハネの弟子たちもファリサイ派の弟子たちも、律法の定めに従って、あるいはそれぞれの習慣に従って断食を行っていたのです。しかしそのように断食を守ることが、救われるための功績の一つとなっていたのも確かです。先ほどのルカ福音書18・9節以下では、主イエスのたとえ話の中で、ファリサイ派の人が心の中で次のように祈ったとあります。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」このように断食が、その本来の目的から逸れて神さまのみ前に誇ることとなってしまうとき、それは救われるために積み重ねる行いとなってしまっているのです。本来の目的を失った断食は、すでに旧約の預言者が批判していました。悲しみの心や悔い改めの思いを失った断食を神さまが受け入れないということを本日共にお読みした旧約聖書箇所イザヤ書58・3節以下は語っています。「見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし お前たちのために労する人々を追い使う。見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし 神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては お前たちの声が天で聞かれることはない。 そのようなものがわたしの選ぶ断食 苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと それを、お前は断食と呼び 主に喜ばれる日と呼ぶのか。」断食するとき、心から悲しむのではなく自分のしたいことをして自分たちのために労苦を担っている人をこき使うこと、あるいは悔い改めて神さまに立ち帰るのではなく争いといさかいを起こし、こぶしを振るって神さまに逆らうことを神さまは喜ばれない、とイザヤは告げているのです。
とはいえ、キリスト教会では必ずしも断食が大切にされていなかったというわけではありません。ルカ福音書の続きとされる使徒言行録には初代の教会において断食と祈りが行われていたことが記されています。13・3節では、アンティオキア教会からパウロとバルナバを伝道へと送り出すときに、「彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」とありますし、14・23節では、パウロとバルナバがリストラやイコニオンに建てた教会それぞれで「弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」とあります。このように使徒言行録が語っている断食は、救われるための行いでもなければ、悲しみや悔い改めを表しているのでもなく、祈りと礼拝の形としての断食なのです。
悔い改めと悲しみと断食
これらのことから分かるように、旧約聖書も新約聖書も断食について良いか悪いかのどちらかというような一面的な理解を示しているわけではありません。そうであるならば、本日の箇所で断食について語られることによって、何が見つめられているのでしょうか。
このことは最初に申したように27~32節との繋がりの中で見えてくることです。一人の徴税人レビが主イエスに招かれ悔い改めたのだから、これまでの自分の罪に心を引き裂き、悲しんで断食するべきではないだろうか、というファリサイ派の考え方は、断食を積み重ねることによって救いを得るというよりも、悔い改めと悲しみと断食が結びついているということです。バビロン捕囚後に定められた四つの断食を守りながらイスラエルの人たちは、幾度となく深く自分たちの罪を悲しみ、悔い改めの思いを新たにしたのではないかと思います。ダビデ王朝の滅亡、エルサレムの陥落、神殿の崩壊、そしてバビロンを始めとする諸外国への捕囚。イスラエルの人たちは、すべてを失い混沌とした世界を生きなくてはなりませんでした。その中で、なぜ自分たちは混沌とした世界を生きなくてはならないのかと問い、そこに彼らは自分たちの罪のゆえに神さまが裁きを行ったことを見たのです。自分たちの罪とは、自分たちはあれこれ悪いことを行ったということよりも、自分たちが神さまに背き、神さまから離れて生きていたということです。イスラエル王国とユダ王国に分裂した後のそれぞれの王国の王について列王記は記していますが、その中で王についての評価があり、その評価は、主の目に悪とされることを行ったのか、それとも主の目にかなう正しいことを行ったのかで判断されています。列王記はイスラエル王国の滅亡とユダ王国の滅亡の原因を、また滅亡によってもたらされた混沌の原因を、神さまが幾度となく関わってくださったにもかかわらず、イスラエルの人たちが主の目に悪とされることを行い続けたことにあると語っているのです。自分たちが大国に支配され翻弄され生きているという現実と混沌の中にあって希望を見いだせないでいるという現実に直面して自分たちの罪を深く嘆き、神さまに背き、神さまから離れて生きるのではなく、再び神さまのもとへ立ち帰ろうとしたのです。
私たちもかつて自分が神さまに背き、神さまから離れて生きてきたことを思います。いえ今もなお、私たちは神さまのみ心ではなく、自分の思いや願いばかりに心を奪われて、神さまに対して罪を犯し、また隣人に対しても罪を犯し、神さまとの関係と隣人との関係を壊してしまいます。そのような自分の罪によってもたらされる破れの中にあって私たちは嘆き悲しみます。罪を悔い改めるとき、その罪をあるいはその罪がもたらした現実を悲しむほうが常識的な生き方のように思えます。そしてそれはヨハネやファリサイ派の弟子たちにとっては、断食という形で表されるものであったのです。彼らの生き方において、悔い改めは悲しみに結びつくのであり、また悔い改めを表し明らかにする断食と結びつくのです。悔い改めたのに飲んだり食べたりしているというのは、彼らの生き方においてあり得ないことだったのです。
花婿と婚礼の客
ですからファリサイ派たちの二つ目の問いは、悔い改めたのに飲んだり食べたりするような生き方で良いのかと問うているのです。そのような生活が悔い改めにふさわしい生活なのか、罪を深く嘆き悲しむ生活なのかと問うているのです。この問いに対して、主イエスは結婚式の比喩で答えられ「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」と言われました。ここで花婿とは主イエスのことであり、婚礼の客とは彼の弟子たちのことです。主イエスの弟子たちの生活とは、結婚式で花婿が一緒にいるのと同じなのです。喜びと祝いの場である結婚式で、花婿が一緒にいるのに婚礼の客に悲しみを表す断食をさせることはできません。主イエスの弟子たちの生活は、悲しみの生活ではなく、花婿主イエスが共にいる喜びと祝いの生活なのです。徴税人レビは主イエスに招かれ悔い改め、主イエスの弟子として生き始めました。その生活において彼は、自分の罪深さに悲しみ生きていくのではなく、主イエスと共にいる喜びに生きていくのです。主イエスと共にいることを喜んで生きる生活は、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちの生活とはまったく異なる新しい生活です。ですから「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか」という主イエスのお言葉は、「そのようなことはあなたがたにはできない」という意味を含んでいるのです。主イエスと共にいることが分からないあなたがた、つまりファリサイ派の人たちが、主イエスと共に喜んで生きている彼の弟子たちに断食を押しつけることなどできるはずがないということなのです。この主イエスと共に喜んで生きることこそ、キリスト者の新しい生活にほかなりません。
花婿が奪い取られる時
さらに主イエスは、「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる」と言われます。結婚式で婚礼の客が帰るのではなく、花婿の方がいなくなってしまうのは大事件です。残された婚礼の客は、喜びから悲しみへと突き落とされることになります。主イエスが言われる「花婿が奪い取られる時」とは、主イエスの十字架の死を意味しています。主イエスと共に生きる喜びは主イエスの十字架の死によって奪われてしまうのです。「その時には、彼らは断食することになる」という主イエスのお言葉を、主イエスの十字架の死の後に、弟子たちが断食を守ることを積極的に命じたとか予告したと受けとめる必要はありません。新約聖書では、主イエスの十字架の死から復活の間に、弟子たちが断食したとは語られていないからです。ですからここで弟子たちが断食することになると言われているのは、弟子たちが主イエスを失ったこと、主イエスと共に生きる喜びを失ったことによる悲しみのために、食事が喉を通らなくなることを語っているのではないでしょうか。弟子たちの喜びの生活、つまり私たちの喜びの生活とは、楽しいことや嬉しいことがたくさんある人生ということではなく、主イエスと共に生きる喜びの生活なのです。どれほどこの世の楽しみ喜びに囲まれていたとしても、主イエスを抜きにして私たちに喜びの生活はないのです。
十字架で死なれた主イエスは三日後に復活されました。そして四十日間弟子たちとともに過ごされ、弟子たちと食事を共にすることもありました。弟子たちは、主イエスの十字架の死によって失った主イエスと共に生きる生活を取り戻したのです。いえ、取り戻したというのは正確ではありません。主イエスの地上の歩みにおいて、主イエスと共に生きた弟子たちの生活は、十字架の死と復活による救いに与り、主イエス・キリストと結ばれた弟子たちの新しい生活を指し示しているのです。十字架と復活の後の弟子たちの新しい生活こそ、まことに主イエスと共に生きる喜びの生活なのです。主イエスの弟子たちと同じように、十字架の死と復活による救いに与りキリストのものとされた私たちの生き方は、主イエスと共に生きる喜びの生活です。この生き方はまったく新しい生き方です。ヨハネやファリサイ派の弟子たちの生き方の延長線上にこの新しい生き方があるのではありません。主イエスの十字架の死と復活によって、まったく新しい時代、新しい生き方が始まったのです。私たちが主イエスと共に生きるとは、十字架で私たちの罪のために死に、その死に勝利し復活され永遠の命を生きている主イエス・キリストに結ばれて生きることにほかなりません。王国の滅亡と神殿の崩壊とバビロン捕囚によってイスラエルの民は混沌の世界を生きました。私たちも自分たちが生きている世界が混沌の中にあるのではないかと思わざるをえません。2020年が始まりましたが、希望を持って新しい年を迎えたのではなく、見通しの立たない不安を持って新しい年を迎えた方もあるのではないでしょうか。けれども混沌の時代にあっても、私たちの生き方は主イエスと共に生きる喜びの生活なのです。希望が見えない時でも、復活のキリストに結ばれている私たちは、救いが完成するときに復活と永遠の命に与るという約束と希望を与えられているのです。
新しい生き方と古い生き方
このキリストの十字架と復活によって実現した私たちの新しい生き方は、古い生き方と両立できません。そのことを主イエスは二つのたとえで示されました。主イエスは「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう」と言われます。新しい服とは、主イエスと共に生きるキリスト者の新しい生き方です。主イエスの十字架による救いによって「新しい人」を身に着けるとも言われます。新しい服とは、「新しい人」を身につけたキリスト者の生き方とも言えるのです。他方、古い服とは、ファリサイ派の人たちに代表されるユダヤ教の生活です。新しい服から布切れを破り取って継ぎ切れを作って古い服に継ぎを当てても、新しい服も駄目になるし、その継ぎ切れは古い服には合わないと言われています。つまり新しい生き方と古い生き方は両立しないということです。新しい生き方を部分的に古い生き方に移植してみても、新しい生き方も駄目になるし、その移植は古い生き方に合わないのです。さらに主イエスは、「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」と言われました。新しいぶどう酒を弾力のなくなった古い革袋に入れると、勢いの強い発酵力のために古い革袋を裂くことがありました。「そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる」のです。ここでも中身のぶどう酒も外側の革袋も両方が駄目になることが言われています。新しい服も破れるし、古い服も駄目になるのと同じです。新しい生き方と古い生き方は両立しないのです。主イエスと共にいるという考えとか、そのような精神とかだけを古い生き方に取り入れてもだめなのです。主イエスと共にいるという新しいぶどう酒は、主イエスと共に生きる喜びの生活という新しい革袋に入れなければならないのです。主イエスはたとえの最後に「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」と言っています。これはファリサイ派の人たちに対する皮肉です。主イエスと共に生きる新しい生き方が示されたとしても、それを受け入れようとしないならば、古い生き方に留まっていることを望むならば、古いぶどう酒を飲んで「古いものの方がよい」と言って新しいぶどう酒を欲しがらないことと同じなのです。「古いものの方がよい」とは、新しいものをなかなか受け入れられない私たちの変化に対する弱さや、自分が慣れ親しんできたことへのこだわりだけを意味しているのではありません。そのような変化は、古いものから新しいものへと変わっていく変化に過ぎません。けれども主イエスと共に生きる新しい生き方は、それまでの古い生き方から生まれるのでも、古い生き方から新しい生き方へと変化するのでもありません。そこには決定的な新しさがあるのです。キリストの十字架と復活によってもたらされた決定的な新しさがあります。「古いもののほうがよい」とは、この決定的な新しさを信じられないということです。変化についていけないというようなことではないのです。新しい服も古い服も両方駄目になるのは、中身のぶどう酒も外側の革袋も両方駄目になるのは、ユダヤ教の生活や教えが古くて、キリスト教の生活や教えが新しいというような表面的な古さや新しさのためではありません。そうではなく、主イエス・キリストがこの世へと来てくださり、私たちの救いを実現してくださり、新しい時代を始めてくださったその新しさのためです。この新しさを信じるとき、私たちは主イエスと共に生きる新しい生き方、喜びの生活を歩み始めるのです。
断食ではなく、喜び
イザヤは、神さまが選ぶ断食について「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと」と語ります。この断食は、ほかならぬ主イエス・キリストにおいて実現しました。主イエス・キリストこそ、悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどき、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ってくださったのです。そのことによって私たちはキリストと共に生きる新しい生き方を与えられました。断食ではなく、主イエスが共にいてくださる喜びに生きることができるのです。私たちはキリストを離れて喜ぶことはできません。キリストと共にいるとき喜ぶことができるのです。たとえ混沌の中にあると思えるときも、どちらに進んで良いか分からないときも、希望を失いかけているときも、キリストと共に生きるならば、私たちは喜んで生きることができるのです。新しい年も、私たちは身をもってこの新しい生き方をこの世へと輝かせていきたいのです。キリストと共に生きるところにこそ本当の喜びがあることを告げ知らせていきたいのです。